……まぁ、仕方ないことかもしれない。電車で一時間強も揺られて来たこの街は、知らない街といっても過言ではない。
外出するよりは家でのんびりギターを弾いていることが多い私達なら尚更。アルバイトもしてないから遠出する余裕もないし。

梓「……漢字さえわかれば乗れないこともないですけど…念の為です、駅員さんに尋ねてきましょうか」

唯「はい……ソウデスネ…」


――駅に戻り、駅員さん達に乗るべきバスを尋ね、更に念のため地図を買い。
バスを乗り継いで更に歩いて少しだけ山の方に入り、ようやく件の旅館へ辿り着いた頃、ちょうど日が暮れた。

梓「……要するに二泊三日の初日は何も出来なかった、と」

唯「……ごめんなさい。こんなに遠いなんて思いませんでした」

梓「そしてそれは転じて二泊三日の最終日も何も出来ずに終わる可能性が高い、と」

唯「本当にごめんなさいぃぃ!!」

梓「いえ、まぁいいんですけどね。立地条件のせいなら仕方ないですし、来るまでに面白そうな店はいくつかありましたし」

それに今日が潰れたのは「一時間ちょっとで着くくらいの距離なら集合もゆっくりでいいよね」と言いつつしっかり寝坊かました唯先輩のせいでもある。最終日は私がちゃんと起こせばきっと少しは時間は作れるだろう。
更に言うならこんなに遠いとは私も思ってなかった。目的地はテレビでCMやるくらいには有名な旅館なのだが、そのCMでもこんな奥地にあるなんて言ってなかったし。

唯「……ごめんねぇ…」

梓「…もういいですって。それよりも…もっと別の問題がありますよ」

唯「……そうだね…こっちもあずにゃんに謝らないといけないかも…」

梓「いや…これは流石に唯先輩は悪くないです」

眼前に佇む、件の有名な旅館。
……否、有名なはずの旅館。有名で、繁盛していると聞いていたはずの旅館。
一応、情報どおりの木造平屋の建築物ではある。旅館の名前も、確かに聞いていたものと一致するのだけど。

唯「……オンボロやないかーぃ…」



――唯先輩が思わず漏らしてしまった本音通り、外観はとても綺麗と呼べたものではなく、木造の家屋にツタは這い、塗装は剥げ、看板は傾き、これでもかと言わんくらいにイメージ通りのオンボロ旅館。
しかし意外にも一歩門をくぐってみれば言うほどでもなく、内装は綺麗だし従業員も沢山いて皆いい人そうで。そのギャップが人気の秘訣なのかもしれない、と私達は納得することにした。
ただ、ここでまた問題が発生するのが私達らしいというか、唯先輩らしいというか。

員「申し訳ありません、只今満室でございまして……角部屋しか空いていないのですが」

唯「え~」

評判通り繁盛もしているらしい。あんな外観で。

梓「私達が来るのが遅かったからでしょうに……すいません、店員さん。その部屋で充分です」

員「申し訳ありません」

あくまで丁寧な従業員さんに唯先輩がチケットを渡し、部屋に案内してもらう。
角部屋という通りかなり奥まった所にあったけれど、トイレは部屋にあるし食事も届けてくれるとのことなので不便なのはお風呂くらいだろう。

員「では、失礼します」

唯「ありがとうございましたー」

梓「ありがとうございました」

唯「……さて!」

……従業員さんが去ったのを見届け、唯先輩がなにやら目を輝かせた。
イヤな予感しかしない。

梓「…何を始めるつもりですか?」

唯「掛け軸や絵を一個一個捲って裏のお札の有無を――」

梓「一応有名旅館なんですしやめましょうね!?」


――その後、昼食が軽いものだったせいか、荷物を片付けている最中で唯先輩が泣き言を言い出した。

唯「おなかすいたー…」

梓「まぁ、確かに早い家なら夕食食べていてもおかしくない時間ですけど……」

唯「おなかすいたー!」

部屋の真ん中で大の字になって寝転んで動かない。まったく、本当に子供みたいな人だ。
ちなみに荷物の片付けなんていっても荷物と呼べるほどの大仰なものはほとんど持ってきていない。二回分の着替えを手頃な大きさのバッグに入れてそれぞれ持ってきただけだ。
要するに、たったそれだけの荷物を片付けることもせずにこの人は寝転がっている事になる。というか二人分私が片付けた。どれだけ堪え性が無いんだろうか。

