オカルト研の部室の中の二人を十分くらい見てたと思う。
急に澪が私の手を引いて、「行こう」と小さく囁いた。
何処に行くのか私は少し不安になったけど、
澪に手を引かれて辿り着いた場所は軽音部でない方の音楽室だった。

そうだった。
そういえば私達はさわちゃんの授業を受けるんだった。
そんな事、すっかり頭の中から消え去っていた。
最初は部室に寄る予定だったけど、
オカルト研を覗いてたせいでそんな時間も無くなってしまっていた。
それで澪は直に私を音楽室に連れて来たんだろう。
さっきまで私の言葉も聞かずにオカルト研を覗いてたくせに、
急に妙に冷静になっている澪に私は何も言えなかった。
何を考えてるんだよ、澪は……。

さわちゃんの授業は面白かった……と思う。
授業にはムギと唯も参加していて、
久し振りに四人で受ける授業はとても嬉しかった。
だけど、そんな折角の授業なのに、どうしても私は授業に身を入れる事が出来なかった。
身を入れられるわけがない。
授業中、ずっと澪の視線を感じていたからだ。
実際に見られてるわけじゃないかもしれない。
単に私の自意識過剰な所が大きいんだろう。
でも、意識し始めるとどうしようもなかった。
澪に見られてると思うと、どうやっても授業に集中出来なかった。

授業の後、皆で部室に向かおうとした時、
そういや予定があったんだ、ってわざとらしい言い訳をして、私は皆の中から抜け出した。
居心地が悪くて、澪の傍には居られなかった。
本当はずっと傍に居たかった。
世界が終わるらしいって聞いてから、私は最後まで澪の傍に居たいと思ってた。
無理に家の中から連れ出してまで、澪には傍に居てほしかった。
澪に私が必要なんじゃなくて、私に澪が必要なんだ。
だけど、それはこんな意味でじゃない。
こんな居心地の悪さを求めてたわけじゃない。
だから、私は逃げ出したんだ。

「あー……。何やってんだ、私は……」

皆から抜け出した先、
軽音部から少し離れた廊下の窓から校庭を見下ろしながら、私はつい口にしていた。
どうしようもない自己嫌悪。
こんなんじゃ駄目だ。
このままじゃ駄目だ。
『終末宣言』以来、何度そう思ったんだろう。
何度そう思いながら、何も変えられなかったんだろう。

「ちくしょー……」

自分の情けなさが悔しくて、拳を握りながら吐き捨ててみる。
勿論、そんな事で何も変わるわけがなかった。
ただ悔しさが増しただけだった。
悔しさをずっと感じながら、それでもどうしようもない私は校庭を見回してみる。
校庭を見回したところで、何も解決するはずがないのに。
それでも、私は他に何も出来なかった。

見下ろしてみた校庭は『終末宣言』前と何も変わってないように見えた。
生徒の数こそ減ってるけど、それ以外はほとんど何も変わってない。
その何も変わってない校庭に、私はよく知っている長い黒髪を見つけた。
澪じゃない。
梓だ。
最近、様子のおかしい梓。
どうにか手助けをしてあげたい私の大切な後輩。
その梓は何かを探してるみたいに足下を見下ろしながら歩いていた。

「おーい、あず……」

反射的に手を上げて声を掛けようとして、その途中で私の言葉は止まった。
声を掛けて、どうする?
声を掛けて、どうなる?
こんな今の私が、何も言おうとしない梓の力になってやれるのか?
それとも、代わりにどうしようもない私の愚痴を聞かせるつもりか?
答えは出ない。

でも、途中までしか出なかった私の言葉は、梓の耳に届いていたらしい。
梓は顔を上げて、私の方に視線を向けた。
梓と私の目が合って、視線がぶつかる。
その一瞬、気付いた。
梓が泣きそうな顔をしている事に。
多分、今の私と同じような顔をしている事に。

