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六回くらいムギと新曲を合わせ終わった時、
私は軽音部に向かってくる忙しない足音に気が付いた。
多分、走ってるんだろうその足音。
それは待ち合わせに遅刻しそうな時に唯が立てる足音に似てたけど、
今日は唯は憂ちゃんと過ごすはずで、ここには来ないはずだった。
勿論、澪の足音ともかなり違う気がする。
つまり、軽音部に近付いて来ているこの足音の持ち主は……。

私の身体が小さく硬直する。
心臓の鼓動が僅かにだけど速くなる。
逃げ出したあいつの姿を思い出して、胸が痛んでくる。
正直、辛いし、若干逃げ出したくもある。
でも、もう逃げられないし、逃げたくない。
まだ確認は取れてないけど、何が起こってもおかしくないこの時期、
あいつにあんな夜の道を一人で出歩かせるような事だけは、もうさせちゃいけない。
もう私があいつに嫌われているんだとしても、
嫌われてるなりにしなきゃいけない事もあるはずだ。

私は頷いて、スティックを片付ける。
近付いて来る足音をじっと待つ。
ふと視線を送ると、ムギもどこか緊張した表情で唇を閉じていた。
ムギは鈍感じゃない。
人の気持ちを察する事ができるし、近付く足音の持ち主が誰かも分かってるはずだ。
ムギも私と同じ気持ちなんだな……。
そう思うと勇気が湧いてくる。
今度こそあいつと向き合うんだって、そんな気持ちにさせてくれた。

「おはようございます!
すみません、遅くなりました!」

扉が開いて、挨拶が部室内に響く。
私はムギと二人で部室の扉の方向に視線を向ける。
勿論、扉を開いたのは私達の小さくて唯一の後輩の梓だった。
走ってたせいか息を上げて、ほんの少し汗も掻いてるみたいだ。
昨日までは制服で部室に来てたのに、
今日の梓は何故か私服なのが少し気になる。

「おう、おはよう」

自分の掌にも汗を掻くのを感じながら、私は何気ない素振りで声を掛ける。
これから重大な話をしなきゃいけないんだと思うと、やっぱり緊張してしまう。

「梓ちゃん、おはよう」

ムギの声も何だか上擦ってるように聞こえた。
ムギも緊張してるんだ。
梓は自分の悩みを私だけじゃなく、誰にも語らなかったし、
それどころか自分が悩んでいる素振りすら誰にも見せないようにしていた。
自分は悩んでない。
誰にも心配される必要はない。
梓のそんな姿はかえって私達を不安にさせる。
『本当に辛い事ほど、「大好き」な人には言えないものだから』。
不意に昨日聞いた和の言葉を思い出す。
梓が私達の事を大好きかどうかは別問題としても、
本当に辛い事ほど誰かに話す事ができないのは確かだと私も思う。
私だってそうだったし、誰だってそうだと思う。
本気で悩んでるんだけど……、
って、自分から切り出すような悩みなんて、きっと本当は大した事じゃない悩みなんだ。

だから、恐い。
梓がどれだけ大きな悩みを抱えてるのか、想像もできない。
そんな悩みを私なんかがどうにかできるんだろうか。
無理じゃないかと思えて仕方がない。
私はちっぽけで凡人の単なる女子高生なんだ。
きっと、私が梓の悩みを探るのは、梓にとっても迷惑に違いない。
それでも、このまま逃げる事だけはしちゃいけないはずだ。
私と梓のお互い……な。

「今日、唯先輩が来ないらしいですね。
憂から聞きました。今日唯先輩と会えないのは残念ですけど……。
でも、唯先輩もちゃんと憂の事を考えてたみたいで、何だか嬉しいです」

寂しげな笑顔で呟きながら、
梓が長椅子に自分の鞄を置きに……いかない。
そりゃそうだ。
今日の梓は私服姿で自分のギターを持ってるだけだった。
どうして私は梓が長椅子に自分の鞄を置きに行くと思ったんだ?
いや、答えは簡単だった。
梓だけじゃない。部室に入った時、私達はまず長椅子に自分の鞄を置きに行くからだ。
誰が決めたわけでもない。
その方が楽だから誰もがそうしてるってだけの習慣だ。
考えてみれば、ここ最近、梓は自分の鞄を持って来てない気がする。
まあ、授業も無いんだから、かさばる鞄を家に置いてるだけなのかもしれないけど。

