でも……。
そこまで考えて私は不安になる。
本当に金曜日で間に合うのか、とても不安になってしまう。
新曲は完成してないし、
梓の問題も澪との関係もまだ解決してない。
こんな状態でまともに演奏なんて出来るんだろうか……。
そうやって私は唸っていたけど、
気になって目をやると、私の様子を和が静かに見てくれている事に気付いた。
唯の事を話す時みたいな優しい表情の和が私の瞳の中に映る。
見守ってくれてるんだな、和……。
思わずそう考えていたけど、その考えは少し気恥ずかしくて、
私は顔が熱くなるのを感じながら、その気恥ずかしさを誤魔化す事にした。
「和、悪いけどもう少し考えたいから、ちよっと待ってくれるか?
あと立たせたままってのも悪いし、何処か空いてる席に座ってくれよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」と和が私の言葉に従って、席の近くまで移動する。
バランス的に澪の席に座るんだと思ってたけど、
それから和が選んだのは意外にも私のすぐ隣の梓の席(と言うより椅子)だった。
予想外に和と接近する事になって、私は少し緊張してしまう。
同時に普段梓が座っている席に和が座っている状況に新鮮さを感じる。
ありえない話ではあるんだけど、
もしも和が軽音部に入ってくれていたら、
こういう席割で一緒にお茶してたりしてたのかな。
「どうしたの、律?」
「ん、あ、いや、何となく……さ。
新鮮だなー、って思って」
「何が?」
「和と二人でこんなに近くで話すなんて、あんまりなかったじゃん?」
私がそう言うと、和が何となく悪戯っぽい顔を見せた。
最近、和がたまに見せてくれるようになった顔だ。
「そうね。
私が律に話し掛ける時は、大抵がお説教だったものね」
「いやいや、そんな事はありませんって。
和様にはいつも本当に感謝しておりますって。
たまに頂くお説教もありがたい事ですって」
笑いながら私が言うと、和も小さく微笑んでくれた。
いつも真面目で優等生な和だけど、冗談が通じないわけじゃない。
本当にたまにだけど、和の方から冗談を言ってくれる事も最近は増えてきた。
確信はないけど、それが私達の仲良くなった証拠だったら嬉しい。
「そういえば、それは何なの?」
微笑みながら和が指差したのは、唯の置いた書き置きだった。
机の上に置いたままにしてたから、目に入って気になったんだろう。
私はその質問には答えずに、「あいよ」と和にその書き置きを手渡した。
見てもらった方が分かりやすいし、自分で考えた方が面白いだろうと思ったからだ。
渡された書き置きを見た和は一瞬困った顔をしたけど、
すぐに「ああ、そっか」と明るい顔になって呟いた。
「この猫みたいな何かが『あずにゃん』って事ね」
「分かるの早いな!
私でも分かるのに二十秒くらい掛かったぞ?
流石は幼馴染みってやつか?」
軽くからかったつもりだったけど、
急に和の表情が萎んでいくのが目に見えて分かった。
あんまり急激に表情が変わるもんだから、
何かまずい事を言っちゃったのかって私が不安になるくらいに。
冗談を言う時の悪戯っぽい顔は見せてくれるようになった和だけど、
そんな本当に辛そうな表情の和を見るのは初めてだった。
そんな今にも泣き出しそうな和なんて……。
何て声を掛ければいいのか迷ったけど、私はまずは謝る事にした。
和の表情が辛そうに変わった原因が私の言葉なんだとしたら、
私は和に謝らないといけない。
「あの、和……。
ごめん……な」
「何……が……?」
「だって、そんな……。
そんな辛そうな顔してるの、私のせいなんだろ……?
