「だって……梓ちゃん素直になってるから。
あ、普段は素直じゃない、って意味じゃないのよ」
ムギ先輩は両手を開いて、目の前で否定するように手を振っている。
「確かに、普段は素直じゃないです。
でも……今回は、特別ですから」
ムギ先輩は、「否定しないのね」とひとこと。
私は軽くうなづき、「唯先輩が好きですから」と、つけ加えた。
「人って――、恋をしたら素直になれるのかもね」
なんてことを言うんだろう、この人は。
もう顔を触らなくてもわかる。
熱を帯び、赤面しているに違いない。
「恥ずかしいこと言わないでください!」
素直にだなんて、そんな言葉は似合わない。
ただ、気持ちを吐き出しただけ。
唯先輩にではなく他の人へ。
「抑えきれなかっただけです」
純、澪先輩、ムギ先輩。
少しずつ打ち明けてきたけど、その場しのぎに過ぎなかった。
本人に言わないことには、なにも始まらない。
「それで梓ちゃん、どうするの?」
「もう、決まってます」
唯先輩に告白しよう。
諦めかけてたけどちゃんと伝えないと。
「ムギ先輩に話したら……、スッキリしたっていうか、勢いがついた感じです」
「少しでも役に立てたのなら、うれしいわ。
それで、私にできることってないかしら」
「たいしたお願いじゃないんですけど――」
ムギ先輩には偶然を起こしてもらおう。
待ってるだけじゃ、なにも始まらないから。
――――――――――――――――
「……唯先輩って――、いえ……なんでもないです」
部室に人がいないと広く感じる。
このあいだはそう思っていた。
二人でベンチに腰かけ、他の先輩たちを待っている。
私の右隣には唯先輩、距離は一人分ほど。
体をひねり視線を唯先輩に移すと、部室が狭く思えた。
律先輩のドラムセットも、落書きされたホワイトボードも、
ティータイムの机も、憂が弾いたオルガンも、全部見えなくなって。
まるで、私と唯先輩のまわりだけ、
世界から切り取られてしまったみたいに。
「ん……、あずにゃん? どうしたの?」
部室で二人きりになれるように、ムギ先輩に頼んで、
律先輩と澪先輩を引き止めてもらっている。
唯先輩には偶然と思えるように。
「他の先輩方来ませんね、どうしたんでしょう?」
「んー、みんなはね。クラスの手伝いするみたい。
ムギちゃんから聞いたよ」
どうやら上手く話してくれたみたいだ。
ムギ先輩には『ありがとうございます』と、
律先輩と澪先輩には『すいません』と、
それぞれ心の中で伝えた。
「また二人っきりだね、あずにゃん」
「そうですね、ところで唯先輩――」
まだ言うには早い、さり気なく伝えようか。
「あずにゃん?」
それとも、しっかりと向き合って伝えようか。
「えっと、ですね。その……」
「どうしたの?」
思わず顔を背け、両手をぎゅっと握り、全身が緊張して動けなくなった。
「もしかして……、カゼ治ってないの?
だったらみんなに言っとくから、
帰ったほうがいいかも……。わたし送ってくよ」
私は「違います」と首を横に振り、また沈黙した。
「もしかして、怒らせること言っちゃったかな?