梓「はぁ……じゃあ食事をお願いしてきますから、せめてこう、もっと端っこにいてくださいよ?」

唯「えー、私も行く!」

梓「片づけを私にさせたくせに今起き上がったら怒りますよ?」

唯「うっ……いや、あれはその、働くあずにゃんを見ていたかったと言うか…」

梓「そんなくだらない理由で押し付けたんだとしたらもっと怒りますよ?」

まぁ実際のところは別に重労働でもないんだし怒るつもりは無いけれど、それでも何でもかんでも人に押し付けるのはいただけない。
私はともかくとして、そろそろ憂の気苦労は減らしてあげたいし。
……いや、憂も憂で唯先輩の世話をするのを純粋に楽しんでるフシがあるからなぁ……余計なお世話なのかな?

唯「え、えっと、それよりあずにゃん!」

梓「はい? 何ですか?」

唯「わ、わざわざ行かなくても内線みたいなもので呼べたりしないのかなぁ?」

梓「あー、言われてみれば確かにあってもおかしくない――」

と唯先輩の必死の話題逸らしに乗ってあげていると、ブザー音のようなものが部屋に響いた。
どうやら唯先輩の言う通り内線はあるらしい。部屋を見渡し、入り口のすぐ傍の壁にあった受話器を取る。

梓「はい、もしもし」

員『あ、失礼します。そろそろお食事の方お持ちいたしましょうか?』

梓「…は、はい、それじゃお願いしてもいいですか?」

員『かしこまりました。少々お待ちくださいませ』

……なんというタイミング。

唯「あずにゃん、何て電話?」

梓「ご飯持ってきてくれるそうですよ。よかったですね」

唯「ホント!? やったー! どんなのだろうね?」

梓「どんなのでしょうね…」

唯「海に近い旅館なら海の幸がメインって聞いたけど、ここはどっちかといえば山に近いし、山の幸なのかなぁ? あー楽しみ!」

梓「………」

……唯先輩は盛り上がっているけど、私はどこか薄気味悪さを覚えていた。まるで私達の行動を見ているかのようなこのタイミングに。
唯先輩がお腹を空かせているのを見抜いたかのように。唯先輩が内線の話をしたのを聞いていたかのように。私がフロントまで出向こうとしているのを見ていたかのように、タイミングとしては完璧すぎた。

……考えすぎだよね。これが有名旅館の一流の接客なんだよね。



――ほどほどに山の幸の活かされた夕食を食べ、寝転がる唯先輩を起こし、お風呂へ向かい。
一応パジャマは持ってきていたけれど浴衣の貸し出しもしているとの事なので、今日は浴衣を借りることにして。
お風呂上がり、唯先輩の「浴衣に下着はつけない」とかいうセクハラ――もしかしたら本人はセクハラではなく素で信じていたのかもしれないけど――を黙殺して着替えて部屋に戻った。

唯「ふぃー、いい湯だったねー」

梓「山に近いからですかね、静かでいい露天風呂でした」

唯「虫がいないのが不思議だったね!」

梓「そういうこと言わないでくださいよ…明日気にしちゃうじゃないですか」

唯「あずにゃんに近づく悪い虫は私が追い払ってあげましょう」

梓「はいはい…」

馬鹿馬鹿しい会話に終止符を打つように立ち上がって部屋の窓を開けてみる。
山特有の澄んだ冷たい空気が流れ込んできて私の髪を揺らす。お風呂上がりなど、縛っていない状態だとこういう時に少し鬱陶しい。
……空気も冷たいし、やっぱり窓は閉めよう。唯先輩が風邪ひいたら大変だ。

唯「そういえばあずにゃん、鈴は?」

梓「ちゃんとポケットに入ってます。大丈夫ですよ、無くしたりしません」

唯「そーじゃなくて、つけてくれないの?」

梓「……いや、もう夜ですし、あとは寝るだけですし、つける必要ないじゃないですか――」

と言いつつも、浴衣の唯先輩の胸元に光る月を見ると嬉しくなる反面申し訳なくなる。
そんなに嬉しかったのだろうか。私も嬉しくなかったといえば嘘になるけど、四六時中つけておくほどには素直になれない。