ごめん……。いつも私、そういうのに気付けなくて……」
「律のせいじゃないわ……」
「だけど……」
「いいのよ。私の方こそごめんなさい、律……。
律相手なら、何とか耐えられるって思ってたんだけど……。
駄目みたいね。本当にごめんなさい……」
「耐えられる……って?」
一瞬、弱気な私が顔を出して、
和が私の事を嫌いだからその嫌悪感に耐えてる、って後ろ向きな考えをしてしまう。
和がそんな人じゃないのは分かっているのに。
分かり切ってるのに。
何を考えてるんだよ、私。
本当におかしいぞ、今日の私は……。
勿論、和の「耐えられる」って言葉は、そういう意味じゃなかった。
和は静かに私のその被害妄想を解き放つ言葉を口にしてくれた。
「唯の事を考えるとね……。
駄目なのよ……」
私は自分の被害妄想を恥じながら、
それでも今は和の言葉の続きを聞く事にした。
恥ずかしがるのは後からでも出来る。
今は和に失礼な考えをした分、和の言葉を聞かなきゃいけない時だった。
「唯と……、何かあったのか……?」
「ううん、そうじゃないわ。
唯はずっと私の幼馴染みで腐れ縁で、こんな時でも明るく話し掛けて来てくれる。
本当に明るい顔で笑ってくれる。
だから、唯の事を思うと、辛くなるの……」
「だけど、さっきは……」
「ええ。唯の話で笑えたわ。笑えてたと……思う。
でも、それはライブをするっていう未来の事を考えられるからなのよ。
まだ先に唯の笑顔を見られる時間があるって、それが嬉しくて安心出来るのよ。
だから、先の話じゃなくて、昔の話を思い出しちゃうと駄目だわ。
まだ私達が小さくて、小さい唯が笑ってた頃を思い出しちゃったら、
否応無しに私達に残された時間は本当に短い事に気付いちゃって……。
それが、辛いのよ……」
和の言葉を聞いていて、私は一つ気付いた。
さっき和は軽音部に入る前に、ドアの隙間から部室の中を覗いていた。
それは私がトンちゃんに話し掛けているところを覗き見したかったからじゃない。
きっと和は唯が部室の中に居るかどうかを確かめてたんだ。
唯の顔を見ると辛くなるから、
私一人しか居ない事を確かめてから部室に入ってきたんだ。
今の私が澪と顔を合わせる事が恐いのと同じように。
和はまた言葉を続けようと口を開く。
多分、ずっと我慢していたんだろう。
和の言葉は止まる事はなかったし、私も止めようとは思わなかった。
タイプは違っているけれど、私と和は本当はかなり似てるんじゃないかと思えたんだ。
「もうすぐ終末が来るらしいわよね……。
それは私も分かってるし、もう逃れられないってのも分かってる。
勿論、私自身が死ぬのは恐いし、嫌だわ。
私だってまだやりたい事が沢山あるもの。まだ死にたくないわよ。
でも、私が死ぬ事よりもっと恐い事があるの。
それは多分、律も同じだと思う」
「私も……?
そうか……。うん、そうだよ……。
私だって死にたくない。死ぬのは本当に恐い。
周りに恐がってる様には見せないけど、やっぱり恐いよ。
でも、私も和と同じにもっと恐い事があるな……」
そのもっと恐い事について、
和はとりあえずは触れなかった。私も今は触れなかった。
その代わり、和が少しだけ落ち着いた表情になってから、私に訊ねた。
「律もやっぱり恐いのよね……」
「和もな」
「私が言うのも何だけどね。
律ってこんな時でも毎日学校に登校してるみたいだし、
いつも唯と一緒に楽しそうに遊んでるから、終末なんて恐くないように見えたのよ」
「和が言うなよ。
和だって毎日じゃないけど学校で見るし、
ちょっとボケてみてもすごい冷静な顔で私に突っ込むじゃんか。
和には世界の終わりなんて何ともないんだって思ってたぞ」
「失礼ね。私を何だと思ってるのよ、律は」
「和の方こそ、私を何だと思ってんだよ」
言って、私は頬を膨らませて和を軽く睨む。
和も少し不機嫌そうな顔で私を見つめて……。
それから、すぐ後に二人して苦笑した。
何だよ。
二人ともお互いを同じ様な目で見てたってわけか。
やっぱり私達は何処か似てる所があるのかもしれない。
「何かさ……。
強がっちゃうんだよな……」
つい私は口に出していた。
和の前だと何故か素直になれている気がする。
近過ぎず、遠過ぎず、とても微妙な距離感の仲の私と和。
遠い他人じゃないけど、近くて本音を言えない相手とも違う。
二人きりになる事は少ないし、ずっと傍に居たいと依存してるわけでもない。
それでも、絶対失いたくない相手。
多分だけど、私と和はそんな関係の大切な友達なんだろう。
和もそう思ってくれているのかもしれない。
辛そうな表情は完全になくなってはいなかったけど、
それでも少しの優しさと穏やかさを取り戻した表情で和が言った。
「私は強がりとは違うんだけど……、
どんな時も落ち着いてなきゃって思ってたわ。
兄弟も小さいし、恐がってる姿なんて見せられないもの。
でも、それってやっぱり強がりなのかしらね?
