――その時は、唐突にやってきたのです。
ドクン…
紬(…………?)
唯「ムギちゃんどうしたの?」
紬「え? いえ、なんでもないわ」
紬(何かしら……今の感覚)
私の身体は、どんなに激しく運動しても、どんなにむちゃくちゃな生活をしても、
生命維持装置のおかげで健康そのものでした。
そんな私が今日、私の人生の中でどの位置にあるのかさえ分からない今日この日に、
初めて、身体の内部に違和感を感じたのです。
でも、最初は気のせいだと思いました。
私はいつもどおり、もう何千万回と繰り返した、何も変わることのない放課後のティータイムを
飽きることなく、精一杯楽しく過ごしている最中でした。
梓「あの~……」
梓ちゃんがおずおずとした口調で私に話しかけてきました。
その可愛らしい子猫みたいな仕草が、とても愛おしく感じられます。
紬「なぁに?梓ちゃん」
私と梓ちゃんから離れたところで、なにやらりっちゃん、澪ちゃん、唯ちゃんが楽しくおしゃべりしています。
梓「わ、私も曲を作ってみたんです!それで、ムギ先輩にちょっとアドバイスして欲しくて……」
上目づかいぎみに、頬を赤らめながら、梓ちゃんは五線譜の入った紙をそっと渡しました。
梓「この辺のコード進行が、ちょっとよく分からなくて……」
紬「………」
私はパラパラと紙をめくっていきました。
紬「梓ちゃん、すごいじゃない!これ、とても面白そう!」
梓「そ、そうですか?」
梓ちゃんはとても嬉しそうに、譜面を眺める私の表情を眺めていました。
紬「確かに、今までずっと私だけ曲を作ってきたんだものね。今度から梓ちゃんの作った曲を練習してみましょう」
梓「え!?い、いいんですか、私なんかで……」
紬「流石に何万曲も書いていると、私もそろそろ限界なのよね。これからの時代は梓ちゃんよ!」
私は、梓ちゃんに負けないくらいの、満面の笑みで言いました。
梓「でも、正直に言って自信がないです……」
急に意気消沈する梓ちゃん。
自信がないと言っても、学園祭もなければ演奏して聞かせる聴衆もいないこの世界で、
何を自信をなくすことがあるのでしょう。
まあ、それを言ってしまうと、なんのために練習してるんだという話になってしまいますが……
紬「大丈夫よ、梓ちゃん!私はとっても好きよ、この曲!」
私は精一杯励まします。
すると梓ちゃんは再び、満面の笑みで答えてくれました。
梓「はい!」
なんでもない、普段の放課後は、こうやって過ぎてゆきます。
未来永劫、変わることはない…………そう思っていました。
しかし私の身体のなかでは、何かがすでに動き始めていたのです。
◆◇◆◇
私は今日、ひさしぶりにラボの様子を見にやってきました。
ラボの中は相変わらずとても綺麗で、雑然としていました。
というのも、私が作ったロボットたちが、綺麗にほこりを取り除き、清潔な空間を保っていたからです。
でも私が研究に使用した本やコンピュータ、床に散らばった実験器具などは、わりとそのまま残っていたりします。
清潔なんだか散らかってるんだかよく分からない不思議なラボへと、私は1年に1回とか、10年に1回くらいの
頻度で訪れるのです。
私はともかく、唯ちゃんたちのボディの調子を見るためには、このラボのコンピュータを使う必要がありました。
彼女たちも人造の人間とは言え、そのまま放っておいて永久に動くわけではありません。
私がこちらで定期的に身体チェックや健康チェックをして、場合によっては経年劣化したボディや脳を
修理したり、交換したりすることで、彼女たちは何百年もの間、私と一緒にいることが出来るのです。
それから私は、彼女たちがほとんど人間に近い状態まで成長しきったときに、彼女たちの思考回路や、
その他の脳の状態システムを、外部のコンピュータにバックアップを取ったのです。
これで、万が一彼女たちが壊れてしまった時に、このバックアップさえあれば瞬時に復活することが出来ます。
紬「ん~……っと、次の更新日は……100年後、かぁ」
私はカタカタとコンピュータをいじりながら、彼女たちに異常がないかどうか丹念にチェックしていきます。
昔は直接身体をバラさないと検査ができませんでしたが、今では無線でほとんど事足りるのです。
ただし、やはり細かい箇所の検査は直接内部を見てみないと分からないので、次の更新日である100年後に
みんな一斉にこのラボへ連れてきて、一ヶ月ほどかけて解体と部品の交換をしなければいけません。
それでも少しずつ私の腕も上がったのでしょう。
彼女たちの素材を研究していくうちに、経年劣化や不具合の割合もどんどん改善されていきました。
