くずおれたまま、ぐちゃぐちゃの顔で、唯先輩のパジャマにしがみついて。
願いが聞き入れられず駄々をこねる子供のように、恥も外聞も無く泣き喚き。

――そう、ただの我が侭だから、今の私はこんなにも醜いんだ。



唯「――本当に、何でもする?」

梓「っ!? な、何でもします! 本当です!!」

唯先輩の声に、ただ縋りつく。
救いを与えてくれる、その声に。救済の言葉に。

唯「じゃあ――」

続く言葉は、天使の誘いか……

唯「――壊しちゃってよ。『あずにゃん』を、さ」

それとも、悪魔の囁きか。


梓「……どういう、こと…ですか?」

唯「…ギター弾けなくなればいいんだよ。ギター弾けるから私にも偉そうなんだし、軽音部にも入部したんでしょ?」

梓「っ……!」

唯「あー、それについての反論とかはもういいからね」

梓「……どうすれば、いいんですか…? ギターを捨てるとか…?」

唯「そんなことしても買い直せば一緒だよ。もっと根本的なところから……壊さないと」

梓「根本的なところ――?」

答えが見えない私に、唯先輩は手を突きつけてくる。左手を開き、私の眼前に。
一瞬驚いて身構えたけど、特に何をしてくるでもなくて。
……でも、それの意味するところに気づいた時には、血の気が引いていった。

唯「あずにゃん右利きだもんね。左でいいよ。左がいいよね?」

膝立ちでしがみついていた私は、いつしか床にへたり込んでいて。唯先輩のパジャマを掴んでいた腕は、力なく垂れていて。

唯「……出来るかな? あずにゃん」

……その時の唯先輩の顔を、私は『認識できなかった』。
見れなかったわけではない。私は確かに唯先輩の顔を見上げた。ただ、そこに浮かぶ表情を、認めたくなかった。
唯先輩に最も似合わない表情を、最もして欲しくない表情を、見たくなかった。認めたくなかった。必死に心が目を逸らした。

――でも、そんな表情をさせたのも私。そして、唯先輩はそれを償うチャンスをくれている。
だったら……

梓「……本当に、一緒にいてくれますか? 左手の使えない、ギターの弾けない、軽音部にいる意味も無い後輩でも、ずっと、ずっと仲良くしてくれますか…?」

唯「勿論だよ。あずにゃんを『壊した』責任は取るし、軽音部を辞めろとも言わないよ。ずっと仲良く、大事にしてあげる」

暖かい微笑みと、優しい言葉。盲目的に縋りたくなる、全てを委ねたくなる、そんな雰囲気を醸し出している唯先輩。この人からの寵愛を受けるためなら、左手くらい安いものだ。素直にそう思える。
壊すとか大事にしてあげるとか、まるで私をモノのように扱う言い方だけど、それでいいとさえ思える。

そう、私の意志なんてものがあるから嫌われるんだ。意思持たぬ、ただの『モノ』になれれば、この人を傷つけることもない。

……一体いつから、そしていつの間に、私の中でこの人の存在はここまで大きくなっていたのだろう?
この人の言葉に、感情に、一挙手一投足に一喜一憂するようになってしまったのだろう。
この人に嫌われることをここまで恐れてしまうようになったのだろう?

……その問いに、答えは出せなかった。この感情の名前も含めて、明確にすることは出来なかった。
けれど、私は間違いなくそういう感情を抱いている。とても大きい、私の中のほとんどを占める想いを。

梓「……唯先輩……最後に一つ、いいですか?」

最後に。そう、最後に、だ。
この感情は、捨てなければいけない。意思も感情も、心も、全てを捨てて、私は唯先輩に償わないといけないから。
そうすれば……大切にしてくれると、そう言ったから。言ってくれたから。

梓「あなたは……いつも不真面目でいい加減でマイペースで、まぁ、酷い言い方をすれば自分勝手な人でした」

最後なんだ、言いたいことは全部吐き出してしまおう。

梓「到底尊敬なんか出来る人じゃなくて。むしろ私は…その、ギターの人に憧れて軽音部に入った分、ショックもかなり大きくて。本当に……本当に、貴女を見てガッカリしました」

全部吐き出して、左手を差し出して、今までのイヤな自分に別れを告げて、壊してもらおう。

梓「……でも、あなたは、私のそんな気持ちも知らず、いつも明るくて……他のみんなも、それにつられて笑ってて…」

……全部、全部吐き出して。

梓「……私、すごく緊張してたんですよ? 新歓ライブのあったその日の放課後に一人で入部して、次の日からいきなり空気に馴染めなくて先輩たちに迷惑かけて……憧れて入ったはずの部活で、早々にあんなことをやらかして…」

