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結構長い時間、自転車の後ろで揺られて、自宅に戻った私を誰かが待っていた。
私の家の前、二つの影が寄り添って立っている。
誰だろう、と思って目を凝らすと、それは和と唯だった。
こんな時間に何の用なのか見当も付かないけど、少なくとも変質者の類じゃなくて安心した。
私は自転車から降りて、二人に近付いて話し掛けようとする。

瞬間、唯が予想外な行動を取って、私は言葉を失った。
行動自体は普通だったんだけど、普通なら唯が取るはずもない行動だったからだ。
だって、唯は膝の前で手を揃え、深々とお辞儀をしたんだ。
こんな事されたら、何かの異常事態じゃないかと思えて、硬直するしかないじゃないか。
そんな私の様子を分かっているのかどうなのか、
唯は頭を上げてから、柔らかく微笑んで続けた。

「こんばんは、律さん。
こんな時間にごめんなさい。今、お時間よろしいですか?」

そこでようやく私は気付いた。
唯が取るはずもない行動を取るのも当然だ。
和の隣で私に頭を下げたのは唯じゃなく、
髪を下ろした唯の妹の憂ちゃんだったんだ。




「ごめんね、待たせて」

シャワーを浴びて、少しの腹ごしらえを終えてから、
私は私の部屋で待っててもらっていた憂ちゃんに声を掛けた。

「いいえ、こちらこそごめんなさい、律さん。
こんな時間に非常識だと思いますけど、律さんにどうしても話したい事があったんです」

申し訳なさそうな顔で憂ちゃんが頭を下げる。
私はそれを軽く微笑む事で制した。
私の方こそ、こんな時間に来てくれた人を待たせるなんてとんだ非常識だ。
でも、流石に空腹な上に汗まみれで話を聞く方が何倍も失礼だったし、
私の方も多少はマシな状態になってから、憂ちゃんの話を聞きたかった。
こんな時間に真面目で良識的な憂ちゃんが来てくれたんだ。
きっとよっぽどの事情があるんだろう。
少なくとも、疲れ果てて身の入らない状態で聞き流せる話じゃない事だけは確かだった。

ちなみに現在、和はリビングで聡と話をしている。
和はボディガードとして憂ちゃんに付き添ってきただけらしく、
私と憂ちゃんの話が終わるまでリビングで待っていると言っていた。
風呂上りにリビングをちょっと覗いてみた時、意外にも二人の話は盛り上がっていた。
聡がコンプリートしたらしいあの大作RPGは和の兄弟もプレイしているそうで、
攻略法やストーリー、キャラクターを演じている声優に至るまで幅広く会話してるみたいだった。
澪以外の女子と話す弟の姿は新鮮で、照れた様子で年上の女と会話する姿が可愛らしくて、
姉としてはいつまでも見ていたくはあったけど、そういうわけにもいかない。
少し後ろ髪を引かれる気分ながら、
どうにかその誘惑を振り切って、こうして私は自分の部屋に戻って来たわけだ。

「えっと……、ですね……」

何だか緊張した面持ちで憂ちゃんが目を伏せている。
とても話しにくい、だけど、話したい何かがあるんだろう。
私は律義に座布団に正座してる憂ちゃんの手を取って、私のベッドまで誘導する事にした。
少し躊躇いがちではあったけど、
すぐに私の考えが分かってくれたらしく、憂ちゃんは私のベッドに腰を下してくれた。
その横に私も腰を下ろし、憂ちゃんと肩を並べる。
憂ちゃんとこんなに近くで話をした事はあんまりないけど、
多分、今回の憂ちゃんの話はこれくらい近い距離で話し合うべき事のはずだと思った。

「それでどうしたの、こんな時間に?
唯の事?」

私と憂ちゃんの間に他に話題が無いわけじゃない。
それでも、私は唯の事について訊ねていた。
これまでも私と憂ちゃんの会話で一番話題に上っていたのは唯の事だったし、
憂ちゃんがこんな真剣な表情で緊張しているなんて、その緊張の理由は唯以外に絶対にない。

