恐る恐る、振り返る。やめておけばいいのに振り返ってしまう。
怖い。でも怖いからこそ見ておかないと安心できない、という矛盾。怖いものだからこそ、目を向けずに放置するのは余計に怖い。
人の行動を真っ先に縛ってしまう『恐怖』という感情に動かされた私が、肩越しに目にしたものは。
梓「ッ!?」
……私の背後にいた『それ』は、廊下の窓から差し込む月明かりに蒼く照らされて。
……それでもなお真っ黒に染まった『影』だった。
――『影』は、影であるはずなのに人の形を成していて、顔は無いのに、その口元は確かに釣りあがっていて。
梓「ひいっ!?」
2メートルくらいは離れているにも関わらず、その姿に私は恐怖してしまい――力を抜いてしまう。
その隙を逃がさなかった唯先輩が力を込めて私を押し返す。力負けしてバランスを崩されてしまった私は、あとはされるがまま。
そのまま唯先輩に突き飛ばされ、私は受け身も取れず無様に背中から廊下に転がることとなった。
梓「あうっ……!」
そして、気づく。
唯先輩に突き飛ばされた。誰にも暴力を振るわない先輩に、そういうことをされたという事実。それはそれなりにショックのはずだけど、今はそれよりも考えることがあり。
実に、いろんなことがあり。
背中の方に突き飛ばされたということは、きっと今、私のすぐ後ろには『影』がいて。
唯先輩は、きっとそれに向かって進んでいて。私はもう、それを止めることはできなくて。
あの『影』が唯先輩を誘っているのだとしても、そんなオカルト的なモノに対抗する手段なんて、私には無くて。
もしかしたら今すぐにでも、後ろの『影』が私に何か危害を加えようとしているかもしれなくて。
身体が震えて、動かなくて。
怖くて。
怖くて。
もう、どうしようもなくて。
――どこかで、小さな鈴の音を聴いたような気がして。
それがポケットから落ちた携帯電話に手が触れた音だと気づくより先に、それを手に取っていて。
携帯電話より大事な鈴に、もう一度触れて。それの冷たさと暖かさを再認識して。
梓「……っ……イヤだ…!」
……どうしようもない。たったそれだけの理由で、この場を…唯先輩を諦めるなんて絶対に嫌だ。この暖かさを永遠に失うなんて絶対に嫌だ!
そんな思いが沸きあがってきて、私は必死に思考を巡らせる。
唯先輩の方は押さえ込むのが精一杯でどうしようもない。なら……唯先輩を『動かしているもの』をどうにかするしかない。どうするのかなんてわからなくても、どうにかするしかない!
そう覚悟を決めて立ち上がりながら後ろを振り返る。そこにはもちろん、あの『影』が――
梓「……あ、あれ…? いない…?」
まさかと思い再び後ろを振り向くも、そこにも唯先輩しかいない。
そしてその唯先輩もなにやら私の手を……いや、私の手の中の鈴を、ぼーっと見ているようで。
もう一度周囲を見渡して『影』がいないことを確認してから、唯先輩に呼びかけながら鈴を鳴らしてみる。
梓「……唯、先輩…?」
唯「……あ、あれ? あずにゃん、どうしたの?」
梓「……唯先輩、ですよね?」
唯「え? 何言ってるの? あずにゃん」
まるで私がおかしいかのような言い方をされる。うん、間違いない、いつもの唯先輩だ。
そして同時にその反応は、おそらく……
梓「……唯先輩、今まで何してたか覚えてます?」
唯「へ? ……あれ、そういえばなんで私、こんなとこにいるの?」
梓「………」
まぁ、予想通り何も覚えていないようで。
それは同時に、私の予想通り、唯先輩の意思、意識がここにはなかったことを意味する。
つまりこれは、きっとあいつの…『影』の仕業。あいつが唯先輩を操っている。あるいは乗っ取っている。憑依している。私はそう結論を出した。
……いつか純から借りたオカルトマンガに、幽霊に取り憑かれた人の話があった。マンガと現実をごっちゃにするなんて愚かしいと言われるかもしれないけれど、唯先輩の行動とかを照らし合わせる限り、間違っているとは思えない。
ちなみにそのマンガでは……結局、取り憑かれた人は死んでしまった。
唯先輩も……そうなってしまうのだろうか? こんな納得のいかない理不尽な事で命を落としてしまうのだろうか?
