おととい買って置きっぱなしだった文庫本を手に取って、ベッドに寝転がる。
秋晴れの風はベランダの洗濯物を揺らし、金木犀の香りを部屋に運び込む。

折角気持ちの良い午後だ、眠くなればそのまま寝てしまおう。
そう思いながら仰向けになって、頭上に掲げた本を両手で開いた。

タイトルに惹かれてなんとなく手に取った、女性作家の旅行記。
バックパッカースタイルでアジアを旅するそのエッセーはユーモアに溢れつつ
時々どきりとするような描写をみせる。


……そういえばアイツ、今頃どこ歩いてるんだろ。

つらつらと文字を追いながら、頭の隅で考える。
脳裏に浮かんだ幼馴染の笑顔は、今よりも少し幼く思えた。

彼女の笑顔はプールの底から水面を見上げた時のようにゆらゆら光りながら揺れて、
やがて私の意識をゆっくりと眠気の中に落としていった。


***



澪「ムギ、こっちこっち」

紬「澪ちゃん。ごめんなさい遅くなって」

澪「ううん、遅れたのは天気のせいだし。それより飛行機、揺れなかった?」

紬「うん、結構揺れて、少し酔っちゃった」

肩と袖が少し濡れたジャケットを脱ぎながら、ムギが苦笑いする。

澪「大丈夫? 具合悪いんだったら……」

紬「ううん、もう平気。あ、これ。お土産どうぞ」

差し出された薄紫色の紙袋を受け取ると、
ベタかなって思ったけどホワイトチョコ、会社の近くのお店が作ってて美味しいの、と
笑顔と一緒に説明が添えられた。

澪「ありがと。そっちはもう寒い?」

紬「うん、朝晩は特に。街を歩いてると私だけ厚着してるみたいでちょっと恥ずかしいよ」

澪「あはは、そっか」

ムギは大学を卒業して、親が経営する企業の音楽事業を行う系列会社に就職した。
彼女が親の敷いたレールに大人しく乗ったわけでないことは、私たちもよく知っている。

去年の秋頃、北海道に支店ができたのを機にムギは本社から異動となり、
現在は札幌市内に住んでいる。
出張で帰ってくるという連絡を貰って、今日こうして久し振りに顔を合わせた。

紬「急な連絡だったのに、ありがとね澪ちゃん」

澪「私もムギに逢いたかったから。連絡くれて嬉しかったよ」

注文をとりにきたウェイターからメニューを受け取って、ふたりでじっくり吟味する。
ちょっと贅沢してこのコースにしちゃおうか、とメニューに載った写真を指差した私に、
ムギが笑顔で同意した。

