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一歩…

また一歩…

“アイツ”はさながら獲物を追い詰めた肉食獣のように、ジリジリと距離を詰めてくる。

律(もう少しだ…あと一歩、踏み込んで来たらこいつを食らわせてやる)

手鏡を持つ手に力が入る。

汗ばんだその手が小刻みに震えだす。

鼓動が早まっているのを感じる。

(ギシ…)

澪(見えない聞こえない…!)

床が軋む音と同時に、律が個室から飛び出した。

律が鏡を“アイツ”の前に掲げようとした刹那、古びた包帯で覆われた腕が首元に伸びてきた。

律「なっ…!?」

律は咄嗟に体を捻ってそれを避けようとする。
が、時は既に遅かった。

律は恐怖心が故に、冷静な判断ができないままでいた。
それ故、相手から仕掛けてくる可能性というものを失念していた。

やるかやられるかのこの状況において、『やられる』場面を想定していなかった弊害は大きい。

焦りにより無鉄砲に飛び出してしまった挙句、相手の行動への反応が一瞬遅れてしまった。

腐食した腕が律の喉元をとらえる。
乱雑に巻かれた包帯の隙間からは、焼けただれた皮膚が覗いている。

律(……!)

沸騰したのか、と錯覚するほどに律は顔が熱くなるのを感じた。

息を吸うことができず、体が痙攣する。
律は気力を振り絞り、痙攣する腕を上げた。

鏡が“アイツ”の顔を捉える。



……が、何も起こらない。



何故だ。コイツは自分の顔を見れば消えるのではなかったのか。

苦しみと絶望が律の頭を支配した。




…目の前が真っ白になった。



澪「あ…あっ…」

澪は茫然自失していた。
頭の中が真っ白で、思考が上手く働かないでいた。

目の前には、一昨日聞いてから恐れ続けていた“リリーちゃん”の姿があった。
その姿は話に聞いていたよりも数段恐ろしく、おぞましかった。

全身が古びた包帯で覆われており、その包帯には火傷の出血による血が染みつき渇いていた。
乱雑に巻かれた包帯の隙間からは焼けただれた醜悪な皮膚と、焦げ付いて灰色となったボサボサの髪が覗いている。

生前、トレードマークだったらしい黒いワンピースは無残な程ズタズタになり、ワンピースとしての形状を保っていなかった。

脚の指先は上手く包帯で巻かれておらず、露出したその指からは爪が剥がれ落ちていた。

神の悪戯でこのような醜悪な姿となってしまったかつての人間。

人にして人にあらざる者となった彼女の腕は、幼馴染の首を強く締め上げていた。

澪(り…つ…いやだよ…)

できる事なら、目の前で苦しんでいる幼馴染を助けたかった。

だが、体がいう事を聞かない。

叫びたくても声がでない。

いくら力を込めようと、彼女の四肢はガタガタと震えるだけだった。

目の前の“リリー”は、腕の力をますます強め、律の体を宙へと浮かせた。

澪(やだ…このままじゃ…律が、死んじゃう…)

体の動かぬ澪は、その光景を見ていることしかできなかった。

首を締め上げられた律の体が限界なのは、澪の目から見ても明らかであった。

そして遂に、僅かながらも抵抗を見せていた律の体はその動きを止め、手鏡を掲げていた腕は力なく垂れ下がった。

律の手から手鏡が滑り落ちる光景が、やけに遅く感じられた。

手鏡は律の手を離れ、ゆっくりと落ちていく…


落ちていく…


落ちていく…


そして、ついに手鏡は床に触れ、ゆっくりと砕け散った。

破片が四方に飛び散り、月明かりを反射して鈍く輝く。



刹那、破片の背景に黒い物体が現れた。



否、それは人影であった。

人影は手にした円筒形の物体を振り回し、リリーの足元を殴打した。

鈍い金属音が響く。

足元を殴打されたリリーは体勢を崩し、床へと崩れ落ちた。

律「ゲホッ…ゲホッ…かはっ…!」

間一髪、リリーの腕から解放された律は落下の衝撃で意識を取り戻し、呼吸を吹き返した。

澪「律っ!」

澪の体も咄嗟に動いた。
先ほどまでの痙攣が嘘のようであった。

律の側に駆け寄り、膝の上に頭を乗せてやる。

「久しぶりね、リリー」

人影が静かに呟いた。

「相変わらずシケた面してんじゃないの…」

コツ…コツ…と、靴の音が響く。

彼女の問いかけには反応せず、リリーはターゲットである律に再び腕を伸ばした。

さわ子「教師が生徒に手ぇあげてんじゃねーよ!」

叫ぶと同時に、さわ子は手にした消火器の栓を抜き、リリーに中身を噴出した。

さわ子「あなたたち!外に逃げるわよ!」

粉末状の消火薬剤が直撃し、もがいているリリーに中身の無くなった容器を投げつけながらさわ子は叫んだ。

澪「は…はい!」

澪と律はおぼつかない足取りで立ち上がり、さわ子に続いて走り出した。

廊下を駆け抜け、階段までたどり着いた。

ふと後ろを振り返ると、リリーは既に廊下に出て、駆けはじめていた。

澪(うそ…!)

