コンビニを出た私は、横浜の夜景が見下ろせる公園に来ている。
 もうすっかり真っ暗で、辺りには私以外誰もいない。

唯『これで君も私も実在する、ちゃんと証明できたよね』

梓『だけど、私まだ信じられません。こんな風に見ず知らずの人と話すなんて』

唯『まあ、私もなんだけどね。だって、私が誰かと話すなんて夢みたいな話なんだもの』

 そう話しながら、目の前に広がる宝石箱の中身のように光り輝いている夜景を見渡すと、真っ黒な空に一際白い光を強く放っている満月が目に入った。

梓『うわぁー、綺麗な満月……』

唯『ふぇ?満月って何言ってるの?まだ夕方だよ。満月なんて見えないよー』

梓『夕方って、今7時ですよ?』

唯『7時って、こっちは6時なんだけど』

梓『へ!?』

 ここで私達は互いに今の状況を出し合って整理してみることにする。
 つまりこういうことだ。

 私と唯さんの間には1時間の時差がある。
 でも実際横浜と桜ヶ丘の間に外国みたいな時差があるわけじゃなくって、頭の中の電話のやりとりだけに時差があるようだ。
 つまり今私が話している唯さんは、1時間前の唯さんということになる。
 日付や年数は同じ、ただ時間だけ私が1時間先行している形ってことになるのかな。
 そしてもう1つ、電話を通して聞こえる音声は私達2人の声だけ。
 周りの人の声や物音は音の大小関わらず一切入ってこないようだ。
 これでさっき電話が1時間遅れてかかって来た理由が理解できた。

 唯さんに時間の感覚がなかったわけじゃない、本当はたったの3分遅れの5時3分にかけてきてたんだ。
 私はちょっと安心して、少し前に唯さんに呆れていた自分を責めた。

唯『ねぇねぇ、梓ちゃんって学生さんなんだよね?この前先生がどうこう言ってたの聞いたからさ』

梓『はい。今中学3年生です』

唯『それじゃ私の1つ下になるね。私は今ピチピチの高校1年生だもの!』

梓『ピチピチって……』

唯『これからはさ、唯って呼んでよ。さん付けって何か堅苦しくって嫌だな』

梓『でも年上の人を呼び捨てってのも嫌ですし……そうだ!それなら唯先輩って呼んでもいいですか?』

唯『先輩っ!?』

梓『どうかしましたか?もしもし……もしもーし』

唯『先輩……先輩……あぁ、先輩……』

梓『あのー、もしかして嫌でしたか?嫌なら――』

唯『嫌じゃないよ!私、先輩って1度呼ばれてみたかったんだぁ……だって私、中学まで部活なんて入ったことなかったし後輩なんていなかったから、もう嬉しくて嬉しくて!』

梓『そうだったんですか。ということは今は部活に?』

唯『うん!軽音部に入ってギター練習してるんだよ!とっても楽しいよー』

梓『ギター……ですか……』

唯『どったの?』

梓『あ、いや、別に何でもないです。ただちょっと昔を思い出しただけです』

唯『そっかー。ああ、話変わっちゃうけど何か梓ちゃんの声、なんか猫さんみたいで可愛いな』

梓『ね、猫!?そんなこと言われたの初めてです』

唯『決めた!今日から君はあずにゃんだ!』

梓『あ、あずにゃんって、何なんですかその変なあだ名!?』

唯『えー!可愛くていいじゃーん。それじゃあずにゃん、また連絡するからね』

梓『はあ……分かりました』

唯『またねー!おやすみあずにゃーん』

梓『おやすみなさい、唯さん……じゃなくって――』

梓『――唯先輩』

 電話を切った後、不思議と笑みがこぼれる。
 こんな感覚初めてだ……不思議な人だな。



―― 桜ヶ丘・平沢家

憂「お姉ちゃん、おかえりー」

 あずにゃんとの通話を終えた私は、家に戻って玄関のドアを開けると、いつものように妹の憂が笑顔で出迎えてくれる。
 その笑顔を見て私も同じように笑顔を返して、ゆっくりと両手を動かす。


