名残惜しそうに信代が呟く。
私も、多分唯も、次に信代が何を言おうとしているのか分かっていた。
その言葉は出来れば聞きたくなかったけど、それを止めるわけにもいかなかった。
私達は私達で、信代は信代で、しなきゃいけない事は違ってるんだから。

「そろそろ行かないと。まだ挨拶したい人は多いし、約束もあるしさ」
「そっか……」
「でも、律達に会えて本当によかったよ。
一応、軽音部の部室にも顔を出そうかとは思ってたんだけど、時間が取れるか分からなかったし……」
「もうすぐムギも来るから、会っとけよ」
「いや……、でも行くよ。春子とか待たせてるしさ。流石にもう行かないと」
「だったらさ、信代ちゃん。よかったらなんだけど……」

珍しく遠慮がちに唯が言った。
私は口を噤んで、唯の言葉を待つ事にする。
こいつが口ごもりながら何かを言う時は、本当に真剣に何かを考えてる時だから。

「どうしたの、唯?」
「今度、軽音部でライブやる予定なんだけど、よかったら信代ちゃんも見に来てよ。
部室でやる小さなライブなんだけど、本当にすごいよ!
歴史に残るくらいのすっごいライブだから!」
「おいおい……」

呆れた表情で軽く唯の頭をチョップしてやる。
唯の発案自体が悪いわけじゃないんだけど……。
私はチョップを唯の頭に置いたままノコギリみたいに動かしながら、言葉を続けた。

「歴史に残るライブって、まだ日にちも決まってないだろ。
大体、身内で、ライブやれたらいいな、って話してるだけじゃんか」
「えー……。でも、きっとすごいライブになるよ!
絶対歴史に残るし! て言うか歴史に残すし!」
「何だよ、その自信は……」

普段と変わらない私と唯の馬鹿なやり取り。
自分でも馬鹿みたいだな、とつくづく思う。
でも、それを見てる信代は笑ってくれた。

「いいね。時間は出来るだけ……、ううん、絶対空ける。
澪達にも会いたいし、放課後ティータイム……だったよね?
私、実は結構あんた達のバンドのファンだし、楽しみに待ってる。
ライブの日程が決まったら、すぐに教えてよ」
「おー、流石は信代ちゃん!」

何が流石なのかは分からなかったが、信代の言葉に唯は満面の笑顔で喜んでいた。
私も、オッケー、と言いながら、信代とハイタッチを交わした。
ありがとう、信代。
心の中でだけそう言って、そうして私達はまずは春子と会うという信代を見送った。
三人とも笑顔で、とりあえずの別れを交わせた。
完全に信代の姿が見えなくなった頃、唯が何かに感心している様子で呟いた。

「何か……カッコよかったよね、信代ちゃん……。
女の『みりき』に溢れてるって言うか……」
「『魅力』な」
「むー……。分かってるよ。ついだよ」
「どっちだよ。
でも、分かるよ。
人妻の艶めかしさっつーか、セクシーさっつーか、とにかく余裕があったよな」
「あれが人妻のみりきなのか……」
「魅力な。まあ、いいや。とりあえずムギを迎えに行こうぜ」

私がそう言った瞬間。
背筋に何らかのどす黒いオーラ的な何かを感じた。
そのオーラ的な何かは本当に何の前触れも無く、私達の背後に現れていた。
瞬間移動でもしているかのようだった。
な、何を言ってるか分からねーと思うが、私も何をされたのか分からなかった。
催眠術とか超スピードとか、そんなチャチなもんじゃ断じてねえ。
もっと恐ろしい物の片鱗を……。

って、よく考えなくても私の知っている人の中には、そういう神出鬼没な人が居たんだった。
若干呆れつつ振り返ってみると、予想通り私達の顧問の先生が何故かその場に崩れ落ちていた。