「あれ?
そういえば澪先輩は?」

梓は唯だけじゃなく、澪も部室にいない事に気付いたらしい。
部室内を見回しながら、何でもない事みたいに訊ねてきた。
そうだ。梓は今日澪も来ない事を知らなかったんだ。
澪が今日来ないのを知ってるのは、私がそれを話した憂ちゃんだけだからそれも当然だった。
ムギに伝える時もそうだったけど、他に悩みを持ってるはずの梓にはそれ以上に言いにくい。
嫌でも自分の身勝手さを実感させられて、ひどく申し訳なくなってくる。
でも、私はまっすぐに梓の瞳を見つめて、その言いにくい事を伝える事にした。
言わないで終わらせられる事じゃなかったし、
これから私は梓にそれよりもずっと言いにくい事を何度も言わなきゃいけないんだから。

「澪は今日、来ないんだ」

私の言葉に、梓の寂しげな笑顔が硬直した。
私が何を言っているのか理解できないって表情だった。
胸が強く痛い。心が折れそうだ。
梓は特に澪に憧れていた。その先輩と会えないなんて、かなりの衝撃だろう。
私なんかで澪や唯の代わりが務まるとも、とても思えない。
梓の中の自分の立ち位置を実感させられて、私の方が辛くなってきそうだ。
自業自得……かもな。
いや、私の辛さなんて、今は関係ないか。
今は梓の辛さや迷いの方に目を向けなきゃいけない時だ。
私は言葉を絞り出して続ける。

「ごめんな……。
別に喧嘩したわけじゃないんだけど、今日はさ、澪は……」

私のその言葉は最後まで伝える事はできなかった。
突然、梓が泣き出しそうな表情に変わって、
ギターの『むったん』も置かず、そのまま部室から飛び出してしまったからだ。
止める時間も隙もない。
本当に一瞬と言えるくらいの時間に、梓は部室からいなくなってしまった。

私は呆然とするしかなかった。
そこまで……なのか?
そこまで私は梓に疎ましく思われてるのか?
唯と澪が傍にいなければ、話もしたくないくらいに私を嫌ってるのか?
嫌われてるなりに……とは思ってたけど、
ここまで嫌われてるなんて私は……、もう……。
陳腐な言い方だけど、心のダムが決壊してしまいそうだった。
ダムが決壊して、涙腺が崩壊して、その場で壊れるくらいに泣きじゃくりたい気分だ。
そんなに梓は私の事を嫌ってたのかよ……。

「りっちゃん……」

ムギが私に声を掛ける。
考えてみれば、ムギも同じ立場と言えるのかもしれない。
こんなのムギだって辛いはずだ。
泣きたくて仕方がないはずだ。
そう考えて、振り返って見てみたムギの表情は辛そう……じゃなかった。
私の予想とは裏腹に、ムギは意志を固めた強い表情で私を見ていた。
自分の辛さなんかより、優先しなきゃいけない事を分かっいてる表情。

「りっちゃん!」

もう一度ムギが言うけれど、
やっぱり情けなくて弱い私は、
辛さに沈み込みそうで、
今にも泣きそうで仕方がなくて、
私は……、私は……。

「うおりゃあっ!」

大声を出して、私はドラムの椅子から立ち上がる。
歯を食い縛り、なけなしの想いを奮い立たせて、無理矢理に立ってみせる。

「追い掛けるぞ、ムギ!」

大声でムギに宣言する。
ムギが嬉しそうに私を見てくれる。
分かってる。
立ち上がれたのは別に私自身の力ってわけじゃない。
だからってムギが励ましてくれたからでもない。
そうだ。私達は二人だから……、今は二人だから、一緒に強くいられたんだ。
その場で泣くんじゃなくて、梓をどうにかしなきゃって思えたんだ。
そういう事なんだ。

「うん!」

ムギがキーボードの電源を落として、力強く頷く。
二人で部室の扉を開き、お互いにお互いを奮い立たせて駆け出していく。
部室を飛び出し、階段を駆け降りて、一瞬私達の動きが止まる。
梓の事で不安になったわけじゃない。
その気持ちはずっと心に抱いてるけど、
そんな事ではもう私達の脚や心は止められない。
動きが止まったのは、単に梓がどこに走って行ったのか見当も付かなかったからだ。
普通ならここで私達の思い出の場所なんかを捜すんだろうけど、
残念だけど私達と梓の思い出の場所は軽音部の部室なんだ。
軽音部の部室から出てきた以上、私達はどこか別の場所を捜さなくちゃいけない。
梓はどこだ……?
教室か? 体育館か? 保健室か?
それとももっと予想外の場所なのか?
下手すりゃ学校外に出てる可能性も……?
仕方ない。
ひとまずムギとは二手に分かれて片っ端から……。