嘘偽りのない気持ちを。ここで。

梓「本当に、本当に悩んだんですよ? …それでも先輩達は、特にあなたは何も変わらず笑ってて……がっかりしたような、ホッとしたような、そんな気持ちだったんですけど……あはは、まぁ、今となっては…そんなこと言っても虚しいだけですけど…」

唯「………」

梓「……唯先輩の本当の姿を知ったりして、徐々に私も素の自分が出てきたりしてましたけど……そんな私でも、みなさん変わらず受け入れてくれて……あなたはむしろ、以前より可愛がってくれて……本当に、っ、嬉しかった…!」

ダメだ、泣いちゃダメだ。唯先輩に嫌な思いをさせ続けてきた私が泣いていいわけがない。
でも、その感情は止められそうもなくて。ダメだと思うほどに溢れてきて。だから私は結論を急いだ。

梓「っ…今まで…毎日、楽しかったです……あなたと過ごす時間が、大好きでした……」

左手を持ち上げ、差し出して……手首の鈴が小さな音を立てる。

梓「あ…っ……」

……これを貰った時も、本当はもっと言葉に出したいくらい嬉しかった。そうしておけばよかった。
でも、今となっては……唯先輩からプレゼントをされる権利も、それを身につけている権利も、私なんかには無くて。

鈴を縛り付けているリボンに手を伸ばす。ただの蝶々結びだ、指で摘んで引っ張ればそれで終わり。
終わり…なのに、それだけの動きが私には出来なくて。震える指で震えるリボンの先を摘んだところで動きが止まってしまって。

きっと、今の状況をこの鈴に重ねて見てしまっているせい。
この鈴が、私と唯先輩の『今までの日常』の象徴だから。私が好きでたまらなかった毎日の象徴だから。
唯先輩がくれた大切なもの、全ての象徴だから……手放したくなくて。

別れを告げないといけないと、心の中ではわかっているのに……覚悟を決めたはずなのに……
こうもわかりやすい形で目の前に突きつけられてしまうと、私は動けなくて。

梓「っ、っく、ぐすっ……うぅっ……」

イヤだ。やっぱり嫌だ。
私が悪いと、私のせいだとわかってはいるけれど。償わないといけないとわかっているけれど。

梓「やだよぉ…っ……わたしは、ゆい、せんぱいと……いつも、一緒に、笑っていたいよぉ…!!」

わかってる。
わかってるんだ。
それは、自分勝手で最低な、私の我が侭だって。

今の私達の問題だけじゃない。一年の歳の差がある限り、唯先輩が常に一歩前を行く限り、絶対に叶わない我が侭。
私と唯先輩の事情にも、二人を取り巻く世界にも背く我が侭。
絶対に肯定されない、口にしてはいけない我が侭。

そんなものを口にしてしまった自分に、ほとほと嫌気が差して。
皮肉にも、それが私の決意を後押しするカタチになって。
私は、迷う暇すら与えぬように、リボンを摘んだ指を引き――

梓「……え?」

唯「………」

蝶々結びが解ける直前で、唯先輩に止められた。

梓「ゆい……せんぱい?」

その表情は見えない。腕だけをこちらに伸ばして俯いているその顔は。
しかし、一向に動く気配は無く。かといって動かそうにも凄い力で動かせず。

……混乱していると、背後から笑い声が聞こえた気がした。

梓「ッ!?」

背後には……すっかり忘れていたけど、あの『影』がいて。
急に声がしたから驚きはしたけれど、でも、今は不思議と恐怖は無くて。きっとその聞こえた笑い声が楽しそうだったからだと思うけど、本当に怖くなくて。

梓「あなたは……誰なの?」

思わず尋ねてみると、『影』は確かに、今までとは違うように『微笑んだ』んだ。


『――たまには素直になってみるものでしょ?』


『影』は背を向けて、闇へと溶けていった。
その姿は、どこかで見たような姿形、そして見覚えのある特徴的な髪型をしていたような気がするけれど――

梓「――わわっ、唯先輩!?」

急に全身の力が抜けたかのようにもたれかかってくる唯先輩に気を取られ、そこまで考える余裕は無かった。

梓「唯先輩!? 大丈夫ですか!?」

唯「………」

梓「唯先輩!!!」

唯「……すぅ……むにゃ…」

梓「………」

……寝てるだけ? 今度こそ……終わったの?
前回とは違う終息の仕方に、どことなく、今度こそもう安全なのではないかという思いが浮かんできた。
それに……最後の『影』からも悪意は感じなかったから。きっと、もう大丈夫だよね。

