玄関の靴箱まであと数歩という距離にまで近付いた時、急に後ろから声を掛けられた。
聞き覚えのある声だった。
って、私と唯を知ってる人なんだから、その声に聞き覚えがあるのも当然なんだけど。

自分で自分に突っ込みながら振り返ってみると、そこに立っていたのは信代だった。

「あ、信代ちゃんだ! おひさー!」

久しぶりの同級生との再会が嬉しかったのか、唯が信代に駆け寄っていく。
唯が軽く手を上げると、信代も手を上げてお互いに軽く叩き合う。

当然、私も信代と久々に会えて嬉しかったんだけど、
それよりも信代が学校に居る事の方が意外で唯に一歩出遅れる形になってしまった。
それも仕方がないと言えば仕方ないと思う。
『終末宣言』の直後、誰よりも先に学校に来なくなったのは、この信代だった。
見る限りでは学校が嫌いなわけでもなさそうだったし、
友達を大切にする面倒見のいいタイプの信代が真っ先に学校に来なくなったのは、私としても気になるところだった。

もしかしたら、何かの暴動に巻き込まれて……、なんて嫌な想像もしていたくらいだったし。
携帯電話で連絡を取ろうかとも思ったんだけど、
もし繋がらなかったら、って思うと、情けないけどその一歩を踏み出せずにいた。
でも、とりあえずは元気そうな信代を見て、私は心の底から安心した。
親友と呼べるほど親しいわけじゃないけど、それでも同じクラスで友達なんだ。
無事でいてくれて、本当に嬉しかった。
唯と違い、その場で黙ったままの私の様子を不思議に思ったのか、信代が首を傾げながら言った。

「どうしたの、律? ひょっとして私と会えなくて寂しかったとか?」

心情を見透かされた気がして、私は目を逸らしながら、違うやい、と返してやった。
くそー、信代のくせに生意気な……。
悔しいからこのまま信代と唯を置いてムギを迎えに行こうかとちょっとだけ思ったけど、
やっぱり信代が今まで何をしていたのか気になって、私はその場から立ち去る事が出来なかった。
悔しがっている事が分からないよう声のトーンを少し変えて、結局、私は信代に訊ねてみる事にした。

「そんな事より本当にどうしたんだよ、信代。
急に学校に来なくなったと思ったら、いきなりそんな私服で学校に登校してきて。
色気づいて指輪なんかもしちゃってさ。校則違反だぞ、校則違反ー!」

学校外で会う事が少ないから、私は信代の私服姿をそんなに見た事がないからはっきりとは言えない。
だけど、今日の信代の私服姿は、妙に色っぽいというか艶っぽいというか、とにかく色気があった。
服自体はしまむらで見かけるような普通の服装なのに、どうにも輝いてる感じがする。
普段は私と同じく、可愛いのとか興味ない感じだったのにさ。
何だよー。さわちゃんにキラキラ輝く方法でも教えてもらってたのか?

ひょっとしたら、この見慣れない信代の指輪の魔力とかだったりして。
この指輪をはめただけで志望校に合格、宝くじにも当たり、身長も伸びてお肌もツヤッツヤー!
ホントもう次々と幸運が舞い込んで来て、今ではあの頃の悩みが嘘のように! なんてな。
特に左手の薬指にはめる事で幸運が舞い込む確率が更に倍とか?
……って、あれ? 左手? そんでもって、薬指……?
えっ……?

「まあまあ、指輪くらいいいじゃん、りっちゃん。
いいなー。その指輪可愛いなー。その指輪、信代ちゃんが自分で買ったの?」

何も気付いていない唯が、羨ましそうに信代の指輪を見つめる。
私はと言えば固唾を呑んで、信代の次の言葉を待つ事しか出来なかった。
まさか……だよな?
ラブリングとかそういうの……だよな?
それはそれで、結構衝撃的ではあるんだけど。
そして、しばらく後、信代は照れた顔で頭を掻きながら、ある意味私の予想通りの言葉を言った。

「ははっ。校則違反は勘弁してよ。これ旦那から貰ったもんなんだからさ」
「えっ……? 信代……ちゃん……? 旦……那……?」

流石の唯でも事態が呑み込めてきたらしく、静かに深刻に信代に訊ねていた。
唯の質問に答えるために、ゆっくりと信代が口を開く。

その瞬間、もう確定している、と私は思った。
これから信代はもう確定している事を口にするだけだ。
それを私は分かっている。何を言うかも分かっている。分かり切っている。
だから、私は驚かないようにしよう。
これから多分叫ぶ唯を、大声で叫ぶな、と説教する役に徹しよう。
大丈夫。私は冷静だ。今更、信代の言葉なんかに驚かない。
私はクールに定評のあるりっちゃんだ。

しまった。
唯を説教するつもりが私も唯と一緒に一緒に叫んでしまった。
でも、それも仕方が事だった。
会話の流れからある程度予想してはいたけど、実際本人の口から聞くとやっぱり衝撃的だ。
これまでそんな素振りを全然見せなかった信代が結婚なんていきなり過ぎだろ。

「何? 私が結婚した事がそんなに意外?」

怒ってる様子じゃなく、普段見せる豪快な笑顔で冗談交じりに信代が言った。
さっきの私達の反応は失礼だったかもしれないけど、信代はそんな事なんか全然気にしていないみたいだった。
凄い余裕だ。
まさかこれが主婦の余裕ってやつか?

