ことんと電車の窓に額をくっつけた。
はあと息を吐くと、息のかかった部分だけ白くなって、もうすぐ冬なのだと
ぼんやり思う。

後ろに過ぎ去っていく夜の街を横目に、私は携帯を開けた。
時刻は午後十一時をまわっている。メールも、着信も、一度も来ていない。
待っているわけじゃないと自分に言い訳するものの、やっぱり私は、
結局来るはずもない連絡を待っているのかもしれない。

「もう一度バンドを組まないか」と澪先輩に言われたのは夏の終わりくらいだった。
ようやく大学生活も落ち着き始めた頃で、どこかのサークルに入ろうかと考えていた
矢先のことだったから少し驚いた。

どうして突然またバンドを組もうなんて言い出したんですか。
電話越しにそう訊ねると、澪先輩は困ったように黙り込んだ後、「本当は」と呟くように言った。

『本当は梓が大学に入ってからすぐ、誘おうと思ってたんだけど』

私は何も答えられなかった。
澪先輩をはじめ、他の軽音部の先輩たち四人ともが、私立の女子大に進学した。
だから私も当然その大学に進学するだろうと誰もが思っていたらしい。
(顧問の山中先生も、友達の憂や純も)

けれど私はそうしなかった。
学力が足りないだとか、そういう理由ではなく、私の気持ちが先輩たちと同じ
大学へ向かわなかった。先輩たちの卒業前、一緒の大学に来てねと唯先輩に約束させられた。
私はその約束を守れなかった。
澪先輩も、(聞いた話によるとムギ先輩も)きっと私があとからやってくるだろうと思っていたらしく、
私が先輩たちのいる大学を受けないと知らせるとひどく驚いていた。

今日、久し振りに会った澪先輩は相変わらず綺麗だった。
ムギ先輩と唯先輩はそれぞれ用事があるからと来れなくて、そのかわりムギ先輩からは
高そうなティーカップを、唯先輩からは手作りのギターキーホルダーを入学祝として贈ってくれた。

一人暮らしをはじめてもう数ヶ月で、この街に来たのもなんだかすごく久し振りな気がしてつい
はしゃいでしまった私を、澪先輩はやっぱり優しい目で見てくれていた。
澪先輩も、たぶんムギ先輩も唯先輩も、変わっていない。
変わったのは――

「ねえ、梓。律のことなんだけど」

澪先輩と、昔よく行ったバーガーショップで話していたときだった。
不意に澪先輩は真剣な表情になって、言った。
思わず目を逸らした私に、澪先輩は「大丈夫」と笑ってくれた。

「卒業前に、なにかあったんだよね」
「……」

何も答えずにいると、「無理に答えなくてもいいんだけど」と困ったように
言い、澪先輩は話し続けた。

「律はなんでもないって言うし。けど梓が私たちと同じ大学に来なかったのは、
 律と何かあったからでしょ?その……卒業前は、随分とよく一緒にいたから」

私は黙ったまま首を振った。
律先輩とのことについて聞かれることにはもう馴れたけど、思い出すのはまだすこし、辛い。

「そっか……」

これ以上何を聞いても答えないということを悟ったのだろう、澪先輩は諦めたように
冷めたコーヒーを口に運んだ。
そして、最近の先輩たちについて話してくれた。

澪先輩は外国語を専攻して、大学を卒業したら留学しようと思っていること。
唯先輩は遅刻を繰り返してはいるものの、持ち前の集中力で留年は免れていること。
ムギ先輩は卒業してからは花嫁修業か何かをしなきゃいけないので今やれるだけのことを
やっておこうと沢山の科目をとっていること。
(目が回りそうな忙しさなのにもう一回バンドを組もうと言い出したのもムギ先輩らしい)

そして律先輩は。
勉強も態度も何もかも相変わらずで、ただドラムだけは熱心に打ち込んでいて。

気まずいはずなのだ、律先輩だって。
けれど、律先輩は私をバンドに誘うことを了承した。
それを聞いて、目指すは武道館なんて笑っていた律先輩のことを思い出して少し
胸が熱くなって、苦しくなった。

