スーツ姿の女性が入室してくる。
すらりとした長身、肌は白く細かく、長い銀髪を有している。
黒ふちの細長い眼鏡をかけ、
片手にブリーフケースのようなものを持つ。
二十代、ということはわかるが、正確な年齢の推定は難しい。

唯(すっごいキレーな人…)

銀髪の女性の容姿に、うっとりとする唯。
となりの憂のほうから、ギチギチギチ、
と歯軋りする音が聞こえる。

律(ムギよ、随分とまー美人なおねーさんだな…)

律が隣の紬にそう囁く。

紬(でしょう?『白銀(しろがね) ありす』さんって、あの若さで
 お父さん直属の秘書室長をなさっているの。)

律(ありす??変な名前ぇ。)


梓(おっきなおっぱい…)

梓は、スカッスカッ、と自分の胸の前で両手を動かす、

銀髪の女性は、紬の父の側面に立ち何事かを報告している。

紬父「了解した、食事が終わり次第向おう。」

報告が終わると、銀髪の女性は紬の母と紬のほうへ一礼する。

その直後、銀髪の女性が面をあげたとき、
唯の視線と女性のそれが交差した。

ほんの一瞬、女性の、薄紫の瞳が唯の瞳を射る。

唯「??」

そして、何事も無かったように、女性は扉へと向かい
食堂から退出していった。


18日の夜は、あの精霊は唯の前に姿を現さなかった。
そして日が替わる。

12月19日9時 和の家 玄関

和「いらっしゃい、あがってちょうだい。」

唯「お邪魔しまーす。」

律(いやぁ、今朝までムギんちだったからカルチャーショックだわ。)

律は和の家を見つつ、そう思う。

梓「唯先輩のおうちからホントに近いところにあるんですね。」

和「そうね、スープの冷めない距離ってやつかしら。」

律「つまり、それだけ色々と唯に
  迷惑をかけられて来たわけだな、和は。」

唯「りっちゃんひっどーい!!」

律「ザリガニ事件聞いた時はさすがに引いたぞ…」

唯「あ、あれはぁぁ…///」

和「あのザリガニたちには悪いことしたわね…
  唯、後でお墓参りしなさいよ。」

唯「はーい…」

梓「お墓??」

憂「結局全部死んじゃって、和さんの家の裏手に埋めてあげたの。」

和「故381匹のためのザリガニ塚よ。」

律「そ、そいつはまた…」



-和の部屋-

律「…てわけ。」

和「そう、そんなことがあったの…」

紬の家での、唯と紬の禅問答のことを、和に教える律。

和「まあ、昔から唯には,譲れないこだわりのようなものがあって…」

和「それが原因で、周りを巻き込んでの大騒動も何度か経験したけれど…」

和「それも唯の一部だから、」

和「唯には、そのこだわりを捨てて欲しくないわ。」

唯「和ちゃん…」

梓(軽音部の人たちとの絆とは、また違った…)

憂(和さんには、敵わないな…)


12日19日 深夜 真鍋家裏手 "ザリガニ塚"前

真鍋家の裏手、同家に面した道路からは全く見えないところに
"ザリガニ"塚はあった。
見た目はまさに『金魚のお墓』のそれ。
こんもりとした小丘の上に漬物石のようなものが置かれていた。
ここに381匹の遺体が眠る。