唯【ただいま、憂】

 私の手の動きを見て、憂も同じように両手を動かして返事をするかのようにジェスチャーを送る。

憂「お姉ちゃん、遅かったね。誰かお友達と会ってたの?」

唯「……」

唯【新しいお友達が出来たんだよ。あずにゃんっていうとっても可愛い子なんだー。あ、でもまだ会話しただけで実際にはまだ顔を見てないんだけどね】

憂「あずにゃん?その子の名前?」

唯【私が付けたあだ名だよ。なんだか声が猫さんみたいで可愛いんだー】

憂「声?お姉ちゃん声が聞こえるの?まさか聞こえるようになったとか!?」

唯(あっ……)

 そう、私はあずにゃんとの電話以外で声を聞くことができない。
 それだけじゃない……喋ることもできなくて、こうして手話や筆談をして相手に伝えることしかできないんだ。
 ちなみに耳と口が不自由になったのは5歳の時から。
 でも有難いことに、私のまわりのみんなはそれを理解してくれて受け入れてくれた。
 唯一自分の声を相手に伝えられて、相手の声を聞くことが出来る方法、それはあの頭の中の電話を使うことなんだ。

唯「……」アタフタ

唯【あ、ほら!そんな感じの声なんだってりっちゃんが教えてくれたんだよ】

憂「なんだ、そうだったんだ。お姉ちゃんの耳がよくなったんじゃないのかなって私びっくりしちゃった」

唯【でも、本当にいい子なんだよ!いつか直接会ってみたいなぁ】

憂「いいなー、私も会ってみたいなその子に。お姉ちゃん本当に楽しそうなんだもの、いい子に決まってるよ」

唯【えへへー】

憂「それじゃご飯にしよっか。もうすぐ出来上がるからね」

唯【うんっ!】



――翌日・中野家

 学校を終えた私は、ただいまも言わずに家の玄関をまたぐ。
 だって今は家に誰も居ないの分かりきってたからわざわざ言う必要なんてないし……。

梓「さて、さっさとご飯済ませちゃおっと」

 そう呟いて居間に来た私の視界に、ある物が飛び込む。
 部屋の片隅で埃をかぶって佇んでいる赤いギターだ。

 フェンダー・ジャパン・ムスタング――私のギター。
 訳あってここ数年間全く触っていない、お陰ですっかり埃まみれ。
 多分、これからも私はこのギターに触れることはないかも。
 過去にあった嫌な記憶を呼び戻すことになるし……

 そんな過去を思い出したくなかったからかな、私はそのギターから拒絶するように目を背けた。



――学校・昼休み

梓『へぇー、今年の春にギター始めたばかりなんですか』

 今は学校の昼休み、みんな思い思いのグループで固まり、持ってきたお弁当を見せ合ってそれぞれお昼ご飯を食べている。
 そんな中私だけどこにもグループに属さないで只1人、静かにお弁当を机の上に広げていた。
 いや、今日は1人じゃない。頭の向こうで話し相手になってくれている人が1人いたんだっけ。

唯『うん!高校生になってさ、何か新しいこと始めなきゃいけないかなーって思って悩んでたんだけどね。丁度たまたま知り合った軽音部の部長さんにね、うちに入らないか?って誘われたの』

梓『それでどうしてギターを選んだんですか?』

唯『たまたまギター弾ける人がいなかっただけなんだけど』

梓『部員の数少ないってことですよね。パートが足りないだなんて』

唯『私を入れて4人かな。でもみんないい人で毎日楽しいよー』

梓『へぇー……4人てそれはホントに少ないですね』

唯『毎日部室でお茶したりお菓子食べたりしてるんだ』

梓『軽音部なのに演奏しないでティータイムってどうかと思います』

唯『澪ちゃんにもそうやってよく怒られるんだよー』

梓『当たり前です!』

唯『ああそうそう、澪ちゃんっていうのはベースの子でね――』

 この時間、私達はお互いの近況を色々と話して時間を過ごした。
 唯先輩の高校での事、家族に私と同い年の家事万能の妹がいること、軽音部の3人の部員の人達の事。
 そして唯先輩も携帯を持っていないという事……部室の物置で見つけた「あの」壊れた携帯以外。