「もしかしてあいつ、反対するんじゃないかって思ってたんだけどさ」

律も大人になったんだな。
そうだ。律先輩は大人になって、大人になってしまって――
こんな気持ちを引きずっているのは、もしかして私だけなのかも知れない。
いつまでも忘れられず足掻いて足掻いて、大人にもなれなくて。

「ま、さすがに今日は来ないって断られちゃったけどな」

澪先輩は明るく言うと、立ち上り。
それじゃ、バンドのこと考えといて。
唯も放課後ティータイムの復活、楽しみにしてるからさ。
そう言って、帰って行った。なんだか久々に見る澪先輩は、輝いて見えた。

突然、電車のスピードが遅くなった。
ふと窓の外を見ると、煌々とした明かりの中に見慣れない駅名。

「あっ……!」

慌てて立ち上がる。
どうやらいつのまにか眠ってしまっていたらしい。

夢なのか現実なのか区別がつかないままに、私は開いたドアから電車を駆け下りた。
途端、身を切るような寒さが私の身体を襲った。
襟元を引き寄せ、私はしばらく呆然とその場に立ち尽くす。
中々冷めない私の頭が寒さでようやく溶けて来た頃、私はそっと辺りを見回した。
やはり見慣れない駅で、時計を確認するともう零時近い。

とりあえず戻るための次の電車を確認して、私は震えながら椅子に座った。
電車が来るまであと数分。
先輩たちのことを思い出していたせいか、頭の奥がひどくぼんやりしていて、
いつのまにかまたこくりこくりと眠りそうになったときだった。

たたたっと駅の階段を登る足音。

これはまた夢なのだろうか、と私は思った。
あまりにも、覚えのある音だったから。

目を開けた。
目が合った。

「……あずさ」

今度は、これはまた夢だったらいいのに、と思う。
どうして。
そう言うより先に、「律先輩」

ぽろり、と名前を呼んだ。
律先輩は一瞬だけひどく辛そうな顔をして、それからすぐに、笑ってくれた。

律先輩が何か言った。
それを駅のアナウンスが邪魔した。
薄暗いホームに電車が滑り込んでくる。律先輩は「乗る?」と目で訊ねてきた。
こくりと頷き立ち上がる。

こうして二人で並び、開いたドアから一緒に乗り込むなんて、高校時代に戻ったようだ。
律先輩もそう感じたのか、電車に乗る前の一瞬だけ私の手に触れかけて、やめた。

お互い少し離れた場所に立ち、なんともなしに閉まるドアを見詰める。
しばらく、私たち二人とも何も言わなかった。
ほぼ人のいない車両の中で、誰かの大きな鼾と、電車の走るがたごとという音と、
暖房が車内を温める音だけが聞こえてくる。

最初に口を開いたのは律先輩だった。

「久し振り」
「……はい」
「今日、澪と会う日なんだっけ」

あぁ、自分は行かなくてもちゃんと覚えてたんだ。
そう思うと、尚更律先輩と目を合わせられなくなった。

「大学に入ってさ、何倍も綺麗になったから幼馴染ながら驚いた」

律先輩だって、
そう言い掛けて止めた。
その代わり、私は「先輩は、今日は何してたんですか」と訊ね返した。

「バイト」
「バイト……ですか」
「そ。こっちのほうでバイトしてて」

なんのとは聞かなかったけど、律先輩の格好を見るからに重労働なのだろうと
予測できた。それにこんな時間までやっているのだ、律先輩はつかれきっているようだった。

「それで梓はさ」

なんですか、そう返しておいて、私は自分の諦めの悪さに泣きそうになった。
律先輩は、まるで昔も今も何もなかったように、平気な顔しているのに。
私はというと、どうしていまだにこんな気持ちになってしまうのだろう。

「どうすんの、放課後ティータイム」

澪先輩に考えておいて、と言われてはいたけれど、本当はあまり気乗りしなかった。
音楽はしたい。できれば、あの頃のメンバーで。
けれど、今でさえ、こうなのに。律先輩のいる放課後ティータイムで、以前の様に
笑えるとは思えなかった。