梓の表情を見た私は、何とかしなきゃと思った。
小さくて弱々しい後輩の力にならなきゃと思った。
何も出来ない私だけど、何とかしてあげたかった。
今度こそ、私は梓の悩みを聞きだすべきだった。
だから、私はなけなしの勇気を振り絞って、喉の奥から言葉を絞り出そうとした。

「あず……」

だけど、その言葉はまた途中で止まる事になった。
私と目の合った梓が私から目を逸らして、すぐに校庭から走り去ってしまったから。
まるで私から逃げ出すみたいに。
それでも追い掛けるべきだったのかもしれない。
でも、なけなしの私の勇気は、逃げ出していく梓の姿に急に萎んでしまって……。
身体から力が抜けていくのを感じる。
脚に力が入らない。
私はその場に座り込んで、頭を抱えてとても大きな溜息を吐いた。

ひょっとして……、と思った。
私はずっと梓は何かに悩んでいるんだと思ってた。
私達に言えない何かを抱えて、ずっと無理に笑ってるんだと思ってた。
でも、ひょっとして……、それは違ったのか?
梓は私と関わりたくなくなっただけなのか?
私の近くに居たくなくて、それでするはずのないミスを連発していたのか?
そんなにまで、私の事が嫌いになったのか……?

ひどい被害妄想だ。
梓がそんな事を考える子だと思う事自体、梓に対して失礼だ。
でも、駄目だった。
澪の視線を感じると気になって仕方がなくなったのと同じに、
梓に嫌われてるんじゃないかと思い始めると、その考えが私の頭から離れなくなった。
それにそれは、ずっと思ってなくもなかった事でもあったんだ。
梓はずっと真面目な部活を望んでた。
練習をせずにお茶ばかりしている私に呆れてた。
その不満と呆れが今になって爆発したんじゃないか。
世界の終わりを間近にして、その嫌悪感を隠す事が出来なくなったんじゃないか。

「あいつの近くで何をやってたんだ、私は……」

また呟いた。
ほとほと自分が嫌になって来る。
被害妄想が頭から離れない自分が嫌だったし、
それ以上にその考えを被害妄想と言い切れない自分がとても嫌だった。

世界は終わる。もうすぐ終わる……らしい。
多分、それまでに皆、本当の自分を嫌でも見せ付けられる事になる。
私が今、見たくなかった自分の弱さを見せ付けられているみたいに。
こうして世界の終わりを目前にして、
隠していた本当の自分を曝け出して、ありのままで死んでいく事になるんだろう。
そこまで考えて、私はやっと気付いたんだ。
私達はもうすぐ死ぬんだって事に。
死ぬ……んだ。
来週を迎える事も出来ないんだ。
それまでの時間は、当然だけど止められない。
ずっと考えないようにしてきた事だった。
考えないようにして、普段通りの生活をしないと耐えられなかった。
世界の終末……。
その現実を分かっているつもりで、私は何も分かってなかったんだろう。

急に。
考えないようにしてた想いとか感情とか、
そんな色々な物が私の中で目眩がするくらいごちゃごちゃになって……。
それが吐き気になった。
私は近くにあった女子トイレに駆け込んで、思わず吐いた。
初めて心の底から感じる死の恐怖に、私は何度も吐く事になった。
死にたくない……。
死にたくないなあ……。




しばらく吐いた後。
酸素が行き渡らなくてふらふらする頭で女子トイレから出ると、
何の気配もなく後ろから近づいて来た誰かに優しく背中を撫でられた。
見られた……?
自分の情けない姿を見られたかもしれない事が恥ずかしくて、
私の心臓が少しだけ早く動いてしまっていた。
特に軽音部の部員の誰かに、こんな弱い自分なんて見られたくなかった。

緊張しながら振り返ってみて、私は驚いた。
本当に驚いて、しばらく声が出せなかった。
多分、そこに軽音部の誰かが居たとしても、そこまで驚かなかったかもしれない。
それくらいに意外な人が私の背中を撫でてくれていた。

