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部室。
いちごと別れた私は、
逃げ出しそうになる脚を無理矢理動かして、軽音部の自分の席に座っていた。
部室の中には私以外誰も居なかった。
代わりと言っては何だけど、私の机の上には変な落書き付きのメモが置かれている。
『あずにゃんをさがしてくるよ!』
落書きといい、文字といい、間違いなく唯の書き置きだった。
いや、書き置きを残してくれるのはありがたいんだけど、相変わらずこの落書きは何なんだ?
猫みたいな生物の両耳の辺りから、
妙に長くて太い毛がにょろりと生えているんだが……。
ひょっとして、これが唯の『あずにゃん』のイメージなんだろうか。
この長くて太い毛をツインテールだと考えれば、
梓+猫のイメージで『あずにゃん』だと考えられなくもない……気もする。
と言うか、自分をこういうイメージで見られてると知ったら、多分梓怒るぞ。
でも、我ながら情けない事だけど、その現状に私はとりあえず安心していた。
別に落書きの正体が『あずにゃん』なんだろうって事とは関係ないぞ。
勿論、今の部室の中に誰も居ない現状の事だった。
色んな問題を解決しなきゃいけないのは分かってる。
それでも、今の私にはその解決の糸口すら見つけられていない。
無理矢理にやる気と使命感を湧き上がらせる事だけは出来ても、
解決のための具体的な方法が全然思い浮かんで来てなかった。
「いつもこうなんだよなあ、私……」
机に突っ伏しながら、つい呟いてしまう。
ドラムを叩いてる時もよく言われる事なんだけど、私は結構勢いだけで動いちゃうタイプだ。
よく考えて動くべきなんだろうって思う事も勿論あるけど、
それでもこれは私の持って生まれた性格って言うか、
変えたくない自分の中のこだわりって言うか、
とにかく勢いに乗っちゃうノリのいい自分でいたかった。
勢いに乗り過ぎて失敗する事も、誰かを傷付けちゃう事もいっぱいあったけど、
勢いだけでも動いていれば、何かが上手くいくはずだって、多分心の何処かで信じてた。
ううん、今だって、信じてる。
そうやって私は生きて来たんだから。
生きて来れたんだから。
だけど、今は勢いだけじゃどうにもならない。
そんな気もしてる。
何かをしなきゃとは思うし、
勢いで梓や澪の悩みに踏み込んでみるのもありだと思う。
そうすれば案外と簡単に、二人の悩みを晴らしてあげる事も出来るかもしれない。
そうだったらどんなにいいだろう。
でも、今勢いだけで動いたら、これまでの私の経験から考えて、
間違いなく私だけで空回っちゃって、余計に二人を傷付けてしまう気がする。
そんな……気がする。
思い出すのは、二年の時、澪と喧嘩をしてしまった時の事だ。
あの頃、私は自分の傍から澪が離れていく感じがして、凄く焦ってた。
今でも何故かは分からないけど、澪が離れていくのがとても嫌だった。
もしかしたら、ずっと傍に居てくれた澪が私の傍から居なくなったら、
それ以外の誰かもどんどん離れていって、
最後には独りぼっちになっちゃうなんて事を考えてたのかもしれない。
はっきりとは自分でも分からない事だけどさ……。
だから、私はどうにか澪の注意を自分に向けさせようって思ったんだと思う。
勢いに乗ってふざけたりしていれば、いつもどおり澪がこっちに向いてくれるって思った。
でも、それは失敗した。
私のした事は澪を怒らせ、困らせるだけだった。
分かってくれない澪に私は腹を立てて、
それ以上に澪を困らせてしまった私に腹を立てて、しばらく軽音部にも顔を出せなかった。
それどころか風邪までひいちゃって、顔を出したくても出せない状況にまでなった。
さっき吐いたのもそうなんだけど、
私って意外と繊細で、少しでも精神的に参るとすぐに身体の方にも影響が出るんだよな。
こんな繊細さなんて、何の自慢にもなりゃしないけど……。
あの時、私は澪を傷付けた。
傷付けてしまったと思った。
そう思うと自分のしてしまった事が恐くて、何も出来なくなって。
勢いで前に進みたい自分と、それを止めようとする自分で雁字搦めになって……。
本当に意外に繊細で、それが自分でも嫌になる。
そういう意味で考えると、澪以上に気になるのが今の梓だった。
私の姿を見て逃げ出した梓。
嫌われてしまったのかもしれないし、嫌われる原因はいくつも思い当たる。
でも、それは被害妄想として片付ける事は出来る。
それだけなら、私もどうにか梓のために動き出せると思う。
動けなくなるのは、自分が梓に好かれる要素が一つも思い当たらなかったからだ。
唯は梓を可愛がってるし、梓もかなり唯に懐いてると思う。
澪は梓の憧れの先輩で、澪の梓に対する指導は的確だ。
ムギも梓に優しいし、お互いに信頼し合っているみたいだ。
私……はどうなんだろう?