次はもしかしたら千年くらいもつのではないかと考えています。
紬「…………ふあ~あ……」
モニタの青白い光りをじっと見ていたせいか、私は目をしばたかせて大きなあくびをしました。
久しぶりに集中したせいでしょうか、なんだかとても疲れます。
軽く身体を伸ばしたあと、ラボの外へ出ました。
空はもう夜でした。
溢れるような星の海が、私の遠いところで輝いています。
雲ひとつない綺麗な星空でした。
「先輩」
うっとりと空をあおぐ私の横で、声がしました。
紬「梓ちゃん……」
梓「どうしたんですか?なんだかボーっとしてましたけど」
紬「うん……空が綺麗だなって」
私にならって、梓ちゃんも空を見上げます。
言葉はありませんでした。
しばらくのあいだ、私たちはそうやって夜空の星を眺めていました。
梓「……私は」
梓ちゃんがぽつりと呟きます。
梓「私は、この星空の美しさを知っているんでしょうか……」
紬「?」
私はふと梓ちゃんの見上げた顔の、その横顔を見ました。
彼女は目を細めて、懸命に見えないものを見ようとしているようでした。
梓「私はムギ先輩に造られました。仕組みは分からないけれど、不安はありません。
ムギ先輩にとって私たちが何なのか、何だったのか……その意味も知っているつもりです」
滔々と語られるその言葉を、私は黙って聞いていました。
梓「でもひとつだけ、私の中にどうしても拭いきれない何かがあるんです。
そのことを考えると、ざわざわして、落ち着かなくなるんです……」
私は梓ちゃんの言いたいことを、なんとなく察しました。
そしてその予感は、はっきりと彼女の口から発せられました。
梓「……私に『心』はあるんでしょうか?」
私は驚くべきでした。
自分の心について疑問をもつことは、私の想定していた思考アルゴリズムでは有り得ないことだったからです。
でも、なぜか梓ちゃんの思いつめたような横顔を見ていると、驚くようなことは何もないと感じるのです。
梓「私がこの星空を綺麗だと思うことが……それが本当の私の心なのかどうか、信じることができません。
でも確かに感じるんです。気付いたときにはすでにそう思っていたんです。でも…………」
梓ちゃんのぱっちりとした目が、私の瞳に映ります。
梓「私に心はないはずなんです。私は、造られた存在だから…………」
梓ちゃんは気付いてしまったのです。梓ちゃんの心が、自我が目覚めつつあることに……
自分の存在に疑いを持つことが、すでに彼女に心があることの証明なのでした。
紬「…………」
私は驚くより前に、なんと答えていいか困ってしまいました。
彼女を目覚めさせてしまうことが、果たして良いことなのでしょうか……?
梓ちゃんが自我に目覚めたとき、どういう結果をもたらすのか、私には分かりませんでした。
彼女が自分自身を自覚したとき、もしかしたら私の知っている梓ちゃんでは
なくなってしまうのではないかという不安――。
魂を宿した新しい彼女が、私から離れて行ってしまうのではないかという恐怖――。
梓ちゃんが本当の意味で心をもったのなら、これほど喜ばしいことはないはずでした。
紬「梓ちゃんに心があるかどうか……それは梓ちゃんにしか分からない」
私は、梓ちゃんの問いにも、私自身の気持ちにも、正しい答えをだすことができません。
だからこうやってごまかすしかないのです。
――私は続けて、こう言いました。
紬「梓ちゃんの言葉、梓ちゃんの行動、梓ちゃんの気持ち……その全ては、確かに私が造ったもの。
今ここにいる梓ちゃんは、私から生み出された、私の記憶の一部にすぎないのかもしれない……」
梓「……ムギ先輩?」
紬「でもね、梓ちゃん」
そのとき、私の中にはすでに――
紬「梓ちゃんは、梓ちゃんの気持ちを、心を大切にしてほしいの。
私のためでなく、梓ちゃん自身のために……」
私の希望に縛られた、可哀そうな運命の奴隷――。
私が生き続けてきた意味のひとつの答えは、気付かぬあいだに
すぐ目の前に近づいていたのです。
私の口は滑らかに動き、自然と言葉を紡いでゆきます。
紬「私は、怖かっただけなのかもしれない……
軽音部のみんなが気付いてしまうことに……私の中の何かが、変わってしまうことに」
時は無限に広がっていても、そこに『未来』はないということに。
すると突然、それは蘇るように私の内側へ迫ってきたのです。
時が流れ始めたという、確信的なささやきが――
私に残されていた、覚悟にも似た決意が――
紬「……さあ、帰りましょう。みんなが待ってるわ」
梓「え? は、はい……」
道には街灯の明りがつきはじめていました。
