随分静かになった。
ドアの閉まるような音が聞こえて、人の気配もなんだか遠くなった。
いよいよ別れの時が来たらしい。

……緩慢な動きで携帯電話に手を伸ばした。


※安価 1:携帯電話の電源を切る


これ以上聞き続けるのはつらくなる。決心も鈍ってしまう。
私はそう思って、携帯電話の電源を切ることにした。
電源ボタンの長押しがもどかしい。

――あずにゃん

聴こえたのは唯先輩の声だった。
それは今までと違う気がして、力を込めた人差し指が一瞬離れた。
何だか暖かい。携帯電話に触れていた右手が暖かさに包まれていた。

「……先輩」

届くはずのない呟き。聞こえない呼びかけ。
それなのに、どうして私は。
自分が――今ここにいる私自身が呼ばれていると思ったんだろう。

――みんな。みんなで待ってるからね。

暖かさは幻か。
それでも私は縋るようにして、おざなりに扱っていた携帯電話を両手で包んだ。
ゆっくりと耳に近付ける。
相変わらずあちらは静かだが、

「唯先輩……!」

最後にドアが閉じて、人の気配が消えた。
握りしめた携帯電話が手に痛いけれど、それよりも嬉しくて。
溢れる想いは視界を滲ませて、陽射しの朱色がまた鮮やかで――。

こんな短時間で泣きすぎたな――なんて、そんな事を思ってしまった。

やっぱりここは違う世界なんだ。先輩達はみんな、向こうにいる。
どういう事なのか理解できないけど……。
なんだかあっちの私に自分の場所がとられたような気分だけど、とりあえず今は置いておこう。
向こうに行ってから文句の一つでも言ってやる。

とらえどころのない何かがぐるぐると頭の中をまわる。
私は携帯電話に目を落としてひたすら考える。
何がどうなって、こういう状況を生み出したのか。

久しぶりにあの日記を取り出してみる。
何度も目を通したものだから見落としてる部分は無い。
ざっと目を通しても、都合良く中身が変わっているなんてことはなかった。

「……うん」

ヒントになりそうなのは法則が書かれてるところだけだった。
現状を打開できるような情報は無い。
ここから先は私がどうにかしないといけないんだ。

この世界がどういうものなのかさっぱりわからないから、考えようがない……。
とりあえずどうしてここにいるのかも分からないわけで……。

「……?」

一瞬だけ寒気が背筋を走る。何か忘れてる気がするけど……まあいいや。
窓の外に視線を向ける。
陽射しが強くて目が染みる。

「え?」

薄目にしていた目が開ききってしまう。
夕焼けのような朱色が世界を染めている。当たり前だが、もちろん太陽の陽射しだ。
その割りには少し鮮やかすぎるが、問題はそこじゃない。

「なんで……」

さっきまで携帯電話を見ていたから時間は分かっている。
部室の時計ともう一度、見比べてみても狂いはない。
まだ太陽が高い位置にあるのに、どうしてこんな焼けた色を発しているのか。

太陽の位置で時間を計れるほど器用ではない。
それでもまだ夕暮れ時というには高すぎる位置にあるのは分かる。
こういう自然現象もあるのだろうか。

「……って違う」

私はなんで簡単に済ませようしているんだ。
仮に現象としてあるとしても、生まれてこのかた、この地方で見られるなんて聞いたことがなかった。
それと……この朱色はとても怖い。

窓辺に立ち、周囲を見回す。際限なき赤。
思えば。ここで気がついたときもこんな朱に染められていた。
……眼が痛い。こんな見事な夕焼けを見るのも久しぶり。

「……っ」

首の辺りが疼いている。
ああ、いけない。これはいけない。
来る、と思った時にはもう。
窓に備えられたセーフティも兼ねている手摺りにを支えにしていた。

後頭部を襲う痛み。
久しく忘れていたけど、少し前はこの頭痛に悩まされていた。
唐突にやって来ては、痛みだけを残していく問題児である。

「い、っつぅ……」

心臓の鼓動のように一定のリズムで刻んでくる。
久しぶりすぎて、痛みへの耐性も弱くなってる。
こうして後頭周辺だと、ただの頭痛よりきつい。なんせ首辺りまで侵攻してくるのだ。
せめての気休めに手でさする。