「律先輩! ムギ先輩!」

瞬間、私達は呼ばれ慣れた呼び方で、遠くから誰かに呼ばれた。
でも、そう呼ぶのは梓だけのはずだなんだけど、その声は梓の声とは違っていた。
それなら誰が私達を呼んだんだ?
声がした方向を見回し、その声の持ち主が近付いて来るのを見付けて思い出した。
そういえば、あの子も私達を梓と同じ呼び方で呼んでいた。
クルクルしたツインテールの梓の親友……、純ちゃんも。




純ちゃんが息を切らし、可愛らしい癖毛を振り乱して駆け寄って来る。
今まで見た事もない、とても深刻な表情を浮かべて。
純ちゃんの事をそんなによく知ってるわけじゃない。
だけど、純ちゃんがこんなに必死な表情を浮かべる事なんて、滅多にないはずだった。
いつも笑顔ってわけじゃないけど、
私の知ってる純ちゃんは静かに微笑んで梓を見守ってくれる子だった。
つまり、よっぽどの事が起こったんだ、きっと。

「どうしたんだ、純ちゃん?」

駆け寄って来る純ちゃんの方に私達も向かう。
今は梓を追い掛けなきゃいけない時だけど、純ちゃんの事も放ってはおけなかった。
それに純ちゃんが深刻な表情で私達を呼び止める理由なんて、梓以外の理由であるはずがない。
私とムギも必死に廊下を駆ける。
私達と純ちゃんの距離は歩いて十秒掛かる距離ですらなかったけど、今はそんな時間ももどかしかった。
一秒でも早く純ちゃんと話がしたかったんだ。
私達と純ちゃんの距離が手が届くくらいになった時、私は純ちゃんの両肩を掴んで矢継ぎ早に訊ねた。

「何? どうしたの? 梓に何かあったの?
もしかして走るスピードが速過ぎて、転んで怪我したとか?
それとも、階段から転がり落ちたとかか?
梓は大丈夫なのか? 無事なのか?
怪我してるんだったら、すぐに保健室かどこかで治療しないと……」

早口にまくしたて過ぎてたかもしれない。
でも、私の言葉は止まらなかった。
梓が私の事を嫌いでもいい。
この際、世界が終わるのだって別問題だ。
せめて世界が終わるまでは、梓には怪我もなく無事にいてほしい。
誰だろうと何だろうと梓を傷付けさせたくない。
勿論、私自身も含めて、梓を傷付けるものを許したくなかった。

「りっちゃん、落ち着いて」

私の後ろまで駆け寄って来ていたムギが私の肩に手を置く。
落ち着けるはずない。そんな事をしている余裕なんてない。
落ち着いてなんて……。
不意に。
目の前の純ちゃんの表情が少し緩んだ事に私は気が付いた。

「純ちゃん……?」

「いえ、すみません。ちょっと嬉しくて……」

必死だった表情がどこへ行ったのか、
純ちゃんの表情は普段梓を見守ってくれるような優しく静かな微笑みになっていた。
嬉しい……?
純ちゃんが何を言っているのかは分からない。
でも、少なくとも純ちゃんの表情を見る限りは、
梓が怪我をしたとか、梓に何かの危険が迫ってるとか、そういう事は無さそうだった。
私は純ちゃんの両肩を掴んでいた手から力を抜いて言った。

「梓は無事なんだよね……?」

「はい、お騒がせしてすみません、律先輩。ムギ先輩も……。
梓は怪我なんかしてません。変質者に襲われてるって事もないですよ。
そういう意味では梓は大丈夫です」

「そういう意味で……?」

私がそう疑問を口にすると、また急に純ちゃんが真剣な表情になった。
さっきまでの深刻そうな表情とは違って、
自分が言うべき事を口にしようって強い意志を感じる表情に見えた。
純ちゃんは真剣な表情のままで口を開く。

「あの……、律先輩……?
律先輩は梓を苛めたりなんかしてませんよね?」

「え? 何なの、いきなり……。
そんな……。私は梓を苛めてなんて……」


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最終更新:2011年10月31日 22:33