下手に落ち着こうとするのは、逆に恐がりな証拠って話もよく聞くし……」
「難しい話はよく分かんないけど、でも、言いたい事は分かるな。
私は世界の終わりが恐くて、それよりも恐がってる自分がもっと恐くて……さ。
上手く言えないけど、だから、恐がりたくなかったんだよな。
多分、いつもの自分じゃない自分になるのが、本当に恐かったんだと思う。
でも、それよりももっと恐いのが……、悲しいのが……」
そこで私は口ごもる。
言葉にするのが恐かった。
言葉にして実感してしまうのが恐かったし、
言葉にして和に実感させてしまうのが恐かった。
これからも強がるためには、それに気付かないふりをしている方がいいんだろう。
でも、その私の言葉は和が力強く継いでくれた。
そう。和は見ないふりをするのをやめたんだ。
「死ぬのは恐いわ。
きっと色んな物を失っちゃうんだろうって思うと恐いわよね……。
だけど、そんな事より、皆が死んじゃう事の方がずっと恐いわ。
家族が、唯が、憂が死ぬ事を考えたら、自分が死ぬ事を考えるより嫌な気分になる。
悲しくなるのよ、とても……」
「そうだよな……。
そう……なんだよな……」
私も父さんや母さんに聡……、
澪がもうすぐ死んでしまうって現実がすごく恐くて、悲しかった。
自分が死ぬのは嫌だけど、多分、それだけなら私も耐えられると思う。
だけど、私以外の誰かが死ぬって想像だけは、恐くてたまらなかった。
私自身より、澪が死んでしまう事の方が、何倍も辛かった。
だから、和は泣きそうな顔をしてるんだ。
私も泣き出したくなってるんだ。
もうすぐ私達は消えていなくなってしまう。
人間も、人生も、歴史も、何もかもが消え去ってしまう。
大切で、大好きな人が跡形もなく消えてしまう。
残された時間は本当に少なくて、
それまでの時間を私はせめて大切な幼馴染みと過ごしたいと思った。
幼馴染みに無理をさせて、自分で無理をして、
お互いに無理ばかり重ねながらだけど、それでも一緒の時間が欲しかったんだ。
もうすぐ終わる世界で、泣きながら過ごしたくなかったから。
「友達が居なくなるのは、嫌だもんな……」
私は自分に言い聞かせるように呟いてみる。
言葉にしてみると、少しずつ実感出来てくる気がした。
そうだよな。
別に難しい事じゃなかったんだ。
この世界の終わりが恐くて、悲しい理由は本当はすごく単純だったんだ。
友達を無くしたくないんだ、私は。
だから、澪を無理して学校に登校させてる。
だから、梓に嫌われたと思うのが、本当に悲しかったんだ。
「そうよね。
自分の傍に居てくれた誰かが居なくなるなんて、嫌よね……」
私の呟きは和にも聞こえていたらしい。
和も私の言葉に頷きながら呟いた。
馬鹿みたいに単純だけど、
人が死にたくない本当の理由はそんなものなのかもしれないよな。
勿論、友達が死んでほしくない理由も。
少し違うかもしれないけど、
前は私はこういう話を聞いて不安になった事がある。
自分が二十歳前後で自立するとして、両親が七十歳まで生きるとする。
そうすると、自分が年に十日の里帰りを毎年行ったとしても、
両親と一緒に過ごせる時間は、合計しても半年と少しという計算になるんだそうだ。
その話を高橋さん(だったと思う)から聞いた時、私はとても不安になった。
受かればの話だけど、大学生になったら寮に入るつもりだったし、
将来的には家自体の事を聡に任せて、私は家から出てく事になってたんだろうと思う。