「……っく」

緩急まで付ける痛みを耐えながら、しかし余計なことが脳裏をよぎる。
……勘弁して欲しい。
どうしてこう体というのはたまに自分勝手なことをするんだ。

働く思考回路のせいで私は完全にやられていた。
視界が明滅し始め、目蓋を閉じても収まらない。目が回って来て何が何だか分からなくなる。
平衡感覚は無くなり、もう気分は最悪だ。

「ま……ず」

このまま倒れてしまいそうで、そしてきっとそうなったら意識を失ってしまう。
それだけは避け無くてはいけない……!
まともな感覚を使って必死に机まで這っていく。

「う……」

閉じていても開いていても。視覚はしばらくあてに出来そうになかった。
頭痛と激しいフラッシュバックがひどい目眩を引き起こす。
景色は歪んで見え、まるで眼球自体が独立で動いているような目眩。
ただの数十センチの移動がとんでもない距離に思える。

よろよろとたどり着き、腕を机までのばす。
自分の上方に出したと思うが果たしてあっているか。
上下感覚もままならない。

「……っ」

やっと指先に触れた机の感覚。支えにして渾身の力で体を引き起こす。
ぐらぐら揺れながら机にしがみつき、這い上がってて机の上に倒れ込んだ。
ここなら横になれる。リセットも回避できる。

大きく喘いで薄目を開ける。
太陽の陽射しは朱いまま。


ガチガチガチ。頭の中で音がする。
ザリザリザリ。脳髄がさざめく。
だのに意識は締め付けられる。
さっきから続くフラッシュバックは私を削り、遠い光景を刻む。

机の上、もがき苦しむ私を私は眺める。
苦しみで漏れる声はきっと、聞き続けたら精神を病む。
喉さえ嗄れはて、私を落とす。

視界はバチバチと震え、安息の暗闇すら取り払い。
一際強い光が一瞬見えたあと、私はようやく意識を失った。




7月。
期末考査を終えた校内は久しぶりに部活の活気を取り戻していた。
もうすぐ夏休みということもあって、いつもより明るい気がする。
もちろん我が軽音部もその例に漏れることない。
私も高校生活始めての夏休みということでなんだか期待してしまう。

「やっぱりひと味違いますね……」
「梓ちゃん、手応えよくなかったの?」

まあ、考査開けというのは得てしてこんな雰囲気だろう。
部室へ到着すると、先輩達はテストのことで一喜一憂していたのだ。
私も当然テストの話題をふられていた。

「中間に比べるとあんまりよくなさそうです」
「梓は偉いなぁ、きちんと勉強して。……律も唯も少しは見習えよ」
「な、なにおぅ! 私だって今回は――」
「今回“は”?」
「……今回もみおしゃんのおかげです」
「むはー! このケーキ美味しいねぇ!」

唯先輩はそもそも話を聞いていない。
律先輩と唯先輩はまじめに勉強しなそうだなぁ。
で、澪先輩とムギ先輩はきっと好成績に違いない。

そして後日。テストの結果が出たようだ。
端的にしか聞けなかったけど先輩達はそこそこの結果が出せたらしい。
……正直、唯先輩と律先輩の二人は意外でした。すいません。

夏休みも目前まで迫ったある日。
授業数も減り、部活の為に学校に来るような1学期の残り。

「あ」

今日は珍しく部室に一番乗りだった。
電灯のスイッチを押す。
点いたと思ったらすぐに消えてしまった。

「よー、梓」
「あ、律先輩」
「入り口に突っ立ってどうしたー?」

私が説明すると。

「あー。言っときゃ用務員がどうにかしてくれるんじゃないかー?」
「はぁ。でも……」

今日は曇り空。さすがの夏といえど屋内とあっては薄暗い。
部活をするには少し難しいものがありそうだ。

「私たちが変えちゃってもいいんですよね」

いちいち待ってるのもめんどくさい。

「でも、私たち届くか?」

やあ、そうだ。
机の上に乗ったとしてもそれが問題だ。
といっても学校なのだから脚立の一つや二つは常備してあるだろう。
ここで話していても埒があかないので、私は行動を開始した。

