「私、大学は寮から通いたいの」

 それは、お姉ちゃんの大学合格を家族みんなでお祝いしていた夕食の席のこと。
 ふだんのホットケーキみたいにほわほわした口調に比べるとほんのちょっとだけ真面目な声で、お姉ちゃんは唐突にそんなことを言った。
 いつもの三倍くらい力の入った献立の数々が並ぶ食卓。おいしいおいしいと箸を動かし続けていたお父さんはその手を止めて、神妙な面持ちで眉をひそめていた。その隣ではお母さんも同じような顔をしている。
 それは本気なのかというお父さんの問いかけに、お姉ちゃんはすぐさま首を大きく縦に振って答えた。

「うん。N女子大ってうちから通うにはちょっと遠いでしょ? 高校よりずっと早起きしなきゃいけなくなっちゃうし、毎日の行き帰りも大変になっちゃうし。でも、そしたらね、りっちゃんたちみんなが一緒に大学の寮から通おうよって言ってくれたの。……ダメかなあ?」

 女子大の寮で、仲のいい友達も一緒と聞いてお父さんの表情が少しだけ緩む。隣に座るお母さんの意見は、ちょっと心配だけどお姉ちゃんももう大学生だし、今のうちに寮生活という経験をしておくのもいいんじゃないかというものだった。

「それじゃあ、いいの?」

 お姉ちゃんの顔がぱあっと輝く。お父さんは仕方ないなあという風に肩をすくめてから、休みのうちにいろいろと用意をしておかなければいけないねと、お姉ちゃんの申し出を認める旨の返事を返した。

「やったー! お父さん、お母さん、ありがとー!」

 おもむろに席を立ち上がって二人に抱きつくお姉ちゃんに、それぞれ困ったような笑顔を浮かべるお父さんとお母さん。
 うれしくて気持ちが高ぶったとき、ああやってすぐ人に抱きつくのはお姉ちゃんの昔からの癖。私が小さい頃から何度も何度も見てきた光景。
 あの頃からずっと変わらない、変わらないはずのお姉ちゃん。
 けれど家族の中で私ひとりだけが、お姉ちゃんの言った言葉の意味も、両親がどうしてそんな笑顔を見せているのかも、がんばって作ったはずのご飯の味さえもわからないまま、たった今あまりにもあっさりと決まってしまった事実をただ呆然と胸の中で反芻し続けていた。

 …………それって。
 ……お姉ちゃんが、うちからいなくなっちゃうってこと?


 翌朝、私は数年ぶりに寝坊をしてしまった。
 数年ぶりどころか、もしかしたら自分の部屋を持つようになってからは初めてのことかもしれない。夢の世界からゆっくりと帰ってくる途中、枕元に置いた目覚まし時計の時刻が目に飛び込んできた瞬間、私の意識は一瞬にして現実世界に引き戻された。
 寝る前に目覚ましをセットするのを忘れちゃったんだ。たいへんだ。どうしよう。とにかくとにかく、すぐにお姉ちゃんを起こさないと――
 大慌てでベッドを飛び出そうとした瞬間、ここんここんというリズミカルなノックの音が聞こえてきた。その少しあとにドアから顔を出したのは、私が今まさに会いに行こうとしていた人物そのひとだった。

「うーいー、朝だよぉー……って、あ、おはよー憂。よかった、もう起きてたんだぁ。そろそろ朝ご飯たべないと遅刻しちゃうよ?」

 目尻を下げてふにゃりと微笑む私服姿のお姉ちゃんを目の当たりにして、私はすぐにいろんなことを思い出した。
 受験の終わったお姉ちゃんはもう卒業式まで学校には来ない。だから、今までみたいに慌ててお姉ちゃんを起こす必要もなくなっちゃったんだ。
 もうお姉ちゃんと一緒に同じ道を歩いて通学することはできない。ちゃんとわかっているはずなのに、朝が来るたびにいつも私はそのことを忘れてしまう。