「……わかりません」

ゴーッ
トンネルだ。
律先輩は聞こえていたのか聞こえていなかったのか、トンネルから出ると言った。

「梓、今どこに住んでるんだっけ」

私はわけがわからずに住所を告げると、「じゃあ次の駅だな」と窓の外を振り返った。
真っ暗な外は随分と冷え込んでいるように見えた。

随分遠くに来ていたのかと思っていたが、意外と近い場所だったようだ。
電車のスピードが落ちて、私はなんだかほっとするような寂しいような、
微妙な気持ちを抱えたまま律先輩に形だけの礼をした。

ガタンッ
電車が完全に止まり、ドアが開く。

「それじゃあ私」

けれど律先輩は何も言わなかった。
何も言わずに、私の後を追うようにして電車を降りた。

「……」

だから私も何も言わずに先輩から離れるようにして歩いた。
足音がついてくる。
さらに早く。
向こうも同じ速度で。

「……なんですか?」

足を止めて振り返る。
「梓を送ろうかと思ってさ」
こういうところは、まったく変わってない。

いいですそんなの。
言おうとして、やっぱり私は言えなかった。

律先輩から逃げ出したいはずなのに、もう少し傍にいたくて。
矛盾した気持ちをもてあましたまま、私は「勝手にしてください」とまた足を動かす。
「ん、勝手にする」と声が聞こえた。

だいたい、律先輩はいつも勝手なんだから。
勝手に軽音部を復活させちゃって、勝手に軽音部を盛り上げて、勝手に私を夢中にさせといて
勝手に別れを切り出して――

律先輩は、もう、なんとも思っていないのだろうか。
ふとそんなことを考えた。

私のことはもうなんとも思っていなくて、だから私に変わらず話しかけて、
笑ってくれて、平気なんだろうか。

振り返りたくて、何度もそうしかけたけど、結局私は振り返ることはしなかった。
駅を出ても、寝静まった住宅街を歩いていても、私はずっと後ろに律先輩の存在だけを
感じていた。振り返ったら、そのまま律先輩に抱き着いて、すがり付いてしまいそうで。

やがて、私が借りている古いアパートが見えてきた。
突然、律先輩がいるはずの背後からうめき声が聞こえた。

つい振り返ると、律先輩が大袈裟に胸をおさえ私に左手を差し伸べてきていた。
慌てて「どうしたんですか!?」と駆け寄って、後悔した。
この感じは、いつか見たことがある。
律先輩が新入生を勧誘するためにやったなんとも嘘っぽい演技だ。

「……いい歳して何やってんですか」
「あぁ、あず、あずさ……私に水を、水をくれないか」

冷たい声にも負けず、律先輩が苦しそうに私の手を掴む。
私の声にも負けずに、律先輩の手は冷たかった。

「……家、来ますか」

だから私は、そう言ってしまっていた。
お互い、離れなきゃいけないと決めていたはずなのに、少なくともまだ冷め切らない私は
そうしなきゃいけないのに、触れた冷たい手を握り返して、そう言っていた。

「……行く」

律先輩はきっと、わかっていたのだ、私がこう言うことを。
ひどい。
そうは思っても、面と向かって言えるわけなんてない。

「出かける前、バタバタしてたからすごい汚い部屋ですけど」
「気にしない」
「律先輩の部屋よりはマシでしょうし」

たぶん、昔ならここで「なんだと梓ぁ!」という声とともに、律先輩お得意の
ぐりぐり攻撃がかまされていたはずだ。
けれど、「うっさい」と笑っただけの律先輩。

こういうところで、私は時の流れと関係の変化を、感じてしまった。

鉄の階段を登り、二階の廊下を端まで歩いて部屋の前に到着する。
近所に迷惑をかけないように出来るだけ音をたてずにドアを開けると、私はそっと
振り返った。暗闇に慣れた目が、やけに真剣な律先輩の表情を映し出した。

「……コーヒー、淹れますね」
「ん」

気付かないふりをして、律先輩を中にいれる。
先に居間へ行き、羽織っていた上着を椅子にかけて散らかっていたものを簡単に片付ける。
律先輩があとからのっそり入ってきて、「片付いてるじゃん」ときょろきょろ見回した。