「平気?」

その誰かは特徴的なクルクルした巻き毛を揺らして、私の表情を覗き込んでいた。
その顔は普段の無表情だったけど、
反対に背中を撫でる手付きはとても優しくて、それがまた意外で私は言葉を失っていた。
いや、普段のその人を知ってたら、そりゃ誰だって声が出せないよ。
だって、私の背中を撫でてくれていたのは、
私のクラスメイトの中でもクールで無表情な奴の代名詞こと、
いちごだったんだから。
あの若王子いちごだぞ?
無表情なままではあったけど、
いちごがこんな事をしてくれるなんて誰も想像もしないよ……。

ずっと黙ったままの私を変に思ったんだろう。
無表情に首を傾げながら、いちごがまたぼそりと私に訊ねる。

「平気?
私じゃ不満?
軽音部の方がよかった?」

ぶつ切りの言葉で分かりにくかったけど、
つまり私の背中を撫でてるのが軽音部の部員じゃなくて、
いちごだったのを不満に思ってるのかって事なんだろう。
いやいや、もし本当にそうだったら、何様なんだよ、私……。
私は誤解を解くために首を振った。
いちごとは特別に仲が良いわけじゃなかったけど、そんな誤解はされたくなかった。

「そんな事ないよ、いちご。
……ごめん、心配掛けたな」

「別に心配はしてない。
急に女子トイレに駆け込むから、何事かと思っただけ」

「さいですか……。
でも、ありがとうな」

「別に。お礼なんて要らない」

相変わらず無表情でぶっきら棒な奴だった。
普段なら取り付く島も無いと引き下がるところだったけど、
今日のところはそういうわけにもいかなかった。
私は背中を撫でてくれていたいちごの手を取って、軽く右手で握った。
バトンをやっているせいか少し豆があったけど、それでも小さくて柔らかい手だった。

「ありがと、いちご」

「だから……、そういうのはいいよ」

そう言っていちごは私から目を逸らしたけど、嫌がってるわけじゃないみたいだった。
無表情だから分かりにくいけど、もしかしたら照れているのかもしれない。
いつもクールないちごの意外な一面を見れた気がして、少し嬉しかった。
それで私の顔が少しにやけてしまっていたのかもしれない。
いちごが急に私と目を合わせると、無表情だけど神妙な声色になった。

「急に吐くなんてどうしたの?
妊娠?」

「そんなわけがあるか!」

「そう……」

「もしかしてからかってる……?」

「さあ……」

やっぱり分かりにくいなあ……。
でも、それは別に嫌じゃなかった。
長い付き合いじゃないけど、いちごはそういう分かりにくい奴なんだ。
分かりにくいけど、多分、それがいちごで、それでいいんだよな。
私はそうして一人で納得してから、いちごの手を取ったまま訊ねてみた。

「いちごの方こそどうしたんだよ。
最近、いつも学校で見るけど」

「そっちもね」

「私は高校生の鑑だから、どんな状況でも学校に来るのだよ、いちごくん」

「じゃあ、私もそれで」

「じゃあ、ってなんだよ。じゃあ、って……」

私は苦笑したけど、いちごは無表情のままだった。
だけど、その顔は単なる無表情とも違っていた。
本当に分かりにくいけど、
よく観察すると何となくいちごの心の動きが見える気がした。
もしかしたら、単にいちごは感情を顔に出さないタイプなだけなのかもしれない。
これまでも何となくそう思ってはいたけど、はっきりとは確信してなかった。
大体、こんなに長い間二人きりでいちごと話したのも、
考えてみれば初めてかもしれないな……。

不思議な感じだった。
さっき吐いたせいで身体はふらふらなのに、
思いも寄らなかったいちごとの会話のおかげで、自分の心がとても落ち着いてる気がする。
死ぬ事に対する恐怖が完全になくなったわけじゃないけど、それでも。