注文を終え、厨房に向かうウェイターのすっきり伸びた背中を見送る。
スイーツも楽しみだね、と内緒話をするみたいに言ったムギに頷いて、
ふたりでくすくすと笑った。

紬「澪ちゃんも、元気にしてた?」

澪「見ての通り相変わらず」

紬「夏期講習の時期は結構忙しかったんじゃない?」

澪「うん、夏休みはどうしてもね。でもそれも終わって、少し落ち着いてるかな」

これから受験生の授業が大変になってくるけど、と付け足すと、
塾の先生もプレッシャー掛かって大変そうだね、とムギは眉尻を下げた。

澪「あ、そうだ。これ持って来たよ」

バッグから茶封筒を取り出して、テーブルに置く。

紬「うん? なあに?」

澪「例の雑誌。2冊とも入ってるから」

紬「あっ、唯ちゃんとりっちゃんの?」

澪「そそ」

紬「すごく読みたかったの! 嬉しい」

澪「家にもう1冊ずつあるから、これはムギにあげる」

紬「いいの?」

澪「もちろん」

満面の笑みを浮かべてありがとうと言ったムギに、どういたしまして、とこたえる。
ムギは早速封筒から2冊の雑誌を取り出して、じっくりと表紙を見比べ始めた。

1冊は先月発行された、私たちの地元、桜が丘の出版社が出している情報誌。
インディーズレーベルで活動している唯の特集が4ページに渡って掲載されている。

紬「唯ちゃん、もうすっかりミュージシャンだね」

特集ページのライブ写真を眺めながら、ムギが感嘆の溜息を漏らす。

澪「インタビューの内容は、相変わらず唯らしいけどね」

紬「そうなんだ。私たちのことも書いてあるのよね? ふふ、読むの楽しみ」

ムギは私に笑ってみせてから、情報誌を閉じるともう1冊を手に取った。
毎月そこそこの部数を発行している旅行雑誌の最新号だ。

紬「……でも、りっちゃんが雑誌で連載なんてね。びっくりしちゃった」

ザラリとした質感の表紙をひと撫でして、ムギが目を細める。

澪「私もびっくりしたよ。律がコラムなんて書けるのかって。……だけど」

紬「うん?」

澪「読んだら驚くと思うよ。ムギも」

少し首を傾げた彼女に、コラムが載っているページを教える。
ムギはすぐに目当てのページを見つけて文字を追い、あら、と小さく声をこぼした。

紬「これって、コラムっていうか……。手紙?」

澪「誰かに宛てた手紙、っていうのがコンセプトらしいよ」

紬「へぇ……、面白いね。旅の楽しさが伝わってきて、すごくいい」

澪「そういうのじゃないと書けないって律が言ったから、らしいけどね」

紬「ふふっ、そういうところもなんだかりっちゃんぽくていいわ」


律は在学中から就職活動を一切せず、卒業後もアルバイトでお金を貯めては旅に出る
いわゆるバックパッカーを続けている。

南米を旅している時、偶然出会った旅行専門のライターと意気投合したそうで、
この雑誌の編集部に紹介され、そこからトントン拍子に話が進んで
毎月1/2ページ分の、旅のコラムを書くことになったらしい。


