「梓がそんなに大切にしてくれてるとは思わなかったよ。
京都の土産なのに、京都とは何の関係もないしさ。
実は呆れられてるんじゃないかって、何となく思ってた」

「呆れるなんて……、そんな事……。
私、嬉しくて……、宝物にしようと思って……、
でも、大切にしてたのに……、落としちゃうなんて、私……。
こんなんじゃ……、こんなんじゃ私……、
先輩達の後輩でいる資格なんて……」

涙を流して、梓はその場に目を伏せようとする。
私は梓の肩を掴んでいる手に力を入れて、視線を私の方に向かせる。
梓と目を合わせて、視線を逸らさない。
泣き腫らした梓の瞼が痛々しくて、ひどく胸が痛くなってくる。
梓を悲しませているのは、軽音部の先輩である私達の無力が原因だ。
私の方も、梓と同じく大声で泣きたい気分だった。
役に立てず、負い目しか感じさせる事のできない無力過ぎる私達。
自分の情けなさに涙が滲んでくる。
だけど、泣いちゃいけない。視線を逸らしちゃいけない。
今一番泣きたいのは梓で、今泣いていいのは梓だけだ。

どうして、キーホルダーを失くしたって言ってくれなかったんだ?
そう言葉にしようとしてしまうけど、唇を噛み締めて必死に堪える。
梓がキーホルダーを失くした事を私達に話さなかった理由……、
それは訊くまでもないし、訊いちゃいけない事だ。
キーホルダーを失くしたと私達に話してしまったら、
いや、知られてしまったら、
私達の心が自分から離れていってしまうって、梓は考えたんだ。
キーホルダーを一週間も一人で捜し続けてた事から考えても、それは間違いない。
あのキーホルダーは私達にとって、単なる思い出の品なんかじゃない。
軽音部の絆の証、絆の品なんだ。
特に来年一人で取り残されるはずだった梓にとっては、私達以上にその意味があるだろう。
一人でも大丈夫だと思えるために、梓はきっとあのキーホルダーに頼ってくれてたんだ。
絆を信じられるために。

そうだ。
梓が本当に悲しんでる理由は、キーホルダーを失くしたからじゃない。
キーホルダーを失くした事で、
私達の絆その物も失くしてしまった気がしてしまって、それが悲しいんだ。
実際、私達だって、キーホルダーを失くされた事で梓を責めたりしない。
梓も私達から責められるとは思ってないだろう。
梓を責めているのは梓自身。
世界の終わりを間近にしたこの時期に、絆を失くしてしまった自分を許せないんだ。
だから、誰にも知られないままに、自分の力だけで失くしたキーホルダーを見付けたかったんだ。

でも、だからこそ、私には梓に掛けてやれる慰めの言葉が思い付かなかった。
キーホルダーを失くした事なんて気にするな、なんて簡単な言葉で片付く話じゃない。
そんな言葉を掛けてしまったら、それこそ梓は今以上に自分自身を責める事になるはずだ。
一瞬だけの笑顔は貰えるかもしれない。
その場限りの安心は得られるかもしれない。
でも、それだけだ。
それ以降、世界の終わりまで、梓は自分自身を責め続ける事になるだろう。
勿論、私だって、私自身を許せないまま、世界の終わりを迎える事になる。

なら、私に何ができる?
無力で、頼りなくて、後輩に気を遣わせて追い込んでしまった私に何が?
……何もできないのかもしれない。
何もしてやれないのかもしれない。
少なくとも、今の私にできる事は何もない。今の私には何もできないんだ。
でも……。
だからこそ、今の私じゃなく……。

私は大きく溜息を吐く。
何もできない今の自分を情けなく思いながら、
それでも、掴んでいた梓の肩を思い切り自分の方に引き寄せる。
私の胸元に椅子から転がり込んでくる梓を座り込んで抱き締める。

「あの……っ、えっと……?
律……先輩……?」

小さな身体を震わせて、何をされたのか分からない様子の梓が呟く。
呟きながらも、梓の涙はとめどなく流れ続けている。
しゃくり上げながら、震える身体も治まる事がない。
今の私には梓の涙を止められない。震えも止めてやる事ができない。
梓の不安を止めてやれるのは、今の私じゃない。
だから、胸元に引き寄せた梓を、私は頭から包み込むように抱き締める。
強く強く、抱き締める。
まだ掛けてあげられる言葉は見つからない。
その代わりに、小さな梓を身体全体で受け止める。
小さな梓と同じくらい小さな私が、小さな身体で小さく包み込む。
どこまでも小さな存在の私達。
それでも、私達は小さいけれど、とんでもなくちっぽけな存在だけど、
信じてる事だって……、信じていたい事だってあるんだ。