私は梓に対してどんな先輩だ?
可愛がっていたか?
いい先輩だったか?
優しくしてやれたのか?
……答えは出せない。
それでも、嫌われてると考える事よりも、
好かれてないのは間違いないと考えられる事の方が、私にはとても辛かった。
「なあ、お前は梓から何か聞いてないか?
私の事について……とかさ」
ちょっと思い立って、私は水槽に視線を向けてトンちゃんに呟いてみる。
トンちゃんは私の言葉を聞いているのかいないのか、
いつもと変わらず優雅に泳いでいた。
そりゃそうだ。
でも、思った。
梓は私だけじゃなく、軽音部の他の皆にも今の自分の悩みを話してくれなかった。
だけど、もしかしたらトンちゃんになら話しているかもしれない。
トンちゃんを一番世話しているのは梓だ。
『終末宣言』後も、梓はずっとトンちゃんの世話を欠かさなかった。
だから、梓もトンちゃんにだけは、自分の悩みを打ち明けているかもしれない。
勿論、それでどうなるわけでもない。
トンちゃんが私達の言葉を分かってるかどうかも分からないし、
もし分かってたとしても、私にもトンちゃんにもどうしようもない。
だって……。
「喋れないもんなあ、お前……」
私は呟きながら、つい苦笑してしまう。
トンちゃんは喋れないって当たり前の事をおかしく思ったからじゃない。
もしも喋れたとしても、
トンちゃんなら梓の悩みを人に言ったりしないんじゃないかと思えたからだ。
梓もそう思っているから、トンちゃんに悩みを打ち明けているんだろうか。
「トンちゃんより信頼されてない部長か……」
それは全部私の勝手な思い込みだけど、少し落ち込んだ。
駄目だ駄目だ。
弱気になってるばかりじゃ、本当に何も出来ないままに終わっちゃうじゃないか。
突然。
そうやって頭を振っている私の耳に予想外の声が響いた。
「ハーイ! アタイ、スッポンモドキのトンちゃん!
チェケラッチョイ!」
「喋ったあああああ!」
つい叫んでみたけど、勿論そんな事があるわけない。
乗っておいて何だけど、呆れた視線を部室のドアの方に向けてみる。
聞き覚えのある声だからその声の正体は分かっていたけど、
それでも、その人の顔を確認しない事には、ちょっと信じられなかったからだ。
「何やってんだよ、和……」
その声の正体を確認して、私はつい肩を落としてしまう。
私のせめてもの願いも空しく、そこに立っていたのは予想通り和だった。
いや、本当に何やってんだよ、和……。
せめて和だけはボケ担当になってほしくなかった……。
私がそうやって呆れた視線で見つめてみたけど、
和は何でもない様な顔で部室の中に入って来ながら言った。
「たまにはね」
「たまにはって和……」
「律がトンちゃんと話したいみたいだったから」
「……見てたのかよ」
「ええ」
「そっか……」
本当なら見られたくない自分の姿を、
人に見られてしまった私は焦るべきだったんだろう。
だけど、何故かそんな気は起きなかった。
見られた相手が和だからかもしれない。
「お母さんみたい」ってのが皆の和に対する評価だけど、私も何となくそう思ってる。
だから、私は不思議なくらい焦らなかったんだろうな。
和は私がトンちゃんに話しかけていた事について、とりあえずはそれ以上触れなかった。
ただ部室の中に入って来て、長椅子の辺りで軽く微笑んでるだけだった。
私も釣られて軽く笑ってしまう。
何だかとても落ち着く空気が流れてる気がした。
でも、二人して微笑んでるだけっていうのも、何となく気恥ずかしかった。
私は頭を掻きながら、微笑んでる和に訊ねてみる。
「ところでどうしたんだ、和?
唯ならいないぞ」
「いいのよ。唯がいないのは知ってるわ。見てたもの」
それもそうだった。
私がトンちゃんに話しかける姿を和が見てたって事は、
和が部室の外からドアの隙間越しに部室内の様子を伺ってたって事だ。
唯がいない事は分かり切ってる事だった。
でも、だったらどうして部室に?