ムギが何か言おうと口を開きかけたとき、前菜が運ばれてきた。
彼女は慌てて雑誌を閉じて、テーブルを空ける。

いただきますと手を合わせて、のんびりと食事しながら互いの近況を報告。


紬「……でね、向こうの仕事が落ち着いたら、企画部への転属願いを出そうと思ってるの」

澪「へえ、企画部かぁ」

紬「配属されたら私、どうしてもやりたいことがあって」

澪「やりたいこと?」

紬「女性ボーカリストだけのライブイベント。で、唯ちゃんにオファーを出すの」

澪「唯に」

紬「うん」

澪「……ああ、いいな。うん、いいよそれ」

紬「梓ちゃんが唯ちゃんのサポートやるって聞いてね、私も何かしたいって思ったの」

澪「そっか……。あー……、みんながそうやって、どこかでまた繋がって……」

紬「わくわくするよね、そういうの」

澪「うん。なんか嬉しくなる」

紬「でしょう? って言っても、相当がんばらないと叶わないかもだけど」

澪「ムギらしいと思うよ、すごく。応援してる」

ワイングラスを揺らして笑う彼女の頬が、酔いのせいか照れなのか少し赤く染まっている。
好奇心旺盛、楽しいことにどん欲。ムギのそういうところは全く変わっていない。

私も微笑んでみせて、赤ワインを一口飲んで、ふぅ、と息を吐いた。

紬「そういえば、りっちゃんのコラム」

澪「うん?」

紬「マチュピチュだったね。夏に絵葉書が届いてた」

澪「あー。……私たちへの近況報告とコラムの内容があんまり変わらないなんてさ」

紬「”律に書かせるなんて編集部も思い切ったことするなぁ”」

澪「ん」

紬「……でしょ?」

いたずらっ子のように微笑んだムギに苦笑いを返す。

紬「りっちゃん、今度いつ帰ってくるの?」

澪「さあ、いつだろ。時々メールはくるけど、予定までは把握してないから」

紬「そうなんだ? りっちゃん、相変わらず唯ちゃんとルームシェアしてるの?」

澪「そうなんじゃないかな、たぶん」

音楽の道を選んだ唯とバックパッカーになった律。
ともに経済的な余裕があるはずもなく、ふたりは卒業してすぐルームシェアを始めた。

唯の活動が軌道に乗り始めてからもふたりぐらしの部屋はそのままで、
不思議なバランスのシェア生活を続けているらしかった。

澪「ほんとにあの根無し草は……。まったく、あいつの将来が心配だよ」

紬「まぁまぁ。……あ、でも澪ちゃん」

澪「うん?」

紬「りっちゃんは根無し草っていうより、どっちかというと……」

澪「うん」

紬「種を撒く人、って感じがしない?」

澪「種を撒く人……」

口の中で復唱した私に、ムギがにこりと微笑む。

紬「りっちゃんって誰とでもすぐ仲良くなれるでしょ」

澪「うん」

紬「りっちゃんのそばにいるとみんな笑顔になって、楽しい気持ちになって」

澪「……」

紬「りっちゃんが通ったあとは、ぱっと花が咲いてるような、そんな感じ」

なるほど、ムギから見た律はそんなふうなのか。
わからなくもないな、と心の内で思う。

澪「……メルヘンなのは私の専売特許かと思ってたけど」

紬「澪ちゃん、それ自分で言っちゃう?」

澪「散々からかわれたからな。特に、律のやつには」

紬「ふふっ。私は好きよ、澪ちゃんの詞。もちろん今もね」

ムギはそう言うと、丁度運ばれてきたスイーツに視線を移して
可愛い、と嬉しそうに呟いた。


 ・
 ・
 ・


紬『りっちゃんが通ったあとは、ぱっと花が咲いてるような、そんな感じ』

つい数時間前に聞いたムギの言葉を思い出しながら、
お土産に貰ったホワイトチョコをひとかけら口に放り込む。

澪「……あ、これ美味し」

さすがムギ、と自然に頬が緩む。
口の中でほのかにラベンダーの香りが広がって、パッケージに描かれた花の絵に納得した。


時間が時間なので残りは冷蔵庫に入れて、コーヒーカップを手にワークデスクへ向かう。
椅子に腰を下ろし、キーを叩いてノートパソコンのスリープを解除する。

澪「……うーん」

座ってはみたものの、アルコールを入れてしまったせいか仕事の資料を読む気にはなれず、
わけもなく唸ってコーヒーをひとくち啜る。


── 花が咲いているような、そんな感じ

ムギの言葉と一緒に浮かんだのは、はにかんだ律の笑顔。

澪「……」

両手で顔を覆って、深く息を吸う。
溜息にはならないように、できるだけゆっくりと吐き出した。



私の……私たちの恋は、誰にも知られずひっそりと咲いて、ひっそりと散った。

高校3年生の時に律から告白され、
大学を卒業する間際に、やっぱり律から切り出された。


『付き合おっか、私たち』  『もとに戻ろっか、私たち』


付き合って、もとに戻る。
告白と別れの言葉を繋いでみれば呆れるほどシンプルで、思わず笑ってしまう。

小さな頃から、何をするにも意識のどこかに律がいた。
それを人は依存と言うのかもしれないけれど、それとは違うと私は思っている。
なにか言葉にしなければいけないとしたら、そうだな、目安、ってところか。

性格がまるで正反対のふたりだからこそ、互いが互いの目安になった。
長所が短所に、短所が長所になるのだと気付かせてもくれた。


友情がいつ恋心に変わったのかは自分でもはっきりとおぼえていないし、
お互いを嫌いあって別れたわけでもない。
恋人から幼馴染へ……ただ、もとに戻っただけ。

付き合い始めた時も別れを決めた時も、互いが互いの気持ちにぼんやりと気がついていた。
それをちゃんと言葉にしてくれたのは律で、私は今も彼女のやさしさに感謝している。


澪「……やっぱり今夜はやめとくかな」

結局溜息を吐いて、ノートパソコンを静かに閉じた。明日の朝は少し早起きをしよう。


ふと、デスク脇に置いた旅行雑誌が目に留まって、思うより先に手を伸ばしていた。
暗唱できるほど何度も読んだ律のコラムに視線を落とす。

澪「……」


律は今頃、どこでどんな花を咲かせているのだろう。

呆れるほど寂しがりで、
いつも自分が笑顔でいたいから人を笑わせているあいつは。


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最終更新:2011年10月06日 20:28