もう一回深呼吸してから――

「あーずにゃんっ!」
「わあっ!?」

突然、後ろから抱きつかれた。
振り向くと、にこにこ笑った唯先輩が嬉しそうに「久し振りー!」

そしてその後ろに、ムギ先輩の姿も見えた。

「梓ちゃん、少し背伸びた?」
「もう止まっちゃってますよ」

苦笑して唯先輩の腕から離れる。
ムギ先輩が、「りっちゃんと澪ちゃんはもう少しで来るみたい」と音楽室の戸を
すんなり開けてしまった。
なんの感慨もないのかと思いきや、既に音楽室には唯先輩のギターやムギ先輩の
キーボードが置いてあって、私が一番だったわけじゃないらしかった。

唯先輩に背中を押されて、音楽室に足を踏み入れる。
なんとも言いがたい、不思議な匂い。
あぁ、音楽室だ、なんて思った。

「ふふっ、懐かしい」

ムギ先輩が鼻歌を歌いながらキーボードを触り始める。
聞き覚えのある曲だった。
ふわふわ時間。

「私も弾くよ、ムギちゃん!」

唯先輩までも、ギターを引っ張り出してムギ先輩の弾く音に合わせて演奏しはじめた。
「ほら、あずにゃんも」と言われ、私はしぶしぶ――というより、本当はかなりわくわくしながら
ギターを構えた。

あ、久し振りのこの感じ。
大学に入ってからはギターを触ってはいたもののろくに誰かと一緒に合わせたことは
なかったから、すごく気持ちが良かった。

一曲弾き終えると、こんこんとノックの音が聞こえ澪先輩と律先輩が二人並んで
ドアのところに立っていた。

「あ、りっちゃんも澪ちゃんも来ましたなー」
「おー、唯。昨日平沢からまだレポート届いてないって愚痴られたんだけど」
「えっ、どの科目!?」
「嘘だよ、唯……律も唯をからかうな」
「これでやっとみんな揃ったわねー。ね、梓ちゃん」

え、あ、はい。
へんな返事だ。四人の先輩がこうして話している姿がすごく懐かしくて、
おまけに場所が場所なだけあって一瞬今自分がいくつなのかわからなくなった。

ふと、律先輩と目が合った。
「練習、してみる?」

律先輩は私から目を離さないまま言った。
私が答えるまでもない、唯先輩が「そうしよそうしよ!」と騒ぎ始める。
澪先輩も「そうだな」と担いでいたベースを下ろした。

「でもその前に、お茶にしない?」

けれど、そんなムギ先輩の一言が。
私たちを一気に高校生に引き戻した。

―――――
 ―――――

「部室にあったものを持って来ることは出来なかったけど、お菓子やお茶は
 沢山持ってきたから」
「さすがムギちゃんだよー!」

椅子や机は近くの教室から勝手に拝借してきて、私たちは昔のようにムギ先輩の
持ってきたお菓子たちを囲い込んだ。

「練習したかったんだけど……まあこっちのほうが私たちらしいか」

澪先輩も口ではそう言いながら早速ケーキに手を伸ばしている。
「梓ちゃんにははい、バナナケーキ」とムギ先輩が取り分けてくれたお皿を受け取る。

放課後のティータイム。
私たちのバンドそのものの光景。

変わってないとは言いがたいけどやっぱり変わっていなくて、
あれほど過ぎて欲しいと思っていた時間なのにその時間に戻ってきたような感覚を覚えた。

「あれ、そういえばりっちゃんは?」

唯先輩がフォークを口にくわえたまま、ふと気が付いたようにまわりを見た。
確かに、いつのまにかいなくなっていた。
澪先輩が「トイレでも行ったんじゃないのか」と特に興味なさげに答えた。
けど、そんな澪先輩の手が少し震えているように見えたのは私の気のせいなのだろうか。

「律先輩のことですか」

私が訊ねると、澪先輩は困ったように頷いた。

「律から聞いたよ。私と会った日、律にも会ったんだよね」
「はい」
「それで、律が無理矢理梓を放課後ティータイムに引き戻したんだって言ってた」

「それって本当?」というように、
澪先輩がじっと私を覗きこむようにして見詰めた。

「……そんなことないです」

「そう、なら良かった」

澪先輩はそうは言いつつ、だけどあまりすっきりしたような顔はしていなかった。
まだ何か言い足りないというように。

「あの……」
「……律と同じ場所にいるの、辛くない?私にはどうしても、梓が辛そうに見えるよ。
 律だってそう。もしお互い一緒にいて傷付くだけなら私はそんな二人を見たくないし
 唯もムギも、それに私だって無理には梓を引き止めようとはしないよ」