「何やってんだよ、さわちゃん……」

小さく訊ねてみたけど、
さわちゃんは私の言葉に反応せずに何かを呟いていた。

「……された」
「何?」
「先を越された……」
「だから何?」
「中島さんに先を越された……。
生徒に……、よりにもよって生徒に……」
「あー……」

それ以上、私は何を言う事も出来なかった。
とても残念ではあるんだけど、
それに関して私がさわちゃんに言ってあげられる言葉はありそうにない。
と言うか、ずっと聞いてたのかよ。
いや、確かに信代が結婚したって話を聞いたら、そりゃ顔を出しにくかっただろうけど。
どうしたものか、と首を捻っていると、唯が事もなさげに軽く言い出した。

「大丈夫だよ、さわちゃん!
さわちゃんはまだ結婚してないかもしれないけど、私達だってまだ結婚してないから!」
「いや、それ何の慰めにもなってないから……」

私は唯の頭を掴んで軽く揺らしながら突っ込む。
それでも、唯は自分の発言の何が問題だったのか分かってないみたいで、きょとんとしていた。
そうなんだ。
こいつはこれでも本気でさわちゃんを慰めてるつもりなんだ。
私はそれをよく分かっているし、さわちゃんもそれだけは長い付き合いでよく分かってるみたいだった。
その場に崩れ落ちた体勢のままだったけど、さわちゃんは軽く苦笑を浮かべて私達を見つめた。

「そうね……。私はまだ結婚してないけど、貴方達も結婚してないものね……。
特に貴方達は彼氏が出来た事すらないものね……。
それに比べれば私なんてまだまだ幸せな方よね! ファイトよ、さわ子!」

拳を握り締めて、さわちゃんは自分に言い聞かせるよう気合を入れる。
ちょっと心配してみたらこれだ……。
彼氏が出来た事がないのは本当だけど、それを人に言われるのはちょっと腹立つな。
私の隣に居る唯も微妙な顔でさわちゃんを見つめていた。
私の知る限り、唯にも彼氏が出来た事はなかったはずだし。
そもそも男に興味があるのかどうかも怪しいし……。

まあ、さわちゃんが元気になったのは何よりだ。
私は唯の手を取って、唯と顔を見合わせる。

「さて、もうすぐムギも来る事だし、幸せな人は置いといて急ごうぜ、唯」
「あいよ! そうだね、りっちゃん!」

そうして二人でさわちゃんに背中を向け、私達は校門への新たな一歩を踏み出そうとして……。

「ちょっと、二人ともぉ!」
「うわっ!」
「おっとと! 掴まって、りっちゃん!」

さわちゃんに私の脚を掴まれ、体勢を崩して倒れそうになってしまった。
唯が私の手を支えてくれたおかげで倒れずにすんだけど、正直、結構危なかった。
体勢を立て直し、ありがとな、唯、と軽く頭を下げた後、
私は出来るだけ嫌そうな顔でさわちゃんに言った。

「ちょっとさわちゃん……、危ないじゃんかよー」
「それはごめんなさい……。確かにやり過ぎちゃったわね……。
でも、一週間ぶりに会った先生を置いて、そんなに急いで行かなくてもいいじゃないの。
この一週間何やってたの? とか聞いてくれてもいいじゃない」

聞いて欲しいのか……。
確かにこの一週間、さわちゃんの姿を見かけなかったし、何をやってたのかは気になるけど……。
でも、その言葉通りに、ただ聞いてあげるのも面白くないな。
そこで私は一つ少し意地の悪い事を思い付いた。
信代の結婚にショックを受けてた姿から考えるに、この一週間彼氏と過ごしてたわけでもなさそうだ。
倒されそうになった仕返しにその辺を弄ってみる事にしよう。
私はニヤリと意地の悪い笑顔を浮かべ、さわちゃんの肩に手を置いた。

「この一週間何をやってたかなんて、聞かなくても分かるよ、さわちゃん。
彼氏とめくるめく愛へのハイウェイ的なアバンチュールを過ごしてたんだろ?」
「おー、アバンチュール!」