結局、それ以上、いちごは私が吐いた理由について訊ねなかった。
だから、私もそれ以上、いちごが学校に来ている理由を訊ねなかった。
どちらの理由も、お互いが言いたくなった時に言えばいいだけの事だった。
それに多分、深く詮索し合わないのが、
いちごが人と付き合う時に重視してる事なんだと思ったから。
いちごは決して冷たいわけじゃない。
またいちごに背中を撫でられながら、私はいちごに深く頭を下げた。

「落ち着いたよ、いちご。
ごめん、本当にありがとう」

すると、いちごは私の言葉に対して、またもやとても意外な事を言った。

「関係ない……」

「え?」

「関係ないわけ、ないから」

「ん……あ?」

また驚かされて、変な言葉が出てしまった。
口癖と言うわけじゃないけど、
いちごはこれまで何事に対しても「関係ないけど」とよく言っていた。
そんないちごが「関係ないわけない」って言ったんだ。
これは驚かされるよなあ……。
勿論、その言葉が私だけに向けられた物だと考えるのは、かなりの自意識過剰だった。

「関係ないわけない」ってのは、
自分と繋がる全てに対して……、って意味合いが強いんだと思う。
今までいちごは色んな事を「関係ない」と言っていた。
それは無関心が理由でもあったんだろうけど、
主にはそれ以上に他人の意思を尊重するって意味で使ってたんだろう。
自分の中の世界を大切にする代わりに、他人の中の世界も尊重する。
だから、お互いに必要以上干渉し合わないようにしよう。
そういう意味で、いちごは「関係ない」って言ってたんだと思う。
その考えは正しいと私も思う。
誰が何をしていても、それは個人の自由で、自分勝手に干渉する事でもない。
だから、他人のする事は自分には関係ない事なんだ。

でも、「関係ないわけない」というのも、正しい考えだと思った。
他人が何をしていても、自分自身にはほとんど影響がない。
その意味じゃ、他人のする事は自分には何も「関係ない」。
だけど、ほとんどないってだけで、完全に影響がないわけでもないんだ。
他人の、自分の何気ない行動が色んな事に影響を与えて、
何かが大きく変わっちゃう事もあるんだ。
何かと無関係でいられなく事もあるんだ。
私はちょうど今それを強く実感してるところなんだ。
世界が終わるって現状もそうだけど、それ以上に考えてしまうのは……。

「うん……。そうだな……。
関係ないわけ、ないよな……」

私は自分に言い聞かせるみたいに言った。
いちごはその私の言葉については何も言わなかった。
優しく背中を撫でてくれるだけだった。
ただ少し優しさを増したその手付きが、
私の言葉に頷いてくれているみたいには思えた。

何事にも無関係ではいられない。
いちごと私の関係にしてもそうだし、軽音部の皆と私の関係にしてもそうだ。
取り分け、梓と……澪だ。
特に澪と私はお互いに深過ぎるところにまで関わり合ってる。
小さい頃、私の好奇心から始まった私と澪の関係。
あの時、私がもし澪に声を掛けていなかったら、
澪の人生も、勿論、私の人生も今とは全く別の物になっていたんだろう。
澪がいなければ私はこの桜高には来てなかっただろうし、
私がいなければ澪は澪でそのメルヘンな性格を生かして、文学部か何処かで名を馳せていたのかもしれない。
当然それは仮定の話で、今現在の私が考えても仕方がない事だった。

だから、私は別の事を考えないといけない。
世界の終わりを目前にして、
私は澪との関係をどうするのか、どうしたいのかを考えなきゃいけない。
澪が私の事を好きかどうかは別としても、
少なくとも世界の終わりの日には何をしていたいのかを二人で話さないといけない。
それだけはこの残り少ない時間で私が解決しなきゃいけない事だ。

それで……。
それでもし、解決出来たのなら、その時は……。
まだ何も決まっていない状態で、こんな事を伝えるのは失礼かもしれない。
それでも伝えられるのは今しかなかったし、私達の結末をいちごにも知ってほしかった。
少し躊躇いながら、それでも私はゆっくりとそれを口にした。

「なあ、いちご。もしよかったらなんだけど……」


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最終更新:2011年10月31日 20:48