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教室に前後があるかどうかは分からないけど、
教壇の方を前と考えると、二年一組の教室の後ろの扉の前。
梓の居場所を教えてもらった後、純ちゃんと別れた私達はそこに立っていた。
梓の居場所がそのまま梓の教室だなんて、何だか馬鹿みたいに単純な答えだった。
分かってみれば簡単ではあるけど、
純ちゃんに教えてもらえてなければ、私達はこんなに早くここには辿り着けなかった。
ずっと後で辿り着けていたとしても、その時間にはもう梓は教室の中に居なかっただろう。
さっき自分で言った事だけど、
確かにそれは私達と純ちゃんの共同作業のおかげだな、と思った。
そうだ。
ムギの励ましと純ちゃんの想いが無ければ、私はここには辿り着けなかった。
辿り着こうとも思えなかったんじゃないだろうか。
勿論、今の私の支えはその二人だけじゃない。
振り返ってみれば、
私の周りでは色んな人たちが世界の終わりを目の前にして、精一杯生きていた。
人を気遣い、たくさんの人を心配している憂ちゃん。
軽音部のために動いてくれてる和。
強く生きるための笑顔を見せた信代。
関係なく見える誰かと誰かでも、決して無関係ではない事を教えてくれたいちご。
人のために動ける私を嬉しいと言ってくれた聡。
この状況でも自分を変えずに生きている唯。
自分を変えて、私達の関係を変えたいと思っている澪。
あれ?
さわちゃんからは何か支えてもらったっけ?
……思い付かない。
突っ込みを鍛えてもらった気はする。
いや、鍛えてもらったっていうか、必然的に鍛えさせられたというか……。
ごめん、さわちゃん。
今度会う時までに考えとくよ。
でも、思った。
多くの人達の生き方が私の胸の中でまだ生きてるんだって。
ほんの小さな支えが重なって、そのおかげで私は今ここにいられるんだって。
だから、進める。
進もうって思える。
緊張して胸が張り裂けそうなほど高鳴るけど、足を動かせる。
震える手を押し留めて、二年一組の教室の扉に手を掛ける事ができる。
後ろにいるムギに私は軽く視線を向けた。
胸の前で拳を握り締め、ムギが強い視線を返してくれる。
頑張って、とその視線は言っているように思えた。
そうだ。頑張らないといけない。
梓の悩みを聞き出すのは、私の役目なんだから。
さっき少し相談して、ムギは教室の中に入らない事に決めていた。
それはもしまた梓が逃げ出しても、
すぐに追いかけられるようにムギが待機しておくって意味もあったけど、
それ以上にムギが私を信じてくれてるのが大きかった。
「りっちゃんが梓ちゃんと話すのが一番いいと思う」ってムギは言った。
「私は口下手だし……」と苦笑交じりにそうも言ってたけど、
私は別にムギが口下手だとは思わない。
確かにムギは私達の中では比較的口数が少なめだし、
自分の想いを難しい言葉なんかで表現する事も少なかったけど、
その分自分の考えを単純な言葉でストレートに表現してくれてると私は思う。
「楽しい」とか、「素敵」とか、「面白い」とか、
ムギの言う言葉は本当に単純で、単純なのが嬉しかった。
自分の気持ちを的確に表現できてるし、そういうのは口下手とは言わないはずだ。
むしろ妙に持って回った言い方をしてしまう私の方こそ、本当に口下手って言えるかもしれない。
それでも、ムギは私に梓を任せてくれた。
私なら梓の悩みを聞き出せると信じてくれた。
「梓ちゃんが一番悩みを話しやすいのは、りっちゃんだと思うから」と言ってくれた。
ムギは教室の外で私達を待つ事に決めてくれた。
その想いに応えられるかどうかは分からない。
だけど、もう私は梓の前から逃げたくなかったから。
自分自身の迷いを断ち切るためにも、梓と正面から向き合いたかったから。