アバンチュールという言葉の響きが好きなのか、唯が大袈裟に強調してくれる。
相変わらずよく分からない所にツボがある奴だな。
それに対して、何故かさわちゃんはしばらく反応を見せなかった。
あれ、おかしいな。いつも通り顔を伏せて嘆いてくれると思ったんだけど……。
ちょっと意地悪過ぎたかな、と私が不安になりかけた時、急にさわちゃんが驚いた表情を浮かべた。

「ど……、どうして知ってるのっ?」
「えっ? マジでっ?」
「いや、マジで、って何よ。私だって彼氏とアバンチュールする事くらいあるわよ。
実はね、前の彼氏とやり直す事になったの……。
それでこの一週間、二人で温泉旅行に行ったりして、ずっとアバンチュールしてたのよ」
「すごいよ! 温泉でアバンチュールなんて大人の関係だよね、りっちゃん!」
「そうだな、唯……。まさか本当にさわちゃんにそんなアバンチュールが……」

唯と二人で意外なさわちゃんの大人の一面に感心してしまう。
彼氏と二人で温泉旅行のアバンチュールしてたなんて……。
つい私はタオルも巻かずに混浴に入るさわちゃんと彼氏を想像してしまう。
二人は見つめ合い、いつしか唇を重ねてそのまま……って、何考えてんだ私!
何だか顔が熱い。自分でも自分の顔が赤くなってしまっているのが分かるくらいだ。
知っている人のそんな姿を想像してしまうのは、どうにも気恥ずかしくてたまらない。

どうしても落ち着かなくて、私は唯の顔を気付かれないように覗いてみる。
唯も私と同じ様な事を考えているんだろう。唯の顔も少しだけ赤くなっているように見えた。
そういう情報に疎く見える唯だけど、普通の女子高生並みの知識はあるに違いない。
って、そういえば前に唯に聡の隠してたそういうビデオを貸したのは私だった。
いや、ほら、私達も女子高生なわけで。そういうビデオを観たくなる事もあるわけで。
あー、もう、だから、とにかく!
そんな感じで私と唯が黙り込んで悶えていると、急にさわちゃんが大きな笑い声を上げた。

「あっははは! 何、赤くなってんのよ、二人とも。
冗談よ、冗談。この一週間は実家の整理とか同級生と会ったりとかしてただけよ。
彼氏が居たとしても、流石に一週間も温泉旅行なんか行くわけないじゃない。
それにしてもそんなに赤くなるなんて、幼く見えるけどあんた達も年頃なのねえ」

一瞬、さわちゃんが何を言い出したのか、私には分からなかった。
それくらい状況が呑み込めなかった。

数秒経ってからようやく私は、ああ、そうか、と思った。
からかったつもりが、逆にからかわれてたんだ。
それが分かった瞬間、急に悔しさが込み上げてきた。

「くっそー、騙したな!」
「謀ったな、さわちゃん!」

唯と二人で頬を膨らませて文句を言ってやったけど、
さわちゃんは、てへっ、と舌を出して首を傾げるだけだった。

やられた……。
普段、彼氏ネタで弄ってるからお約束の鉄板だと思ってたのに、まさかそれに返しネタを用意してくるなんて……。
大体、信代の結婚にショックを受けてたんだから、
彼氏が居ない事は分かってたはずなのに、完全に予想外の返しに思考停止しちゃってた……。
さわちゃんめ。悔しいけど三年生のこんな時期になってお約束を崩すなんて、敵ながら天晴れ。

「でもね。一つ嘘じゃない所もあるのよ」

急にさわちゃんが遠い目になって語り始める。
まだ悔しくはあったけど、とりあえずさわちゃんの言葉を聞いてみる事にした。

「そう。あれは一週間前の事……」
「その語り口、好きだよな、さわちゃん」

「黙って聞きなさい。
それでね、さっき前の彼氏とやり直す事になったって言ったでしょ?
実は前の彼氏から「やり直そう」って言われた事だけは本当なのよ。
これだけは嘘じゃないわよ。
急に一週間前に呼び出されてね、何の用事かと思ったらそう言われたの」
「でも、やり直さなかったの?」

