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朝、軽音部の部室で私は一人座っていた。
ほんの少し曇っているけど、雨は降りそうにない空模様を私は見上げる。
太陽にたまに雲が掛かる程度のよくある天気。
確か数日前に天気予報で聞いた限りでは、世界の終わりの日まで雨は降らないらしい。
雨が好きなわけじゃないけど、もう体験できないと思うと何だか名残惜しかった。
でも、空模様に関しては私には何もできない。
何となく溜息を吐くけど、別に憂鬱ってわけでもない。
ただちょっと寂しかっただけだ。
それにできない事を考えていても仕方が無かった。
私にできない事はいくらでもある。
多分、できる事よりもできない事の方が遥かに多いだろうな。
でも、そんな事より、今の私にできる事を考えるべきだろう。
それは憂ちゃんのためでもあるけれど、それ以上に私のためでもあるんだから。
夜、話が終わり、和と一緒に家に帰る直前、
「梓ちゃんの事、助けてあげてください」と憂ちゃんは言った。
唯の事が大好きだけど、唯の事ばかり考えてるわけじゃない。
憂ちゃんはちゃんと友達の事にも目を向けられる子だ。
だから、自分が唯と二人で過ごすのが申し訳なくて、嬉しくて辛かったんだろう。
私の家に来る前、憂ちゃんが梓の家を訪ねた時、
頭を下げる憂ちゃんに梓は笑顔で答えたらしい。
「大丈夫だから」と。
「でも、唯先輩がいなくて、
全員が揃わない中で律先輩がちゃんと練習するか心配だな」と。
普段と変わらない様子と口調で笑っていたらしい。
泣きそうな顔で、笑っていたらしい。
梓の親友の憂ちゃんにも、その梓の表情をどうにかする事は出来なかった。
本当に大丈夫なのか、
悩み事があったら何でも言ってほしい、
そんな事を何度伝えても、梓は微笑むだけ。
今にも泣き出しそうな顔で微笑むだけ。
軽音部の皆にも、親友にも、誰にも、本心を見せずに辛そうに笑うだけ。
そんな梓を見て、憂ちゃんは一日も唯を独占してしまう自分に罪悪感を抱いてるみたいだった。
心の底から唯を必要としてるのは梓じゃないかと思うのに、
憂ちゃん自身も唯から離れたくないし、
唯と最後に一緒に過ごせる一日がどうしようもないくらいに嬉しくて……。
だからこそ、罪悪感ばかりが膨らんでいるみたいだった。
でも、それは憂ちゃんが悪いわけじゃない。
唯が悪いわけでもない。
唯だって梓の異変には気付いていた。
梓の悩みを何とかしてあげたいと考えていた。
だけど、梓は自分の悩みを一言も口にしなかったし、
その気遣い自体を誰にもしてほしくないみたいに見えた。
梓がそう振る舞う以上、
唯には何もできないし、憂ちゃんにも、誰にも何もしてあげられない。
どんなに辛い事でも、口にしない限りは他人には何もしてあげられないんだから。
それで迷った末に唯はこの水曜日って中途半端な時に、憂ちゃんと過ごす事に決めたんだと思う。
梓の悩みを解決したいとは勿論、思ってる。
でも、梓の悩みはいつになれば解決するのか分からないし、
下手をすれば世界の終わりの時に至っても解決する事はないかもしれない。
だから、その前に妹と過ごしたいと考えたんだ。
梓の事も大切だけど、妹の憂ちゃんの事だって同じくらい大切だからだ。
それに憂ちゃんと過ごすのが水曜日だけなら、
まだ木、金曜、土曜日と三日間を梓のために使えるから。
それで水曜日を選んだんだ。
いや、本当にそこまで考えてたのかどうかは分からないけど、
