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唯・澪・紬・梓「失礼しまーす」

4人が保健室の扉を開けると、そこに養護教諭の姿はなく、ベッドに寝そべる律と、それに寄り添うようにして座るさわ子の姿が目に入った。

さわ子は4人の姿を確認すると、優しく微笑み、律の頭をそっと撫でて立ち上がった。

さわ子「それじゃありっちゃん、私は仕事があるからもう行くわね。今日はゆっくり休みなさい」

さわ子「あなた達、あとはよろしくね」

そう言い残して、さわ子は部屋を後にした。

梓「律先輩、大丈夫ですか?」

律「大丈夫だよ。心配かけて悪かったな、梓」

言葉の通り、律の挙動に不審な点は見当たらず、いつもと変わらぬ『田井中律』の姿がそこにあった。

唯「よかった~。心配してたんだよ~」

律「大事な新歓ライブの前に、迷惑かける訳にはいかないからな」

紬「ライブも大切だけど、無理はしないでね?今日はもう帰りましょう?」

律「悪い悪い、あはは」

澪「……」

律「澪?どったの?」

澪「律…お前、ホントに大丈夫なのか?」

律「大丈夫だって、澪は心配しすぎなんだよ」

澪「そうか…それならいいんだ」

ただ、この場で唯一、澪だけが違和感を感じていた。
あるいはこの違和感というものは、人生の半分近くを律と共にしてきた澪だからこそ感じられたものかもしれない。

律は場の空気を読むことに長けている。
そして、彼女はその長所を生かし、常々『明るく元気なムードメーカー』という役割と、『常識的なリーダー』という役割を使い分けてきた。
その根底にあるものは彼女が気配り上手であるということだろう。

律は空気が読める為、他人の目から見た自分の姿を理解していた。
『明るく元気な女の子』という姿である。

律はこの時、他人から期待されたキャラのままでいようとしていた。
自分が周りからどういう人物として見られているかを十分把握しているが為に、不安定な心境を隠そうとしていた。

これが澪の感じた違和感の正体であったのだろう。
しかし澪にしてみれば、これは『違和感』以上の何物でもなく、確固とした不信感がある訳ではなかった。

それ故澪はこれ以上、このことについて追及することはしなかった。

律「そういえば唯~。この間の話なんだけどさ」

唯「こないだ? 何の話だっけ?」

律「あ~ほら、リリーちゃんの話」

律は悪戯っぽく笑いながらそう言った。
というのも、澪が自分に対して、少なからず違和感を覚えていることは律にも伝わっていた。
これ以上、その違和感を拡大させることがない様、律には『普段通りの自分』を演じる必要があった。
ただ、澪が自分に対して違和感を覚えている以上、彼女がこの程度で普段のように怯えることはないことも、律は承知していた。

実際、澪の反応は薄かった。

この行動の目的は、次の2点にあったと言えるだろう。

1つ目は、他のメンバーにまで違和感を波及させないことである。
付き合いの長い澪には不信感を抱かれたものの、まだ他のメンバーの目には普段と変わらぬ『田井中律』の姿が映っていた。

しかし、律と澪との間に普段と違いがあれば、その違和感は間もなく彼女達に波及するだろう。
それを防ぐためには、普段と変わらぬやりとりを見せることが必要であった。

そして、2つ目の目的こそが、最も重要な点であった。

唯「あ~、あの話か。どうしたの?」

律「いや、この間はリリーちゃんを呼ぶときの話しかしてなかったけどさ、やっつける方法とかってあるのかなって」

これである。
律には早急に“アイツ”を何とかする必要があった。
一時はこれから一生、“アイツ”に怯えながら生きていかなければならないのか、
とも考えたが、しかしこの手の怪談には大抵、対象を呼び出す方法と共に、退治する方法も存在する。