私は言葉に詰まった。
放課後ティータイムに戻るのが嫌なわけじゃない。今さっきだって実際に、
すごく懐かしくて先輩たちと演奏するのがすごく楽しかった。
けれど、澪先輩の言う通り、私は律先輩と一緒にいることでうまく笑うことはできないだろうし、
辛いのだと思う。

「あのさ、梓。今度市民会館でアマチュアのバンドの発表会みたいなのがあって。
 ちょうど今日から三ヵ月後くらいかな。そこにね、出ようと思うんだけど」

私が黙っていると、沈黙を埋めるかのように澪先輩が話し始めた。

「これは律抜きの三人で考えたことなんだけど。もし、それに出て
 まだ律と梓の関係がぎくしゃくしてるようだったら」
「辞めろ、ですか?」

そうは言ってないよ、澪先輩が優しい声で否定する。
じゃあ、と言いかけた私を止め、澪先輩は続けた。

「そうは言ってないし、言いたくも無いよ。ただ、梓が本当に辛いならそうすることだって
 構わない。ただ、この三ヶ月の間にきちんと考えて欲しいんだ。本当は梓はどうしたいのかって」

律先輩と一緒にいたいのか、一緒にいたくないのか。
そう、澪先輩は言った。

「はっきりしなきゃ、律も梓も、きっとずっとこのままだから」

―――――
 ―――――

その日、戻ってきた律先輩とは何も話さずに終わってしまった。
それでも久し振りに合わせた感覚はすごく懐かしくて、ますます私自身が
放課後ティータイムを続けたいのかどうかわからなくなってしまった。

「あずにゃん、じゃあまた次の日曜日にねー」
「いつでもメールしてね、梓ちゃん」

唯先輩とムギ先輩が帰って行き、澪先輩と律先輩はまだいると言って音楽室に
残してきたまま、私はがたごとと電車に揺られていた。

また、うとうととし始めたときだった。
携帯が震え、ばっと目を覚ます。澪先輩――ではない。律先輩からだった。

「……もしもし?」
『今日はお疲れ』

私が出てしばらく経った後、律先輩のくぐもった声が聞こえた。
つい最近までもう絶対に来ないと思っていたはずの人の連絡。
さっきまで会ってたのに、そう呟くように言うと、『面と向かっては話しにくいからさ』と
返って来た。

「昔、こうやってよく電話しましたよね」

唐突に、私は言った。
眠い頭のせいだ、言ってすぐに後悔して。けど発した言葉は消すことなんてできない。
律先輩は『そうだっけ』ととぼけるように言った。

「私たち、付き合ってたんですよね」

言ってしまえばもう、言葉は止まらなかった。

「私、すごく先輩のこと好きで、先輩もそうだったんですよね」
『梓……』
「けど私たちの関係って、絶対に変だって。おかしいって」
『……』
「ずっと一緒にいられると思ってたから。先輩と、離れたくなかった」

ごめん、と聞こえた気がした。
けどきっと誰が悪いとか悪くないとかじゃなくって、どうにもならないことだから。
だからこそ、私たちは――私は、同じ場所に踏みとどまったまま。

「……すいません、変なこと言っちゃって」
『ううん』

静かな律先輩の声。
これじゃあまるで未練たらたらの最低な女だ。

『……今日、澪から何か聞いた?』
「……」
『……私は辛くても苦しくてもさ、ずっと梓の傍にいたいって思ってる。ごめん』

だからどうして、謝るんだろう。
突然、電話が切れた。
トンネルに入り圏外になってしまったのだ。

トンネルを出ても、もう律先輩からはなにもかかってこなかった。

―――――
 ―――――

翌週から、忙しいムギ先輩でも日曜日なら来ることができると、
毎週日曜日に集まることになった。

最初の日電話があって以来、律先輩とは極力話さないようにしていた。
律先輩は何度も私の傍に寄ってこようとしたけど、その度に私は知らない振り。
今はまだ、律先輩と話したら一緒にいたくないという選択をしてしまいそうだったから。