オカルトとか
ホラーとかは、説明のつかない理不尽なものであるからそう呼ばれるのだと、理解はしているけれど。
それでも……そんなこと、認めたくなかった。
梓「……唯先輩、寝惚けて歩いてここまで来たんですよ? 私が何度止めても聞かないし…」
唯「そ、そうなの!? すごい寝相だね、私…」
梓「……まぁ、とにかく部屋に戻りましょう。まだ眠いですよね?」
唯「……たぶん。今何時?」
梓「……三時過ぎですね」
携帯電話を開き、確認する。揺れる鈴が何度も小さな音を鳴らす。小さな、けれど優しくて暖かい音を。
これのおかげで助かったんだよね、私の心は。そしてたぶん唯先輩も。こっちの理屈は全くわからないけど……
唯「鈴……」
梓「…はい?」
唯「大事にしてくれてるんだね」
梓「……まぁ、プレゼントですし、一応」
唯「私が居なくなっても大事にしてくれると嬉しいな」
梓「…っ……」
素早く目を逸らす。見たくない現実から目を逸らすように。見たくないモノを見てしまった顔を悟られないように。
……なんで、よりによってこんなタイミングで、そんなことを言うんですか。
私が何よりも考えないようにしていたことを、そんな簡単に言ってのけるんですか。
私が何よりも恐れ、拒んで、振り払うために自分を奮い立たせていた感情を、頭から否定しちゃうんですか。
……ついさっきまで、私の前から居なくなろうとしていた人が、そんなこと口にしないでくださいよ……
唯「私がどんな道に進んでも、あずにゃんとは一年だけお別れだもんね」
梓「……留年の可能性もありますよ。唯先輩ですし」
唯「ヒドっ!? で、でもさわちゃんだし卒業くらいはさせてくれるって! 「経歴に傷がつくのは嫌だ」とか言って!」
梓「…たぶん来年もさわ子先生が顧問でしょうから、私は滅多な事は言わないでおきます」
唯「どうかなぁ? 案外来年あたりに彼氏できて寿退職したりして。そしたら新しい顧問の先生は――」
梓「――唯先輩」
少し強めに、唯先輩のくだらない言葉を遮って。
実にくだらない、私にとって何の意味も無い言葉を聞いていたくなくて。
唯「……あずにゃん?」
梓「……早く寝ましょう。明日――いや、もう今日ですけど。いろんな所に行きたいですよね? 連れてってくれますよね?」
唯「う…うん、がんばる……けど…」
梓「じゃあ、早く戻りましょう」
唯「…あ……あずにゃん、何か…怒ってる?」
梓「……いえ、怒ってませんよ」
唯「……本当に?」
梓「本当ですよ」
……本当に微塵も、欠片ほども怒ってはいない。
怒りなんていうくだらない感情に身を任せられるほど、私の心に隙間はなかった。
……この人はわかってくれないのだろうけれど。
――青色に染まっていた心は、全てを忘れさせてくれる優しい色の世界に容易く誘われ、その世界の居心地の良さに涙を流す。
ティーンエイジャーの私でも、いやむしろその年齢だからこそ、思い当たる節は多々ある訳で。
梓「――んっ……あさ…? 今何時……って、え? あれ? ええええ!?」
……要するに、目が覚めた時には既に私はひたすら惰眠を貪った後だった。
――驚愕により覚醒した頭で周囲を見渡す。既に陽は高く昇っていそうだが、カーテンはまだ閉められていてあまり光は入ってこない。
特に大きく何かが動かされた形跡などはなく、眠りについたときのままのようだけど……部屋の隅に布団が一組片付けられていて。そして……
梓「ッ!? 唯先輩は!?」
見当たらない、私の隣にいた人の姿。隣で暢気な顔をして眠っていたはずの人の姿。
否、暢気な顔をして眠っていたはずが、深夜……『何か』に誘われ、私の目の前から消えようとした人。
梓「唯先輩!? どこですか!?」
布団から跳ね起き、焦りに任せて部屋の中を駆け回る。勿論、目に見える範囲に探し人の姿は無くて。
……深夜の出来事を思い出す。身体の痛み、心の痛み、そして――全てを埋め尽くす、寂しさ。
まさか……行っちゃったの? 私を置き去りにして……
梓「嫌だ…! 待って、唯先ぱ――」
唯「――お、おおっ!?」
梓「――い?」
衝動のまま扉を開けて部屋から飛び出そうとした私の眼前に、私服に着替えた唯先輩の姿があった。
……本物、だよね? いつもの唯先輩は、ちゃんとここにいるよね?