律はそこに賭けようとしていた。
誰にも悟られぬままに“アイツ”を何とかして、あとは何事もなかったかのように、みんなと楽しく過ごしていこうと、そう考えていた。

唯「簡単だよ~。鏡でリリーちゃんに、自分の顔を見させればいいんだって。」

唯「そうして、リリーちゃんに自分はこの世界にいたらいけないんだって思わせればいいんだって」

律「な~んだ。そんな簡単なのか」

本心であった。
それなら1人でも、何とかなりそうである。

唯「それにしてもりっちゃん、意外と怖がりさんなんだね」

律「はぁ?なんでそうなるんだよ?」

唯「だって自分でリリーちゃんを呼んじゃったから、ちょっと不安になっちゃったんでしょ?」

梓「ベタですね」

律「ち…ちげーし!!」

当たらずとも遠からず、律は多少の動揺を見せたものの、この動揺は彼女にとって好ましい方向に働いた。

唯「ベタ子さん」

紬「わ~!」

律「…?」

紬「……」ショボン

律「う…うわぁ!びっくりしたなぁもう!」

紬「えへー」

先の唯の発言があたかも図星であるかのように捉えられたのである。

『リリーちゃん』の噂話が流行っているとはいっても所詮、友達同士での話のタネになる程度であり、その話を本気で信じている者はいなかった。
最も、それを実行しようとなると話は別で、恐怖心により彼女を呼び出せないものが殆どであったが。

兎にも角にも、律を除く彼女達4人の中で、律の動揺の原因が『リリーちゃん』であると考えている者はいなかった。
かくして、律の本心に誰も気づかぬまま、彼女達は帰路につくことになった。


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律は、一人で通学路を歩いていた。
歩いていた、とは言っても、彼女は家路についているのではなく、学校への道を引き返していた。

日はすっかり沈み、通いなれた街並みはどこか哀愁を帯びているようにも感じられた。

律(みんなに迷惑はかけられないよな…)

律が周りの空気を優先し、本心を隠していたことは先に述べた。
そのことは、別に今回に限ったことではなかった。

普段は明るく元気で、おちゃらけたイメージのある彼女である。
そのイメージは決して間違っているとは言えない。

唯の悪ふざけに乗り、逆に唯を乗せることもあれば、澪をからかったりと、普段の行動からは『好き放題』という快楽主義者的な印象も少なからず感じられる。

しかしその一方で、唯の行き過ぎた行動にはブレーキをかけ、許容できる範囲・できない範囲の線引きを行っている側面もあり、
澪に関しても、何かがあればすぐに味方となり、一般に言う『幼馴染ならでは』という以上の仲の良さを感じさせる部分も存在する。

一見まとまりのないように感じられる彼女の行動だが、先に述べた彼女の『空気が読める』・『気配り上手』といった気質を考えると、彼女の軽音部においての役割というものが見えてくる。

律は、軽音部においてバランサーとしての役割を果たしていた。

元来軽音部は、練習に真面目に取り組もうとする澪と、あまり練習に乗り気にならず、快楽主義者的な性格を持つギター初心者の唯、そして『世間知らず』ともいえるほど世俗とは住む世界の違うお嬢様の紬、といった性質の全く違う3人が律の元に集まる形で発足した。

このバラバラな思考を持つ3人の、鎹としての役割を果たしているのが律であった。
律は普段からその場の空気を読み、その場で浮いてしまいがちな者を立てようと気配りをしてきた。

そのため、今回のように自分の気持ちよりも相手の気持ちや周りの空気を優先し、自分の気持ちを隠して器用に振舞うことも少なくはなかった。

それ故、彼女は本音でのコミュニケーションに慣れていないのかもしれない。

本音を言えば、律は仲間たちに頼りたかった。
「助けて」と、その一言を発したかった。

しかしそれができなかったのは、彼女のそういった気質によるものであった。

現にほんの数分前、律は『家まで送ろうか?』という澪の申し出を断り、『用事があるから』といって途中で別れ、そのまま学校への道を引き返していた。

今回の問題を一人で解決する、という命題のもとでは、澪の申し出を断る必要など無かった。
家まで送ってもらった後で、学校へ引き返せば良かったのである。

ただでさえ律の挙動に違和感を感じている澪である。
そうする方が良かったのは自明であった。

ただそうしなかったのは、澪とこれ以上一緒にいれば彼女を頼ってしまいそうであり、それによって自分の繊細な内面が壊れてしまいそうな気がしたからであった。

律(一人で終わらせよう…誰にも気づかれないように)