唯『ねぇねぇ、あずにゃんも携帯持ってないんだよね?ならさ、時間はどうやって確認してるの?』

梓『へ?』

唯『みんな携帯の時計で時間見てるっぽいからさ、携帯ない子の場合どうしてるのかなーって……私は腕時計してるんだけどね』

梓『私もそうですよ。今時腕時計で時間計ってるなんで私ぐらいの物だと思ってたので、同じような人がいてなんだかちょっとうれしいです』

唯『あずにゃんはどんな時計してるの?』

梓『赤くて丸い時計です。小さい頃からずっと使ってる大事なものなんです』

唯『幸せ者だよねーその赤い腕時計も』

梓『え?』

唯『あずにゃんにずーっと大事に使っててもらえてるんだもの。きっと幸せだよ』

梓『そんなことないです。ただ貧乏性なだけですって』

梓『あっ、そろそろ昼休みが終わりそうです。次移動教室で忙しくなりそうなのでまた後でいいですか?』

唯『おっけー。それじゃまた後でね、あずにゃん』

――――――

――――

――

律「おーい、ゆいー」筆談

唯「……」

澪「その様子だとこの前言ってたあの子と電話で話してたみたいだな」

唯「……」コクン

律「あー、確か梓って子だったっけか」

唯「……」コクン

紬「それにしても、頭の中だけで繋がる電話ってすごいわねぇ……何で部室にそんな物があったのかしら」

律「私が触った時には只の壊れた携帯だったんだけどなー」

唯「……」カキカキ

唯【やっぱりとんでもない話すぎて信じられないよねぇ】

律「まー普通に考えりゃそうなんだけどさ」

澪「唯がすごく嬉しそうな顔してるから、嘘とは思えないんだよな」

唯「……」えへへー

紬「どんな子かしらねー、梓ちゃんって子。唯ちゃんが言うには猫さんみたいに可愛い子って言ってたけど」

唯【私も気になるよ。会いにいきたいなぁ、あずにゃんに……どんな子なんだろう】

澪「そうだ!そんな話してる場合じゃなかった!次テストだぞ、歴史のテスト!」

唯【あーーっ!すっかり忘れてたよぉー】

律「想定内のお返事どうも」

唯【どうしよぉ……私何にも勉強してないよー!】

澪「自業自得だ」

唯「……」ふぇぇー




―― 授業中

prrrr

梓(あれ?唯先輩からだ……どうしたんだろ)

梓『はい』

唯『あずにゃーーーん!!助けてえぇぇ!』

梓『い、いきなり何なんですか!』

唯『今日本史のテストやってるんだけど勉強やってくるの忘れてチンプンカンプンなんだよぉぉぉ!だからあずにゃんお願い!』

梓『お願いってまさか……』

唯『うん、そのまさかだよ』

梓『本気で言ってるんですか?それってズルじゃないですか。第一勉強してこなかったのは唯先輩が悪いだけでしょう』

唯『お願いあずにゃん!また追試だなんてコリゴリだもん』

梓『だからといって中学生にテストの答えを教わる高校生ってのもどうかと思いますけど』

唯『ぶーっ!あずにゃんの意地悪~』

梓『意地悪で結構』

唯『いいもん、1人でやるから……』

唯『……』

唯『……』

梓『あの……大丈夫ですか唯先輩』

唯『ふーんだ』

梓『……』

唯『……』ぷしゅー

梓『……しょうがないですね、この人は全く』

唯『え?手伝ってくれるの!?』パアァー

梓『今回だけですからね?わかりましたか?』

唯『おおおっ!ありがとうあずにゃーん!!!』

梓『にゃああっ!そんな大きな声で言わなくても聞こえますって!』

梓(私もお人よしだな……でもなんかこの人の事、放っておけないや)


3
最終更新:2011年09月16日 02:50