私の中では唯はそういう事を考えて行動する奴だった。
きっとそうなんだろうと思う。
だから、悪いのは梓なんだ。
自分の抱えている何かを隠し通そうとする梓が一番問題なんだ。
どんなに辛くても、恐くても、誰かに伝えるべきなんだ。
私に何ができるかは分からないけど、それでも伝えてほしかった。
例えその悩みが人の生死に関わるような重大な問題でも……。
それを想像すると震えてしまうくらいに恐いけど……。
だけど、それでもいいと思う。
そんな問題を梓が抱えてるとしても、私はそれを梓の口から聞きたい。
最後に部長として梓のために何かできるんだったら、私はそうしたいんだ。
困った後輩を持って災難だよな、まったく。
でも……。
「部長だからな」
自分に言い聞かせる。
そうだ。
私が部長。五人だけの部だけど、部長は部長だ。
それにドラマーでもある。
皆の背中を見ながら、何かを感じ取れるパートでもあるんだからな。
そういや前に唯が言ってたっけか。
「大丈夫。りっちゃんならできる。
部長だし、お姉ちゃんだし、ドラマーだし!」って。
何の保障にもなってないし、何の説明にもなってないけど、
それでも何かができそうな気になってくるから不思議だ。
よし、と私は一人で拳を握り締めて頷く。
と。
急に何の前触れもなく軽音部の扉が開いた。
「おはよう。早いね、りっちゃん」
自分だけでなく、周りまで優しい気分にさせてくれる声色が部室に響く。
顔を上げて確認するまでもなく、それはムギの声だった。
いや、そもそも何の前触れもなく扉が開いた時点で、
部室に来た人の選択肢はムギかさわちゃんの二人に絞られてたけどな。
足音も立てずに部室にやってくるのはこの二人くらいだ。
二人とも神出鬼没なんだよなあ……。
まあ、ムギの方はお嬢様的な教育か何かで、
足音を立てないよう歩く練習をしているとしても(勝手な推測だけど)、
さわちゃんの方はマジでどうやって足音も立てずに現れてるんだろうか。
……別にどうでもいい事だった。
私は顔を上げてムギの顔を見つめ、「おはよう、ムギ」と言った。
部室に入ったムギは長椅子に自分の鞄を置きに行く。
私はムギに気付かれないよう、少しだけ微笑んだ。
ひとまずは安心した。
下手をすれば、今日は誰も軽音部に来ないかもと思わなくはなかったんだ。
憂ちゃんの話では、唯が来なくても梓は登校して来るつもりみたいだったけど、
それにしたってちゃんとした確証がある話じゃないしな。
だから、嬉しかった。
ムギが部室に顔を出してくれた事が、私は本当に心から嬉しい。
「ムギと部室で二人きりってのも珍しいよな」
胸の中だけでムギに感謝しながら私が言うと、
鞄を置き終わったムギが顔を上げて応じてくれた。
「そうだね。りっちゃんと二人きりなんて、何だかとっても久し振り。
ひょっとしたら、夏に二人で遊んだ時以来じゃないかな?」
「そうだっけ?」
夏に二人で遊んだ時……、確か夏期講習が始まる前日くらいの事だ。
まだ四ヶ月くらいしか経ってないはずなのに、随分と前の出来事の様な気がする。
『終末宣言』以来、この一ヶ月半、本当に色んな事があった。
世界が終わるなんて夢にも思わなかった事が現実になったし、
変わらないと思ってた私と澪の関係も、今更だけど大きく動き出そうとしている。
目眩がしそうなくらい多くの事があった。
でも、それも終わる。もうすぐ終わる。
その終わりがどんな形になるかは分からないけど、
少なくとも最後のライブだけは私達の結末として成功させたい。
……ムギはどうなんだろうか?