先に歩く梓ちゃんの可愛らしい後姿が、次第に霞んで、輪郭をゆがめていきます。
堪え切れずに空を仰ぐと、涙がこぼれ落ちるのが分かりました。
満天の星たちは、光りに溶け込んで見えなくなっていました。
◆◇◆◇
それから一週間も経たないうちに、私の身体は急激に衰えていきました。
今まで元気いっぱいに動きまわっていたのがウソのように、ベッドで寝ている時間が多くなったのです。
どこか具合が悪いというわけではありません。
ただ身体の自由が利かなくなっていくのです。
眠りから覚めても、まだ夢の中にいるような感覚がしばらく続き、起き上がる力もありません。
唯「お~い、ムギちゃ~ん。朝だよ~」ユサユサ
紬「う……ん…………ごめんなさい唯ちゃん、もう少し寝させて……」
澪「ムギ、無理しなくていいんだぞ?」
律「どこか具合が悪いのか?」
最近ではみんなが私のベッドに起こしにくるようになっていました。
それぞれ優しく声をかけてくれて、私はとても嬉しい気持ちになるのです。
紬「いえ、具合が悪いわけではないの……ただ最近、とても眠くて……」
唯「ムギちゃんは頑張り屋さんだから、きっと疲れがたまってるんだよ」
横向きに枕に顔をうずめていた私は、薄く目をあけて唯ちゃんの姿を確認しました。
彼女の明るくて透明な世界が、ベッドにもたれかかって私を覗きこんでいます。
紬「もう少ししたら起きれると思うから、みんな先に部室に行ってて」
律「そうか……何かあったらちゃんと言ってくれよ」
紬「だいじょうぶ……唯ちゃんの言う通り、疲れがたまっているだけなのかもしれないし」
みんなは納得したように部屋をあとにしました。
私は再び、浅い眠りへと意識をしずめていくのでした。
…………夢でしょうか。
暖かな日差しが窓から漏れて、ふわりと盛り上がったベッドにあかるい影を作っています。
その真っ白なベッドにすやすやと眠っている私がいました。
薄暗い、けれども清潔な部屋には、静かな時間だけが漂っています。
私の寝ているベッドのわきに、梓ちゃんが椅子に座っているのが見えました。
少し身をのりだして、私の寝顔へとさびしげな視線を落としています。
まるで空間の一部となってしまったかのように、ピクリとも動きません。
ときどき、静寂にまぎれて私の浅い寝息が聞こえるだけです。
私の意識はふわふわと宙に浮かんで、二人を見下ろしていました。
穏やかな色あいが部屋に満ちています。
そこには、どこか悲劇的な美しさが波打っていて、ぼんやりとした意識のなかに現れては消えてゆくのでした。
不意に手が握られるのを感じました。
梓ちゃんの小さな手のひらが、眠る私の手を包むように握っていました。
暖かくて優しい、安らぐような感覚が、私の心に伝わります。
私は、目を覚まさなければ、と必死に自分に言い聞かせます。
けれど頑張っても頑張っても、私の目が開かれることはありませんでした。
梓ちゃんは私に向かって何かをぽつりと呟きますが、私の耳に届くことはありません。
私は相変わらず密かな寝息を立てて、幸せそうに眠っていました。
そうして、私の意識も少しずつ暗闇に閉ざされてゆき…………
完全な眠りへと落ちて、夢は終わりました。
◆◇◆◇
一ヶ月ほど経つと、私はとうとうベッドから起き上がることすらできなくなってしまいました。
寝ている時間もどんどん増えて、たまに目が覚めても、5時間ほどするとまた眠くなってしまうのです。
そのせいで放課後ティータイムの活動は私が起きているあいだだけになりました。
紬「ごめんなさい、みんな…………私のせいで」
唯「もう、最近ムギちゃん謝りすぎだよぉ。そんな悪く思うことないんだから」
律「そうだぞ~。ムギが元気になってくれるまで看病し続けてやるからな!」
紬「でも……私がいないと練習もできないし……」
澪「ムギがいない分はなんとかやってみるよ。それに、私たちはムギにお世話になりっぱなしだったからな。
こうやってムギのために看病して、恩返ししたいんだ」
梓「…………ムギ先輩は、何も心配しないでください。
私たちにできることなら何でもしますから」
ベッドに横たわったまま、私は言葉にできない感謝の気持ちでいっぱいになるのでした。
唯「それにしても、ムギちゃんは何の病気にかかっちゃったんだろーね?」
澪「身体が動かなくなる病気……ってことなのかな」
紬「…………」
私は真実を告げる勇気がありませんでした。
といっても、話したところで彼女たちが理解するかどうか分かりません。
私自身もほとんど理解できないのですから……。
最終更新:2011年10月02日 01:36