その疑問を私が口にするより先に、私の考えを読み取ったのか、和がその答えを口にした。
「今日は律に用があって来たのよ」
「私に?」
少しだけ意外だった。
和とはいい友達だけど、二人きりで話をする事は少なかった。
特に和自身に私への用事があるなんて、滅多にない事だったからだ。
私は好奇心を抑え切れず、和にまた訊ねてみる。
「何? 私に何の用?」
すると和が少し激しい表情になって、
私達の間ではお決まりになっている台詞を口にした。
「ちょっと、律!
講堂の使用届がまだ提出されてないわよ!」
「忘れていたー!
……って、何の届けやねん!」
習慣でつい叫んじゃったけど、途中で思い直して和に突っ込んだ。
確かに私は書類を提出するのを忘れがちだけど、今は提出する書類なんてなかったはずだ。
疑いの眼差しで和を見つめたけど、
和はそれを気にせずにまた平然とした普段の表情に戻るだけだった。
怒った様子は演技だったみたいだけど、
書類の話自体は本当だったって事なのか?
何か出さなきゃいけない書類なんてあったっけ?
って、確か和は講堂の使用届って言ってたよな……。
まさか……。
そう思いながら、私はおずおずと和に訊ねる。
「講堂の使用届……?」
「そうよ」
「講堂を何のために使うの……?」
「放課後ティータイムのライブのため」
「使用届、必要なの……?」
「それはそうよ。
使いたがってる部も多いんだから」
「マジで?」
「マジよ」
「大マジ?」
「大マジよ」
知らなかった……。
と言うか、まだそんなシステムが生きてたとは思わなかった。
それに講堂を使いたがってる部が他にあったなんて、
世界が終わる直前って言っても……、
いや、直前だからこそ、考える事は皆同じなんだな……。
これは素直に自分の考えが甘かったって思った。
私は和に頭を下げる。
「ごめんな、和。
まさか私達以外に何かやりたがってる部があるなんて思わなくて……。
でも、何で和がライブの事を知ってるんだ?
それに私達が講堂を使うかどうかも、まだ決めてなかったんだけど……」
私の言葉に和が少し優しい顔になった。
でも、それは私に対して優しくなったわけじゃない。
それは和が唯の事を話す時にする顔だったし、
その後に和が話し始めたのはやっぱり唯の話だった。
「唯がね。
最後に大きなライブをやるって言ってたのよ」
「やっぱり唯だったか。
信代だけじゃないとは思ってたけど、
唯の奴、あっちこっちで宣伝してんな……」
「そうね。でも唯、楽しそうだったわよ。
「絶対、歴史に残すライブにする!」って言ってたしね」
「あいつ、そのフレーズ好きだな、オイ」
私が笑いながら言うと、和も「そうね」と優しく笑った。
「私とライブの事を話した時も五回くらい言ってたし、
今はそれが唯の好きなフレーズなのね。
でも、あの子、何処でライブをやるのかも決めてないみたいだったから、
それで律に講堂の使用届の事を話しておこうと思ったのよ」
「いや、別に私も部室でするか、
最悪グラウンドでやれればいいか、って思ってたんだけど……」
「駄目よ。
部室だと小さなライブになるし、グラウンドだと天候に左右されるじゃない。
「絶対、歴史に残すライブにする」んでしょ?
こういう準備はちゃんとしておかないとね」
「そうだな……。ありがとう、和。
「絶対、歴史に残す」んなら、会場もでっかいライブにしないとな……。
なあ和、講堂の使用届、まだ間に合いそうか?」
「深夜なら空いてなくはないけど、金曜日までは無理ね」
「もうそんなに予定が埋まってるのか?」
「ええ。どこの部も最後に何かを発表したいみたいだし、
桜高以外の団体からも申し込みがあるから、ほとんど埋まってるわね。
こんな時だけど、こんな時だからこそ、
そういう予定はきちんと組んでおかないと……。
それでまだ空いてる時間となると、金曜日か土曜日の夕方になるわ」
「金曜か、土曜か……」
そう呟きながら、私は迷っていた。
本当なら考えるまでもなく、金曜日にライブをやるべきだ。
いや、どうしても金曜日が好きってわけじゃなくて、
消去法で考えると必然的に金曜日しかなくなるだけだ。
だって、そうじゃないか。
よりにもよって世界の終わりの日の前日の土曜日にライブをやるなんて、
演奏する私達はともかく、呼ばれた皆にとっては迷惑この上ないだろう。
馬鹿らしい例えだけど、
それこそ富士山頂でやる結婚式に招待されるくらい迷惑に違いない。
だから、考えるまでもない。
ライブは金曜日の夕方。
これで決まりだ。
最終更新:2011年10月31日 20:51