リリーは先ほどさわ子に足を強烈に殴打されたにも関わらず、異様な速度でこちらに走ってきていた。

殴打された左足を引きずり、上体をカクカクと揺らしながら迫ってくるその姿はおぞましく、血の気がゾッと引いた。

このままでは追いつかれる。
澪は前に向き直り、さわ子・律に続いて階段を急いで駆け降りた。


3階から2階へと駆け降りる…

後ろから近づいてくる足音が大きくなってきた。

そのまま振り返ることはせずに、1階へと駆け降りる…

足音はとうとうすぐそこまで来ていた。

リリーの折れた左足の骨が、腐敗した肉をえぐる音が聞こえて来る。

クチャ…クチャッ…

澪の焦り、そして恐怖心も膨れ上がる。

グチャッ…!

澪(ひっ…!)

その時、今まで軽快に駆けていた澪の脚がもつれ、安定を失った体が前につんのめった。

先ほどまで動かず、痙攣していた足である。無理もないことだった。

前に倒れ込んでいく澪の体。
木製の階段の角が迫ってくるような感覚。

恐怖からギュッと目をつぶるが、しかし彼女の体に痛みが走ることは無かった。

手のひらには、金属の冷たい感触。
おそらく手すりにあるブロンズ像に手が突っかかったのであろう。

ともあれ、転倒を免れた澪であったが、状況は最悪であった。


リリーである。


振り返らずともわかる。
鼻をつく腐臭と、地獄の底から這い上がって来たかのような、低い呼吸音。
そして何よりも、多足類が全身を這いずり回っているような、ゾッとする冷たい気配が、リリーが背後にいることを物語っていた。

ヤツに追いつかれてしまった。


律「澪っ!」

更に最悪なことは、先ほどのさわ子の攻撃により、リリーはさわ子と、そしてその場にいた澪を排除するべき“邪魔者”として認識したことであった。

澪「えっ…」

澪が後ろを振り返った時には、リリーの腕は澪の首に伸びようとしていた。

が、律がそうはさせなかった。

元々が自分の撒いた種である。
澪にまであんな苦しい思いをさせる訳にはいかないと、その思いが律を奮い立たせた。

律「おらぁ!」

律はリリーの腕を掴み、思いっきり後ろへ引き寄せた。

その勢いでリリーの体は階段を転げ落ちていった。

3人はリリーが起き上がるより先に、彼女の隣を通り過ぎ、昇降口へと駆け抜けた。

が、リリーも執念深かった。
既に立ち上がり、3人への追跡を再開していた。

3人は全力で走り続けていた。
特に律などは、つい先ほどまで首を絞められていたのである。
酸素は欠乏し、体力の限界も近づいていた。

しかし背後のリリーは容赦なく近づいてくる。

3人が昇降口を出ようとしていたとき、リリーは再び彼女達に追いつこうとしていた。

先頭のさわ子が扉をくぐり、律がそれに続く。

最後に澪が校舎を出たとき、リリーは手を伸ばせば澪に触れられる距離まで来ていた。

澪の頬に外の冷たい風が吹き付ける。

それと同時に、見慣れた3つの人影が目に入った。

その姿を確認した後、さわ子が扉へと向き直る。

さわ子「おらぁ!」

澪が通り過ぎるや否や、さわ子はフロントキックを打ち込み、リリーを後ろへ大きくのけぞらせた。

さわ子「逃げるわよ!あなた達も!!」

さわ子は3つの人影…唯・紬・梓に向かって叫んだ。

その言葉を引き金にして、6人は正門へと走り、敷地外へと逃げ出した。


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さわ子「みんな、止まって」

校外にでると、さわ子がそう呼びかけた。

梓「でもっ! あいつが…!」

さわ子「大丈夫よ。あいつはここまで追って来れない」

紬「そう…なんですか?でもどうして先生がそんなことを…」

さわ子「あいつとは昔ちょっと…色々あってね」

律「そ…そういえばさわちゃん、さっき『久しぶり』って…」

唯「えっ!?さわちゃん、前にもアレを見たことがあるの!?」

さわ子「ええ…。私がまだここの学生だった頃にも、リリーの噂が流行ったことがあってね」

さわ子「その時に、呼んじゃったのよ。りっちゃん…あなたの様に」

律「っ…」

さわ子「それにしても、こんな状況になってるなんて…あなた、リリーを呼んだ鏡の前で髪の毛の話をした?」

律「した…かもしれない。 …!?っていうか、さわちゃんアイツと昔…直接会ったんだよな?」

さわ子「ええ、そうよ」

律「それじゃあ、さわちゃんはアイツを上手く封印できたってことだよな!?どうやって!?」

さわ子「そうね…今流れてる噂は少し、事実とは食い違っているみたいだから、そのあたりと一緒に順を追って説明するわ」

さわ子「まず、どうして私が学校にいたのか、ということから話した方がいいかしら…」

さわ子「春休み中だったかしら、部活をやっている生徒の間でリリーの噂が流れ始めたのは」

さわ子「その時から、私は生徒たちに注意を配っていたの。そもそも教師になったのが、私の後輩がリリーを呼んじゃった時に守ってあげたい…っていう動機からだったから」

さわ子「私が助かったのはたまたま…そういうのに詳しい男の子と出会えたからだしね。とにかく、そんな時にりっちゃん、あなたの様子がおかしくなったことに気が付いたの」

さわ子「すぐにリリーのせいだと分かったわ。当時の私とそっくりだったから。
    そして、保健室でのあなた達の会話を聞いて、確信を持ったの。りっちゃんの性格からして、今日ここに戻ってくることも」