私は梓と話をしたい。話したいんだ。
考えてみれば、この一週間、梓とはろくに会話もできてないしな。
顔を合わせながら、一週間も会話できてないなんて辛過ぎるじゃないか……。
ひょっとしたら、ムギは私のその考えを感じ取ってもくれたのかもしれなかった。
どちらにしろ、私にできるのは進む事だけだ。
ムギにもう一度だけ視線を向けてから、私は教室の扉を引いた。
梓から見えないように、一歩引いてムギが廊下に身体を隠す。
結果がどうなろうと、ムギはそこで待っててくれるだろう。
「頼もう」
小さく呟いて、私は二年一組の教室の中に足を踏み入れる。
何度か来た事のある教室だけど、入り慣れない梓の教室はとても新鮮に見えた。
いや、そんな事は別にどうでもいい。
教室の扉を軽く閉めてから、私はこの教室に居るはずの梓を捜し始める。
梓はすぐに見つかった。
と言うか、すぐ傍に居た。
教室の廊下側、後ろから三番目の梓の席だった。
私は後ろの扉の方から教室に入ったわけだから、
私から数歩ほどしか離れてない距離に梓は座っていた。
だけど、梓は私の存在には一切気付いてないみたいだった。
私は扉を開いて、「頼もう」と呟き、扉を閉めまでしたのに、
梓はその私の動きに全く気付かなかったようで、自分の席で微動たりともしなかった。
ただ両手で頬杖を付いて、何の動きも見せない。
そんな梓の後ろ姿を見て、私はひどく不安になる。
私はこれまで何度も梓に迷惑を掛けてきたと思うし、それで何度も梓に叱られてきた。
生意気な後輩だと思ったけど、同時に私に突っ掛かって来る梓の姿が嬉しかった。
その梓が私に文句の一つも言わずに、自分の中に悩みを抱え込んでいるなんて。
ずっと逃げ出してた私の姿に気付かないほど、胸の中の悩みに支配されてるなんて……。
この数日で何度も梓から逃げられてしまった私だけど、
そんな抜け殻みたいな梓の姿を見る方が、逃げられるよりも何倍も辛かった。
何とかしないと……。
私が……、何とかしないと……!
唇を閉じ、私は梓との数歩の距離を縮めるために足を動かす。
一歩。
梓が何を悩んでいるのかは分からない。
二歩。
純ちゃんの言うように、本当に軽音部の事を悩んでいるんなら、多分その原因は私だろう。
三歩。
私が原因なら、私はもう梓の目の前から消えよう。それで梓の悩みが晴れるんなら、それもいい。
四歩。
だけど、最後のライブは梓に参加させてやりたい。きっとそれが梓の心の支えになる。
五歩。
そうなると私は最後のライブには参加できなくなるのか。ドラムだけ録音しておくべきか?
六歩。
嫌だ! 本当は私も梓と一緒にライブに参加したい。皆と曲を合わせたいんだ!
そのためには……。
そのために私がするべき事は……!
「……確保」
私は手を伸ばし、梓の頬杖の左腕を軽く掴む。
梓に私の存在を気付かせるために、
それ以上に私の中の不安感を振り払うために、それは必要な行動だった。
「えっ……?」
突然の事に驚いた梓が身体を震わせる。
自分の手を掴んだのが誰なのかを確認するために、私の方に視線を向ける。
梓と私の視線が合う。
その一瞬に、気付いた。
梓の顔がひどくやつれ果ててる事に。
頬は軽くこけ、目には深い隈が刻まれて、自慢のツインテールも左右非対称だ。
元気が無いとは思っていたけど、こんなにやつれてるなんて私は気付いてなかった。
気付けなかったのは、ずっと梓が私から視線を逸らしていたからだ。
それでも、梓が視線を逸らすだけなら、私は梓のやつれた顔に気付けたはずだ。
本当に気付けなかった理由はたった一つ。
梓に目を逸らされるのが恐くて、私の方もチラチラとしか梓の姿を見ていなかったからだ。
昨日一度だけ視線が合ったが、その時も遠目で何も気付く事ができなかった。
梓の何を分かってやれる気でいたんだよ、私は……!