「律先輩の部屋、どれだけ散らかってるんですか」

呆れてそう言いながら、私はふと以前遊びに行った事のある律先輩の部屋を
思い出した。

何をするわけでもなく、ただ二人で一緒の時間を過ごせるのが楽しくて仕方が無かっただけの頃。
私は頭を振ると、台所にまわってお湯を沸かす。
律先輩は近くにあったクッションの上に腰を下ろすと、「私以外に誰か来たことある?」と
訊ねてきた。
粉末のコーヒーをカップにいれながら、「大学の友達が数人」と答える私。
「そ」と律先輩はそれっきり何も言わなくなった。

お湯が沸き、カップに注いで律先輩に手渡す。
律先輩は「おー、あたたまる」と嬉しそうに受取ってくれた。

インスタントのあまり美味しくないコーヒーをちょびちょび飲みながら、私たちは
じっと、黙り込んだ。
律先輩の部屋で過ごしていたあの頃は、こんな沈黙なんて苦でもなんでもなく、
むしろ素敵なものだと思えていたのに今はまったく逆だった。

何か言いたいのに、言葉が出てこない。

そのまま時間だけが過ぎていき、コーヒーを飲み終わった頃、ようやく口を開いたのは
やっぱり律先輩。

「このまま終電逃しちゃったらさ、梓は私を泊めてくれる?」

え、と間抜けな声を出してしまった。
律先輩は私のほうを見ようともせずに、少し猫背気味にカップを持って前を見たまま。

本気なのか、冗談なのか、よくわからない。

「……いやですよ」
だから私は、そう答えた。

「なんで」
「いやなものはいやなんです」

もし、律先輩を泊めたとしたら、今度は私が我慢出来なくなって、律先輩に何かを
してしまうかもしれない。同じ性別で、そんなことをしちゃいけないことはわかっているのに。

私の答えを聞くと、律先輩は「わかった」と笑った。
何がわかったのかは、わからないけど。律先輩は「帰るわ」と立ち上がった。

「……久し振りに、話せてよかった」

律先輩には似つかわしくない、小さな声。
私はこくりと頷いただけだった。
玄関まで見送ろうとすると、「いいよ、べつに」と止められた。

「そんじゃ」

律先輩は手を振りかけて、それから突然。
「ごめん」という声と一緒に、律先輩の温もりに包まれた。

「……せんぱっ」
「……一つだけ、約束して欲しい。そしたらもう、こんなことしないから」

本当に、律先輩は勝手だ。
ぜんぶぜんぶ、勝手で、ずるい。

「……なんですか」

懐かしい律先輩の身体に触れながら、私は訊ねた。
まわされた腕の力が強くなる。

「もっかい、一緒にバンドやろ」
「……え」
「梓と一緒に、みんなで演奏したいから。もっかい、一緒にやってほしい」

そんなの、約束ごとじゃなくて律先輩の頼みごとじゃないですか。
そう言いたかったけど、声は出ない。

「梓、お願い」

私は「はい」と頷く代わりに、律先輩の身体を押し返した。
律先輩は驚いたように私を見た後、

「……ありがと」

笑って、背を向けた。
「そんじゃ」と、今度こそ律先輩が私に手を振った。
ぺたん、とその場に座り込んだ。
小さく音がして、律先輩が部屋を出て行った。

苦しい。
すごく、苦しかった。
ずっと傍にいられるはずなのに、きっともう、離れていたときよりも
律先輩の一番近くにはいられない。

―――――
 ―――――

澪先輩からの返信は早かった。
バンドをやるとメールを送ったそのすぐあと、『良かった、ありがとう!』と
ハートの絵文字いっぱいのメールが返って来て。

そして今日、久し振りに五人全員が顔を合わせることになった。
私は昨日念入りに整備したギターを肩に担ぎなおすと、
懐かしいくらい変わらない音楽室の前で深呼吸。

どうして高校の音楽室なのかと聞くと、「先生がどうせ今は誰も使ってないからって」
貸してくれることになったそうだ。部員を集めることのできなかった私はなんだかその話を
微妙に申し訳ない気持ちで聞いていたわけだけど。

実際に私たちが練習で使用していた準備室は、さすがに卒業生でもいれられないからと
音楽室になったものの、何度も足を踏み入れていた場所なのでなんだか入るのに緊張した。


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最終更新:2011年10月06日 20:08