ザリガニのお墓の前に立つ唯。
パジャマ姿にカーディガンを羽織っただけ。
見た目からして非常に寒そうだ。

目前の墓もまた、己の悪の結実である-

『これが沼海老のお墓?』

あの精霊の声だ。
いつのまにか唯のすぐ横、肩ぐらいの高さをふよふよ、と浮遊している。

唯「沼海老??ザリガニだよ?」

唯もこの奇妙な存在にすっかり慣れてしまったようだ。

『ようするに湖沼に生息する海老の一種でしょう??』

唯「あ、そうか…」

『まあ、いいわ。』

『あなたたちアジアの人たちは殺生を、
 ヨーロッパの人間とは別の形で忌むものね。』

『アジア人は怖れから、ヨーロッパ人は仮象の愛から。』

『一般化し過ぎかもしれないけれど…』


『ゆい、≪カルマ≫って知っている?』

『カルマ??』

首をひねる唯。

『生き物の行為は、その生き物自身のうちに蓄積されて、
 物事の原因の一つになり、その人の来世や子孫に
 様々な影響を与える。』

『簡単に言えばそんなところかしら。』

『ずっと昔、インドで発明された考え方よ。』


『因果応報ないし因報果報っていう言葉は
 聞いたことがあるでしょう?』

唯「うん。」

『因果応報もカルマの存在が、
 そのプロセスのうちにある、と考えられてきたのだわ。』

『でも、可笑しなものね。カルマをそういった原因として見ても、
 人間は、自分にこびりついたカルマを全て認識することなど
 できないはずでしょうに。』

唯「?」

唯は再び首をかしげる。

『原因があるから結果が生まれる。
 ある結果には必ずそれに応じた原因がある。』

『原因論とか因果論とかもいわれる、古くからある考え方。』

『たとえば、ゆい、あなたのご両親がいるから、
 あなたは今、生きている。そうよね?』

唯「あたりまえ、だよね?」

『ええ、そうよ。』

『カルマも、人間の身に生じる結果の一原因、ということ。』

『そして、ある人間が持っているカルマのうち、そのほとんどは
 その人間に知られていない、と考えられるわ。』

『例えば、もし前世があるとするならば…
 ゆい、あなたは前世のことを覚えている?』

唯「ぜーんぜん。本当にあるのかなあ…」

『さあ、それは私にもわからないのだわ。』

『そして、あなたのご先祖様たち、彼らが生まれてから死ぬまで
 何をおこなってきたか、を全て把握することはできないでしょう?』

唯「昔のことなんて、わかるはずないんじゃない?」

『そう、そのとおりね。だから…』

『沼海老を381匹死なせるよりも、もっと残酷なこと、
 あなたが残酷と考えるようなね、
 そのようなことを、あなたのご先祖様が行っていたかもしれない。』

唯「…」

唯は嫌な予感がした。

『まあ、カルマも人間が考えだしたものだから。
 信じる信じないも、参考にするしないも、あなたの勝手。』

『私が今したお話は、その381匹の沼海老を思うあなたへの手向け。』

『…そしてこれから、あなたが知るであろう悪に備えるための、前準備。』

『今日はここまで。』

『明日もこの時間、ここに来なさい。』

『そして、人間の絆についてのお話をしましょう。』

そう言い終えると、紅い光球は上昇し、どこぞへと飛んでいった。

唯「…」

唯「ブルッ…」

精霊が消えると、はじめて、外気の冷たさを覚える唯。

唯「気がつかなかったけど、精霊さんといっしょだと
  ぜんぜん寒くなかったんだなぁ…」


唯「…」

再び唯の胸奥に、さきほど感じた不安感、の名残が意識される。

唯「そういえば、なん、なんだろう…?」

この不安感がはっきりとした形をとるのは
もう少し先のことになるはず。

翌12月20日 正午過ぎ

唯と律は和とともに、アルバムをらしきものを眺めている。

律「へー、和はこのころはまだ眼鏡をかけてなかったんだな。
  コンタクトにはしないんか?」

和「眼鏡のほうが色々と便利なのよ。
  コンタクトは手間がかかるし、安全性にも問題があるわ。」

唯「だいじょぶだいじょぶ!
  和ちゃんは眼鏡かけても、コンタクトでも
  どっちにしろすっごい美人さんだから!」

和「唯ったら…はぁ…」

憂「2ab…+(a-…」

梓(先輩達、和先輩の家に来てから、ぜんぜん勉強してない…)

梓「ふぅ…」

和(梓、呆れてるわね…)

和(まあ、澪がスパルタでやるだろうから、
  明日まではいわば中休みよ…)