それは普通の事で、特に意識した事もなかったけど……。
それでも、具体的に数字にして表されると、何だか焦ってしまって仕方がなかった。
そんなに短いんだ……、ってそう思えて不安だった。
いつかは居なくなる両親なんだって分かってたつもりだったけど、
単に私は考えないようにしてただけなのかな……、どうにも分かってなかったみたいだ。
自分と誰かの関係は時間制限付きなんだ。
両親とだってそうなんだから、誰とだってそうなんだ。
世界が終わるからってだけじゃなくて、
普通に生きてても、友達との時間制限は一つずつ尽きていってたんだろう。
こう考えるのは嫌だけど、
澪との関係もいつかは尽きてたんだろうな……。
その原因が喧嘩別れなのか、どっちかの死なのかは分かんないけどさ。
「頑張らないと、いけないわよね」
急に和が言った。
これまでみたいな呟きじゃなくて、少しだけど力強い言葉だった。
「唯の顔を見てると泣きそうになるし、辛いけど……。
でも、私は唯と一緒に居たいもの。
残された時間は少ないから、早く唯の顔を見ても泣かないように頑張るわ」
「無理はするなよ……って、そんな事は言ってられないか。
ははっ、こう言うのも変だけどさ」
お決まりの台詞と逆の言葉を言ってしまって、私はちょっと笑ってしまう。
和も眼鏡の奥の表情が緩んだように見えた。
「でも、終末だからってだけじゃなくて、
どんな時だって、誰だって無理して生きてるものだって私も思うわ。
勿論、無理せずに生きられるなら、
それに越した事は無いんでしょうけど、中々そうはいかないものね。
……頑張らなくちゃね」
「そうだな、和。
だからさ」
「そうね」
「これからも無理しよう、和」
「これからも無理しましょう、律」
二人の言葉が重なって、二人で笑った。
「無理しよう」なんて、基本努力が苦手な私に言えた事じゃないけど、
それでも多分、今は無理した方がいい時なんだろうって思えた。
私達に残された時間は少ないし、悲しくて辛い事も多い。
だけど、私達は立ち止まってなんかいられない。
立ち止まってるわけにはいかないんだ。
こう言うと少年漫画の台詞みたいだけど、実はそんな格好のいい決意表明じゃない。
本当は立ち止まっていられないから。
立ち止まったら不安で死にそうになるから。
泳いでないと死んでしまうらしいイルカやマグロ的な意味で、
無理をしてでも、私達は立ち止まっていられないんだ。
それがいい事なのか、悪い事なのかは分からない。
無理をする事で、また誰かを傷付けてしまうかもしれない。
また自分が傷付くかもしれない。
だけど、そうしながら、私と和は進み続けていくんだと思う。
和ならきっと大丈夫。
和ならもうすぐ立ち直れて、いつもみたいな冷静な突っ込みを見せてくれるようになれる。
最後の日まで唯と笑い合えるようになれるはずだ。
私の方は……、まだ分からない。
進み続けるのはやめないと思う。
もしかしたら、その先には誰からも嫌われて、
一人で生きていくしかない未来が待っているのかもしれないけど……。
また少し気弱になってる私の考えを察したんだろう。
机の上に出してる私の右手に、和が軽く自分の右手を乗せた。
唯や私とは違って、普段は決して誰かの身体に触ったりしない和の意外な行動だった。
「後悔だけは、したくないものね」
最終更新:2011年10月31日 20:53