梓「……寝るときは外さないと危ないですよ」

唯「えー、やだー」

梓「私はつけませんからね。寝ている時に外れて無くしたりしちゃったらそれこそ申し訳が立ちませんし」

唯先輩が喜んでずっとつけてくれているのは嬉しいけれど、私も同じようにつければ唯先輩もきっと喜ぶのだろうけれど。
それでも私には恥ずかしいし、無くすのを恐れているのもまた私の本音だ。

……とはいえ、ちょっとだけ唯先輩を否定するような言い方になってしまい、返答が怖かった。
けれど当の唯先輩は何故か目を輝かせていて。

唯「申し訳って……たった100円の物にそんなに真剣になってくれるなんて、やっぱりあずにゃんはいい子だねー」

梓「ね、値段なんて関係ないじゃないですか! 貰い物を無くすなんてそんな不義理なこと出来ないってだけです!」

唯「いい子いい子ー。よしよし」

梓「だから何かにつけて抱きつこうと、撫でようとしないでくださいっ!!!」



――せっかくお風呂に入ったのに唯先輩を押し返すのに少しだけ汗をかいてしまい、何と言うか、これ以上起きているべきではないのかもしれないという結論に至った。

梓「はぁ…布団敷きますか……」

唯「えー? 夜はこれからだよー」

梓「夜更かししてまですることは何もないでしょう」

唯「……コイバナ?」

梓「二人でですか?」

唯「旅行の夜と言ったらそれじゃない?」

梓「修学旅行みたいですね」

唯「じゃあ枕投げ?」

梓「二人でですか?」

唯「旅行の夜と言ったらそれじゃない?」

梓「修学旅行みたいですね」

唯「じゃあ――」

梓「いや、もういいですから寝ましょうよ」

まだ時間は早いけど、意外にも身体に疲れは溜まっている。いろいろバタバタしたし、慣れない地でもあるし、考えてみれば当然ではあるけれど。
問題は唯先輩をどうやって寝かしつけるか。憂に聞いてくるべきだったなぁ。

梓「っていうか唯先輩って早寝のイメージがあったんですけどね」

唯「んー、まぁ否定はしないけど、あずにゃんと二人っきりなんだもん、早く寝るのはもったいないよ!」

梓「でも特にする事もないでしょう」

唯「そうだけど、もったいないったらもったいないよ!」

梓「……夜更かししたせいで寝坊して、明日一緒に遊びに行ける時間が減るのとどっちが勿体ないと思います?」

唯「じゃあ寝よっか! おやすみあずにゃん!」

梓「早っ!」

ちょろい人だった。っていうか布団敷くの手伝ってくださいよ……




梓「――ん、んっ…?」

……何時頃かわからないけど、不意に目が覚めた。やっぱり少し早く寝すぎたようで。
とりあえず枕元を探り、財布と携帯電話、そしてそれに結び付けてある鈴を確認する。なんだかんだで私も現代っ子、携帯電話は常に持ち歩くだろうから、という理由で朝の着替えまでは結び付けておくことにしたのだ。
携帯電話を手に取ると、またチリンと音がする。その音を聴くたび嬉しくなるけど、隣で寝ている唯先輩を起こすわけにはいかない。鈴を手の平で包み込んで音を殺し、折りたたみ式の本体を開く。

梓「……二時半…うわぁ、丑三つ時…」

草木も眠る丑三つ時。意外とその時間帯については細かいところで諸説あったような気もするけど、私は少なくとも午前二時前後は間違いなく含まれるんじゃないかな、という程度の認識にしている。
ともあれ、そんな時間に目覚めてしまったのはちょっとイヤな気分になるけれど、もう一眠り出来そうな程度には頭もぼーっとしている。大丈夫だろう。

梓「……その前にトイレ行っとこ…」



――トイレから戻ってくると、隣の、窓際の布団で寝ている唯先輩が月明かりに照らされているのが目に入った。

梓「………」

実は寝る前に「一緒に寝よう!」とか言い出すかと思ったけど案外そんなことはなくて、あっさり布団に入って寝てしまったことに実は拍子抜けしていたりもするのだけれど。
いや言われても勿論断るのだけれど。それでも予想が外れるとちょっと悔しいというか。意外と私はこの人をあまりわかっていないのかな、と思いたくなるような。それとも私は『何か』から目を背けていて、勝手な唯先輩像を押し付けているのかな、とか。
まぁとにかく、そういうよくわからないことを悶々と考えながら唯先輩を眺めていると、胸元に光るものが目に入り。