「はい、お姉ちゃんの事なんですけど……、
あのですね……、明日……、いえ、もう今日ですね。
今日……なんですけど、お姉ちゃん、学校には行かないそうなんです」

「……来ない……のか?」

呟きながら、不安になる。呼吸が苦しくなるのを感じる。
唯も何かを悩んでいたんだろうか。
それとも、私が唯の気に障る何かをしてしまったんだろうか。
少しずつ、一人ずつ、軽音部から去ってしまうのか?
澪、唯、次は梓、最後にムギと去って、私だけが部室に取り残されちゃうのか?
その私の不安を感じ取ったんだろう。
憂ちゃんが軽く頭を振って、隣にいる私の瞳を覗き込んで言ってくれた。

「あ……、違うんです。
律さんが何かしたとか、軽音部に行きたくないとか、そんな事はないんです。
お姉ちゃん、ずっと……、今でも勿論、軽音部の事が大好きなんですよ?
いいえ、違いますね……。
大好きって言葉じゃ言い表せないくらい、
お姉ちゃんの中では軽音部の事が大きい存在なんだと思います」

だったら、唯はどうして?
ついそう訊きそうになってしまったけど、私はどうにかその言葉を押し留めた。
憂ちゃんはそれを話しに来てくれたんだ。
急いじゃいけない。焦っちゃいけない。
どんなに時間が無くても、憂ちゃんが言葉にしてくれるまで、それを待つだけだ。

それに急ぐ理由は私の中から一つ減っていた。
さっきシャワーを浴びる前、「先に梓の家に電話させて」と憂ちゃん達に伝え、
私が梓の家に電話しようと受話器を上げた時、憂ちゃんは首を傾げながら言ったんだ。

「梓ちゃんの家ならついさっき行って来ましたけど、梓ちゃんに何かご用なんですか?」

憂ちゃんの言葉に私は張り詰めていた糸が切れて、しばらくその場に座り込んだ。
ひとまずは安心できる気分だった。
憂ちゃんが言うには、私の家に来る二十分前には梓の家に行って、
話をしてきたばかりなんだそうだった。
夜道に私が見た梓の姿は単なる見間違いだったのか、
それとも何かの用事が終わった後の帰り道の梓を見たのか、
色んな可能性がありはしたけど、そんな事はどうでもよかった。
今は梓が無事に自分の家にいてくれるだけで十分だった。

私は上げた受話器を元に戻し、
「用事はあったけど、やっぱり学校で会った時でいいや」と憂ちゃん達に伝えた。
梓の悩みについては、電話で話すような内容でもない。
直接あいつから聞き出さないといけない事だ。
今日、学校で会ったら、それを梓に聞こうと思う。
もしも本当に梓に嫌われていたとしても構わない。
それでも私は梓の悩みの力になるべきなんだ。
私はあいつの先輩で、軽音部の部長で、嫌われていてもあいつが大切なんだから。

そういうわけで、今の私は焦ってはいない。
時間が無い私だけど、焦る事だけはしちゃいけない気がする。
焦ると正常な判断ができなくなる。
当然の事だけど、私は少しずつ身に染みてそれを理解し始めていた。
はっきりとは言えないけど、澪との事も焦っちゃいけない気がする。
いや、違うな。
焦っちゃいけなかったんだ。
あの時、私は焦ってしまってたんだ。
だから……。

小さく溜息を吐いて、私は憂ちゃんの次の言葉を待つ。
今は梓の事、澪の事より、目の前の憂ちゃんの事だ。
じっと憂ちゃんの瞳を覗き込んで、話してくれるのを待ち続ける。
少しもどかしい時間だったけど、それはきっと私達に必要な時間だった。
しばらく経って……。
考えがまとまったのか、憂ちゃんがまっすぐな瞳で私を見つめながら口を開いた。