「一人で平気か?」

まあ、脚立くらい1人でどうにか出来るだろう。
律先輩には部室で待っていて貰うことにした。

私はまず職員室に向かう。
山中先生に脚立とか蛍光灯の場所を教えて貰うことに。
タイミング悪く、用務員室に誰もいなかった。

脚立は男の先生がいたのでその人に運んでもらい、私は蛍光灯を持って後に続いた。
さすがに大きな脚立だったので、私一人じゃどうにもならなかった。
そして、怪我をしないようにとの学校側の配慮だそうだ。


音楽室への階段を上っていると、唯先輩と律先輩が上から顔を出した。
手摺りから体を乗り出すような形だったので、先生に軽く注意されていた。
にへら、と笑う唯先輩に手を振り返して、最後の踊り場に足をかける。

窓からの陽射しは弱いが少し赤みを帯びていた。
雲があると夕焼けの色が鮮やかに見えやすい。
階段にさしかかって意識を戻す。よそ見して踏み外しでもしたら恥ずかしい。

先生はもう部室に入っていった。
澪先輩もムギ先輩も来ていて、部室から出て来た。
少し足を速めて段を進める。

脚立を設置していた先生に蛍光灯を手渡した。
切れた蛍光灯を受け取って床に置く。凄いほこり。手が汚れた。
電灯の傘の埃が落ちるから被らないように外に出てろとのこと。

律先輩の号令でみんなでわいわい後退した。
先輩共々廊下に出て作業の終わりを待つ。

「おい梓ー。階段気をつけろよー?」
「平気ですよぅ」

なんて油断してたら、見事に右足を踏み外した。

「あずにゃん!?」

唯先輩とは思えない素早さで、手が差し伸べられる。
私もとっさに手を出すが。掴めない。
手の汚れで滑ってしまったのだ。

そしてそれが仇になった。
唯先輩の助けに安心してしまった私は、バランスを取り戻すタイミングを逃す。
ゆっくりと遠ざかる階上の光景は反転した景色に移り変わる。

窓からこぼれる微かな陽射しの赤が鮮烈だった。




7月×日。晴。
私はまだ生きている。
机の上で横になってしまったせいで体中痛い。

といっても痛みはそれのせいだけではなさそうだけど。
まだ怠さを残す頭を動かして、周囲を見回す。
窓の向こうが変貌していた。

「……」

自然は消え、家屋は消え、色々なモノが揺らいでは消えていく。
消えたあとには何も無い。形容しようにも言葉を紡げない。
本当に何もないのだ。
ただただ消えて、まるで陽射しに塗り潰されるようだった。

体の異変は治まったのに今度は世界の異変だ。
だけどもう慌てることはない。
あのフラッシュバックの中に見た光景で全部思い出した。

この世界はあの世とこの世の境目みたいなものだったのだろう。
死にかけた人間が停留するような場所。
ゆっくりと薄れる世界を見ながら、そんな事を考える。

崩れていくのは私の死期が近付いている証拠に違いない。
気付けばもう校庭も半分ちかく消えていた。

「だめだったよ……ごめん」

唯先輩の机から日記を取り出して抱きしめる。
私達の努力は無駄に終わってしまった。
悔しかった。

何が足りなかったんだろ。
もう少しで帰れると思ったのに。

「……ひっ、っく」

校庭は完全に消え、残されているのは校舎だけ。
なおも削れていく世界の中。
太陽だけは変わらずに陽射しを降らせている。

ああもう……せっかく希望がわいたのに悔しいなぁ。
私はもう死んでしまう。

とうとう校舎まで飲みこまれ始めた。
部室の壁は無くなり、机に徐々に迫ってくる。
ドアが消え、本来ある廊下はない。……あの階段ももう無い。

ドラムが見えなくなる。キーボードが消える。
何もない空間は軽い跳躍で飛び込める距離にまで来ていた。
といっても実はもう体はまともに動かない。
頭痛と目眩で疲弊しきってしまって、首を動かして景色をみるのもやっとだ。

もともとわけも分からず投げ出された世界。
リセットだ繰り返しだのなんだのあったけれど、これは一番理解不能な事態。
今さら打開策は無い。
……考えるのも疲れた。

そもそも、そんなことをする気力は無かった。
私も、“私”も色々頑張ってみたけど、負けてしまった。

机が消えるのを確認。
私は投げ出されて、視界が白に塗り潰される。
遠のく意識。
ゆっくりと目蓋を閉じて、私は眠りについた。

ふわふわした時間。空を飛んでるような気分。
私はあの空間に投げ出されてからどれくらい経ったのだろうか。
目を閉じても目を開けても私の視界は白い光に包まれて、眩しくて何も見えない。
自分の体も見えない。「ある」という感覚だけ。