「……う、うん。ごめんねお姉ちゃん、すぐ行くから」
「憂もたまにはお寝坊するんだねえ」

 たんぽぽの綿毛みたいな笑顔を残して、お姉ちゃんはぱたんと部屋のドアを閉めた。
 静かになった部屋。もう一度時計に目をやってみても、もちろん時間が巻き戻ってくれるわけもなくて。
 …………なにやってるんだろ、私。
 これじゃあ本当に遅刻しちゃう。早く着替えて学校に行かなきゃ。


「おはよ。珍しいね、憂がギリギリなんて。今日は休みなのかと思ったよ」

 予鈴が鳴るのとほとんど同時に教室に駆け込む。
 軽く息を整えながら教科書の整理をしていると、純ちゃんが私の机に駆け寄ってきた。その横には梓ちゃんもいる。

「えっと、うん、おはよう純ちゃん。梓ちゃんもおはよう」
「おはよ憂。……あのさ、なんかあったの?」

 顔を見るなりなぜかそんなことを言ってくる梓ちゃん。どうしてだろう。それとも私は一目見ただけでそこまで心配されるような顔をしているんだろうか。
 ふたりによけいな心配をさせたくなくて、すぐに気持ちを切り替えつつ答える。

「ううん、なんでもないよ。昨日はちょっと、目覚ましかけるの忘れちゃってて」
「憂が? ……珍しいね。純がやるならわかるけど」
「なんだとこのー。やんのかー。やんのかこのー」
「はいはい。ていうか、どうせ唯先輩が起きてくれなかっただけでしょ? 授業ないからってダラダラさせてちゃダメだもんね。わかるよそれくらい」
「う、ううん、違うの。今日はほんとに」
「はぁ……唯先輩、もうすぐ卒業だっていうのに。大丈夫なのかなぁ」

 梓ちゃんは私の言葉に耳を貸すことなく、呆れたようなため息をついた。
 ち、違うのに。お姉ちゃん、今日はちゃんとひとりで起きてくれたうえに、私のことまで起こしてくれたのに。

「とか言って梓、本当は先輩がいなくなってさみしいくせにー」
「さっ、さみしくなんかないもん!」

 すかさず茶々を入れる純ちゃんに、ぴんと髪を逆立てて反論する梓ちゃん。
 そんな二人を前に、私はいつもの笑い方を思い出すようにしてようにくすくすと笑みをこぼしてみた。
 そうだ、これがいつもの私だと言い聞かせるように作った表情は、ちゃんとふだん通りの笑顔になっているはずなのに、なぜだか自分のものじゃないような奇妙な違和感があった。

「でも実際、軽音部もこれから大変だよね。梓ひとりになっちゃうわけだし」
「……うん、まあ、そうなんだよねぇ」
「ま、安心しなよ。誰も部員が入らなかったら私が入ってあげるからさ」
「縁起でもないこと言わないでよ」
「いやあ、梓の新歓ソロコンサートが楽しみですなあ」

 おどけた口調で純ちゃんは言う。でも、純ちゃんはなんだかんだで約束を守る子だ。こう言うからにはきっと本気なんだと思う。ジャズ研にも純ちゃんを慕う後輩の子がいるはずなのに。

「……はあ。でもほんと、どうしようかなぁ、新歓ライブ」
「アコギ風に弾き語りでもやれば梓ひとりでも格好つくんじゃない? ほら、前に町内会で似たようなことやったって言ってたじゃん」
「……あ、あれは唯先輩が一緒だったから。それに私、ソロで歌うのはちょっと」
「そんなこと言ってたら新入生のハートは掴めない。部長なんだからしっかりしなきゃ」
「……うう。他人事だと思って……」

 純ちゃんだけじゃない。梓ちゃんももうすぐ先輩たちとお別れして、これからは自分の手で新しい軽音部を作っていかなきゃいけなくて。
 みんな、みんな変わっていくんだ。誰かが特別ってわけじゃなく、誰でも平等に、当たり前に。そうやって人は少しずつ大人になっていくんだと思う。
 ……でも、私は。
 そんな当たり前の変化を想像することさえできない私は、この先もずっと大人になんかなれないんじゃないかって思ってしまう。
 実際には、お別れなんて大げさなものじゃない。お姉ちゃんは今の家から少し離れた場所に住む場所を変えるだけ。会おうと思えばいつだって会えるし、声が聞きたければ電話だって繋がるし、週に一度は帰ってくるって約束もしてくれた。
 今まで近すぎるくらい近くにいたひとが、ほんのちょっとだけ遠くに行く。
 言葉にしてしまえばたったそれだけのこと。
 わかってる。
 ……わかってるのに。