不意に気になって、私の胸が騒いだ。
そうやって人の考えが気になってしまうのは、私の悪い癖かもしれない。
でも、考え出すとどうにも止まらなかったし、胸の鼓動がどんどん大きくなった。
琴吹紬……、ムギ。
合唱部に入ろうとしてたところを私が引き止めて、軽音部に入ってもらったお嬢様。
キーボード担当で、放課後ティータイムの作曲のほとんどを任せてる。
いつも美味しいお茶とお菓子を振る舞ってくれて、
それ以外にも合宿場所とか多くの事で助けになってくれる縁の下の力持ち。
実際にもキーボードを軽々と運べる力持ちでもある。
『終末宣言』直後から、ムギが軽音部に顔を出す事は少なくなった。
深く踏み込んで聞いた事はないけど、どうも家の事情が関係しているらしい。
世界の終わりが間近になったと言っても、いや、間近だからこそ、
名家と言えるレベルのムギの家にはやるべき事がたくさんあったみたいだ。
眉唾な話だけど、人類存続のためにそれこそSF的な対策への協力も行われたんだとか。
人類の遺伝子を地下深くに封印するとか、
超強力なシェルターを急ピッチで開発したりとか、
できる限り多くの人達を宇宙ステーションに避難させてみたりとか、
とにかくムギの家はそういう冗談みたいな世界の終わりへの対抗策に追われていたらしい。
家族思いのムギはこの約一ヶ月のほとんどを、
それらの対抗策に追われる両親の手伝いをする事で過ごしてたみたいだ。
「心配しないで」と月曜日に久し振りに会えたムギは言った。
「これからはずっと部活に顔を出せるから」と笑ってくれた。
家の事情で大変だったはずなのに、
登校するのもやっとの状況のはずなのに、
ムギは疲れを感じさせない笑顔でそう言ってくれた。
それ以来、ムギは一日も欠かさずに登校して来てくれている。
対抗策が成功したのかどうかは聞いてない。
国もやれる事はやったみたいだけど、それ以上の事はムギも分からないみたいだった。
まあ、名家とは言え、ムギの家も協力程度で深くは関わってないんだろうし、
もしも対抗策が成功していたとしても、庶民の私達には多分関係ない事だろう。
だから、それに関してはそれ以上の話をしない。
聞いたところで、ムギが困るだけだろうしな。
そんな事よりも、私はムギが登校してくれる事の方が嬉しかった。
それだけで十分だ。
それに最後のライブなんだけど、ムギは誰よりも成功させたいと思ってる気がするんだ。
家の手伝いをしている時でも、メールで澪のパソコンに新曲の楽譜を送って来てくれてたし、
久し振りに合わせたセッションでも全くブランクを感じさせなかった。
きっと時間を見ては練習をしてくれてたんだろう。
今でこそ何としても成功させたいと私も思ってるけど、
憂ちゃんと話すまではムギほど最後のライブに熱心じゃなかった。
軽い思い出作り程度にしか考えてなかったんだ。
考えてみれば、ムギは『終末宣言』前から軽音部の活動に本当に熱心だった。
いつも一生懸命に楽しんで、練習も、練習以外も楽しそうで、
そんなムギの楽しそうな姿が私には嬉しかった。
それだけで軽音部を立ち上げた甲斐があったって思えるくらいに。
私達の軽音部が、この五人の音楽が一番なんだって思えるくらいに。
だから、私はムギに訊ねる。
五人揃っての放課後ティータイムの今と先を考えるために。
「ムギは私と二人で寂しかったりしない?」
持って回った言い方だったかもしれない。
でも、それ以上の言葉は思い付かなかったし、
思い付いたとしても口に出しては言えなかっただろう。
ムギは自分の椅子の前まで移動しながら、私の言葉に首を傾げる。
「どうして?
私、寂しくなんかないよ?
どうして、そんな事を聞くの?」
「いや……、折角家の用事も終わって、
部活に顔を出してくれてるのに、今日は全員揃えないじゃんか。
一番忙しいムギが参加してくれてるのに、何か悪いなって思ってさ」
私が頭を掻きながら言うと、ムギがまた微笑んだ。
優しい笑顔で、「心配しないで」と言ってくれた。
言葉自体は最近梓が泣きそうな笑顔で言う物と同じだったけど、
ムギのその言葉は梓の言葉とは優しさとか、想いとか、色んな物が違う気がした。
「大丈夫よ、りっちゃん。
勿論、今日唯ちゃんと会えないのは残念だけど、それは仕方の無い事だもの。
私だってずっと部活に来れなかったじゃない?
