梓は笑顔になったけれど、その涙が完全に止まるまでには、もう少しだけ時間が掛かった。
笑顔を取り戻したとは言っても、心の中に残るしこりを取り除くには、まだ涙が必要みたいだ。
好きなだけ、泣いたらよかった。
泣いた先に晴れやかに笑えるんなら、泣かずに耐えるよりその方がずっといい。
涙は必要なもので、どんな涙にも意味があるはずなんだ。
昨日、私が澪の前で訳も分からず流してしまったあの涙にも、きっと意味があるはずだ。
私は多分、あの涙の理由を分かりかけてきていた。
澪に伝えたい言葉もほとんど固まってる。
答えは、出ていた。
後はそれを声に出して、その答えを澪の耳と心に伝えるだけだ。
その答えを他人が聞けば、大概が馬鹿な答えだって笑うかもしれない。
確かに自分で出した答えながら、馬鹿な答えを出したもんだと思わなくもない。
それでも、よかった。

馬鹿な答えでも、それが私の答えだし、
軽音部の皆なら、その答えを笑って受け入れてくれると思う。
澪がどう受け取るかは分からないけど、
できれば澪もその答えを笑顔で受け取ってくれれば嬉しい。
受け取ってくれる……、と思う。
自信過剰かもしれないけど、澪が涙を流した理由は私と同じはずだから……。

そうやって梓の腕の中で私が澪への想いを再確認し終わった頃、
若干震えが止まった梓が私の身体を解放してから、落ち着いた声色で言った。

「ありがとうございます、律先輩……。
やっとですけど……、落ち着きました。
長い間、無理な体勢をさせてしまって、ご迷惑をお掛けしました」

「気にするな」

言ってから、私はしばらくぶりに梓の顔を正面から見る。
瞼を泣き腫らしてはいたけど、梓は照れ臭そうに笑っていた。
長く涙を流してしまった事を、少し気恥ずかしく感じてるんだろう。
梓があまり見せる事が無い可愛らしい照れ笑い。
その表情を見て、梓は笑顔を取り戻せたんだな、と私は胸を撫で下ろす。
残り少ない時間、笑顔を失くしたまま終わらせるなんて悲し過ぎるじゃないか。

勿論、深刻に世界の終わりについて考え続けて、
哲学的な答えを出したりするのも一つの生き方だろう。
そういう生き方を否定しないし、立派だとも思うけど、その生き方は私達には似合わない。
皆が笑顔で、お茶をしたり、雑談に花を咲かせたり、
そんな普段通りのままで世界の終わりを迎えるのが、私達の生き方なんだ。
多分、世界が終わる詳しい理由も分からないまま、その日を迎えるんじゃないだろうか。
正直言って、テレビで世界が終わる理由を何度説明されても、よく分からなかったしな。
とりあえず隕石やマヤの予言とかとは、一切関係ない事だけは確からしいけどさ。
まあ、世界が終わる理由なんてのは、別に知っても仕方がない事だ。
理由を知ったところで世界の終わりを回避できるわけでもないし。
そんな事よりも、今の私には気になる事がある。
私にとっては、世界の終わる理由よりもそっちの方が何倍も重要だ。
軽く微笑んでから、私は梓の耳元で囁く。

「梓、ちょっと後ろ向いてくれるか?」

「え、何ですか、いきなり?」

「ほら、早く早く」

「はあ……。分かりましたけど……」

狭いスペースだったけど、その場で梓が器用に半回転してくれる。
梓のうなじがちょうど私の目の前に来る体勢になる。
私は「ちょいと失礼」と手を伸ばして、梓の両側の髪留めをクルクル回して解いた。