「梓……。きっとさ……。
今の私が何を言っても、おまえの不安を消してはやれないと思う。
私は人を支えてあげられるタイプじゃないだろうし、
誰かの不安を消してあげられるくらい頼り甲斐のある部長でもないんだ。
逆に皆に支えられてばかりだしさ……」

やっと見付けた言葉が私の口からこぼれ出る。
でも、これは梓の耳元に囁いてはいるけど、梓だけに聞かせてる言葉でもなかった。
これは自分に言い聞かせてもいる言葉だ。
願いみたいなものだった。
祈りみたいなものだった。

私の胸の中で、梓は私の言葉を震えながら聞いている。
その震えを止めてやれる自信はない。
今の私に梓を安心させてあげる事はできないだろう。
私の気持ちを上手く伝える事もできないかもしれない。
でも……。

「でもさ、梓……。
こう言われるのは迷惑かもしれないけど、
私の勝手な勘違いかもしれないけど、一つだけ思い出してほしい事があるんだよ。
なあ、梓。
キーホルダーを失くしちゃった事は、梓も辛くて不安だったんだろう。
もっと早く気付いてやれなくて、悪かった。
私はさ……、こう言うのも情けないんだけど、
あんまり梓が私と目を合わせてくれないもんだから、梓に嫌われちゃったんだって思ってた。
それが不安で辛くてさ……、それで梓と話す勇気が中々持てなかったんだよな」

私の言葉を聞くと、腕の中の梓の震えが大きくなった。
その震えは不安が増したってわけじゃなく、自分の行為をはっと思い出したって感じだった。

「そんな……。そんな風に思われてたなんて……。
でも……、思い出してみたら、そう思われても仕方ない事を私は……。
すみません、律先輩!
私は律先輩の事を……、嫌いになってなんか……」

「いいよ」

言って、私はまた腕に力を込めて梓を抱き締める。
今話すべきなのは、梓が私を嫌ってるかどうかじゃない。
嫌われてたって、疎まれてたって、
それでも梓の悩みを晴らしてあげるのが、私のなりたい『自慢の部長』だと思うから。
勿論、梓に嫌われてなかったのは嬉しいけどな。
本当に泣き出してしまいそうなくらい嬉しいけど、それを噛み締めるのはまだお預けだ。

「いいんだよ、梓。その言葉だけで私は十分だよ。
キーホルダーを失くして、梓がそんなに不安に思ってくれたのも嬉しい。
キーホルダーを失くした自分が許せなくて、必死に探してたんだろうって事も分かる。
こんなにやつれちゃってさ……、こんなになるまで……。
キーホルダーを失くしたからって、私達がおまえから離れてくって思ったのか?」

「いいえ……、そんな事考えてなんか……。
でも……、でも……、ひっく、そんな事あるはずがないって思ってても……、
心の何処かで考えちゃってたのかも……しれません……。
先輩達を信じてるのに、だけど……、夜に夢で見ちゃうんです……。
キーホルダーを失くした私の前から……、先輩が離れていく夢を……。
そんな……、そんな自分が、嫌で、本当に嫌で……。
うっ、ううっ……!」

梓の涙がまた強くなる。
もしもの話だけど、キーホルダーを失くしたのが『終末宣言』の前なら、
梓はこんなにも不安にならず、涙を流す事も無かったんじゃないだろうか。
世界の終わりっていう避けようがない非情な現実。
誰だってその現実に大きな不安を感じながら、それをどうにか耐えて生きている。
普段通りの生活を送る事で、世界の終わりから必死に目を背けたり。
秘密にしていた事を公表する事で、別の非日常の中に身を置いてみたり。
そんな風に何かを心の支えにしながら、どうにか生きていられる。

