――チリン、チリン、と。何度も小さく鈴の音がする。
なに? どうして? どこから?

唯「あずにゃんってば!!」

梓「あ……」

気がつくと、唯先輩に身体を揺さぶられていた。
私の二の腕を掴み、必死な形相の唯先輩。そして、その背中越しに店の隅に見える……『影』。
ああ、また嗤っている。口なんてないのに、きっと嗤っている。寂しがる私を見て、笑っているんだ。

唯「あずにゃん、大丈夫!?」

梓「……はい、一応…」

唯「一応って…どうしたの? 気分悪い? 戻ろうか?」

梓「大丈夫…大丈夫ですから」

唯「……本当に…?」

梓「……本当です…」

勿論嘘だ。あの『影』の存在そのものが、私の心にも不安という名の影を落とす。
眼前で真剣に私を心配してくれるこの先輩が私の前からいなくなる、遠くへ行ってしまう、そんな真っ暗な未来の影を。
だから本当なら強がらず、どこにも行かないで、離れないで、とか言うべきなんだろう。正直に、素直に。でも私に言えるはずもなく。

……ふと、これは今の状況だけでなく、この先の未来においても当て嵌まるなぁ、とか思いつつ。でもやっぱり私に言えるはずもなく。
そもそも年齢差がある時点で、それはどうしようもないことで。言っても唯先輩を困らせるだけで。

だからせめて、せめて『見知らぬ誰か』が唯先輩を奪ってしまわないようにと、私は今も未来も心の中だけで願うのだろう。祈りを言葉にするようなことはしないのだろう。

唯「……出よっか?」

梓「……はい……」

店を出る途中、そっと首元の鈴に触れる。
……大丈夫、私は、私達はまだここに在る。

――しかし、私はそれからも何度か『影』を見る羽目になった。

梓(――っ……)

バスでの移動中に外に居たり、

梓(……なんで……)

軽食屋での食事中に遠くの席からこちらを眺めていたり、

梓(なんで……!!)

人の多い通りで人混みの中から縫うようにこちらを眺めていたり。

梓「………」

唯「あずにゃん…?」

やはり精神的に参っていたのだろう。無意識に唯先輩の服の袖を摘んでしまったりもした。

梓「何でもないです……気にしないでください」

唯「う、うん……」

唯先輩が怪訝な顔を見せる。申し訳ないとは思いつつも、どうにも出来なくて。無力な自分が恨めしくて、情けなくて。

梓(……っ……また居る……)

……私の気持ちがブルーになった時に、決まって『影』は現れた。私を嗤いに現れているという説が信憑性を帯びてきてしまった。
そうだとしたら凄く嫌らしいけど、だからといって何も出来ることはないし、怯えて目を逸らすわけにもいかなくて。ただ目を細め、睨みながら、足早にその場を離れることしか出来なかった。


――何度も見るうち、いくつか気づいたことがある。
まず『影』は小さな姿をしている。それこそ私と同じくらいの身長を。
そしておそらく他の人には見えていない。あんな異様な存在なのに、誰も気づかないから。
ただ、唯先輩にはどうかわからない。いつも決まって唯先輩を挟んで反対側に現れるから。私も深夜の一件があるから、絶対に唯先輩にそちらを向かせないようにしていたから。
もし唯先輩にも見えていたら、見てしまったら……深夜と同じように、『そちら』へ『いこう』とするかもしれないから。

一応今のところ直接的な危害を加えには来ないけど、それでもまだ何も終わってはいなかった。
それだけで私は、心の底から今日と言う日を楽しむことが出来なくて。だから……