「いや、意外っつーか……。何つーかさ……」

私は頬を掻きながら言葉を探してみたけど、中々いい言葉が見つからなかった。
何て言うべきなんだろう。
友達が結婚した事自体が初体験なんだ。
この様子を見る限り、信代の結婚は嘘とか冗談じゃないみたいだし。
やっぱりこういう時は笑顔で祝福するのが正しい反応なんだろうか。
いや、それだと普通過ぎるから、少し冗談交じりに反応するべきなのか?

あー、分からん!
そうして私が悩んでいると、私が何を言うより先に唯が信代の両手を握って微笑んだ。

「凄いね、信代ちゃん! おめでとう!」
「ははっ、ありがとう、唯」

そう言って、いつも豪快な信代が照れた表情ではにかむ。
そうか。唯の反応が正解だったのか。
私はつい一人で感心して頷いてしまう。
前から思ってるんだけど、こういういざという時の唯の行動は間違いがない。
物怖じもしなくて、感じるままに行動してるだけなんだけど、
そんな風に単純だからこそ、正解までの最短距離を見つけられてるって感じだ。
私もそんな唯の単純さを見習う事にした。

「うん、そうだな。結婚おめでとう、信代。
先を越しやがってー。こいつめー!」

言いながら、信代に駆け寄って肩を軽く叩いてやる。
本当はチョークスリーパーを仕掛けてやりたかったんだけど、
私と信代の身長差じゃ信代にチョーキングを仕掛けるのは無理があった。

「律もありがとう。
私なんかあんた達みたいに可愛くないから、先に結婚しちゃって申し訳ないね」
「お、言うようになったな、こいつー!」

私が笑いながら何度も肩を叩くと、信代は更に気持ちいいくらいはにかんだ。

その笑顔は本当に眩しくて、信代だって十分可愛いよ、と私は思った。
確かに信代は体格もよくて、女子高生って言うより肝っ玉母さんみたいだけど、
それでもその笑顔や照れた仕種は女の私から見ても本当に魅力的だった。
会った事もない人だけど、信代の旦那さんも信代のそんなところに惹かれたんじゃないかな、と何となく思う。

「ねえねえ」

信代の手を取ったままの唯が、聞きたくて仕方がないといった素振りで信代に訊ねた。

「信代ちゃんの旦那さんって一体誰なの?
私達の知ってる人? 年上? 年下? ねえねえ、教えてよー」

信代より年下だと日本の法律では結婚出来ないんだが……。
突っ込もうかと思ったけど、今それを言うのも何だか無粋な気がした。
私はその唯の言葉をスルーして、信代の返事を待つ事にする。

「三歳年上だよ。幼馴染みの腐れ縁でさ。
元々、旦那が大学を卒業したら結婚するつもりだったんだけど、こんな状況だしね。
今の内にって事で、一ヶ月前に婚姻届けを出したんだ。
受け付けしてないんじゃないかと思ってたけど、意外と役所も開いてて律儀なおじさんが受理してくれたんだよ。
ちゃんと戸籍にまで反映されてるかは分かんないけど、でも、受け取って貰えただけでも気分的に嬉しかったな」

ほんの少し顔を赤くして、信代が語ってくれた。
本当に嬉しそうに。

幼馴染みか……。
一瞬、私の頭の中に澪の顔が浮かんだ。
他に幼馴染みがいないわけじゃないけど、私にとって一番近い幼馴染みはやっぱり澪だった。
傍に居なくちゃいけない。居て当たり前の私の幼馴染み。
勿論、そんな事を本人に伝える事はないだろうけど。
と言うか、伝えたらあいつの中の感情が一周回って「恥ずかしい事を言うな!」と逆に殴られそうな気がする。
あいつに殴られ慣れているせいか、どうしてもそんな気がする。
非常にそんな気がする。
私の思い過ごしならいいんだけど……。

「おー! 幼馴染み!
いいなー! 私も幼馴染み欲しいなー」

そうやって声を上げたのは、勿論唯だった。
私と違って、唯の方は自分の幼馴染みを思い浮かべなかったらしい。
おいおい。この事を知ったら、和泣くぞ。
いや、泣く……かな?
どうにも和には何かで泣くイメージが無いな。
和の事だから、冷静に何も聞かなかった事にするだけのような気がするし。
それはそれで長い付き合いの幼馴染みの姿ではあるんだろうけど。