梓の場合は多分キーホルダーがそれだったんだと思う。
小さいけれど、目にするだけで私達の絆を思い出せるかけがえの無い宝物。
それを失くしてしまった梓の不安は、一体どれほどだったんだろう。
私も自分が世界の終わりから逃げてる事に気付いた時は、吐いてしまうくらいの不安と恐怖に襲われた。
その時の私はそれをいちごや和に支えてもらえたけど、
梓はずっと一人でその不安に耐えて、自分を責め続けていたんだ。
こんなにやつれるのも無理もない話だった。

小さい事だけど、きっと私達はそんな小さい事の積み重ねで生きていられる。
小さい物でも、失ってしまうと不安で仕方なくなるんだ。
だけど、不安になるという事はつまり……。

「なあ、梓。
話を戻させてもらうけど、一つだけ思い出してほしい」

「は……い……?」

「軽音部、楽しかったよな?
そりゃ普通の部とはかなり違ってたと思うけど、でも、すごく楽しかったよな?」

「あの……?」

「私は楽しかったよ。
ムギのおやつは美味しいし、ライブは熱かったし、楽しかった。
唯は面白いし、澪は楽しいし、ムギはいつも意外な事をやってくれるしな。
二年になって梓って生意気な後輩もできた。
楽しかったんだよ、本気で……。
軽音部、楽しかったよな……?
楽しかったのは、私だけじゃ……ないよな……?」

私の言葉の勢いが弱まっていく。
その私の姿を不審に思ったんだろう。
梓が少しだけ自分の腕を動かし、私の背中を軽く撫でてくれる。

「律先輩……? 急に何を……?」

「ああ、ごめんな……。ちょっと……さ。
梓はどうだったんだろうって思ってさ……」

「私……ですか……?」

「私ってさ、結構一人で空回りしちゃう事が多いだろ?
部長としても、役不足だったと思うし……。
でも、楽しかった事だけは、本当だったって信じてる。
……信じたいんだ。それだけは譲りたくないんだ。
だから、梓に思い出してほしいんだよ。
軽音部が楽しかったのかどうかを。私達のこれまでを。
今の私に梓の不安を消し去ってあげる事はできないと思う。
梓の不安を消せるのは梓だけだし、私にできるのはその手助けだけだ。
それも、その手助けができるのは今の私じゃなくて、梓の中の昔の私だけだと思うんだよ」

「昔の……律先輩……?」

「これまで私が梓に何をしてあげられたか。
梓をどれだけ楽しませてあげられたか……。それを思い出してほしい。
自信なんてこれっぽっちも無いけど、ほんの少しでも手助けになればいいと思う。
なってほしいと思う。
私じゃ役不足だと思うなら、私以外とのこれまでを思い出してくれ。
澪やムギ、唯と過ごしてきたこれまでの自分を思い出してくれ。
そうすれば……、少しはその不安も晴れるんじゃないかって……、思うんだ……」

今の私に梓の不安を晴らすだけの力が無いのは、すごく無念だ。
やっぱり私は、梓にとっていい部長じゃなかったんだろう。
だけど、梓と笑い合えたあの頃の事は嘘じゃなかったはずだ。
梓も楽しんでくれていたはずだ。
私はいい部長ではなかったけど、いい友達としては梓と関係してこれたはずだ。
そのはずなんだって……、信じたい。
不安な自分を奮い立たせるのは、自分の中のかけがえのない過去。
今の自分を作り上げた誰かと積み重ねてきた楽しかった思い出だと思うから。
私は梓にもそれができると信じるしかない。
それができるくらいには、私は梓と信頼関係を積み重ねてこれたんだって信じるしかない。

そもそも不安や罪悪感ってのは、そういうもののはずなんだ。
楽しかったから、かけがえがないものだから、失うのを不安になってしまうんだ。
失ってしまった自分に罪悪感を抱いてしまうんだ。
失くすものが無ければ、大切なものが無ければ、不安なんて感じるはずがない。
それを梓が気付いてくれたなら……、
いや、気付いてはいるだろうけど、心から実感してくれたなら……。
その涙を少しは拭う事ができるかもしれない。

私は小さな身体で小さな梓を強く抱き締める。
それは小さな私にできる世界の終わりへの小さな反抗でもあった。
まだその日が来てもいないのに、世界の終わりってやつは色んな物を私達から奪おうとする。
小さなものから取り囲んで奪い去っていく。
そうはいくもんか。
もうすぐ死んでしまうとしても、それまでは何も奪わせてやるもんか。
過去も、現在も、未来だって、奪わせてなんかやらない。
私から、梓を奪わせたりしない。