「お姉ちゃん、軽音部の事がすごく大切なんです。
軽音部の事も、律さんの事も、大切で仕方が無いんだと思います。
それでも、今日は部に顔を出さないって、お姉ちゃんは言ってました。
水曜日は……、「今日一日は憂と二人で過ごしたいから」って言ってくれたんです……」

そういう事か、と私は思った。
残り少ない時間、唯はその内の一日を大切な妹と過ごす事に決めたんだ。
それはそれで構わなかった。
軽音部の事も大切ではあるけど、私は唯の選択肢を尊重したい。
家族と過ごしたいのなら、私達に遠慮なんかせずにそうするべきなんだ。

「ごめんなさい、律さん……」

言葉も弱く、辛そうな表情に変わりながらも、
視線だけは私から逸らさずに憂ちゃんが言ってくれた。
本当に申し訳ないと思ってくれてるんだろう。
でも、本当に謝るべきなのは私の方だった。
こんなにお互いを大切に思い合ってる姉妹に気を遣わせるなんて、
私の方こそ謝るべきなんだ。
そう思って私は口を開いたけど、その言葉より先に憂ちゃんがまた言った。

「私の事は気にしなくてもいいって、お姉ちゃんに何度も伝えたのに、
お姉ちゃんは絶対に私と過ごすって言ってくれて……。
ライブの準備がとても楽しいって、お姉ちゃん言ってたのに、それなのに……。
それが律さん達に申し訳ないのに、本当はすごく嬉しくって……。
そんな私が嫌で、せめて今日お姉ちゃんが軽音部に行かない事だけは、
皆さんに直接伝えたいと思って……。
それが私にできる精一杯で……。
ごめんなさい、律さん。本当にごめんなさい……」

「唯……は今、どうしてる?」

「最初……、本当はお姉ちゃんが皆さんの家を直接回るって言ってました。
でも、無理を言って、私と手分けして回ってもらう事にしたんです。
それで私は梓ちゃんと律さんの家に、
お姉ちゃんは紬さんの家と澪さんの家に、直接話しに行く事になったんです。
先に紬さんの家に向かったから、多分、今は澪さんの家で話をしてると思います」

「一人で?」

「いえ、それは大丈夫です。
お父さんが車で送ってくれてますから。
私の方はお母さんが付き添いで来てくれるはずだったんですけど、
うちのお母さん、ボディガードにはちょっと頼りなくて……。
それで、お姉ちゃんが和さんに電話で私の付き添いを頼んでくれたんです」

「そっか……。だったら、二人とも安心だな」

「それで……、実はですね、律さん……」

憂ちゃんの顔が辛そうな表情から、何かを決心した表情に変わる。
憂ちゃんは決して弱い子じゃない。
強い子ではないかもしれないけど、唯の事が関係するなら強くいられる子だ。
つまり、これから唯に関する大切な話を始めるんだろう。

「私、最初は軽音部の事が好きじゃありませんでした」

「そうなんだ……」

憂ちゃんの言葉に、意外と驚きはなかった。
何となくそんな気がしていた。
仲のいい姉妹の間に入って、
二人の関係を邪魔してしまっていいのかって思わなくもなかったんだ。

憂ちゃんは続ける。

「少しの時間、部活に行ってるだけなら気になりませんでした。
でも、少しずつ……、どんどんお姉ちゃんが家に帰ってくる時間が遅くなって……。
お休みの日も家にいてくれる事が少なくって、それが嫌で……。
軽音部の部長の会った事もない『りっちゃん』って人が嫌いになりそうでした。
確かお姉ちゃんが一年生の頃のテスト勉強の日だったと思うんですけど、
初めてその『りっちゃん』……、律さんに会って、その顔を見てるのが辛くて……。
それでついゲームの律さんとの対戦で本気を出しちゃったんです。
『これ以上、お姉ちゃんを私から取らないで』って、そんな気持ちで……。
あの時はごめんなさい……」