梓「……とりあえず、布団まで運ぼう…。少しガマンしてくださいね?」

抱き抱える……のは流石に無理っぽいので、上半身を持ち上げ、引きずるように運ぶ。
運び終えた後、胸元の鈍く光るネックレスを見て、少し胸が痛んだ。


……そうだ。取り憑き事件が解決したとしても、私と唯先輩の問題は……きっと解決していない。




――結果的に間違っていたとはいえ『解決した』と思い込んで眠った昨日と違い、今日は胸の内は半分も晴れておらず。
故に夜更かししたにも拘らず唯先輩より早く目が覚める羽目になった。

梓「……憂鬱だなぁ……」

上半身だけを起こし、俯いて呟く。
憂鬱、という漢字を思い浮かべ、一人の親友の姿が思い浮かぶけど……彼女とも今まで通りに接することができる自信は無い。
彼女の笑顔も、偽りだったのではないかと…無理していたのではないかと、そう思ってしまう。勿論悪いのは私なんだけれど。

私は……どこに行けばいいのだろう。どこに居ればいいのだろう。

憂や純と一緒に居られる自信は無い。二人を親友だとは思ってるけれど、二人から親友だと思われてると断言はできない。
軽音部にも居られる自信は無い。あの嘘をつけない先輩達から嫌われてるとまでは言わないけど、私が居ることが好意的に思われてるだなんて思い上がる事は絶対に出来ない。

みんなみんな、優しいから表に出さないだけで、私の事をどこか疎ましく思っているとしてもおかしくはない。
優しさに包まれ、甘やかされた私は、その人達に優しさを返すことなんてしてこなかったから。

梓「っ………」

涙が溢れそうになる。
何故私は甘えっぱなしだったのだろう。我を通すことしか頭に無かったのだろう。それでいいと勘違いしていたんだろう。

後悔は先に立たないから後悔なのであって、結局は自業自得であるということなのだろうけれど。

それでも、その温もりは、優しさは……捨てたくないし、諦めたくないものであって。
でも、それは私が口にしていいことじゃなくて。

だから、私は、内から溢れ出てくる涙を、抑えようとするしかなくて。
抑えようと、無駄な努力をするしかなくて。

梓「っ、ひぐっ……」

……所詮は、無駄な努力で。
決壊して溢れ出てきた水を、一人で抑える術を私は知らなくて――



唯「――よしよし」


――そういう時、一人でなければ……誰かがいてくれれば、どんなに救われるか。




梓「っ、ゆ、唯先輩!?」

背中で感じる温もり。振り向かずともわかる、私が今一番、顔を見たくない人。見るのが怖い人。
でもいくら怖くても、後ろから回された左手も、頭を撫でる右手も、振り払うことは出来なくて。

唯「あずにゃん、怖い夢でも見た?」

梓「………」

唯「……まだ、悩んでる?」

梓「っ……なんでも…ないです…!」

唯「…そっか」

精一杯の強がり。通じているとさえ思えないけど……もう、優しさに甘えちゃいけない。
せめて、せめてこれ以上嫌われないようにしないといけない。

唯「……昨日も今日も、あずにゃんは私には何も言ってくれないから、何のことかはわからないけど…」

そりゃそうだ。相談できるわけがない。言えるわけがない。
……嫌われていると知ってしまった今なら尚更。距離感というものを、適切な距離というものを考えないといけない。

なのに、唯先輩は、

唯「……でもね、私はいつだってあずにゃんの味方だから。何も手助けしてあげられないけど、無力で頼りない先輩だけど、悩んでるならずっとそばにいてあげるから」

そう言って、左手でギュッと、強く私を抱き寄せて。
距離を開けることを、距離を取ることを許さないように。

唯「それさえも邪魔だって言うなら…仕方ないけど」


――どうして。


梓「………」

後ろから抱きしめてくる唯先輩は、いつもと何も変わらず温かくて。
あの時……私が暴れてしまった日に私を後ろから包んでくれた温かさと、何も変わらなくて。
とても……とても、落ち着いて。


――どうして、あなたはいつも何も変わらず、あたたかいんですか。


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最終更新:2011年09月23日 21:52