どれくらい経ったんだろう。
突然、普段より低い声色で、ムギが深刻そうに呟いた。
「りっちゃんは……、澪ちゃんと喧嘩したの?」
何て答えるべきか少し迷ったけど、私は大きく頭を横に振った。
「いや……、喧嘩じゃ……ないな。
喧嘩じゃないんだけど、今日は会えないんだよ。
変な事を言ってるとは思うんだけど、悩んでるんだよ、お互いに……。
悩まなきゃ……、駄目なんだよ、私達は。
こんな状況で何を悠長な、って思われても仕方ないのは分かってる。
でも……、でもさ……」
上手く言葉にできない。
自分の中でも曖昧にしか固まってない考えなんだ。
そんな考えを人に上手く伝えられるはずなんてない。
だけど、上手くなくても私はムギに伝えなきゃいけなかった。
ムギも当事者だ。軽音部の仲間なんだ。
そんな私の我儘や曖昧な考えで振り回してしまってる事だけは、謝らなきゃならない。
勿論、まだムギの表情を見るのが恐くて堪らなかったけど、私は顔を上げた。
謝り続けたくはあったけど、単に頭を下げ続けるのも逃げの様な気がしたからだ。
これから責められるにしても、
私はムギの顔を見ながら責められるべきなんだと思うから。
だから、私は伏せていた視線をムギの顔に向ける。真正面から見つめる。
「やっと顔を上げてくれたね、りっちゃん」
視線を合わせたムギは微笑んでいた。
さっきまでの困ったような笑顔じゃない。
安堵……って言うのかな。
すごくほっとしたみたいな笑顔だった。すごく意外な表情だった。
「よかった……。喧嘩じゃなかったんだね。
りっちゃんと澪ちゃんが喧嘩してるわけじゃないなら、私はそれで十分よ。
勿論、今日澪ちゃんと会えないのは残念だけど、
誰よりも澪ちゃんと付き合いの長いりっちゃんが言う事だもん。
きっとりっちゃんも澪ちゃんも今日は悩まなきゃいけない日なんだよね。
だったら、私も応援する。応援したいの、二人の事を」
責められると思ってた。
責められるだけの事はしたと思ってたし、今でも思ってる。
だけど、ムギは笑顔で私を見守ってくれている。
ムギの笑顔は本当に温かくて、それが辛くて、私はまた呟いた。
「でも……、それは私の我儘で、こんな状況なのに……。
それなのに応援してくれるなんて……、こんな私の我儘を……」
「ねえ、りっちゃん?
りっちゃんは優しくて、誰のためにでも一生懸命になってくれるよね?
私はそれが嬉しいし、そんなりっちゃんが大好きよ。
でも……、でもね……、
私、りっちゃんにはもっと自分に自信を持ってほしい。
我儘だって、もっと言ってほしいの」
「自信って……、だけど私は……」
「学園祭の時だってそう。
メンバー紹介の時、りっちゃんの自分の紹介がすごく短かったじゃない?
私、それがとても残念だったの。
私達の軽音部の部長なんだって、自慢の部長なんだって、もっと皆に紹介したかったな」
「それは……、確かにそうだったけどさ……」
学園祭の時は夢中で記憶はあんまりないけど、何となくは覚えてる。
ムギの言葉通り、学園祭のメンバー紹介の時、私は自分の自己紹介を早々に切り上げた。
それは照れ臭かったからってのもあるけど、
私よりも他のメンバーの紹介をした方が観客の皆も喜んでくれると思ったからでもある。
部長ではある私だけど、
私自身を目当てにライブに来てくれた人はあんまりいないはずだと思ったんだ。
だから、皆の紹介を優先した。
その方が多くの人に喜んでもらえると思ったんだけど、ムギはそれを残念だと言った。
自慢の部長だって言ってくれた。
私はそのムギの言葉にどう反応したらいいのか分からない。
自慢の部長だと言ってくれるのは嬉しいけど、
私にそう言われるだけの価値があるのか自身が無かったからだ。
自身が無い……か。
考えていて、気付いた。
ムギが言うように、確かに私は自分に自信があんまり持ててないみたいだ。
それはもしかすると無意識の内に、
部のメンバーと自分を比較してるからかもしれなかったけど、それは別の問題だった。
ムギが私に自信を持ってほしいと言ってくれている。
今はそれを優先的に考えるべきなんだろう。
少し声を落として、小さな声でムギに訊ねる。
「私、自慢の部長かな……?」
「勿論!」
即答だった。
迷いがなく、お世辞でもなく、ムギは強い瞳でそう言った。
拳まで握り締めて、強く主張してくれた。
元々、ムギは嘘が吐けるタイプでもないし、本気でそう思ってくれてるんだろう。
でも、その理由が私にはどうしても分からなかった。
悪い部長ではなかったと思うけど、
ムギに力強く主張されるほどいい部長だったとも思えないんだ。