唯「……ごめんね、あずにゃん」

……帰りのバスの中、唯先輩にこんな顔をさせてしまうんだ。


梓「――何が、ですか?」

わかっている。答えなんてわかりきってる。

唯「……つまらなかった、よね、今日…」

梓「…違います。ちょっと、考え事があって……気もそぞろだった私が悪いんです。唯先輩は…何も悪くありません」

そう、何も、何一つ悪くなんてない。そこだけは、ちゃんと伝えないといけない。
たとえ伝えたところで唯先輩の表情が晴れないとしても。

唯「……考え事、って?」

梓「それは……その…」

唯「…あずにゃん、昨日…じゃないや、今朝? 深夜から…何かおかしいな、とは思ってたんだけど」

……さすがに、二人きりと言うこの状況。能天気なこの先輩でも感じ取ってしまうようで。
それでも、今までは口に出して問いはしなかった。今日を楽しませることで、私の中の不安を払拭してくれようとしたんだろう、きっと。
でも、それが叶わなかったから……こうして私に頭を下げているんだ。唯先輩は何も悪くなんてないのに。

唯「相談は…してくれない、よね?」

梓「……ごめんなさい」

私を何よりも悩ませているのは、唯先輩を連れて行こうとした『影』。細かく言えばそれだけじゃないような気もするけど当面の問題は間違いなくこれだ。だから唯先輩に相談は出来ない。
解決する術もないのに、当人に「貴女は取り憑かれてる」なんて誰が言えようか。
一緒に解決策を考えれる利点はあるように思えるけど、どう考えても本人に『死の恐怖』を実感させるデメリットのほうが大きい。唯先輩を怯えさせることなんて、私に出来るはずがない。
まぁこんな突飛な話、そもそも信じてくれない可能性もあるけれど。それならそれでやっぱり相談する意味もない、ということ。

……でも、そんな事情、言わずに察してくれというほうが無理な話であって。

唯「…ごめんね、頼りない先輩で」

梓「っ!? それは違います! これは、その……私が解決しないといけないことで、決して唯先輩が頼りないってわけじゃ……」

唯「……うん。そういうことなら…がんばってね。応援してるから」

そう言い、窓際に座る唯先輩は顔を外に向けてしまった。
言葉は、この時の言葉だけは、私の言うことをちゃんと受け止めてくれたようだったけど。


 「……誰だって、面と向かってならそう言うよね」


消え入りそうなその呟きも、私の耳には届いていた。

……唯先輩の胸元の、夕陽を反射する月が眩しい。



――どんな時でも感情を素直に表す唯先輩だ、その言葉が私に向けられたものであるならば、場所も状況も関係なく、正面から私にぶつけてくるだろう。
だから、本当にそれは私に向けたものではなくて。私に聞かせようとしたわけじゃなくて。ただ単に、胸の奥から溢れ出て、口から零さずにはいられなかっただけのもので。
でもそれはやっぱり唯先輩の中で確実に芽生えた、私への『不信感』であって。

そう実感すると、本当に泣いてしまいたくなるほど胸が締め付けられるけれど。
でも、それは私に向けられた言葉じゃない。私に言おうとしたわけじゃない。だから私は、聞かなかったフリをしなくてはいけない。



唯「――ふぃー、ただいまーっと」

梓「旅館にただいまっていうのも何か変ですけどね」

唯「気にしない気にしない。しかし今日も疲れたねぇ。どうするあずにゃん、お風呂入る? それともお腹空いた?」

梓「…先にお風呂がいいですね。唯先輩は食べたらすぐ寝ちゃいそうですし」

唯「むー……確かに昨日はそのまま寝そうだったから否定できない…」

梓「あはは……」

……ダメだ、空気が硬い。
理由はわかっている。悪いのは私だ。唯先輩はいつも通り。少なくともいつも通りに振舞おうとしている。
だから、私がその『いつも通りに振舞おうとする唯先輩』に怯えているのがいけないんだ。いつも通りに振舞おうとする『いつも通りじゃない』唯先輩に。


内心で不信感を抱えていながら、いつも通りに振舞える、振舞おうとする唯先輩が怖くて。
唯先輩が心の中で何を考えているのか、想像するのが怖くて。その笑顔の裏で、私をどう思っているのか想像するのが怖くて。
結局は唯先輩も仮面をつけて踊れる人だったという事実が怖くて。