心底、自分を軽蔑したくなる。
思わず梓の腕を掴んでいた手に力を入れてしまう。
だけど、梓は言った。
驚いた顔を無理に隠して、力の入らない笑顔まで浮かべて。
「さっきはすみません、律先輩……」
「すみませんって……、おまえ……」
まさか梓の方から謝られるなんて思ってなかった。
面食らった私は、掛けるつもりだった言葉が頭の中で真っ白になっていくのを感じた。
「驚かせちゃいましたよね、
急に逃げ出しなんかしちゃったりして……。
驚くなって言う方が無理な話ですよね。
本当にすみません。
でも、私、すごく寂しくなっちゃって……。
それで……」
「寂しく……なった……?」
「いえ……、ほら、今日唯先輩が来ないって事は私も分かってたんですけど、
澪先輩まで来ないなんて知らなくって……。
それが辛くて、何だか恐くなっちゃって……。
気が付いたら軽音部から飛び出してたんです」
「澪が来ないのが、そんなに辛かったか……?」
「はい……。あ、いえ、ちょっと違います。
澪先輩って言うか……、先輩達が一人ずつ減っていくのが恐くて……。
今冷静に考えると偶然だって事は分かるんですけど、
唯先輩に続いて澪先輩まで部活に来なくなって、
最後にはムギ先輩や律先輩まで来なくなっちゃうんじゃないかって。
そんな風に思っちゃって……」
「そんな事はないぞ。
私もムギも、週末までずっと部活に出るつもりだぜ?
唯だって明日には来るし、澪も今日は考え事があるから家に居るだけだ。
明日には全員揃う。全員揃って練習できるし、お茶だってできる。
ムギがFTG何とかって美味しい紅茶も入れてくれる」
「そう……ですよね。
そうですよね……。不安になる必要なんて、無いですよね」
言って、梓が笑う。
力無く、自信も無さそうに。
その表情のまま、梓は続けた。
「ごめんなさい、律先輩。
後でムギ先輩にも謝らないといけませんね。
部活に戻りましょう、律先輩。
すみません、お時間を取らせてしまって……。
恐かったけど……、もう大丈夫です。
明日には皆揃うんですもんね。だから、大丈夫です」
梓は自分の席から立ち上がる。
まだ不安感を完全には拭えてないけど、自分の力だけで立ち上がる。
自分を待つ軽音部の仲間の下に、無理をしながらでも歩き出していく。
私にできるのは、そんな梓を見守ってやる事だけだ。
梓の抱えてた悩みは、
軽音部の仲間が居なくなるかもしれないって不安感からだったんだな……。
世界の終わりを間近に迎えたこの状況だ。
確かに誰かが欠けてしまってもおかしくはない。
その不安感は私にもある。ムギや唯、澪にだってあるだろう。
でも、軽音部の全員は最後まで部活に出たいと思ってる。
明日には全員が勢揃いして、いつしか不安感だって消えていく。
それでいい。それでいいんだ。
私が嫌われてるわけじゃなくて、本当によかった。
後は梓を大切にしてやるだけだ。
梓は足を踏み出して、教室を後にしようと歩き出そうとする。
私もそんな梓を笑顔で見送って……。
って……。
「ちょっと……、律先輩……?」
私は梓の腕を掴んだままにしていた手に力を込める。
さっきみたいに自分自身を嫌悪してるからじゃない。
絶対に離さないって思ったからだ。
この手だけは絶対に離しちゃいけない。
「……あるかよ」
「えっ……? 何ですか、律先輩?」
「って、そんなわけがあるかよ!
そんなのってあるかよ!」
私は腹の底から叫ぶ。
教室が揺れる。そう思えるくらいに精一杯の大声で。
今は絶叫しなきゃいけない時だった。
自分を誤魔化してはいけないんだって。
不安を見ないふりをしてちゃいけないんだって。
私は梓と自分にそれを分からせなきゃいけないんだ!
「律先輩……、何を……?
何を……言って……」
貼り付けたみたいな梓の笑顔が硬直する。
分かってないはずがない。
私より誰より、梓自身が自分に嘘を吐いている事をよく分かっているはずだった。
いや、完全には嘘じゃないか。
でも、だからこそ、余計に始末に負えない嘘なんだ。
さっきまでの梓の言葉に嘘はなかったと思う。
軽音部の仲間が減っていくのが不安だったのは確かだろうし、
それ以外の話もほとんどが梓の本心だったはずだ。
悩みの理由としては問題無かったし、よくできた話ではあった。
だけど、よく考えてみなくても分かる。
梓はこんなに簡単に誰かに悩みを語る子だったか?