「だけど、水臭いぞ、信代ー。
幼馴染みと付き合ってるなんて、一言も言ってなかったじゃんかよー」

私が頬を膨らませて言ってやったけど、それでも信代は穏やかな表情のままで続ける。

「ごめんって。聞かれなかったし、自分から言うのも何か恥ずかしくってさ。
大体、嫌じゃん? 聞いてもないのに自分から彼氏が居るって言い出す奴って」

それは確かに嫌だな……。

信代から見ても嫌そうな顔をしていたんだろう。
苦笑しながら、信代は話題を変えた。

「でも、こんな時期だからって、本当はこんなに急いで結婚するつもりじゃなかったんだ」
「え? そうなのか?」

私が信代の顔を覗き込みながら訊ねると、軽く信代は頷いた。
頷いたその信代はこれまでの照れ臭そうな笑顔じゃなくて、
そうだな……、何て言うんだろう……、
何かを懐かしそうに考えているみたいな……、『郷愁』……だっけ?
とにかくそんな静かで優しい表情をしていた。

「卒業したら進路はどうするつもりか、確か唯には話した事あったよね?」
「うん、覚えてるよ。酒屋さんのお手伝いだよね?」

信代が訊ねると、間髪入れずに唯が自信満々で応える。
てっきり「そうだっけ?」と首を捻るもんだと思ってたんだけど、
意外に覚えてる事は覚えてるんだな、と私は唯の記憶力に感心した。
と言うか、普段から私と唯自身の言った事も覚えておいてくれると助かるんだけどさ。
とにかく、その信代の進路については私も知っていた。
信代自身から直接聞いた事はないけど、
信代の家が酒屋だって事は聞いた事があるし、
卒業後はそこを手伝うらしいという話も、又聞き程度で聞いた事はあった。

「先月に『終末宣言』があったじゃん。
それでさ、私はこれからどうしたいのか考えたんだよ。
これからどうなるか分からないし、
テレビで言ってる通りなら一ヶ月半後には死んじゃうわけだし」

死んじゃう。
何気なく言ったんだろうその信代の言葉に、少しだけ私の心臓が高鳴る。
だけど、それを顔に出さないように、黙って信代の言葉の続きを私は待つ。
今はまだ、誰かが死ぬとか自分が死ぬとか、そういう事を考えたくなかったから。

「それで単純だけど、私はやっぱりうちの酒屋を手伝いたいって思ったんだ。
欲を言うと日本一の酒屋になりたかったんだけど、流石にこんな短期間じゃね……。
でもさ、だったらせめて少しでも日本一の酒屋に近付いてやりたくってさ。
それで長いこと、学校に来てなかったんだよ。
ずっと家で酒屋の仕事をやっててさ。大変だけど、とてもやりがいがある仕事なんだ。
こんな時期でも、うちの常連の飲んだくれのおっちゃんとかが毎日来るしね。
どんだけ飲むんだよー、って感じだけどね」
「信代ちゃん、カッコイイ!」

茶化すわけではなく、本気の表情で唯が拍手していた。
釣られて私も拍手してしまう。
唯の言うとおり、そう語った信代の姿は本当にかっこよかったから。
少なくとも、色んな事を考えないようにしてる私より数十倍は。

……って、そんな卑屈になってる場合でもないか。
私は頭を振って気を取り直して、信代に話の続きを催促する事にした。
卑屈になる事はいつだって出来るからな。そういうのは一人ぼっちの時にするべきだ。

「それで信代?
酒屋さんの手伝いをしてたのは分かったけど、
結婚するつもりはなかったってのはどういう事なんだ?
何か旦那さんに不満でもあったのか?」

そう私が訊ねると、また顔を赤くして信代が笑った。

「いやいや、旦那に不満なんてないよ。
そもそも私を嫁に貰ってくれるだけで感謝ですよ。
小さい頃から、嫁の貰い手があるかお父さんにはよく心配されてたからね」
「じゃあ何で?」
「まだ結婚する前の旦那にさ、
学校を辞めてうちの酒屋を手伝いたいって伝えたんだ。
少しでも酒屋って仕事を経験しておきたいって。
そうしたら、あいつ、言ってくれたんだよ。
『俺もお前と酒屋をやる。お前のやりたい事が俺のやりたい事だ』ってさ。
気障だよね。言ってて自分で恥ずかしいよ」