それから本格的な冬が始まって、年も明けた。

澪先輩がタイムリミットに決めた三ヵ月後の――私たち放課後ティータイムの、
再結成後初めてのライブの日が近付いていた。

音楽室のカレンダーに大きく丸のしてある日にちが、音楽室に来るたびに近く大きく
見えるようになった。

「じゃあ今日の練習はこれで終わりな」

澪先輩が言って、私たちはほっと肩から力を抜いた。
皆久し振りのライブのせいか、あと数週間はあるというのに
初めてステージに立ったときのように緊張してしまっていた。

唯先輩が、「はあ、最近ギー太が重くなってきた気がする……」と溜息。
そういえば、高校生のときと違い身体がだいぶ鈍っているせいかどれだけ練習しても
きつくなかったのに今は少し、ギターというよりも身体が重い。

「……私たち、歳とっちゃったみたいだな」
「澪ちゃん、それ言っちゃだめ!」
「ご、ごめん!」

楽器を片付けながら、私たちはそれぞれ途切れ途切れに話した。
律先輩はこういうとき、会話に混ざらなくなっていた。
そのことが気になりつつも、私は結局何も声をかけられないし自分から無視しているような
ものなのだから、できるはずもない。

「それじゃあお疲れ様ー」

音楽室の整理が終わると、私たちは校門の前で別れる。
ギターを背負いなおし、私も駅のほうへ歩きかけたとき誰かが声をかけてきた。

「……先輩」

律先輩がいて、「奢るから」と一言だけ言うと、私の手を引いて駅とは反対方向に
引っ張っていく。
疲れていた私は、律先輩の手も振り払えずに後ろを着いて行くしか出来なくて、
連れてこられた先を見て少しだけぎょっとした。

「梓、前にここ来たいって言ってたことあったよな」
「ありましたけど……」

学生には痛いほど高い喫茶店。
こんなとこに連れてきてしかも奢りなんて。
確か高校生のとき律先輩とこの前を通って入りたいですねなんて話したことを
思い出す。けれど、先輩がそんなことを覚えていたなんて思わなかった。

「って、先輩」
「なに?梓は入らないの?」
「でも、こんな高いお店……」
「心配しないの」

律先輩はドアの前で固まっている私を見ておかしそうに笑うと、
先に入ってしまった。仕方なく後に続く。

「ケーキセット二つ」

中に入ると、律先輩はいとも簡単にカウンターの席につくと、慣れたように頼んでしまった。
私がぎこちなく律先輩の隣に座ると、「金ならある」とすまし顔でふざけたように言った。
それから胡散臭そうに見る私に気付いたのかちょっと苦笑して。

「バイト、結構もらえるからさ」
「……そうなんですか」
「あ、けど無駄遣いしてるわけとかじゃなくって」

ケーキが、運ばれてくる。
今日はムギ先輩の持って来るお菓子はなかったから、少し小腹の空いていた私には
かなり嬉しかった。

「なあ、梓」

前に置かれたケーキをフォークでつつきながら、律先輩は言った。

「武道館、連れてってほしいって言ったこと、覚えてる?」

私はケーキを口に運ぶ手を止めて、律先輩を見た。
律先輩の表情は硬かった。

「……そうでしたっけ」
「うん」
「……」

どうしてそんなことまで覚えているんだろう。
ただ冗談交じりで言ったことなのに。確かに約束した。けれど、そんなの
叶うはずもないことはわかっていた、あの頃だって。

「連れてくから、武道館。だからさ、一緒にバンド続けよう」

またそんなこと、言って。
「私たち、もう付き合えない。別れよう」
そう言い出したのも律先輩なのに。

腹が立つくらい、自分勝手だ。
そして、腹が立つくらい、やっぱり私はこの人のことを忘れられないのだと思い知らされた。

「バイトしてさ、お金貯めて、自主制作のCDとか作って」
「……バカじゃないですか」

律先輩が、黙り込んだ。
きっと先輩だってわかっているのだ。もう私たちが戻れないことなんて。
けど、今更律先輩の気持ちが変わっていないことを知らされたってどうにもできないし、
それを知っていて一緒にいるのは、酷だ。

「バカですよ。律先輩はもう、私に何もしてくれないし好きって言ってくれないじゃないですか」
「……ごめん」

すぐ謝るところが嫌い。
だけど律先輩のことは嫌いにはなれない。

これからも、ずっと律先輩のことが好きなままなのだろう。
律先輩も、大人になったようでなりきれていなくて、私も子供のままで。
それならばいっそ、完全に繋がりを断ち切っちゃえばいい。