もっとも、全て唯先輩にとっては初めての経験なのかもしれないけれど――
そうだとしたら、そうさせた私の罪は、計り知れないほど重いものになるけれど――

結局、私は『嫌われているかもしれない相手』に、普通通りに振舞うことは出来なかった。


――悪いのは私。全部私。だから、せめてどうにか取り返そうと頑張ってみたりもするけれど。
そういう頑張りは空回りするのが世の常で。余計にぎこちない空気になってしまって。
お風呂まで終えた頃にはもう、唯先輩の口数も少なくなっていた。

今晩は浴衣ではなく、持ってきたパジャマを着て。唯先輩もそれとなく合わせてくれたのかパジャマで。
でもやっぱり会話は少なく、唯先輩の表情もどことなく曇っていて。

……唯先輩は、私と居るのが嫌になってしまったのかもしれない。とうとう愛想を尽かされたのかもしれない。
そんなことないと言い切りたいけど、言い切れないほど今日は散々で。
今までずっと、唯先輩は私を心の底から嫌っていた……とまではさすがに言わないけれど。それでも、今までの日々で私に対して抱いていた小さな不満がふつふつと蘇ってきている状態なのかもしれない。

……思い当たる節は、腐るほどある。それほどには私は素直じゃなくて、生意気で、面倒な性格だ。
説教なんて何度したかわからない。音楽用語等の基礎をほとんど知らない暢気なあの人を見下していた感は否めない。頑張れば出来る人なのに、ちゃんとやればかっこいいのに、と。
もしかしたら、なまじ最初の印象が良すぎたからこその失望から来ていたのかもしれないけれど。勝手に私の理想を押し付けていただけなのかもしれないけれど。
ともかく私は嫌われていないのが不思議なくらいで、いつ、どんな拍子で嫌われてもおかしくなくて。
唯先輩にとって、きっと今回がその『拍子』だったのだろう、という話で。

でも、それでも私は、唯先輩を守りたいと思う。
唯先輩が私をどう思っていようと…私はまだ、唯先輩の事は嫌いではないから。




唯「――寝よっか」

梓「……はい」

唯「………」

梓「………」

互いに一言も発さず布団を敷き、横になる。もちろんそんな空気を良しとしたわけじゃないんだけど、だからといって出来る事も何もなくて。
本当なら……何も恐れず、疑わず、素直になれたなら、きっと「一緒に寝ていいですか」とか、それくらいのことは言えたのかもしれないけれど。
でも、唯先輩に拒絶されることを恐れ、唯先輩が私を拒むかもしれないと疑い、そんな気持ちを抱いた上で素直になんかなれるはずもなく。


私がモヤモヤしていると、唯先輩は早々に寝返りを打って背中を向けてしまった。
……こういう時でも、私は先輩の背中を見ることしか出来ないのか。先輩とは常に先に居るもので、背中しか見せてくれないもので、私はそれを追うしかできないのか。

そう余計にモヤモヤと考えてしまっていると、しばらくしてから規則正しい小さな吐息が聞こえてきた。
でも、それに安堵なんて出来ない。安堵して寝てしまうわけにはいかない。寝ている間に唯先輩がいなくなってしまうのが何よりも怖いから。
私は徹夜も辞さない覚悟だった。少なくとも今この状況においては唯先輩を守れるのは自分しかいないんだから当然といえば当然なんだけど。



――何度か落ちかけて、でもどうにか耐え、ついに丑三つ時がやってきて。
24時間前の出来事を思い出し、また少し不安になり。携帯電話につけていた銀の鈴を、左手首に結びつける。
……別に首元でもよかったけど、左手首の方が私も見ることが出来るから都合が良かった。唯先輩を感じられるその鈴が目に見える所に在って欲しかった。それほどには不安を感じていた。


――そして、その不安は、予想通りにカタチを成す。


隣で身体を起こす気配と、部屋の入り口の方に『何か居る』気配。
昨日から唯先輩を窓際に、すなわち私よりも入り口から遠くに寝かせておいたのが偶然とはいえ功を奏した。見たくもない入り口の方の気配に背を向け、起き上がった唯先輩に問いかける。