私のその疑問を感じ取ってくれたのか、ムギがまた珍しく強い語調で続けた。
「さっきも言ったけど、りっちゃんは部員の私達の事を考えてくれてる。
自分よりも優先して考えてくれてるよね。
いつも明るいし、楽しませてくれるし、
軽音部の皆もそんなりっちゃんの事が大好きだと思うわ。
この高校生活、途中で終わっちゃう事になっちゃったけど……、
それはすごく残念だけど……、
でも、これまでずっとずっと楽しかった。
本当に本当に嬉しくて……、楽しくて……、
それは軽音部の部長でいてくれたりっちゃんのおかげよ。
だから、りっちゃんは自慢の部長よ。
何度でも自信を持って言えるわ。
りっちゃんは私達の自慢の部長なの」
嬉しかった。
そのムギの言葉が心から嬉しくて、舞い上がってしまいそうだった。
私はそんな部長でいられたんだな……。
それだけで軽音部を立ち上げた意味があったと思える。
だけど、同時にそれでいいのかって思ってしまう自分もいた。
ムギが軽音部を楽しんでくれたのは本当に嬉しい。
でも、それは……、それは……。
「ありがとう、ムギ。
私の事、自慢の部長って呼んでくれて嬉しい。
楽しんでくれて、私も嬉しい。
だけど……、それもさ……、私の我儘なんだ……」
私は言ってしまった。
言わない方がいい事だったんだろうけど、私はそれを伝えたかった。
ずっと心の中に引っ掛かっていた事、
皆と笑顔でいながらも少しの罪悪感に囚われてしまっていた事を。
伝えたかったんだ、ずっと。
「私はさ、皆にはいつも楽しんでほしいし、笑っててほしいよ。
そのためには何だってしてあげたいし、そうしてきたと思う。
さっきムギは私が優しくて、皆のために一生懸命になれるって言ってくれたけど、
それは全部、皆のためじゃなくて自分のためなんだよ。
私は皆が楽しんでるのが嬉しくて、自分が喜びたくて、皆を楽しませてるんだ。
軽音部の部長をやってるのも、自分が楽しみたかったからで……。
ごめんな……。
私はそんな自慢の部長なんかじゃなくて……。
澪との事でもムギに迷惑掛けてる自分勝手な奴なんだよ……」
私の言葉はどんどん小さくなって、最後には止まった。
こんな事を伝えてもムギが困るだけって事は分かってたのに、
私は何でこんな事を言っちゃってるんだろう。
でも、ずっと気になってる事だった。
皆の……、特にムギと唯の笑顔を見ると、たまに不安になってたんだ。
私は私のために軽音部をやってて、
自己満足のためにムギや唯を楽しませてて、
そんな自分勝手な私の姿を知られたくなくて……、
でも、知ってほしかった。
謝りたかったんだ、それだけは。
急にムギが歩き始める。
手を伸ばせば私に届く距離にまで近付く。
誰かのために一生懸命のようで、
その実は自分の事ばかり考えてた私にムギは失望したんだろうか。
平手打ちの一つでも来るんだろうか。
それも構わない、と私は思った。
平手打ちの一つどころか、好きなだけ叩いてくれていい。
ムギが私の目の前で両腕を上げ、勢いよく振り下ろす。
衝撃に備え、私は覚悟を決めて瞼を閉じる。
一瞬後、私の両側の頬に衝撃が走った。
だけど……。
その衝撃は私の想像していたそれとは、痛みが全然違った。
平手打ちなんてものじゃない。
友達を呼び止める時、ちょっと勢いよく肩を叩く程度の衝撃だった。
「もう……。駄目よ、りっちゃん」
ムギの穏やかな声が響き、閉じていた瞼を開いてみて、気付く。
ムギが私の頬を両手で優しく包んでいる事に。
気が付けば、私は絞り出すように呟いていた
「何……で……?」
「いいんだよ、りっちゃん。
恐がらなくても、大丈夫。恐がる必要なんてないわ。
だからね、そんなに自分を責めちゃ駄目よ、りっちゃん」
「私が恐がってる……?」
私の言葉にムギがゆっくり頷く。
そのムギの頷きを見て、
そうか、私は恐かったのか、と妙に冷静に私は考えていた。
世界の終わりは勿論恐いけど、それ以外の事も多分恐かった。
澪との関係に答えを出す事も恐かったし、梓の問題を解決できるかも不安でたまらない。
これからの事に不安は山積みだ。
でも、何より恐いのは、最後のライブを成功できるのかって重圧かもしれなかった。
それは聡や憂ちゃんのせいじゃない。
ライブを楽しみにしてくれる人が想像以上に多かった事を、自分一人で恐がってたんだと思う。
「そうだな……。恐かったのかもな……」
軽く私が頷くと、「うん」とムギもまた頷いた。
それから困ったような笑顔を浮かべる。
微苦笑とでも言うんだろうか。私が困らせてしまった時、ムギが浮かべる表情だ。
「私もね……、本当はすっごく恐かったの。
この一ヶ月、私、お家のお手伝いをしてたじゃない?