そうだったら……ごめん、あずにゃん」
唯先輩は困ったような声で、そうつぶやく。
私との距離を測りかねているみたいに。
「……唯先輩はそんなこと言いません」
「だったら――」
唯先輩は身を乗りだし、一瞬たじろいだ。
二人のあいだに見えない壁があって、ぶつかるのを避けるみたいに。
手を伸ばせば触れる距離なのに、ちっとも届く気がしない。
そう思っていたのに、唯先輩は両手を伸ばしてきた。
私の肩に手を置き、悲しそうな目で見つめてくる。
その目は、『お願いだから話して』と語りかけているみたいだ。
たった二文字。
いや、先輩に対してだから四文字。
それを言うために悩んで、相談して、くじけそうになって、また勇気を出して。
ひとこと伝えるだけなのに。
そんな簡単なことができないなんて。
自分が情けなかった。
私の震えが唯先輩に伝わり、ますます心配そうな目を向けてくる。
「……唯先輩。怖いんです……。
言ったら嫌われるかも、軽音部にいづらくなるかも。
そんなことばかり考えてて、
もうちょっとなのに……勇気が、出なくて……」
唯先輩は体を近づけ、顔を私の左側に寄せる。
そのまま背中に両腕を回し、抱きしめてくれた。
いつものような強い抱擁とは違って、包み込むみたいに。
私の耳に、「あずにゃん」と言う声が飛び込んでくる。
それから、「大丈夫だよ」と言う声が飛び込んできた。
「わたしは……あずにゃんを嫌ったりしないよ、絶対。
軽音部のみんなも、そんなこと思ったりしないから」
抱き合ったまま、顔は見えない。
ベンチと壁と床しか見えず、唯先輩も似たようなものだろう。
「……はい」
目を合わせなければ言えると思った。
人の目を見て話さないなんて失礼な行為だけど。
でも、そうしないと言えそうになかった。
目を合わせたら、きっと伝えられない。
私は目を閉じて、両腕を唯先輩の腰に回して抱きしめた。
雪山で遭難した人間が、救助してくれた人間に感謝するみたいに。
「すき……、です…………」
腕に力を込める。
ぎゅっと。
「ゆい、せんぱい…………」
言えた、ようやく。
唯先輩は強く抱きしめてくれた。
それが告白の返事かもしれない。
長い時間そのままで。
二人抱き合ったまま、時間が過ぎる。
校庭からは運動部の声。
校内からは合唱部の声。
唯先輩の力がゆるみ、私もそれに合わせて力をゆるめる。
プレゼントのリボンがほどかれるみたいに体を離した。
私の体には、ぬくもりがかすかに残っている。
「えっとね……、あずにゃん」
「……はい」
いつになく真剣な顔で、落ち着いた声で、唯先輩が口を開く。
「…………ごめんね」
私の体から、ぬくもりが消えた。
こうなる気はしていた、やっぱり唯先輩は和先輩が。
「わたし気づけなくって、ごめんね……あずにゃん」
少しは可能性あると思ったんだけど。
「そういう――恋愛っていうのかな? よくわかんなくて」
初恋は実らないっていうし。
「だからね、教えて欲しいんだ。
あずにゃんの言う『好き』って気持ちを」
意外と冷静に受け入れていた、けど。
「は? え? どういうことですか?」
混乱して考えがまとまらない。
唯先輩は和先輩が好きで、私の告白を断ったはず。
「唯先輩!」
「う~ん、ようするに。
返事はオッケーで、だめかな?」
気の抜けた返事に、考えるのは面倒になって。
でも体は熱くなって。
主人に再会した猫みたいに飛びかかった。
「唯先輩のバカ! バカバカ! ばか……」
二人でベンチにもたれこみ、唯先輩の上で言葉を叩きつけた。
制服を引っかくように握り、顔を寄せて、涙声で。
「すごく怖かったんですから!
どれだけ悩んだと思ってるんですか!」
「あ、あずにゃん……。ちょっと待っ――」
「だいたい! 好きになるなってほうが無理なんです。
あんなに抱きついてきて……それだけじゃないけど、とにかく!」
「好きなんです! 唯先輩が!」
言いたいことは全部言った。
体をすり寄せながら、彼女の制服を涙で濡らす。
満足感とも脱力感ともいえない感覚に包まれ、体を唯先輩へ沈めた。
「――ありがと、あずにゃん」
「……なにがです?」
顔を見ないまま、力なく返事をした。
体を密着させると、心臓の鼓動が伝わってくるようだ。
「こんなにわたしのこと、考えてくれてたなんて」
「そんなの……感謝されることじゃないです」
唯先輩の腕が背中に回され、ぎゅっと抱きしめられる。
私の体に、ぬくもりが戻ってきた。
唯先輩の体温が私に染みわたり、心臓まであったかくなってくる。
いいな、こういうの。
今まで『やめてください』と言っていたけど、次からは黙っていようかな。
お互いひとことも発さず、放課後の喧騒に身をゆだねていた。
部室には相変わらず二人きり。
他の先輩たちはまだこない。
ベンチに両手をつき、肘を伸ばす。
体を浮かせ、二人のあいだに空間を作った。
そっと離れ、仰向けになっている唯先輩に視線を落とす。
彼女の肩が小さく上下している。
その様子から、深い呼吸をしているのがわかった。
満足気な目をして私を見つめなおす。
しばらく笑顔を交わし合い、唯先輩は上体を起こす。
私の隣に座りなおし、制服のタイと髪を整え、そっと身を寄せた。
二人の距離は肩が触れ合うほど。
「ねえ、あずにゃん。なんでわたしのこと好きになったの?」
「え……っと、そうですね――」
いざ聞かれると答えに詰まる。
いつも抱きついてくるけど、それだけじゃ決め手にならない。
好きになる要素というのは、あまりないのかもしれない。
でも、好きになるにも理由があるはず。
最終更新:2011年10月30日 20:21