唯「あ、あずにゃん、起きたの? っていうかどこ行くの? 着替えもしないで」
梓「あ、その……いえ、唯先輩、どこに行ったのかなぁ、って」
唯「ん、私は…朝ご飯ってどうなってるのかなぁって思って、聞きに行ってた」
梓「……は?」
唯「いやぁ、私もついさっき起きたから流石にもう遅いかなぁって思ったけど、電話すれば届けてくれるって。よかったね!」
梓「……あぁ、そうですか……よかったですね。……はぁ…」
……無駄に脱力してしまうくらいに、いつもの唯先輩だった。
――せっかくだからと浴衣のまま食事を摂り、じっくり選んで持ってきた私服に着替えて身だしなみを整える。
平静を装っているつもりだけど、上手くやれてるだろうか。
唯「~~♪」
……たぶん大丈夫だよね。うん。
ともあれ『平静を装っている』という言葉が示す通り、私は今もまだ内心でいろいろなことを考えている。
……先程、らしくないほど取り乱してしまった事を反省する…わけではなく。取り乱してしまったというその事実が、私の中に一つの心構えを刻んだのだ。
そうだ。昨夜はあの『影』は消えてくれたけれど、だからといって何も安心はできない。もしかしたらあれで終わりなのかもしれないけれど、実際は終わったという確証なんてない。確証がないからこそ先刻私は取り乱してしまったんだから。
まだ何かが起こる可能性はある。また唯先輩がいなくなってしまう可能性はある。
対策は何も思いつかないけれど、心だけは備えておけ、と自分に言い聞かせる。もちろん諦めろという意味ではなく、何が起こっても諦めない、という意味で。
――大体の準備が終わり、携帯電話で時間を確認しようとすると、ストラップのようにぶら下げられた鈴が目に入る。私達を守ってくれた、繋ぎ止めてくれた、大事な大事な銀の鈴。
手に取って少し悩んだ後、携帯電話から取り外し、身につける。離れ離れにならないようにとおまじないをして。離れ離れになんてなりたくないと願いを込めて。
梓「……行きましょうか、唯先輩」
唯「うん、行こうかあずにゃ――お、おおおぉぉぉっ!?」
梓「あはは……似合います?」
唯「か…可愛いよあずにゃん! やっぱり私の目に狂いはなかったー!!!」
いつものように抱きついてくる唯先輩を、いつものように適当な顔をして受け止める。
首元の鈴が、チリンと小さく音を立てた。
梓「――ん、こんなところにお土産屋さんがあったんですね」
唯「あー、来た時は暗かったから気づかなかったのかな?」
梓「それなりに急いでましたしね」
旅館からバス停までの徒歩の区間の終わり際、山に入ろうかどうかという境界線のあたりに小さなお土産屋さんがあった。ちなみにここより旅館側にはコンビニが一軒あるだけで、旅館の周囲は特に閑散としている。それが風情を出していていいんだろうけど。
ともあれ、旅館に泊まった人はここでお土産を買って帰れという戦略なのだろう。旅館の中でもいいような気もするんだけど。
梓「覗いてみます? 明日帰る前でもいいと思いますけど…」
唯「んー、食べ物とかは明日にして、グッズ系のがあったら買っておこうか。ムギちゃん達に」
梓「ええ、特にムギ先輩には何か買っておかないといけませんよね」
特に異論もないので一緒に入店する。
一歩足を踏み入れると、木造建築特有の臭いが鼻を刺す。ちょっと古臭い、天井の低くて薄暗い平屋だ。
だが唯先輩は何とも思わないようで、早くもお菓子コーナーで目を輝かせていた。それは明日でしょうに。
とはいえ、ムギ先輩みたいなお嬢様には何を買って帰れば喜んでもらえるのか全く予想がつかない。大人しく唯先輩に任せるのも手かな。
きっと、唯先輩が選んだものならムギ先輩は何でも喜ぶだろうし。逆も然り。だって……私より一年長く一緒にいるんだから。
……私も一年早く生まれていれば、こんな気持ちになる事も無かったのかな。
いや、それどころかずっと私を悩ませている、唯先輩と私の『先輩後輩』というにはあまりにも不思議で不自然なよくわからない距離感。それを気にすることもなかったのだろう。
あの人はあまりにも先輩らしくなくて、そして先輩をそんな目で見てしまう私も到底後輩らしくなくて。外から見れば先輩と後輩の関係でも、内から見れば時に逆にさえ見えて。
……もしかしたら、そんな関係を唯先輩は望んでないんじゃないか、と思う時だってあった。
年下に説教されて嬉しい人なんているはずがない。私だって嫌になるし、そう思うたび気をつけようとは思うのに口が勝手に言葉を紡いでいて。
いつしかお互いにそれに慣れてしまったような感があったけど、唯先輩の心の中なんて私にはわからなくて。だからもしかしたら――
……あぁ、ダメだ。いろいろ考えてしまう。しかも全部後ろ向きな方向に。これじゃダメだ。深夜の一件を引きずっているのは自分でもわかるけど、今はまだ何も起きていないじゃないか。切り替えないと。
唯「ねぇねぇ、あずにゃん! ご当地キーホルダーなんてどうかな?」
梓「…別の県まで来たわけじゃないんですよ、私達。そんな桜が丘でも買える様な物じゃなく――」
……紡ごうとしたその先の言葉は、口から飛び出すことはなく。
唯「――? あずにゃん?」
梓「――なん、で……」
……なんで、『そこ』にいるんだ。
最終更新:2011年09月23日 21:48