律「ん…?」

律が何事かに気づく。

律「唯と和が移っている写真にはどれにもこれにも
  な、ぜ、か…憂ちゃんも写ってるよな?」 

憂「ピクッ…」

和「律、正確にはそうじゃないわ。
  唯の写っている写真には必ず、よ。」

憂「汗…」

律「おいおい…これなんて調理実習の写真だよな、
  奥の窓側、見切れてるポニーテール後姿…」

唯「あっ、ホントだ!」

和「今まで気付かなかったわ…」

憂「だ、だって…」

憂がはじめて口をひらく。


憂「お姉ちゃんが怪我したり火傷したりしないか、心配で…」

唯「うい…」

和「憂、このときの授業、さぼったの?」

憂「は、はぃ…保健室に行くって言って…」

梓「唯先輩と憂は、昔からずっとそんな感じなんですか?」

和「ええ。物心ついた時から今の今までね…」

和「でも、まあ、姉妹中が悪いよりは、よっぽどね。」

和「唯を甘やかすのを今の三分の一ぐらいにすれば、
  ちょうど良い按配になるかもしれないわ。」

憂「で、できるかぎり善処します…」

唯「むむぅ…」

律(多分無理だろ…)


そして-

再び紅い光との邂逅。

『ゆい、あなたたち姉妹は…』

『本当に仲が良いのね。』

唯「へへ…///」

『羨ましいわ…』

精霊の声音が少し暗くなる。

『愛、というものに一括りされること。』

『これは人間の生が充実するために、
 甚大な割合を占めるのと同時に…』

『これほどまた、当てにならないものもない、
 と考えられてきたわ。』

『人間と人間を結びつける紐帯。』

『同朋意識、家族愛、友情、友愛、忠義、性愛…』

『もっと数多くあり、もっと細かくも分類できるけれど…』

『感情と強く結びついているこれらは、
 悪を減少させもし、増大させもする。』

『鞴(ふいご)から送られる風が、
 良き鋼と悪き鋼の母であるように、ね。』

『そのため人間は、指導的な原理、
 人間の性質の中でも、最も高尚かつ有意とされる原理を作り出したわ。』

『それはまずは知性としてあらわれ、それは理性として分たれ、
 能動的な、人間が持つ他の性質を統御するものとされた。』

『ある人間は、感情と理性の関係やバランスを微妙さを説いた。』

『ある人間は、理性の原理の元に壮大な≪倫理の宮殿≫を作り上げた。』

『ある人間は、人間の歴史の背後に理性を見、
 つまり物事の形成の根源であると考えた。』

『そして、多く、神との関係で語られてきた。』

『絆を作り上げるものと、これをコントロールするもの。』

『人間の絆は深妙なバランス、均衡のもとにあるわ。』

『町々を潤す大河は、町々を滅ぼす龍にもなりかねない。』

『だけれど、心のうちに、愛する人との間に、
 それを持っていたい、と願うもの。』


『ゆい、良い絆を求めなさい。』

唯「よいきずな?」

『ええ。』

『あなたは良い絆に恵まれすぎているから。』

『それが当たり前のことになっている。』

『けれど、あなたほど良い絆を持っている人は、そう、いないわ。』

『だからこそ、意識して良い絆を求めなさい。』

『それが、悪を抑える近道の一つになるの。』

唯「…」

自分は、恵まれているのだろうか?

『さて、次からは本題に入るわ。』

『悪の繁殖、悪を抑えること、そしてー』

『天上のノモスについて。』

『だからこそ、今は眠り、今日の疲れを癒しなさい。』

『≪眠りこそ最大の癒し≫だから。』

結局、和のもとでの三日間は、ほとんど碌に、
勉強に対して費やされなかった。



そして-

12月22日 秋山家居間

澪「Our nation is at war, against a far-reaching
  network of violence and hatred!」

律「ア、アウア ネーション アト ワー アゲンスト…」

澪「声が小さいっ!」

唯「ひぃぃぃ…」


律(舌が痛てぇ…)

澪「次、唯!訳してみろ!」

唯「わたしたちのネーションは戦争です、
  ヴァイオレンスとヘイトレッドのファーリーチングなつながりに対して…」

澪「ぜんぜっん駄目だっ!」

澪「いいか、この箇所はだな、
  オバマ大統領の国際的テロに対する…」

澪「まるまるうまうま…
  あーだこうだあーだこうだ…」

唯「うぅぅぅ…」

律(これは時間がかかりそうだ…)

律「ん?あれは…」

居間の一角に目を向ける律。


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最終更新:2010年01月25日 15:35