梓「あのときの会話…聞いていたんですね」

さわ子「ごめんなさいね。立ち聞きなんてしたくなかったんだけれど…」

梓「とんでもないです! 現に先生のおかげで、律先輩は助かりましたし…」

さわ子「クスッ…ありがとう。」

さわ子「…そして私は校内であなた達が階段を駆け下りる音を聞いて…」

紬「私たちと出会ったんですね」

さわ子「ええ、そうよ」

唯「さわちゃんが、私たちに校舎の外に出るようにって言ってくれたんだよ」

さわ子「私は校外に出るように言ったつもりなんだけど…私も気が動転してたのかしらね」

さわ子「まぁそれはさておき…それから唯ちゃんたちに、りっちゃんと澪ちゃんが3階へ行ったということを聞いて、トイレまで辿り着けた訳」

律「そうだったのか…」

さわ子「何よその顔は~!せっかく人が助けてあげたってのに~!」ブー

律「いや…それはホントに感謝してるんだけどその…」

さわ子「クスッ…わかったわ。そろそろリリーについて教えないとね」

さわ子「まず今の噂では言われてないんだけど…リリーは呼ばれただけでは今みたいに直接人を襲うことはないわ」

さわ子「せいぜい校内で自分を呼んだ人間に不幸を運ぶくらいね。階段から転落させたり。
    それに、その段階ではターゲットは一人まで。もし他の子がアイツを呼んだら、ターゲットはその子に移るわ」

梓「だから単なる噂話として広まっていったんですね。律先輩以外にも、噂を試した人は他にいたのに」

さわ子「その通りよ。いくら自分に不幸が起きたからって、それをリリーのせいだと言い切ることはできないから」

さわ子「でも、他の子がリリーを呼ぶ前に、アイツを呼んだ鏡の前であることをしちゃったら、さっきのように直接その人間を襲いに来るの。死ぬまで永遠に…ね」

紬「鏡の前で髪の毛の話をすること…ですね」

さわ子「そうよ。厳密には、髪の毛を褒めるようなことを言うこと。
    そうすると、新たに自分を呼んだ人間をターゲットに加えることはあっても、その人間はターゲットから外れることが無くなるの」

さわ子「女のヒステリーってやつかしら。生前アイツは髪が自慢だったらしいから…」

さわ子「とは言っても、リリーは校舎から出ることはできないんだけど。アイツはここの地縛霊みたいなモノなのかもしれないわね」

梓「だからここまで逃げてきたんですね」

さわ子「次に、リリーの封印の方法についてね…
    これが真実と違っているのは痛かったわね」

さわ子「今の噂では、鏡でリリーに自分の顔を見させる事で間違いなかったかしら?」

唯「うん…私はそう聞いたよ」

梓「他の子達もそう言ってました」

さわ子「そう…」

さわ子「本当はね、アイツに自分の姿全てを見せる必要があるの。
    つまり、体全部が見えるような大きな鏡で360度囲う必要があるってこと」

さわ子「そして、その状態でこう言う必要があるわ」

さわ子『リリー、去れ。リリー、去れ。リリー、去れ』

さわ子「ってね。
あなた達も、リリーの遺体が鏡に囲まれていたって話は聞いたでしょ? 要はその時と全く同じ状況を作って、呼び出したときと反対の、封印の呪文を唱えるって訳」

律「なるほど…」

さわ子「とはいっても、言うほど簡単なことじゃ無いわ。
    ちゃんと計画を立ててからじゃないと、こんなことできっこない」

律「だろうな…」

澪「………」

律と澪はそれがどれだけ難しいかということを嫌というほど実感していた。
片足は折れ、消火器で目がやられても尚、自身の肉を抉りながらお構いなしに迫ってくるあの姿を思い出すだけで、吐き気がこみあげてくる。

さわ子「それでも、手が無い訳じゃないわ。
    それには、みんなの協力も必要になるけど…やってくれる?」

唯「あったりまえだよ!」

紬「りっちゃんの為ならえんやこらです!」フンスッ!

唯「ぁあ~!ムギちゃんそれ私の~!!」

紬「えへ~」ポワン

梓「やってやるです!」

澪「………」

さわ子「澪ちゃんは…やめておいた方がいいかしら」

澪「…」

唯「澪ちゃん…」


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最終更新:2011年10月24日 21:24