不意に私の腕の中の梓が震えを止めて、小さく言った。

「そうですね。
律先輩じゃ役不足ですよ」

一瞬、頭の中が真っ白になった。
梓じゃなくて、私の身体が震え始める。止められない。
全身から何かを成し遂げようとしてた気力が抜けていくのを感じる。
駄目だった……のか……?
私じゃ、梓のいい部長どころか、いい友達にもなれなかったってのか……?
私の小さな反抗は脆くも崩れ去ったってのか……?
信じたかった私の思い出は、全部無意味だったのか……。
梓は別に私を嫌ってはいなかった。
でも、力になってやれるほど、私は信頼されてもいなかったんだ。
抱き締めていた梓を、私の胸から解放する。
もう私に抱き締められる事なんて、もう梓は求めないだろう。
私には梓の不安を晴らしてやれないし、涙も止められないし、震えも治められない。
私は梓に……。
信じさせたかった。
信じられたかった。
信じていたかった。
でも、もう私は……、私は……。

身体を離したけれど、私はそこにいる梓の顔を見る事ができない。
その場から逃げ出したくなる。
もうこの場には居られない。

「梓、ごめ……ん……」

喉の奥から絞り出して言って、
振り向きもせずに逃げ出そうとして……。
そんな私を華奢で柔らかい何かが包み込んだ。
何が起こったのか、数秒くらい私には分からなかった。
梓に抱き締められたんだって気付いたのは、それからしばらく経ってからの事だ。
私は私が梓にしたように、頭から胸の中に強く抱き留められていた。

「あず……さ……?」

何も分からなくて、間抜けな声を出してしまう。
ただ一つ分かるのは、抱き締められる一瞬前、梓が笑っていた事だった。
涙が止まったわけじゃない。
涙を止められたわけじゃない。
でも、梓は笑っていた。泣きながら、笑っていたんだ。
今梓の胸の中にいる私にとっては、もう確かめようもない事だけど……。

「ありがとうございます、律先輩……。
こんな面倒くさい後輩なのに、こんなに大切に思ってくれて、
私、嬉しいです」

「でも、梓、おまえ……。
えっと……、私を……」

言葉にできない。
梓の真意が掴めなくて、曖昧な言葉しか形にできない。
梓が明るい声を上げた。

「もう……、律先輩ったらこんな時にもいつもの律先輩で……。
真面目な話をしてるのに、普段通りのいい加減で大雑把な律先輩で……。
そんな律先輩を見てると……、何だか私、嬉しくなってきちゃうじゃないですか。
不安になってなんか、いられなくなっちゃうじゃないですか……」

「大雑把って、おまえ……。
いつもはともかく、さっきまではそんな変な事言ったつもりは……」

「もう一度、言いますよ。
律先輩は役不足です。
私の不安を晴らす役なんて、律先輩には役不足過ぎます」

「だから、そんなはっきり言うなよ……」

少しやけくそになって、吐き捨てるみたいに呟いてみる。
梓が明るい声になったのは嬉しいけど、そこまで馬鹿にされると釈然としない。
でも、梓はやっぱり明るい声を崩さなかった。

「ねえ、律先輩?
役不足の意味、知ってますか?」

「何だよ……。
その役を務めるには、実力が不足してるって事だろ……?」

「もう、やっぱり……。
受験生なんだから、ちゃんと勉強して下さいよ、律先輩。
役不足って、役の方が不足してるって意味なんですよ?」

「役の方が不足……って?」

「もういいです。これ以上は家で辞書で調べて下さい」

「何なんだよ、一体……」

「とにかく……、ありがとうございます、律先輩……。
私……、嬉しかったです。
律先輩との思い出……、思い出してみるとすごく楽しかった。
軽音部に入ってよかったって、思えました……」

まだ梓が何を言っているのかは分からない。
でも、梓の声が明るくなったのは何よりで、私の方も嬉しくなった。
梓の変な言葉も、まあ、いいか、と思える。
私の小さな反抗は、少しだけ成功したって事でいいんだろうか。
今の私も、過去の私も、結局は梓の涙を止める事はできなかった。
でも、少なくとも笑顔にしてあげる事はできたみたいだった。
それだけでも今は十分だ。

……役不足の意味は、後で純ちゃんにでも聞いてみる事にしよう。


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最終更新:2011年10月31日 22:37