そんな事で唯ちゃんを責めたりしないし、それならむしろ責められるのは私の方。
ずっと出て来れなくて、私の方こそごめんね、りっちゃん……」
自分の椅子に手を置きながら、
それでも自分の椅子に腰を下ろさないままで、ムギが困ったように笑った。
困らせないようにしようと思っていたのに、
結局は私の行動がムギを困らせてしまったみたいだ。
私は自分の馬鹿さ加減に大きく溜息を吐いて、椅子から立ち上がった。
ムギが立って謝ってくれてるのに、私だけ座ったままじゃいられなかった。
立ち上がって目線をムギと合わせて、私は真正面からムギに頭を下げた。
「謝らないでくれよ、ムギ。
こっちこそ変な事を言っちゃったみたいでごめんな。
だけど、気になったんだ。
唯もそうなんだけど、今日は……、澪も来ないからさ」
今日は澪も来ない。
それはとても言いにくい事だったけど、伝えないわけにもいかなかった。
「澪ちゃんも? 何かあったの?」
ムギが残念そうな声を上げる。
昨日、唯はムギの家に行った後、澪の家を訪ねたと憂ちゃんが言っていた。
例え澪が唯に今日登校しない事を伝えていたとしても、
それが唯からムギに伝える事は時間的にもできなかったんだろう。
結局、夜から携帯電話の電波も、ラジオ電波も、
それどころかテレビ回線と家の電話の電話回線も切れていて、復旧されていなかった。
連絡手段が無い私達は、お互いの出欠確認もままならなかった。
信じるしかなかったんだ。皆で交わした約束を。
部室に集まるって約束を。
だからこそ、私はムギの顔を見るのがとても恐かった。
唯も澪もいない軽音部に、ムギはがっかりしてるんじゃないだろうか。
約束を果たせなかった軽音部に、少なからず失望してるんじゃないだろうか。
しかも、それは澪が悪いわけでも、唯が悪いわけでもない。
この場合、梓だって悪くない。
梓に嫌われてると思えて仕方なくて、梓の悩みから逃げ出した私が無力だったんだ。
今日、全員が揃えない責任は全部部長の私にある。
だから、私はムギの顔を見られないんだ。
「ごめんな……」
顔を上げられないまま、私は絞り出すようにどうにか言葉を出した。
「澪に何かあったんじゃない。
澪が来ないのは私のせいなんだ。
こんな状況なのに、もう時間も残り少ないのに、
それでも答えが出せなくて、悩まずにはいられない私の責任なんだ。
本当にごめん……」
実を言うと、澪の件に関しては私の中で一つの答えが固まりつつあった。
今からでもそれを澪の家に行って伝えたなら、
もしかすると澪の悩みは晴れるのかもしれない。
今日の昼過ぎからでも、登校して来てくれるかもしれない。
だけど、私はそれをしたくなかった。
それを澪に伝えるのが恐いって事もあるけど、
曖昧なままでその答えを伝えたくなかったし、
こう言うのも変かもしれないけど、私は悩んでいたかった。
澪にも今日一日は悩んでいてほしかった。
悩んでいたいなんて、滑稽で無茶苦茶にも程がある。
きっとそれは私の我儘なんだろうと思うけど、簡単に答えを出したくないんだ。
世界の終わりも間近なのに、
とても自分勝手で、周りにすごく迷惑を掛けてしまってる。
勿論、ムギにだって……。
だから、私はムギに謝るしかないんだ。
頭を下げる私に、ムギはしばらく何も言わなかった。
何を思って私を見てるのかは分からない。
胸の中で私を責めているのかもしれない。
でも、責められても仕方ないし、私はムギのどんな言葉でも受け入れようと思う。
最終更新:2011年10月31日 21:06