律はほの暗い通学路を黙々と歩き続けていた。
鞄のポケットには、手鏡が入ってある。
すぐに取り出せるように、鞄の内ポケットから移動させておいたものである。

学校の正門前に着く。
下校時間もとっくに過ぎ、職員たちも既に仕事を終えたようで、校舎内の明かりは消えて非常口の緑色のランプが怪しく輝いていた。

夜の学校というものは不思議なもので、その独特の雰囲気からは自然と恐怖心を掻き立てられる。
ましてや律の場合、自ら霊に会いに行っているようなものだった。

このまま学校に行けば、あの校舎内に存在するのは自分と“アイツ”だけになる…
そう考えると、昼間目にした“アイツ”の姿がフラッシュバックしてきて、足がすくんだ。

行きたくない…しかし、行かなくてはならない…
“アイツ”が本格的に自分の命を狙いに来る前に、こちらから攻めなくては。

“アイツ”が自分に有利な状況で、自ら攻めてきた時には最早どうすることもできない。

この手で悪夢を終わらせるのだと奮起して、律は強く前を見据えた。

視線の先の学校は、普段とは違う異質な空間のように感じられた。
律は意を決してその敷地内へと歩を進めた。

一歩…

二歩…

三歩…

あと一歩。

ここから先はもう学校の敷地である。
律は覚悟を決めて、左足を地面から離した。

四…

澪「一人で何やってるんだ、律?」

聞きなれた声が聞こえた。
すんでのところで足が止まり、律は後ろを振り返った。

そこには律が求めたくても求められなかった、仲間たちの姿があった。

律「み…んな?」

唯「やっぱり今日、なにかあったの?」

紬「私たちのこと、もっと頼ってくれてもいいのよ?」

梓「どうして何も話してくれないんですか。律先輩のバカ…」

澪「みんなの言う通りだぞ?私たちの関係は、その程度のものだったのか?」

4人の言葉を聞いて、律の繊細な内面を覆っていた殻が破れた。

虚勢を張り、自分を偽りながら隠していた感情が溢れ出してきた。

気が付けば、律の目からは涙が流れていた。
4人の温もりを感じた事による安心感、恐怖心、不安、葛藤、自己嫌悪…今までため込んできた感情が入り混じった涙であった。

律「みんな…どうして…えっぐ…」

唯「澪ちゃんが、みんなに連絡をくれたの」

澪「今日のお前、明らかに様子がおかしかったからな」

梓「不躾ですけど、みんなで律先輩の後、つけてました」

紬「みんなりっちゃんのこと、心配してたんだよ?」

律「みんな…うぇっ…」

澪「クスッ…みんな律のことが、大好きだよ?」

澪の言葉を引き金にして、嗚咽と共に、律の口から、彼女がずっと隠してきた本心が溢れ出してきた。

律「みんな…たすけてぇ…」

律は今まで、本音をぶつけることを恐れていた。
大好きな仲間たちに、本音でぶつかって拒絶されたときのことを考えれば怖くてできなかった。

律「ぐすっ…」

普段周りを気遣って器用に振舞える分、こういう時にどうすればいいのか分からなかった。

結果、周りに頼らず一人で解決する道を選んでしまった。

ここに、律の精神的に憶病な一面が現れていた。

人見知りで、相手の前に壁を作ってしまう澪とは対照的に、誰にでも仲良く接する反面、自分の前に壁を作ってしまう所にこそ、律の弱さがあった。

気を配りすぎるが故に、自分の本音をさらけ出せない。さらけ出すのが怖い。
みんなに心配させたくないから、危険な目に合わせたくないから弱さを見せたり真剣な相談を持ちかけたりできない…