梓「……トイレですか? 唯先輩」

唯「………」

梓「違いますよね。どこに行くんですか?」

唯「………」

梓「……行かせませんよ、どこにも」

対策なんて何も無い。行き当たりばったりにすぎない。それでも行かせるわけにはいかない。それだけは確かだから。
自分の中の覚悟に向き合って、決意を新たに立ち上がり、両手を広げて唯先輩の道を塞ぐ。

……左手首の鈴が音を立てるも、今度は唯先輩はそれに見向きもしない。


唯「――あずにゃんさぁ」

梓「……え?」

少し、予想外の一言。
昨日は私に対して見向きもしなかった唯先輩が、私を見て、私に向かって、その聞き慣れたあだ名で呼ぶ。
それが何を意味するのか。いろいろ考えようとして、それでもハッキリとした結論は浮かばなくて。
でも、だからといって私の決意は揺らがない。唯先輩を助ける、その決意だけは。

――事実、揺らぎはしなかったはずだけれど。


唯「あずにゃんはさぁ、なんで『いつもいつも』私の邪魔ばかりするの?」


その一言は、実に的確に、私の心を砕いた。


梓「……ゆい……せんぱい?」

唯「いつもだよ、いつも。偉そうにさぁ……」

梓「あ、あの………」

唯「活動初日から生意気だったよねぇ……説教してくれちゃってさ」

梓「っ……あれは、あの時は――」

唯「私よりギター暦が長いから偉いの?」

梓「え…っ?」

唯「私より真面目だから偉いの?」

梓「あ、あの……」

唯「そりゃそんなあずにゃんの言う事は正しいかもしれないけど……気に入らないんだよね」

梓「っ――!」

違う。こんなの唯先輩じゃない。ただ取り憑かれてるだけ。
そう思おうとするけれど。

唯「毎日毎日グチグチうるさいんだよね。コード間違ったとか、ソロの入りが遅れたとか。そりゃ私が悪いんだけど、もうちょっと言葉を選んで欲しいんだよねー」

唯先輩の言葉は、私の抱えていた『日頃嫌な思いをさせているのではないか』という不安そのままで。実に的確にそのままで。
それはすなわち『私達しか知らないこと』を口にして私の心を抉るわけで。
仮にこの言葉が唯先輩の意思じゃなかったとしても、取り憑かれているだけだとしても、唯先輩の記憶と心の中にある思いには違いないわけで。
唯先輩という人を形作るモノが生み出した、私に対する不満であって。

唯「同年代の澪ちゃん達に言われたならまだ納得できるんだけどね……実際、それまでは四人でうまく成り立ってたわけだし…」

つまり。

唯「でも去年から入った後輩があまりにも口うるさくて生意気で面倒臭い子でねー」

私は、やっぱりどこか、嫌に思われている面があったということで。
何よりも恐れていたその事実が、誰よりも言われたくない人の口から明るみに出た時に、私は。


唯「……あなたなんか、入部してこなければよかったのに」


私は、立っていることなど、出来るはずがなくて。


梓「――ごめ、っ、ごめん…なさい…っ」

――唯先輩を助ける。連れて行かせない。尊く気高かったはずのその決意は、今やまったく真逆のモノに変わっていて。


「偉そうにしてごめんなさい」
                        「生意気でごめんなさい」
「融通利かなくてごめんなさい」
                        「口煩くてごめんなさい」
「分を弁えなくてごめんなさい」
                        「面倒臭くてごめんなさい」
「ギターやっててごめんなさい」
                        「皆の仲を歪めてごめんなさい」


           「軽音部に入部してごめんなさい」




梓「だから…ひぐっ、だから……謝りますから……償いますからっ………だから…行かないで…!」

即ち、唯先輩に置いて行かれたくない、見捨てないで欲しい、そんな惨めで無様な懇願へと変容していて。
――でも、本質は大差ないのかもしれない。ずっとずっと、心の底から願っていたこと。結局は私が唯先輩と一緒に居たいがための我が侭。

梓「なんでも…っ、何でもしますからっ…! お願い…!!」


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最終更新:2011年09月23日 21:50