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三年二組……、つまり私達の教室に私が足を踏み入れた時、
唯は自分の席に座って、ぼんやりと窓の外の風景を眺めていた。
普段なら駆け寄ってたと思うけど、
今日に限って私はそんな唯の近くまで駆け寄れなかった。
ぼんやりとした唯の表情が妙に印象に残ったからだ。
いや、こいつがぼんやりしてるのはいつもの事なんだけど、
今日の唯のぼんやりはいつものぼんやりした表情とは違う気がした。
上手く言えないけど、何処となく大人びた雰囲気を見せるぼんやりって言うか……。
気だるげな大人の女の雰囲気を纏ってるって言うか……、とにかくそんな感じだ。
いつだったか唯の言った言葉を不意に思い出す。
「私を置いて大人にならないでよ」って、確か唯は前にそう言っていた。
マイペースで子供っぽい唯らしい言葉だって、その時は思ったもんだけど……。
何だよ……、おまえの方こそ私を置いて大人っぽくなってんじゃんかよ……。
ちょっと悔しい気持ちになりながら、私はゆっくりと唯の席の方に歩いていく。
勿論、唯が大人になるのは喜ばしい事なんだけど、
もう少しだけでいいから、私に面倒を見られる子供な唯のままでいてほしいって思う。
いや、本音はそうじゃないか。
子供だろうと、大人だろうと唯は唯だ。
唯がどう変わろうと、私はそれを受け止めたい。
それでも嫌な気分になってしまうのは、
世界の終わりが近いこの時期に、生き方を変えてほしくないっていう私の我儘なんだろう。
変わらなきゃ人は生きていけない。
特に自分の死を間近に感じたら、その死を覚悟できる自分に変わろうとする。
だけど……、それは違う。少なくとも私は違うと思う。
だから、大人びた唯の雰囲気に、私は不安になっちゃうんだろう。
「あ、りっちゃん」
私が唯の前の和の席にまで近付いて、
やっと私に気が付いた唯がいつもと変わらない高めの明るい声を出した。
何となく安心した気分になった私は、
後ろ向きに和の椅子に座ってから手を伸ばし、唯の頬を軽く抓る。
「よ、唯。一日ぶりだな。
って、いきなり呼び出すなよな。びっくりするだろ」
「ごめんね、りっちゃん。
私、りっちゃんと二人きりで話したい事があったんだ。
だから、教室に来てもらおうって思ったんだけど……、迷惑だったかな?」
「別に迷惑じゃないし私はいいんだけど、
梓とムギを誤魔化して出てくるのは、大変だったし心苦しかったぞ?
……どうしても、私と二人きりじゃないと駄目だったのか?」
私が言うと、唯は寂しそうに「うん」と頷く。
いつも楽しそうな唯の寂しそうなその顔は、私の胸をかなり痛くさせた。
一年生の初め、軽音部に入部して以来、唯はいつも楽しそうに笑っていた。
どんなピンチや辛い事も、唯が笑顔で居てくれたから楽しく乗り越えられた。
『終末宣言』の後も、世界の終わりなんてそっちのけで、唯は明るい笑顔を私達に向けてくれていた。
私はそんな唯に呆れながら、同時に憧れてた。
マイペースに生きられる唯が羨ましかったんだ。
今、澪へ伝えようと思ってる答えも、変わらない唯が居たからこそ出せた答えでもある。
だから、大人びた表情の、寂しげな唯を見てると私の胸は痛くなる。
寂しそうな表情のままで、唯は小さく続けた。
「あずにゃんが悩んでたのって、京都のお土産の事だったんだよね……?」
京都のお土産……、つまり、梓が失くしたキーホルダーの事だ。
昨日、私がメールで伝えてから、唯はずっとその事を気に掛けてたんだろう。
唯が寂しそうな顔をする理由は、多分それ以外に無い。
「そうだよ」と頷いてから、私は唯の顔から指を放して続ける。
「最近、梓がずっと悩んでたのは、
メールでも伝えたけどキーホルダーを失くした事だったんだ。
こんな時期にどうしてそんな事で悩んでるんだ。
どうして早く私達に伝えてくれなかったんだよ。
って、思わなくもなかったけど、あいつの気持ちも分かるんだよな。
世界の終わりを目前にして、梓はこれ以上何かを失くしたくなかったんだよ。
世界の終わりまでは、変わらない自分と私達のままで居たかったんだ。
だから、少しの変化が恐かったんだと思うし、梓自身もそういう事を言ってた。
唯もあまり責めないでやってくれよ」
「責めないよ。
あずにゃんの気持ち、私にも分かるもん。
私だって、あのキーホルダーを失くしたらすごくショックだと思うし、
こう見えても、おしまいの日の事を考えると不安になってるんだよ?