そのうち体に何かがまとわりつき、息苦しくなってくる。
水中で波にただただ揺られるように漂う。
でも、とても居心地がいい。

「    」

浮ついた感覚が消えて少しずつ自分が見えてくる。
音は何も聞こえない。
少しの間その感覚を楽しむ。

とても落ち着く中、少しずつ波が強くなってきた。
次第にグラグラと強まっていく揺れに少しばかり不安になる。
けど、このくらいはもう余裕で楽しめる。
死んだ私に今さら何が来ても大丈夫……。

一転。そんなことを思ったらさっきと違う場所にいた。
まとわりつくものはなくなり、景色が色を帯びた。
蒼。上も下も右も左も無い。
まるで空のようだなと思うと、覚えのある感覚が身を襲う。

「――!?」

ひゅ、と肺から空気が漏れる。
無重力感。

「落ち、てる?」

体を打つ風でそれがわかる。
髪の毛もばさばさと宙を舞う。
そして背中から落ちているから、恐怖も一入である。
せめて下に、向かう先を見ていたいので体を動かすのだが、自由に動けない。
ほんの少しの体重移動でくるくる回ってしまうのだ。
縦回転に横回転。また気持ち悪くなりそう……。

「こ、れで」

何回も何回も繰り返すうちにコツを掴み、ようやく腹ばいになったのだが。
もう地面が目の前にあった。
迫り来る衝撃に耐えられるはずもないが。
私はささやかな逃避として思い切り目を閉じた。

衝撃はいつまで経っても来なかった。
むしろ体は何か柔らかいものに包まれている。
遠くで音が聞こえた。

ゆっくりと目蓋を上げる。



白い部屋。窓からこぼれる陽射しはあたたかい。
壁の白、天井の白がその光を軽く反射して、部屋は柔らかな光を湛えていた。
窓の向こうから誰かの声が聞こえた。

「ここ、どこ?」

カレンダー、テレビ、花瓶。そして私はベッドに。
中途半端な居心地の良さである。
どこかで見たことあるような気がするのだが思い出せない。

ビシ、と頭痛。後頭部をかばう。
慎重に上半身を起こしていく。

少し騒がしい声が通りすぎた。と思ったら扉が開いて大きくなった。

「ほらぁ。2人とも病院なんだから、もう少し静かに、ね?」
「まったくだ。律も唯も騒ぎすぎだぞ」
「まぁまぁ、そう言うなってー。この騒ぎで梓が起きるかもしれないだろー」
「ふぉぉ、あずにゃーん! 遊びに来たよぉぉ」

あ、先輩達だ。

「あばばばばば!?」
「ぶわ!? おい唯ぃぃ、急に立ち止まるなっての!」
「どうした唯?」
「唯ちゃん?」

先頭にいた唯先輩と目があった途端、変な表情になった。
何か変な格好でもしてるんだろうか。
顔を手で撫でてみても、変な所は無い、と、思いたい……。
少し違うとしたら髪の毛がしばってないことくらいだろうか。

「痛ぁ……。結構強く鼻うっ!? たばばばばあずああああ!?」
「おい! いい加減にしないと怒られってったっま、ああ、ずさ!?」
「……梓、ちゃん!?」

みんながみんな、そんなに驚かれるとちょっと……。
唯先輩なんか呆然とし過ぎて、あわわわわとか言いながら近寄ってくる。

「あ、の先輩、ちょ、唯先輩」


ああそうか。私生きてるんだ。
あったかいなぁ、これ。


「……梓ぁ!」

――先輩達が抱きしめてくれる苦しさと

「梓ぁぁぁぁ! 良かったぁぁぁ……」

――先輩達の泣き声と

「本当に、良かった……梓ちゃん」

――先輩達のあたたかさで実感する。

「くるし、いです。……ううぅ、ひっく」

帰って、こられたんだ。



  「おかえり……おかえり、あずにゃん!」



                  梓「ここはどこ…私は…」
                               story end.




                                             by ◆pTit6fOIXQ





最終更新:2010年01月25日 14:48