「え? 律先輩……?」

「櫛は部室にあるから、手櫛で失礼」

「えっ……と……?」

「おまえさ、自慢のツインテールがボサボサだし、左右の位置も変になってんだよ。
気になるから、私に結び直させてもらうぞ」

「別にツインテールが自慢なわけじゃ……って、そうじゃなくて!
いいですって! 自分で結び直しますから! 大丈夫ですから!」

「何だよー、可愛くない後輩だなあ。
こういう時くらい、先輩の思いやりに身を任せたまえ、梓後輩」

私が言うと、少しだけ抵抗していた梓の動きが止まる。
私に結び直させてくれる気になったのか?
そう思った瞬間、梓が妙に重い声色で呟いた。

「大雑把な律先輩に、ちゃんと髪を結べるんですか?」

「中野ー!」

後輩の生意気な発言にいたく憤慨した私は、梓の首筋に自分の腕を回して力を入れる。
私の得意技、チョークスリーパーの体勢だ。
梓も私にそうされる事が分かってたらしく、
特に抵抗もせずに私のチョークスリーパーに身を任せた。
と言うか、チョークスリーパーに身を任せるって、言い得て妙だな……。
少しずつ力を込めると、チョークスリーパーって技の性質上、必然的に私達の顔は間近に近付いていく。

間近に見える梓の顔は笑うのを我慢してるように見えた。
どうもさっきの発言は冗談だったらしい。
私の方もいたく憤慨したってのは嘘だけどさ。
しばらくそのままの体勢でいたけど、先に根負けしたのは私の方だった。
気付けば私は笑顔になってしまっていて、梓も私につられて晴れやかな笑顔に変わっていた。

「ありがとうございます、律先輩」

何度目かのお礼の言葉を梓が口にする。
嬉しい言葉だけど、流石に何度も言われると私も背中がむず痒くなってくる。

「もう礼の言葉はいいって、梓」

「でも、伝えたいですから。
何度だって、言葉にしたいんです。
こんなに安心できたのはすごく久し振りで、すごく嬉しいんです。
律先輩が私の先輩でいてくれて、本当に嬉しいんです。
もうすぐ世界の終わりの日なのに、安心できるって変な話ですけど、でも……。
私……、幸せです」

幸せなのは私も一緒だ。
梓とすれ違ったまま世界の終わりを迎えなくて、すごく幸せだった。
もうすぐ死ぬ事は分かってるけど、この幸せな気持ちは無駄にはならないはずだ。
よくもうすぐ死ぬのに、短い幸福なんて無意味だって言葉を聞く。
でも、残された時間が短い事と、幸せ自体は何の関係も無い事だと私は思う。
短い時間の幸福が無意味なら、結局は長生きして得た幸福だって無意味って事になる。
長かろうと短かろうと、最終的には死ぬ事で何もかも失われるんだから。
どうやっても、人は死んでしまうんだから。
だから、私は短い時間の幸せでも無意味だなんて思わない。思いたくない。
そのためにも、私は梓に訊いておかなきゃいけない事があった。

「なあ、梓。
キーホルダー……、一緒に捜すか?」

軽く、囁いてみる。
失くしてしまったキーホルダーを見付けだす事も、梓には大きな幸せになるだろう。
その幸せを梓が求めるんなら、私もその力になりたいと思う。
残りの時間、キーホルダーを捜す事に力を尽くすのも、一つの道だ。
だけど、梓はゆっくりと首を横に振った。

「いえ……、もういいんです。
一週間ずっと、これだけ捜しても見つからないって事は、
誰かに拾われるかなんかして、もう何処か遠い所にあるのかもしれませんしね。
それに……、キーホルダーが無くても、先輩達は私を仲間でいさせてくれる。
それを律先輩が教えてくれたから……、だから、もう大丈夫です」

完全に吹っ切れたわけじゃないんだろう。
梓のその声は寂しげで、少し掠れて聞こえた。
でも、今度こそ、その梓の言葉は信じられる。
まだ無理はしてるんだろうけど、梓はキーホルダーという形のある絆の品じゃなくて、
私達との絆そのものっていう形の無いものを信じてくれる事にしたんだ。
形の無いものを信じるのは恐いし、不安になってしまうから、
そりゃ少しの無理はしないといけない。無理をしなきゃ信じ続けられない。
だけど、梓はそれを信じてくれる。
信じるために、今の寂しさも耐えてくれる。
何だか急に、そんな梓が愛おしく思えた。
私はチョークスリーパーの体勢を解いて、抱き締めるみたいに梓の背中から両腕を回す。

