【9月17日】



1限目と2限目の間、廊下を歩いているとさわちゃんの背中を見つけた。

「さ、さわちゃんっ」

咄嗟に声を掛けてしまい、思わず後悔する。
周りを見ると授業を終えた生徒で溢れ返っていて、ここで話なんてできないと思った。

「どうしたの?」

「き……昨日、学校お休みしてたって聞いて……」

「大丈夫?」と当たり障りのないことを聞くと、さわちゃんは笑って「大丈夫よ」と言った。
だけど何だかいつものさわちゃんじゃなかった。

「それより、練習はちゃんとやってる?」

「あ……、昨日はお休みだった」

「どうして?」

「私が……ギー太忘れちゃって」

さわちゃんは困ったような顔をした。

「もうすぐ学祭なのよ?」

「わかってるよぉ……」

そのとき、廊下に溢れていた人達がざわざわと教室に戻り始める。
さわちゃんは腕時計で時間を確認すると、「次始まるからまたね」と言った。
私も頷いて、元きた道を戻る。

何にも話せなかった。


2限目の授業は何にも頭に入ってこなかった。
さわちゃんのことが気になってしょうがない。
元気がないというか、何かに悩んでいるようなそんな感じ。

それに、どこか私を避けているような感じがする。
わざと距離をとって接しようとしているような気がする。
別れたから、当たり前なのかもしれないけど。

結局、答えなんて見つからないまま昼休みを迎えた。
それからは午後の授業、部活、帰宅といういつもの時間を過ごした。

だけど、部活から帰宅までの間、さわちゃんに会うことがなくなった。

私の日常の変化は、たったそれだけだ。

たったそれだけなのに、ぽっかりと大きな穴があいてしまったような感覚が拭えない。


やっぱり、さわちゃんの存在は大きかった。




【10月7日】



学祭に向けてのラストスパートといったところだろうか。
バンドの練習にも今までになく力が入っていて、しばらくの間あまり休みがなかった。
だからなのか、りっちゃんが「明日一日は休み!」と言った途端、みんなが声を上げたくらいだ。
練習賛成派の澪ちゃんやあずにゃんまで喜んでいたのだから、私たちの練習量がいかにすごいものだったのかわかった気がした。

帰る途中、携帯電話が鳴った。
画面に表示された名前を見て驚いたけれど、とりあえず出ることにする。

「も……もしもし」

『ごめんね、急に。今大丈夫?』

「うん」

あれからさわちゃんと私はお互いに距離をとって過ごしていた。
廊下で会話をして以降、何故かよそよそしい感じになってしまっていた。

「どうしたの?」

『うーん……、ちょっと話したいことがあるんだけど明日時間取れない?』

さわちゃんの口調は先生そのものだったから、私はおそらく学校関係のことだろうと踏んだ。
だけど何だろう。
音楽の授業は真面目に受けてるつもりだし、部活のことなら部長のりっちゃんがいるんだけど。

「じゃあ、明日の放課後でもいい?」

『あれ、部活は?』

「最近めちゃくちゃ練習してたから、久し振りのお休みだよっ!」

『そう……、頑張ってるのね』

さわちゃんは「じゃあ明日の放課後、職員室に来て」と言った。
私は二つ返事をして、携帯電話を閉じた。

思えば、さわちゃんからの電話って初めてだったかもしれない。
さわちゃんから掛けてくるくらいだからきっと急ぎの用事なんだろう。

欲を言えば、付き合ってるときに掛けてきて欲しかったな。




【10月8日】


4限目が終わり、私は職員室に向かった。
ドアを開けようとしたところでばったりとさわちゃんに出会う。

「び、びっくりしたぁ」

「私も」

お互いに胸を押さえているのが何だかおかしくて少し笑った。

「で、どうして私、呼び出されたの?」

ちょっとおどけたような口調で言うと、さわちゃんは一瞬だけ寂しそうな顔をした。
どうしたんだろうと思っているとすぐに元の表情に戻ったから、気のせいかなと思うことにした。

「今から時間ある?」

頷くと、さわちゃんは「ここではちょっとね」と困ったような顔をして歩き出した。
私はさわちゃんの後を追った。


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隣を見る。
私はこの角度から何度もさわちゃんを見てきた。
だけど、その記憶はすっかり遠いものになってしまっている。

その時、ハンドルを握るさわちゃんの指に光るものを見つけた。

「さわちゃん……」

「ん?」

「あ……えっと、何でもない」

言えないのは、今の私にそんなことを言う資格がないと思ったからだ。
今の私はさわちゃんの生徒だ。
プライベートまでとやかく詮索する立場じゃない。

だけど、胸がぎゅっと締め付けられた。

それに、どうして今日さわちゃんが私を誘ったのかさえまだわからずにいる。

「さわちゃん、今日……」

「どうして私を誘ったの」そう聞こうとしたとき、ちょうど車が停まった。

ここはさわちゃんのマンションの駐車場だ。

意味がわからなくてさわちゃんを見る。
だってもう、そういう関係じゃないのに。

「さわちゃん……?」

「一年前……、覚えてる?」

「一年前……?、あ……!」


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【9月11日/高校一年生】


生まれてからずっと一戸建てに住んでいた私にとって、マンションという存在はとても新鮮なものに映った。

「うわー、想像してたより綺麗な部屋!」

「どんな想像してたのよ」

「もっとぐちゃぐちゃかと」

背負っていたギターケースを適当に置いて、さわちゃんの部屋を物色する。
キッチンには色んな調理器具があって、リビングには普通の雑誌が置いてあって、ベランダには洗濯物が干されてある。
何か、本当に普通の部屋で拍子抜けしてしまった。