詳しい事は分からないんだけど、でもね、ずっとお手伝いをしてると実感してくるの。
家族や、お手伝いの皆や、色んな人が必死に頑張ってる姿を見てると、感じるの。
世界の終わりの日は冗談なんかじゃなくって、本当に来るんだって。
それを皆、分かってるんだって……。
私、恐かったわ。
世界の終わりも恐かったし、私の大好きな皆も消えちゃうのがすっごく恐かった。
だからね、私、お家で何度も泣いちゃったわ」
「泣いちゃったのか?」
「うん。自分で言うのは、ちょっと恥ずかしいね……。
でも、本当よ?
毎日、お家のお手伝いが終わったら、ベッドの中でずっと泣いてたの。
お手伝い中、泣かないように我慢してた涙を全部流しちゃうくらい、大声で泣いてた。
しばらくの間、朝起きたらすごい顔してたな」
そう言うと、ムギの微苦笑から苦笑が消えた。
簡単に言えば、普段の優しい微笑みに戻ってた。
こんな時だけど、私は気が付けば軽口を叩いていた。
「そっか……。見たかったな、その時のムギの顔」
「駄目よ。その時の顔だけはりっちゃんにも見せられないわ」
「そりゃ残念だ」
わざと悪い顔になって私が言うと、「もう」とムギは軽く私の頬を抓った。
いや、これも抓ったってほどじゃない。
指に少し力を入れただけなのが、どうにもムギらしい。
そう感じがら、私は安心してる自分に気付いていた。
この一ヶ月、泣き過ぎてすごい顔になってたとムギは言った。
毎日じゃないだろうけど、学校に来なかった日にはそういうすごい顔をしてた日もあったんだろう。
だけど、少なくとも今のムギはそんなすごい顔をしてなかった。
今のムギは私達を安心させてくれる優しい顔をしてる。
つまり、ムギは泣かなくなったんだ。
世界の終わりに対する恐怖は完全には消えてないにしても、泣く事だけはやめたんだ。
笑顔でいる事に決めたんだ、最後まで。
「ムギはいい子だな」
言いながら、私も右手を伸ばしてムギの頬を触る。
柔らかく、温かいムギの頬。
ムギは首を傾げながら、少しだけ赤くなる。
もしかしたら、珍しい私の言動に照れてるのかもしれない。
顔を赤くしたまま、またムギが優しく微笑んで言った。
「りっちゃんだって素敵よ。
とっても素敵な私達の自慢の部長。
だって、世界の終わりの日が恐くなくなったのは、りっちゃんのおかげだもの」
「私の……?
でも、私は何も……」
してない、と言うより先に、ムギは首を横に振った。
癖のある柔らかいムギの髪が私の手をくすぐる。
その後に私に向けたムギの顔は、これまで見たどんなムギの顔より綺麗に見えた。
「ううん。
りっちゃんの……、りっちゃん達のおかげで私は恐くなくなったよ。
確かに『終末宣言』の後、りっちゃん達と話す機会は少なかったけど、
私の中のりっちゃん達が私を励ましてくれたの。
離れていたけど、ずっと傍にいてくれたの」
「ムギの中の私達……?」
「うん。私の中のりっちゃん達が……。
あ、でもね、妄想とか、妖精さんとかね、そういう事じゃないの。
泣いてた時、本当に恐かったのは世界が終わる事より、
りっちゃん達ともう会えなくなるって考える事だったんだ。
あんなに楽しかったのに、あんなに夢中になれたのに、
その時間がもうすぐ終わっちゃうなんて、とっても辛かった。
りっちゃん達が私と同じ大学を受けてくれるって聞いて、
まだ楽しい時間を続けられるって思ってたのに、それができなくなるのが嫌だったの。
だから、何度も何度も泣いちゃった」
「私も……、そうだよ、ムギ……。
自分が死ぬとかより、皆と会えなくなる事の方が辛かった」
「でもね、泣きながら気付いたんだ。
離れてても、りっちゃん達が私の中にいる事に。
勿論、離れてても平気って事じゃなくて、
上手く言えないけど、上手く言えないんだけど……」
ムギが言葉を失う。
何か大切な事を伝えようとしてくれてるんだろうけれど、いい言葉が見つからないに違いない。
でも、それをムギには言葉にしてほしいし、私もそのムギの言葉を聞きたかった。
その手助けをしてあげたかったけれど、私はどうにも無力だった。
自分の想いすら曖昧にしか表現できない私には、ムギのその言葉を導いてあげられない。
くそっ……、何やってんだ、私は……!
どうにか……、どうにかしたいのに、してあげたいのに……!
左手で頭を抱え、私はつい唸り声を上げてしまう。
瞬間、ムギが笑った。
これまでの優しい微笑みとは違う、何かが楽しくて浮かべる様な笑顔だった。
「もう、りっちゃんたら……。
また私のために一生懸命になっちゃうんだから……。
本当に優しいよね、りっちゃんは」
「あっ……」
今度は私が赤くなる番だった。
ムギの頬から手を放して、視線を逸らす。
その私の様子をムギは嬉しそうに見てたみたいだったけど、
しばらくしてから、「そうだわ」と何かを思い付いたように言った。
「ねえ、りっちゃん?
これから新曲を合わせてみない?
微調整をしておきたい所もあるし、私、りっちゃんのドラムが聞きたいな」
最終更新:2011年10月31日 21:07