抱え込んで、一人で悩み続けるのが梓って子じゃなかったか?
良くも悪くもそれが梓なんだ。
そんな梓が自分の本心を簡単に語る理由だって分かる。
本当に隠しておきたい事を隠すために、それ以外の本心を語ったんだ。
普段は隠している本心を語れば、それで納得してもらえるだろうって思ったんだろう。
部活の先輩達が居なくなるのが辛い、ってのは、それはそれで十分な悩みだ。
これが昨日の私なら、私もその梓の言葉を信じてたと思う。
梓が私の前から逃げ出した理由は、
居なくなるかもしれない私の顔を見るのが辛いから、だの何だのって適当な理由でも考えて。
だけど、残念ながらと言うべきなのかな、
今日の私にはその梓の誤魔化しは通用しなかった。
まずはこんな時期の深夜に動き回ってる梓の姿を見たからってのがある。
私はそれを梓にぶつけてみる。
「なあ、梓……。
おまえの悩みは本当にそれか?
そりゃ、私達と離れるのが辛かったって悩みは嬉しいし、それは本当だと思う。
でもさ、それじゃ説明が付かないんだよ。
おまえ……、昨日、いや、今日か。
今日の深夜に何してた?
憂ちゃんと会う前に外を走り回ってただろ?
見たんだよ、偶然」
梓の硬直した笑顔が今度は強張る。
私から視線を逸らして、足下に伏せる。
その様子が私の言葉を完全に認めていたけど、言葉だけは力強く梓が言った。
「何を言ってるんですか、律先輩。
夜は憂が来るまで、家でずっとギターの練習をしてましたよ?
それに、こんな時期の深夜に、どうして外を出歩かなきゃいけないんですか?
そんなはずないじゃないですか。
律先輩の見間違いですよ。見間違いに決まってるじゃないですか」
口早に梓が捲し立てる。
それだけでも嘘だと言ってる様なもんだけど、私はそれについて追及しなかった。
夜に見たあの影は間違いなく梓だったんだろうけど、
見間違いと言い切られたら、それ以上話を進めようがない。
水掛け論で終わっちゃうのが関の山だ。
だったら、私にできる事は結局はたった一つ。
それは梓の事を信じてやる事だ。
いや、梓の言う事を全面的に信じるって意味じゃない。
何度も語り掛けて、いつかは梓が本当の事を言ってくれるって信じる事だ。
これまでに積み重ねた私達の関係を信じるって事だ。
それを信じられなければ、私は梓の部長でいる意味も価値もないんだ。
ムギと純ちゃんと話してきた中で、私はそう思った。
私は自慢の部長と呼ばれるに相応しい部長になりたい。
そのためにも、梓の本心から逃げちゃいけない。
「梓。見間違いだっておまえが言うなら、それでいい。
無理をするなとも言わない。
無理しなきゃ、こんな状況で生きてけないもんな……。
でもさ、おまえのその無理は違う……。違うと思う。
無理しないおまえを受け止めてくれる人の前じゃ、無理しなくてもいいと思う。
そんなに私の事が信じられないか?
本当の悩みを口にしたら、見限られるとでも思ってるのか?
いや、確かに私はおまえにとっていい部長じゃなかったとは思うよ。
迷惑掛けてばっかりだったもんな……。
私を信じられないってんなら、それも仕方ない事だと思う。
おまえがそんなにやつれてるって事すら、
今日まで気付けなかった馬鹿な部長だもんな。仕方ないよ。
それなら……、それならさ……。
せめて……、せめて私以外の誰かには話してほしいんだ。
私じゃ役不足だと思うなら、唯にでも、憂ちゃんにでも、誰にでもいいから話してほしい。
おまえ自身のためだし、それが負い目になるってんなら、
駄目な部長の私の願いを聞いてやるって意味で、誰かに話してほしいんだよ……」
最終更新:2011年10月31日 22:35