「えっ? あれってそんな意図がある重大な戦いだったの?
いや、マジで強いなー、とは思ってたんだけど……」

思いも寄らなかった真相に私は驚きを隠せない。
勿論、多少は大袈裟に言ってるんだろうけど、人には色んな考えがあるもんなんだな……。
憂ちゃんがその私の様子に表情を緩める。

「でも、学園祭で初めてのお姉ちゃん達のライブを見て、
ライブ中のお姉ちゃんはすっごく格好良くて、すっごく楽しそうで……。
私……、思ったんです。
軽音部のお姉ちゃんが、今までのお姉ちゃんよりもずっと好きだって。
それから、お姉ちゃんが大好きな軽音部の事も、好きになっていきました。
もう、軽音部じゃないお姉ちゃんなんて、考えられないです。
私、軽音部の……、放課後ティータイムのお姉ちゃんが大好きです。
それを私、律さんにずっと伝えたかったんです。
軽音部の部長でいてくれて、ありがとうございます。
お姉ちゃんをもっと好きにさせてくれて、本当にありがとうございます」

憂ちゃんが頭を下げながら、私の手を握る。
私の方こそ、お礼を言いたい気分だった。
大好きなお姉ちゃんと一緒にいさせてくれてありがとう、と。
最初こそ頼りない初心者だったけど、唯はもう軽音部に無くてはならない存在だ。
軽音部はあいつの才能に引っ張られて機能していると言っても過言じゃない。
唯がいたからこそ、軽音部はこんなに楽しく、大切な部活にできた。
それは私達だけじゃどうやっても辿り着けなかった境地だろうし、
例え他にギター担当の誰かが入部して来てくれていたとしても、やっぱり無理だったと思う。
三年間、こんなに楽しかったのは、唯がいたからこそ、だ。
だから、私は唯に、憂ちゃんに感謝しなきゃいけない。
同時にやっぱり申し訳なくなった。
私は目を伏せたかったけど、どうにか耐えて憂ちゃんの瞳から目を逸らさずに言った。

「ありがとう、憂ちゃん。
そんなに私達を好きでいてくれて、本当に嬉しいよ。
でも……、これまではそれでよかったかもしれないけど、
この状況でも、それでいいの?
『今日一日は一緒にいる』って事は、逆に言うと今日一日って事でしょ?
世界の終わりを間近にして、たった一日だけで本当にいいの?」

憂ちゃんはその私の言葉に微笑んだ。
無理をしているわけでもなく、強がりでもなく、本当に心からの笑顔に見えた。

「違いますよ、律さん。
『一日だけ』じゃありません。『一日も』ですよ、律さん。
こんなおしまいの日まで残り少ないのに、
お姉ちゃんはそんな貴重な時間を、私に『一日も』くれるんです。
私はそれがすっごく……、
すっごく嬉しいです……!」

そう言った憂ちゃんの笑顔は輝いていた。
眩しいくらいの笑顔。
そんな笑顔をさせる唯の時間を、私が一日以上も貰うんだと思うと少し震えた。
参ったなあ……。
絶対にライブを成功させなくちゃならなくなったじゃないか……。
恐いわけじゃないし、重圧に負けそうってわけでもない。
これは武者震い……、とりあえずはそういう事にしておこう。
何はともあれ、私は私のためにも、憂ちゃんのためにも、
私達は何としてもライブを成功させなくちゃならない。
ふと思い立って、私は隣に座る憂ちゃんの肩を抱き寄せて囁いた。

「成功させるよ。
最後のライブ、絶対に成功させる。
憂ちゃんに、これまで以上に格好いい唯の姿を見せたいからさ」

憂ちゃんは私の腕の中で、
「はい」と、笑顔で頷いてくれた。


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最終更新:2011年10月31日 21:04