「それじゃ、早速練習するわよ」

「え、何の練習?」

「ギターと歌に決まってるじゃない。もう、しっかりして!」

それから無理矢理にギー太を担がされて、特訓が始まった。


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【9月22日】
――――――――――


特訓を初めてから十日あまり経った。
結構上達したかも、なんて浮かれているとさわちゃんに見透かされてたり。

「……んー、ここはこうだっけ」

「違う、こうよ」

さわちゃんは口頭で指導するだけじゃなく、自らギターを弾いて教えてくれたりもしている。
そう、ただ純粋に私にギターを教えてくれている。

それだけ、なのに。

「……ほー」

「……唯ちゃん?聞いてた?」

「え?」

細い弦を弾く指先と、穏やかな表情でコードを抑えるその顔にいつの間にか見惚れてしまっていた。
私はギターの音色を聞くんじゃなくて、ずっとさわちゃんを見ていた。

「ちょっと、ぼうっとしないでよ」

「あ、ごめんなさい」

最近、少し自分が変な気がする。
さわちゃんのことを尊敬しているのは確かだし、やっぱり自分よりもずっとずっとギターが上手な人だから、なのかな。

それだけ、だと思いたい。

引き続きギターのコードを練習していると、じっと私の姿を眺めていたさわちゃんが急に立ち上がった。

「んー、ピックをもう少し軽く持ったほうがいいわ」

軽く、と言われてなんとなくピックを持ち直してみる。

「こう?」

「ううん、もう少しこう……」

すると、不意に手を取られた。

「ちょっと力入りすぎてるのよね……」

私の指先を持ったまま、いつもより少し小さな声で喋るさわちゃんを見て、何だかどきりとした。
さわちゃんは私の持つピックの角度が気に入らないらしく、何度も何度も人差し指と親指の位置を調整し始める。

「人差し指の側面にピックをのせて、親指で軽く押さえるの」

今、さわちゃんがすっごく近くにいる。

綺麗な先生だとはずっと思ってたけど、普段は特に何にも思わなかったし、意識することなんてなかった。
だけど今、こんなにも近くでさわちゃんを見て、改めて綺麗だと感じている。

伏せられた睫毛が何だか大人っぽくて、ピックがどうのとか喋っているけど、もう全然頭に入ってこなかった。
じっとしていなきゃいけないことがこんなにも辛いなんて。

部屋の静寂がより一層、私の緊張を高めた。

「こうしたほうが弾きやすいでしょ?」

「…………」

「唯ちゃん?」

「……あ、は、はい!」

何だったんだろう。
手くらい、指くらい、誰でも普通に触れられるのに。

なんだか、どきどきした。



それからまた練習を始める。
さっきまでの私は曲のコードのことで頭がいっぱいだったのに、今は別のことで頭がいっぱいだ。
そんな私の心の乱れをギー太がさわちゃんに伝えた。

「ストーップ。どうしたの、さっきより酷くなってるわよ」

「ご……ごめんなさい」

「うーん、ちょっと頑張りすぎたのかしら。休憩する?」

その日は休憩を挟んでも、私の演奏が普通に戻ることはなかった。


そして、やっとわかった。

ギターが上手だから、っていうのもあるけれど。

ずっとさわちゃんに見惚れてた理由は、それだけじゃなかったってこと。


――――――――――
【10月8日】
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「……いいんじゃない?」


さわちゃんから初めてお褒めの言葉をもらった日、私は泣いた。

初めは嫌々始めた特訓も、日が経つうちにどんどん上達していくのがわかって楽しくなった。
楽しくなりすぎてついギターにも歌にも力が入ってしまい、隣に住んでいる人から苦情が入ったこともあったけど。

だけど、何にも知らなかった音楽のことが少しだけわかるようになった気がした。

「本番もこれでバッチリね。頑張りなさい」

「……うう…っ、はい」

「私の特訓、そんなに厳しかった?ふふ、ごめんね」

泣いている私の頭をさわちゃんが軽く撫でる。

違うよ。
今泣いている理由はそうじゃなくって。

私の声はすっかりしゃがれていて、練習の成果を物語る。
だけど、厳しいとは思わなかった。
私のために時間を作ってくれたさわちゃんに感謝しないといけないとさえ思っている。

じゃあ、どうして泣いてるんだろう。

「明日からはもう部活に戻っていいわよ」

いやーそれにしても長い間頑張ったわね――私のギー太をケースにしまいながらさわちゃんは言う。

長かった、のかな。
思えばそんな気もするし、そうじゃないような気もする。

早く終わって欲しい、初めはそう思ってた。
だけど、日が経つうちにそんなこと一つも思わなくなっていて。
練習量にも満足していた。多いわけでも少ないわけでもない適度な時間だったから続けられたんだ。


じゃあ、どうして。
どうしてもっとここにいたいと思うんだろう。

「……や、やだ……!」

ギターの練習でも、歌の練習でも何でもいい。

「ま、まだ完璧じゃないよ!」

「唯ちゃん……?」

「ギターだって、歌だって……まだ完璧じゃないよぉ……」

「…………」

「だから……っ、あと……あと一日だけでいいからっ……」

それが、さわちゃんとの時間を延ばせる口実になるなら。


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最終更新:2011年08月28日 23:14