確かに気障だった。
気障で気恥ずかしいけど、素敵な話だった。
信代はそういう最後の時まで一緒に居られる相手を見つけられたって事なんだ。
それはとても素敵な話だ……、けど、つい私の背中が痒くなってしまっていたのは内緒だ。
いや、分かってはいる。
分かってはいるんだけど、そういう気障な話とかメルヘンな話とかはどうにも痒くなる。
それは私の持って生まれた性格で、どうにも変えようがないんだよなー。
申し訳ないけど、この辺は本当に勘弁して頂きたい。

だけど、羨ましかったのも確かかな。
私にも最後の瞬間まで一緒に居たい誰か、居てくれる誰かは出来るんだろうか。
その時、またも一瞬浮かんだのは澪の顔だった。
我ながら色気無いな、と思いながらも、澪だったらどうだろうと私は考える。
澪なら最後まで居てくれる……とは思うけど……、いや、多分……。
腐れ縁の関係ではあるけど、あいつも私と一緒に居たいとは思ってくれているはず。
それが世界の最後までかどうかは分かんないけど、少なくとも私の方はまだあいつと離れたくなかった。
でも、もし……。
もしもあいつが誰か違う人と一緒に居たいと言い出したら、
私は気持ち良くあいつを送り出してやる事が出来るだろうか……?

それはまだ、考えても仕方がない事だけどさ。
と。

「信代ちゃん、いいなー。私も結婚したいなー」

そんな私の思いに完全に気づいてないだろう唯が信代に向けて憧れの眼差しを向けていた。
やっぱりこいつの方はずっと変わらないんだな。

「はいはい。
唯ちゃんは結婚するよりも先に彼氏を作りまちょうねー」

からかう感じで私が言ってやると、
唯はまた頬を膨らませて「りっちゃんだってそうじゃん」と呟いた。
それはそれとして、そんな変わらない唯の姿にとても安心している私が居た。
色んな事が変わっていく。
世界も、人も、終わりに向けて変わっていく。
それは多分、必要な事なんだろうけど……。
でも、変わらない誰かが居てくれるってのは、何だかとても嬉しかった。

「それでさ」

急にまた信代が続ける。
私は苦笑して唯を見ながら、信代の言葉に耳を傾けた。

「そんな感じであいつがうちを手伝ってくれる事になったんだ、それも住み込みでさ。
もうこの際だから、入籍して夫婦で酒屋を盛り上げようって事になってね。
それでずっとうちを手伝ってて忙しくてさ、つい皆に連絡を取り忘れてたんだよ。
律も唯もごめんね」

私は軽く頭を振って、いいよ、とまた信代の肩を叩く。
そういう事情なら怒るに怒れないじゃないか。
そもそも怒ってたわけでもないけどさ。

「でも、今日はどうにか時間が出来たから、学校に来てみる事にしたんだ。
しばらく皆と会えてなかったし、それに……」
「それに……?」

私が先の言葉を催促すると、何処か寂しそうな顔で、でも、何かを決心した顔で、信代は言った。
あくまで明るく、いつも通りの肝っ玉の太い信代の声色で。

「今日はお別れの言葉を伝えに来たんだよ。
友達とか、先生とかにさ。もう皆と会えるのも最後かもしれないからね」

そんな今生の別れでもあるまいし、と私は明るく軽口を叩こうと一瞬考えたけど、やめた。
そうだったな。
本気で今生の別れになるかもしれないんだよな。
もう、そんな時期なんだよな……。
ほんの少しの沈黙。
唯も少し視線を落として、何となく寂しそうに見える。

私も何を言えばいいのか分からなくて、どうしようかと少し迷ったけど……。
それでも私は信代の背中側に周って、背中から飛び付いてチョーキングの体勢を取っていた。
信代もちょっと驚いたみたいだったけど、私を振り落としたりはしなかった。
やっぱりと言うべきなのか、その体勢はチョーキングと言うより、
私が信代におんぶされてるみたいになってて、それを見てた唯が軽く笑った。

「あはは。二人とも何やってんのー?」
「いやいや、私は何もやってないし。律が勝手に飛びついて来ただけだよ」
「うるへー。考えてみりゃ、信代にチョークスリーパー掛けた事無かったからな。
折角だから、存分に味わっとけい!」
「うわ、無茶苦茶だ」

顔は見えないけど信代が苦笑したらしく、
信代の背中越しに見えた唯もそれに釣られてまた笑っていた。
私も多分笑っていた。
その顔は三人とも寂しさを含んではいただろうけど、今出来る最高の顔だったと思う。
そうして一分くらい信代の背中におんぶされて、
私は存分に信代をチョーキングしてから身体を離した。
唯の隣に戻って、信代の表情をうかがってみる。
ずっと私をおんぶしていたのに、信代は疲れた様子を全然見せずに笑っていた。
流石は信代。桜高最強の女(多分)。

「さてと……」


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最終更新:2011年10月31日 20:42