私はケーキを全て口に放り込み、熱いコーヒーを流し込むと立ち上がった。
決めたことはもう、絶対に変えられない。
今律先輩の傍を離れなければ、またその決心が揺らいでしまいそうだったから。

「ライブ、頑張りましょう」


私は脱いでいたコートを手に取ると、律先輩に背を向け店を出た。
一度だけ振り向いて見た律先輩はぐったりしたようにカウンターに突っ伏していた。

―――――
 ―――――

それからの数週間は驚くくらいに早く進んで、
律先輩との関係も相変わらずのままいつのまにかライブの日になっていた。

澪先輩に伝えなきゃいけないことも伝えられる時間なんてなく、
ライブは先輩たちの高校時代の友達や大学の友達なんかも来ていてかなり盛況のうちに終わった。
演奏し終え、次の組の人たちの演奏をなんともなしに聞きながら水を一気に飲み干していると、
唯先輩が「お疲れ、あずにゃん」と近付いてきた。

「あ、唯先輩」
「大丈夫?」

そう言いながら、唯先輩は私の隣に腰を下ろした。
何がです、とは聞けなかった。
ライブでの律先輩は、すごく、かっこよくなんてなかった。
リズムは乱れるし走るし。
けれど、そんな律先輩が高校のときの先輩と重なって見えて、鎮火しはじめた気持ちが
また少し、熱くなってきたようだった。
手が、震えている。

「……あずにゃん、もう決めちゃったみたいだね」

こくん、と頷く。
声を出してしまえば、やっぱりよくわからなくなって、泣いてしまいそうだった。

律先輩と一緒にいたいのか一緒にいたくないのか。
私はもちろん、こんなに苦しい思いをするなら一緒にいたくないし、離れなきゃいけない。
けれど、唯先輩の頭を撫でてくれる温かい手を、ムギ先輩の優しい笑顔を、澪先輩の安心出来る
声を、私はどれも手離したくは無い。
律先輩に貰った沢山のものを、壊したくは無い。

「りっちゃんとあずにゃんの間で何があったかはわからないけど」
「……はい」
「私たちみんな、ちゃんと受け入れるよ。あずにゃんがどんな選択をしたって、大丈夫だから」

唯先輩の声に、私はまた、一つ頷いた。
「放課後ティータイムを、抜けます」
一つ深呼吸して、そう言った。

唯先輩は「うん、そっか」と言って寂しそうに微笑んだ後、「今までありがとね」と
私をぎゅっと抱き締めてくれた。
何も変わって無いと思っていたのに、唯先輩はきっと私よりも大人だ。

それから唯先輩は、何も言えなくなってしまった私を連れて、代わりに私の言葉を
三人の先輩たちの前で繰り返した。
澪先輩もムギ先輩も、唯先輩と同じように受け入れてくれた。
律先輩は。

律先輩も、「わかった」と笑ってくれた。
けれどその笑顔があまりにも痛々しくて、私は目を逸らした。

唯先輩に、最後にしておきたいことはないかと訊ねられ何もないと答え、
その場でお開きということになった。
唯先輩や澪先輩や、ムギ先輩にはまた会えるかもしれない。
けれどきっと律先輩にはもう。そう思うと、少しだけ泣けてきた。
今更続けると、そう言いたくなってしまった。

私はだから、最後まで着いてきた律先輩を振り向いた。

「今まで、ありがとうございました」
「……私こそ、ありがとな」
「楽しかった、先輩と一緒にいて」
「うん」

律先輩がぽんぽんと私の頭を叩く。
よく、先輩がしてくれたこと。

途端、私の涙腺は決壊して、信じられないくらい涙が溢れてとまらなくなった。
ずっと我慢していたものがぽろぽろ落ちていく。
律先輩も、私と同じだった。
駅前で二人向かい合ったまま、周囲に目も暮れず、私たちは泣いた。

泣きながら、心の中で叫び続けた。
律先輩のことが好きだと、言い続けた。
伝わって欲しいのに伝わって欲しくない気持ちは、涙となって消えていく。

やがて落ち着くと、私たちは今度こそちゃんと向き合って。
律先輩が照れたように笑い、「じゃあな、梓」と。
私の背中をそっと押した。

「さよなら」

私は一言、そう言うと後ろを振り向くことなく駆け出した。
最後にぽつりと、ずっと聞きたくて仕方が無かった言葉が聞こえた気がした。


3
最終更新:2011年10月06日 20:11