「ちょっと、憂。聞いてる?」
「ふえっ?」

 ふと気づくと純ちゃんの顔がすぐ目の前にあって、おもわず変な声が漏れてしまった。

「梓の新歓ライブの話。なんかいいアイディアないかって聞いたんだけど……ねえ憂、ほんとに大丈夫? なんか悩み事でもあるの?」
「ご、ごめんね。大丈夫、ちょっとぼーっとしてただけ。へいきだよ、なんでもないから」
「……憂がそう言うならいいけど。でも、それなら憂もちゃんと考えてよね。軽音部の未来がかかってるんだよ」
「未来って……っていうか、いいよもうこの話は。憂、なんか調子悪いみたいだし」
「よくないの。あこがれの澪先輩がいた軽音部を私たちの代でつぶすなんて同じ桜高の生徒として許すわけにはいかないの。――うん。よし、決めたよ梓。私も新歓ライブ出るから」
「じゅ、純? ほんとに?」
「とりあえずはヘルプメンバーとしてだけどね。ギターにベース、あとはもう一個くらい楽器があればボーカル抜きでも形にはなるでしょ」

 そう言って、意味ありげな目でこちらを見つめてくる純ちゃん。その瞳が何を言わんとしているのかをすぐに理解した私の脳裏に、無人の音楽室の中、三人で音を合わせたいつかの雨の日の記憶がよみがえる。
 ほんの遊びで試したセッションだったけど、別々の楽器を重ね合わせてひとつの旋律を生み出すというのはとても楽しいものだったということだけは、今もはっきりと覚えている。
 私にとってのステージは、大好きなお姉ちゃんが世界一かっこよく輝いてくれる場所。
 だから、そこに自分が立つことなんて今まで想像したこともなかったけど。
 ずっと上の空だった心の中にわずかな高揚を感じた。ごくごく小さく芽吹いた気持ちだったけれど、それは同時に、私が今まで感じたことのない気持ちでもあった。

 ――だけど。

「無理強いしちゃダメだよ、純。憂には憂の事情があるんだから」

 何も言えずにいる私に、梓ちゃんがそんな風に口を挟んだ。
 一瞬の沈黙があってから、純ちゃんも残念そうにひとつため息をついて言う。

「まあ、そうだよね。憂んち、家事とかいろいろ大変だもんね。こっちの都合で勝手にお願いするわけにもいかないか。ごめんね、憂」

 これまでの二年間、授業が終わればいつもまっすぐに家に帰っていた私のことをふたりとも気遣ってくれているんだと思う。
 たしかにうちは両親とも帰りが遅いことが多いから、ひととおりの家事は手伝うように心がけていたけれど……でも、私が今まで部活に入らなかった理由はそれとは少し違う。
 部活に入りながらでも家の手伝いはできるし、憂にはとても助かってるけどそこまでやらなくていいんだよって、お父さんたちにもいつも言われてるし。
 それでも私が部活に入らなかったのは、お姉ちゃんのお世話がしたくて、お姉ちゃんと一緒にいたくて、お姉ちゃんの喜ぶ顔を少しでも多く見ていたかったから。
 お姉ちゃんがいつ帰ってきても「おかえり」って一番に言ってあげられるように、家で待っていてあげたかったから。
 たったそれだけの理由。
 でも私にとっては、何よりも大切な理由。

「やるからにはそれなりの演奏がしたいし、練習する時間が取れないんじゃしょうがないよ。純が手伝ってくれるだけでもありがたいし、私たちでやれることを考えようよ」
「そうだね。ふたりでやれるだけのことはやってみよっか」

 梓ちゃんの力になってあげたい。
 純ちゃんの気持ちに応えてあげたい。
 しかも来年からの私には、放課後の数時間を惜しんでまで家に帰る理由もなくなってしまうのだ。
 大事なふたりの親友が困っている。手を差し出すことをためらう理由もない。じゃあ、迷うことなんて何もない。答えは考えるまでもなく出ている。
 出ているはずなのに。
 …………はず、なのに。