そう見えないかもしれないけどね。
だから、あずにゃんの不安と悩みが分かるし、その悩みが晴れて本当によかったよ」
「おしまいの日……ね」
確かめるみたいに呟いてみる。
唯は終末の事を『おしまいの日』と呼んでいる。
不謹慎な気もするけど、何だか唯らしい可愛らしい呼び方だ。
そういえば憂ちゃんも、終末を『おしまいの日』って呼んでたはずだ。
平沢家ではそう呼ぶようにしてるのかもしれない。
考えてみれば、それぞれに思うところがあるのか、
私の周囲でも皆が終末を色んな名前で呼んでる気がするな。
まず私は単純に『世界の終わり』って呼んでる。
それは終末って非現実的な言葉に抵抗があるからでもあるけど、
もっと言うとそんな言葉を口に出す事自体が気恥ずかしいからだ。
だって、『終末』だぞ?
『終末』なんて、漫画やアニメ以外で聞く事はまずない。
後は宗教的な本や番組なら言ってるかもしれないけど、それにしたって日常的な話じゃない。
そんな言葉、普段の生活で簡単に口に出せるかっつーの。
そりゃたまには言わなくもないけど、日常会話としてはあんまり使いたくない言葉だ。
世界の終わりをちゃんと『終末』って呼んでるのは、私の周りじゃ和と澪に梓か。
皆、どっちかと言うと、生真面目なタイプだから、正式名称で呼んじゃうんだろう。
性格が出てて、ちょっと面白い。
ムギはどうだったかな……?
えっと……、確か『世界の終わりの日』って呼んでたはず。
私とほとんど同じだけど、ムギの呼び方の方が何だかムギらしい。
単にムギの口から終末って言葉が出るのが、似合わな過ぎるだけかもしれないけど。
特殊な呼び方は純ちゃんだ。
純ちゃんは『終焉』って呼んでた。
私の部屋で話をしてる時に何度もそう呼んでたから、私の耳が覚えちゃってる。
その度に妙にお洒落な呼び方だなと思ってると、梓が隣から私に耳打ちしてくれた。
どうやら純ちゃんは最近そういうゲームをプレイしたらしく、
『終末宣言』が発令されてからずっと終末を『終焉』って呼んでるんだそうだ。
漫画好きで影響されやすい純ちゃんっぽくて、何だか安心する。
確かそのゲームはオーディン何たらってゲームらしいけど、まあ、それは別にいいか。
「りっちゃん……?」
妙に長く考え事をしてしまったせいか、唯が私の顔を覗き込みながら訊ねてきた。
「悪い。何でもない」と言ってから、私は唯の頭を撫でた。
唯が寂しそうな顔をしてる時に悪いんだけど、私は少し安心していた。
安心したせいで、ちょっと余計な事を考える余裕もできたんだろう。
安心できたのは、唯の悩みが世界の終わりの事じゃなく、梓の事だって気付いたからだ。
今の唯の顔は、卒業を目前にして梓の事を考える先輩の顔だって気付けたから。
もしも世界の終わりが無かったとしても、
普通の日常生活で起こったかもしれない悩みと寂しさを唯が抱えてるんだって。
だから、私は安心できてるんだ。
後はその安心を唯にも分けてあげればいいんだ。
少しだけ強く、私は唯の頭を撫でる。
「責めないでやってくれってのは、梓の事だけじゃないよ、唯。
自分の事も責めるなって事だ。
唯は梓の悩みを晴らすその場に居れなかった自分に罪悪感を抱いてんだろ?
梓の悩みに気付けなかった自分に、寂しさを感じてるんだろ?