梓「…もう、危ないって言ったのに…」

言いながらも、やっぱり嬉しくなる自分が抑えられなくて。それもなんか癪だから、と自分の布団に潜り込んで。
それでもちょっとだけ昂ぶってしまった気持ちが寝付くことを許さなくて。結局布団の中で何度も寝返りを打った挙句、枕元の携帯電話に手を伸ばし、鈴を指先で転がす私がいた。

「これじゃ名実共に猫みたいじゃないか」と頭を抱えるのと同時に、気がついた。気がついてしまった。


……隣の、気配に。


梓「…あ、お、起こしちゃいました? すいません」

唯「………」

梓「……唯先輩?」

気恥ずかしさ半分で取り繕うように身体を起こし、振り返るけれど、当の唯先輩はボーっとしたまま私に視線を合わせずに。
でも無表情というわけでもなく、何かの『目的』を持ったような目をして立ち上がる。

唯「………」

梓「…あの…?」

私を一瞥すらせずに歩き出す。
私みたいにトイレかな? とも思ったけれど、部屋の扉に手をかけたあたりでさすがに様子がおかしいと思い至り、先刻まで弄っていた携帯電話をポケットに捻じ込んで後を追った。

梓「――唯先輩っ! 待ってください、どこ行くんですか!?」

唯「………」

梓「唯先輩っ!!」

唯「………」

梓「待ってくださいよ!! どうしちゃったんですか!?」

廊下をただ歩くだけの唯先輩に追いつくこと自体は容易だったが、引き留める事は難しかった。
呼びかけには全く応えないし、浴衣の袖を摘むくらいでは自然と振り払われてしまう。思い切って腕まで掴んでも、力任せに振るわれると体格で劣る私には成す術もなかった。

……ダメだ、このままじゃ唯先輩がどこかに行ってしまう。そして、きっと二度と会えない。

私は予感めいたものを感じていた。何故とか何処へとか、そういう事までは頭が回らなかったけれど、行かせてはいけない。それだけは確信を持っていた。
唯先輩の正面に回り、腰に手を回し、踏ん張りながら全体重をかける。そこまでしてようやく唯先輩の歩みは止まった。

梓「ッ……誰か! 誰か助けてください!!!」

動きを止めたはいいけど、それ以上の事は出来ない。そう自覚していた私は、夜中だというのに声を張り上げて助けを呼ぶ。
誰かが出てきて、唯先輩を押さえつけてくれることを期待した。多少手荒だけど、このまま私と唯先輩が面と向かって押し合ってもきっと私が先にバテてしまう。
唯先輩も決して運動が出来る方ではないはずだけど、今の唯先輩はきっと自身の意識の外にいる。疲れとか顔見知り相手の遠慮とかには無縁だろうから、より確実な方法を採って動きを封じなければならない。

だから叫んで人を呼んだ。なのに……

梓「なんでっ……なんで誰も出てきてくれないの!?」

出てきてくれないどころか人のいる気配さえしない気がする。私達の居た場所は角部屋だったけれど、唯先輩を引き留めようとあれこれしている間に確実に数部屋は通り過ぎた。
従業員さんも満室だと言っていたし私も私なりにだいぶ大声で叫んでいるのに、顔を覗かせてくれる人がいないどころかどの部屋からも物音一つしないなんて!?

唯「……か……と…」

梓「!?」

押し合うだけで必死な私の耳に届いた、微かな呟き。
力を抜くわけにはいかないけれど、どうにか意識だけはそちらに集中させて、聞き届けようとする。すると。

唯「…いかないと…」

梓「っ!?」

どこかに向けたその呟きは、私の悪い予感を肯定していて。
予感を現実にするわけにはいかない。唯先輩と二度と会えないなんて……嫌すぎる。
何が何でも行かせるわけにはいかない、と力を込めなおした時、感じ取ってしまった。


――後ろに、何かいる。


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最終更新:2011年09月23日 21:47