しかし、仲間たちは律の本音を受け入れてくれた。
律の憶病で弱い面も含めて、彼女の全てを受け入れてくれた。

そんな仲間たちに、律はぽつり…ぽつりと事のあらましを話していった。


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律「ホントにいいんだな…?」

校舎の脇、保健室の窓の前で、律は仲間たちにそう確認をとった。
先ほど律の話を聞いた時から、4人に覚悟はできていた。

怖がりの澪ですら、怯えながらも律に同行することを決意したのである。
この確認は、4人にとってする必要は無かった。

律「ありがとう…」

4人の反応を見て、律は静かに窓を開けた。
この窓は、侵入経路の確保の為、律が下校前に鍵を開けていたものであった。

窓を乗り越え、保健室内に降り立った。
月明かりによって照らされた室内は薄暗く、開いた窓から吹く風が冷たく感じる。

周囲に“アイツ”の気配は無い。
律は周囲を見渡し、そっと4人に目配せをしてからドアに手をかけ、静かに開いた。

廊下に出る。
闇に伸びる長い廊下は突き当りが見えず、途中非常口の緑と、消火栓の赤色灯が頼りなく灯っているだけで、いよいよ気味が悪い。

彼女達は周囲を見渡し、ここにも“アイツ”の姿が無いことを確認すると、律を先頭にしてゆっくりと歩きだした。

頭上にある緑の蛍光灯が床にぼんやりと反射し、歩くたびに彼女達の影が斜めに伸び、魔物のように壁に立ちはだかっては消えて行った。

昼間は活気と喧騒に満ち溢れている校庭も、夜は木々のざわめきが地を這うように渡り、プールの水面に吸い込まれていく。

プールの側にある簡易トイレの換気扇が風に揺られてカラカラと笑っている。

…この階には“アイツ”はいなさそうである。

5人は途中の階段を上がり、2階へ行くことにした。
消火栓の赤色灯の下、階段横を通り過ぎる際に窓ガラスに映った彼女達の顔は真っ赤に染まり、いよいよ気味が悪い。

階段を踏み外さぬよう、ゆっくりと登っていく。
途中、ギシ…ギシ…と木張りの床が軋む音が響いた。

階段を登り終えた刹那、流れる空気が先ほどまでと変わった。
冷たく、重い空気…

(ギシ…ギシ…)

間違いない。“アイツ”がいる。

“アイツ”は律が校舎内にいることは察知したものの、まだ位置までは把握できていないようである。

足音が、ゆっくりと廊下に響いていた。

5人は息を殺して、壁に張り付いた。

律は“アイツ”の姿を確認しようと、壁越しにそっと廊下を覗き見た。



……



ドクン…!

心臓が大きく波打った。

視界にはギョロリと見開かれた、濁った眼。

“アイツ”も律と同様、廊下側から壁越しにこちらを覗いていた。

鼻息がかかるほどの距離である。

生暖かい腐臭が鼻の奥に入り込む…

一気に血の気が引いた。
思考よりも早く肉体が動いた。

5人は一斉にその場から駆け出し、律と澪は3階へと階段を駆け上り、唯・紬・梓の3人は1階へと駆け降りた。

“アイツ”のターゲットは律である。
もちろん、“アイツ”も3階へと駆け出した。

しかし不幸中の幸いというべきか、反射的に律が振り回した鞄が体に当たり、“アイツ”は動き出すのが遅れていた。

律(マジかよ…あんなのありかよ…)

律は澪の手を引いて、階段を駆け上っていた。
といっても、これは理性的な行動ではなく、本能的な行動であった。

律の頭は、冷静さを欠いていた。
それ故、律は階段を上りきった直後、愚策ともいえる行動を選択してしまった。

愚策、というのには語弊があるかもしれない。
彼女達はそもそも“アイツ”に関する認識が甘かったのだ。

ともあれ、律はこの状況下において最も愚かな行為を選択してしまった。
トイレの個室へと逃げ込んでしまったのである。

律「ハァ…ハァ…」

律「大丈夫か?澪?」

澪「う…うん…」

律(大丈夫だ…落ち着け。体勢を立て直して、ちゃんと準備すれば大丈夫…。 鏡を“アイツ”に向けるだけじゃねーか)

(ギシ…ギシ…)

“アイツ”の足音が聞こえる。
足音から判断するに、“アイツ”はトイレの周囲を徘徊しているようである。

律(見つかるのも時間の問題か…)

先ほどの失敗から、律も学習していた。
今度は壁越しに直接覗き込むのではなく、トイレの個室から手鏡を利用して“アイツ”の様子を伺った。

…鏡越しに目があった。
その冷たい視線からは、鏡越しでも十分な殺意が感じられた。

(ギシ…ギシ…)

“アイツ”が近づいてくる。

今回は鏡越しに“アイツ”の動きが良く見える。


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最終更新:2011年10月24日 21:23