「………………………………」

 これだけ明確な答えがあるにも関わらず、私はふたりに対して何も言うことができずにいた。
 だって、その答えを口に出すということは、お姉ちゃんがいなくなってしまうという事実を認めてしまうということだから。
 わかってる。こんなのまるで聞き分けのない子どもと一緒だって、自分でもちゃんとわかってる。
 自分がどれだけ道理の通らないことをしているのかはわかってるのに、心の中の理屈じゃどうしようもない部分を納得させることがどうしてもできない。
 こんな自分勝手な気持ちを抱えておきながら、いったいなにが親友なんだろう。梓ちゃんと純ちゃんに対する申し訳なさで胸が張り裂けそうだった。
 しかも、それだけの罪悪感をもってしてもいまだにお姉ちゃんへの未練のほうが勝っている自分がいるのだ。
 あまりの自己嫌悪にいっそ消えてしまいたくなってくる。
 そんな中、いつまでも答えを口に出せずにいる私を責めるように、甲高いチャイムの音が学校中に響き渡った。

「あ、本鈴鳴っちゃったね。それじゃまたあとで」

 それぞれの席へ戻っていく梓ちゃんと純ちゃん。その背中を直視することができなくて、机に深々と顔を埋める。
 …………最低だ、私。


 放課後。
 席に残って新歓ライブの話し合いをしている梓ちゃんたちを横目に、私はこっそりと逃げるように教室を出た。
 今日はお母さんもお父さんも帰ってこないから、はやく帰って夕飯の支度をしなければいけない。ずきりと痛む胸をもっともらしい理由でごまかしながら、私はひとり家路を急ぐ。
 ……家に帰って着替えたら、夕飯の買い物にいこう。昨日もごちそうだったけど、今日もお姉ちゃんの好きなものを作ってあげよう。
 何がいいかな。お姉ちゃんのことだからきっと、あれもこれもって食べきれないくらいたくさんのリクエストをしてくるだろうな。
 いつもならそんなのダメって叱るところだけど、今日はぜんぶのリクエストに答えてあげよう。あとでお母さんに怒られてもかまわない。なんだか無性にそうしたい気分だった。

「ただいま」
「おかえり~」

 帰宅するとすぐ、リビングの向こうからお姉ちゃんの声が返ってきた。てっきりどこかへ遊びに行っているか、部屋でギターを弾いてるんじゃないかと思っていたのに、どうしたんだろう。テレビでも見てたのかな。でもテレビの音も聞こえないし、そういうわけでもないみたい。
 疑問に思いつつ制服姿のままリビングの扉を開けると、私の目に予想外の光景が飛び込んできた。

 私のエプロンをつけたお姉ちゃんが、台所で夕飯の支度をしていた。

「…………お、お姉ちゃん?」
「おかえりー憂」

 あっけに取られている私にもう一度おかえりを言ってから、お姉ちゃんは再びまな板の上の玉ねぎと格闘をはじめた。慣れない手つきで包丁を押したり引いたりしているのが、見ていてとてもあぶなっかしい。

「うう、目にしみるよぉ……」

 目をしぱしぱさせながら左手を目元に持っていこうとするお姉ちゃんを、私は慌てて制した。

「お、お姉ちゃん、目こすっちゃダメだよっ」
「え? そなの?」
「そういうときは水でかるく洗い流したほうがいいんだよ。ほら、お姉ちゃん」

 蛇口をひねって水を出してあげると、お姉ちゃんはしばらく犬みたいにばしゃばしゃと水を顔に浴びていた。おかげでエプロンがずぶ濡れだ。

「ふぃー。ほんとだ、すっきりしたぁ。ありがとね、憂」

 それでも、にへらと無邪気な笑顔を浮かべるお姉ちゃんを見ているとどうしても怒る気にはなれなかった。
 その代わりに、私がなんとかしてあげなきゃって気持ちがわき上がってくる。

「お姉ちゃん、夕飯の支度なら私がやるよ? せっかくのお休みなんだし、お姉ちゃんはやりたいことしてていいんだよ?」
「ううん、今日は私が夕飯つくるの。憂こそいつもたいへんなんだから、たまにはゆっくりしててよ」