「ありがとな」

信じてくれて。
後半の方は言葉にしなかった。
照れ臭いのもあったし、その言葉を伝えるのも今更な気がした。
でも、言葉にしなくても、今だけは梓に私の気持ちが伝わってると思う。
不意に梓が明るく微笑む。

「だから、お礼を言いたいのは私の方ですよ、律先輩。
これじゃ逆じゃないですか」

「そう……かな。そうかも……な。
でも、私からも礼を言いたくてさ。ありがとう、梓」

「私こそ……って、これじゃきりが無いですね」

「そうだな。じゃあ、最後に梓が私に感謝の気持ちを示してくれ。
お礼の言い合いっこはそれで終わりにしようぜ?」

「感謝の気持ちを示すって……、どうすればいいんですか?」

「梓の髪を私に結び直させてもらう。
私に感謝してるんなら、それくらいの事はさせてもらおうじゃないか、梓くん」

「そうきましたか……。
いいでしょう。それくらいは我慢してあげます」

よっしゃ、と声を上げて、私は梓から身体を離して少し距離を取る。
解いた梓の髪は真っ黒でまっすぐで、女の私から見てもすごく綺麗に思えた。
手を伸ばして、手櫛で丁寧に梓の髪を梳いていく。
少し痛んでるのに、梳く指に引っ掛かりがほとんど無い。
もしかしたら、これは澪よりもいい髪質かもしれないな。
ちょっと悔しくなって、ぼやくみたいに呟いてみる。

「ちくしょー。
マジでまっすぐな髪だな。生意気な奴め」

「羨ましいですか?」

「んまっ、本気で生意気な子ね!
でも、まあ……、羨ましい事は羨ましいけど、そこまででもないかな。
ストレートはストレートで苦労があるみたいだし、あんまり髪を伸ばすつもりもないしさ」

「そう言う割には、律先輩も髪の扱いが意外と上手じゃないですか」

「ふふふ、まあな。
暇な時、澪の髪を結ばせてもらってるし、髪の扱いにかけてはそれなりの腕前だと思うぞ。
だからさ、気になるんだよ、梓みたいに綺麗な髪が傷んでるとさ。
澪の奴も精神的に追い込まれるとそれが髪質に出る奴だから、余計に気になるんだよな」

「ご心配……、お掛けします」

申し訳なさそうに梓が縮こまり、頭を小さく下げる。
その梓の頭を撫でて、私はそれを軽く笑い飛ばしてやる事にした。

「気にするなって。
まあ、でも、深夜に一人で外を出歩くのだけは頂けないけどな。
キーホルダーの事が気になるからって、いくら何でも危ないだろ。
ただでさえ梓は……」

可愛いんだから。
そう言おうとしてる自分に気付いて、慌ててその言葉を止めた。
流石にその言葉を梓自身に届けるのは恥ずかし過ぎる。
私は一息吐いてから、訂正して言い直す。

「小学生みたいに小さいんだからな」

「なっ……!
律先輩だって、人の事言えないじゃないですか!」

「私はおまえよりは大きい」

「年の差です!」

梓が頬を膨らませて拗ねる。
って、年の差……か?
見る限り、梓は一年の頃から全然成長してないように見えるんだが……。
この調子じゃ、今後どれだけ年月を経たとしても、成長しなさそうだぞ。
いや、私も人の事は言えないくらい、一年の頃から成長してないんだけどな……。
……何か悲しくなってきた。
梓も自分が全然成長してない事を自覚してるみたいで、物悲しそうに沈黙していた。
発育不良な二人が、揃って大きく溜息を吐く。

いやいや、今は私達の発育の事なんてどうでもいい。
私は梓の右の髪を結びながら、できるだけ声色を明るく変えて言った。

「でも、危ないのは確かだ。
もうあんな事するのはやめてくれよ、梓。
と言うか、深夜に私の家の前を通ったのは梓で間違いないんだよな?
まだおまえから本当のところを聞いてないけど」