また聞きにくい事を平然と唯が聞いていた。
でも、聞かないわけにもいかない事でもあるか。
今も彼氏が居ない事を嘆いてるって事は、つまりその前の彼氏とはやり直さなかったって事なんだから。
さわちゃんもその辺はちゃんと話そうと思っていたのか、特に唯を怒るわけでもなく続けた。

「そりゃそうよ。もう終わっちゃった関係だもの。
大体、振られちゃったのは私の方なのに、
それをこんな時期だからって都合よくやり直したいって言われてもね。
そう言われてもね……」

そこまで言うと、急にさわちゃんの身体が痙攣するように震え始める。
冬の始まりと言っても、まだ寒いわけじゃない。
勿論、唯の発言に怒っているわけじゃない。
私達に対する怒りじゃない。
つまり……。
と。
さわちゃんが唐突に立ち上がって眼鏡を外してから叫んだ。

「大体なあっ!
もうすぐ死ぬからって昔の女に縋り付くって根性が気に入らねーんだよ!
死が何だっつーの! こちとら死の悪魔の『DEATH DEVIL』だっつーんだよ!
しかも、後で調べてみりゃ、いつの間にか結婚してて妻子持ちだっつーじゃねーか!
不倫させるつもりだったのかよ!
ざけんじゃねーッ!」

あーあ、やっぱり出たよ、『DEATH DEVIL』……。
でも、まあ、仕方ないか。
自分から振っておいて、しかも結婚してて、
それでこの際だからって感じで昔の彼女とやり直そうとするとか、さわちゃんじゃなくても怒るよ。
勿論、その前の彼氏の方に何か事情が無かったとは言い切れない。

ひょっとしたら、この時期になって、最後の時間を目前にして、
本当に傍に居たかったのはさわちゃんだって気付いたのかもしれない。
それで今更だけど、やり直そうとしたのかもしれない。
気持ちは分からないでもないけど……。
だけど、それは多分、やっちゃいけない事なんだ。
だから、さわちゃんは怒ってるんだろう。

「大体なあっ! 大体なあ……。
何よ、もう、今更……。
あーあ、もう……」

さわちゃんの『DEATH DEVIL』モードは結構短い。
これまで何回か見て来たけど、どの時も数分で元に戻っていた。
今回も同じ様に素に戻ったんだろう。
眼鏡を掛け直して、さわちゃんはまたその場に崩れ落ちた。

泣いているわけじゃなかったけど、そのさわちゃんの姿はとても寂しそうに見えた。
身勝手な前の彼氏の行動に怒っているのは確かなんだろう。
それでも、本当は少しだけやり直したい気持ちもあったんだろう。
だから、信代の結婚を羨ましく思っているわけだし。
残された時間も少ないし、本当はやり直すという選択もありなんだろうとは思う。
思い残しの無いように、最後に何もかも捨てて誰かに縋るのも一つの選択なんだ。
それを選んでも、誰もさわちゃんを責めないだろうけど……。
だけど、さわちゃんはそれを選ばなかった。
さわちゃんには悪いけど、私はそれがとても嬉しいと思う。
それは多分……。
私はしゃがみ込んで、またさわちゃんの両肩に手を置いて言った。

「さわちゃんは立派だよ。皆、そんなさわちゃんの事が好きだよ」
「りっちゃん……」
「私だってさわちゃんの事が大好きだよ!」
「唯ちゃん……」
「さあ、立って、さわちゃん。
もうすぐムギが美味しいお菓子を持って来るからさ。
部室で一緒に食べよう」
「ムギちゃんが……。ねえ、りっちゃん……」
「うん……」
「りっちゃんの分のお菓子も分けて貰っていい?」
「うん……。って、うおい!」

私が突っ込んで頭を軽く叩くと、その時のさわちゃんはもう笑顔だった。
悲しくないわけでもないし、後悔してないわけでもないと思う。
それでも、さわちゃんは……、私達の顧問の先生は笑顔だった。
きっとそういう風に生きて、そういう風に終わりを迎えてくれるんだ。


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最終更新:2011年10月31日 20:43