 ふんすと鼻を鳴らすお姉ちゃん。いったいどういう風の吹き回しなんだろう。何はともかく、お姉ちゃんは私に台所を譲るつもりはないようだった。
 私に対する気持ちはうれしいけれど、玉ねぎのみじん切りひとつに苦戦しているようなお姉ちゃんをひとりにするほうがよっぽど気疲れしてしまう。

「それじゃあ、私も手伝うよ。一緒につくろ?」

 そういうことならと、妥協案として共同作業を申し出てみる。我ながらいい考えだと思った。そうすればお姉ちゃんに危ないことをさせずに済むし、お姉ちゃんとも一緒にいられるし。
 でも、お姉ちゃんは。

「ううん」

 ゆっくりと、だけどはっきりと首を横に振って。

「今日は私ひとりでやるから。憂は部屋で休んでていいよ。できたら呼ぶから、ね?」

 あったかくて優しい声だった。とても優しい声だった、けれど。
 それでも私は、生まれて初めて。
 善意のつもりで差し出した手を、きっぱりとお姉ちゃんに払いのけられた。

 お姉ちゃんに拒絶された。
 お姉ちゃんがどういうつもりなのかはわからないけれど、まるで決して抜けないトゲみたいに、その事実は深々と私の胸に突き刺さっていた。
 自分の部屋に戻ってきてからいったいどれくらいの時間が経ったんだろう。窓の外を見ると夕日がすでに落ちかけていて、時計を見れば帰ってきてからすでに三時間近くが経とうとしているところだった。
 ぜんぜん気づかなかった。まだほんの十分くらいだと思っていたのに。
 お姉ちゃんのあの一言が、まるで私の時間を止めてしまったみたいだと思った。
 それでも現実の時間はどんどん先へと進んでいく。時間と一緒に、周りの人たちもどんどん先へと進んでいく。前に進むことのできない私ひとりだけを置き去りにして。
 ……お姉ちゃんが家にいられる時間はもうあと少ししかないのに。
 私はこんな風に部屋の中に閉じこもって、いったい何をしているんだろう。

「うーいー。ご飯できたよおー」

 お姉ちゃんが私の名を呼ぶ声がする。それだけで真っ暗な闇の中から救い出してもらったような気分になる。
 呼ばれるがままに部屋を出てリビングに向かうと、鼻先に香ばしい匂いが漂ってくるのがわかった。

「待たせてごめんねえ」

 食卓にはにこにこ顔のお姉ちゃんとふたり分の晩ご飯。メニューはハンバーグ。台所を見ると、悪戦苦闘の爪あとが山のように積み上がっていた。

「ずいぶん派手に汚したね、お姉ちゃん……」
「あ、あはは。あとで片づけるから。それよりほら、冷めないうちにたべよ、たべよ」
「……うん。いただきます」
「いただきまーす」

 ふたり一緒に手を合わせて、まず最初に目の前のハンバーグに箸を伸ばす。ちょっと焼きすぎのような気もするけれど、でも、ちゃんと形にはなっていた。
 一口分に切ったハンバーグを口に運んでみる。
 ……おいしい。
 びっくりした。お姉ちゃん、いつの間にこんなの作れるようになったんだろう。

「どうかなあ?」
「……うん。おいしいよ。すごくおいしい」
「やったあっ」

 心底からうれしそうに顔をほころばせるお姉ちゃん。どんなときも私を幸せにしてくれる魔法の笑顔。
 そのはずなのに、私の胸はなぜか晴れず、すっきりしない靄のようなものが立ちこめていた。
 ……だって、このハンバーグ、いつもうちで作る味じゃない。

「あのね、このハンバーグの作り方、りっちゃんに教わったんだよ」

 そんな私の疑問に答えるように、お姉ちゃんは満面の笑顔でそんなことを言った。

「……律さんに?」
「うん。りっちゃんね、ああ見えて料理すっごく上手なんだよ。こないだ遊びにいったときに作ってくれたハンバーグがすっごくおいしかったんだぁ。憂のハンバーグもおいしいけど、それにも負けてないくらい」
「……そうなんだ」


2
最終更新:2011年09月18日 21:39