「はい……。律先輩が見たのは、確かに私だと思います。
深夜、キーホルダーを捜して、走り回ってましたから……。
見間違いだなんて言って、すみませんでした……」

「それはいいけどさ。
私はさ、梓の事が本当に心配だったよ。
私だけじゃない。
ムギも、唯も、澪も、憂ちゃんや純ちゃんもおまえを心配してたんだからな」

「純……も……?」

意外そうに梓が呟く。
それは純ちゃんが梓を心配してるのが意外なんじゃなくて、
私が純ちゃんの事を話題に出すのが意外だと感じてるみたいだった。
確かに私と純ちゃんって、あんまり関わりがなさそうだからなあ……。

でも、私と純ちゃんが無関係に見えても、決して無関係じゃない。
いちごが言ってたみたいに、私達は自分でも知らない何処かで知らない誰かと必ず繋がってる。
何かと無関係ではいられないんだ。
特に私と純ちゃんには梓っていう大きな繋がりがある。
それだけで私と純ちゃんは、深い所で繋がり合ってるって言えるかもしれない。
今回、私はその繋がりに助けられ、梓の悩みを晴らす事ができた。
それは梓を大切に思う人間が多いって証拠でもある。
梓がそんな風に大切に思われるに足る子だから、
誰もが梓を放っておけなくて、結果的に梓自身を救う事になったんだ。
私はそれを梓に少しだけ伝えようと思った。
梓の悩みは私達の悩みでもあるんだって。
梓が悩んでいると、皆が梓を助けたくなるんだって。
梓は愛されてるんだって。

勿論、純ちゃんとの約束もあるから、
必要以上の事を伝えるわけにはいかないけど。
それでも、私は伝えるんだ。梓は一人じゃないんだと。

「この教室に来る前に、純ちゃんと話をしたんだよ。
梓が二年一組に居るって教えてくれたのも純ちゃんなんだぜ?
軽音部の部室から飛び出すおまえを見かけたって言ってた。
声も掛けたって言ってたけど、気付かなかったのか?」

「いえ……。無我夢中で走ってて、純が見てたなんて全然気付きませんでした。
でも、そうなんだ……、純が……。
純に……、悪い事しちゃったな……」

「後で純ちゃんに謝って……、いや、お礼の方が喜ぶな。
お礼を言っとけよ、梓。
純ちゃんが教えてくれなきゃ、私はこの教室まで来れなかった。
梓の悩みを聞き出す事もできなかったんだ。
今お前と私が笑えるのは、純ちゃんのおかげでもあるんだ」

「そうですね……。
いつもは好き勝手な事してるのに、純ったら……。
こんな時だけ……、こんな時だけ気が効くんだから……」

「いい友達だな」

「……はい!」

梓が感極まった様な大きな声を出す。
もしかしたら梓はまた少し泣いているのかもしれなかった。
でも、それはもう悲しい涙じゃなくて、胸が詰まるみたいな嬉しい涙なんだ。
少しだけ気難しい面がある梓にも、純ちゃんみたいな素敵な友達がいるんだな。
私はそれが嬉しくなって、梓の左側の髪を結び終えてから続けた。

「おまえが思う以上に、純ちゃんっていい子だぞ。
純ちゃんさ、おまえの知らない所で軽音部の新入部員を見つけてくれたらしい。
それも二人もだぜ。
入部してくれるのは来年度からみたいだけど、これで来年の軽音部も安泰だな」

「本当ですかっ?」

「ああ。でも、私が言ったって純ちゃんには内緒な。
純ちゃんから、新入部員の事は梓には内緒してくれって頼まれてるんだよ。
勿論、その新入部員が誰かも内緒なんだ。
だから、どうかここはご内密に頼むぜ、お代官様」

「そうですか……。二人も新入部員が……。
何だか……、来年度がすごく楽しみになってきました。
見てて下さいね、律先輩。
来年度の軽音部は、今の軽音部より絶対すごい部にしてやるです!」

「その意気だ」

私が不敵に微笑んでやると、梓も私の方に振り向きながら柔らかく微笑んだ。
勿論、二人とも分かってる。
来年度は、多分、無い事を。
それでも、私達は笑うんだ。
私達が私達でいられるために。

「よし、完了」


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最終更新:2011年10月31日 22:38