そんな寂しさを唯が感じてるってだけで、梓は十分嬉しいと思うぞ?」
「でもでも……、昨日私はあずにゃんより憂の事を優先しちゃったし……。
あずにゃんの悩みがキーホルダーの事だったなんて、全然気付けなかったし……。
りっちゃんみたいに、あずにゃんを慰められなかったし……。
あずにゃんの事が大好きなのに、私、何もできなくて……」
「昨日、憂ちゃんと一緒に居たのは、
今日からの残り三日を梓の悩みを晴らすために使ってあげるためだったんだろ?
そんなおまえを責められる奴は、おまえ自身を含めていちゃ駄目だよ。
梓もそれを分かってるし、私の部屋でもずっとおまえの事を気に掛けてた。
前に一度、梓の落としたキーホルダーが戻って来た事があっただろ?
憶えてるか?
おまえが梓の名前を書いたシールを、キーホルダーに貼ってた時の事だよ。
梓はあのシールをはがした事をすごく後悔してた。
あのシールをはがさなきゃ、また自分の所に戻って来たかもしれないのにって。
勿論、シールを貼ってたからって戻って来るとは限らないけど、
おまえのおかげで戻って来たキーホルダーなのに、
それをもう一度落としてしまった事を、梓はすごく申し訳なく思ってた。
一度取り戻せたものをもう一度失くすなんて、そんな辛い事は無いからさ。
だからさ……、二人してお互いの事を考えて、自分を責め合うのはやめようぜ?
梓はおまえに会いたがってたし、おまえだって梓の事が大好きなんだろ?
だったら、大丈夫だよ」
「りっちゃん……」
言いながら、唯が真剣な顔で私の方を見つめる。
その表情からは寂しさが少しずつ消えているように見えた。
寂しさの代わりに、決心が増えていく感じだ。
「りっちゃんはすごいなあ……」
不意に唯が呟いた。
いつもは私をからかうために使われる言葉だけど、
今回ばかりはその意味は無いみたいに見えた。
「すごいか、私?」
「すごいよ。
あずにゃんの悩みの原因に気付いちゃうし、私の事だって慰めてくれるもん。
流石はりっちゃん部長だよね」
「そう言ってくれるのは嬉しいけどさ、梓の悩みの原因に気付けたのは偶然だよ。
本当にたまたま、運が良かったから気付けただけだ。
梓の悩みの原因がキーホルダーの事だったなんて、私も思いも寄らなかったもんな。
唯が居ない間に梓の悩みを晴らしてやれたのも、単にタイミングの問題だと思うよ。
唯は運悪くタイミングが合わなかっただけだ」
「でも、やっぱりすごいよ。
もしも何かのきっかけで私があずにゃんの悩みの原因に気付けてたとしても、
そんなあずにゃんをどうすれば支えてあげられたか、全然分かんないもん」
「だから、そうじゃないよ、唯。
私はたまたま軽音部を代表しただけだと思う。
もしもその場に居たのが私じゃなくて唯だったら、
もっと上手く梓を支えてやれてたんじゃないかな。
勿論、ムギはムギで、澪は澪でそれぞれがそれぞれの方法で梓を支えたはずだよ。
私もあれで本当によかったのか分からないしな」
役不足って言われたし、とは私の胸の内だけで囁いた。
実はまだ梓の言葉の真意は分かってない。
そういや純ちゃんに役不足の意味を聞くのを忘れてたしな。
辞書で調べるのもすっかり忘れてた。
私じゃ梓の悩みを晴らすのには役不足だから(頼りないから)、
梓自身がしっかりしなきゃいけないと思ったって事でいいのかな……。
しずかちゃんがのび太を放っておけないから結婚してあげた的な感じか?
うわ、そう考えると、私って物凄く格好悪いじゃんか……。
自分自身の格好悪さに苦笑しながら、私は続ける。
「だから、自分を責めなくてもいいんだよ、唯。
おまえならきっと私よりも上手く梓を支えてやれる。
自信を持てって。梓はきっとおまえの事が大好きだよ」
それは誤魔化しも嘘偽りも無い私の本音だった。
私も梓の事を大切に思ってるけど、
多分、唯ほど梓の事を深く思ってやれてはいないと思う。
梓も役不足な私より、唯と会えて話せた方がきっと喜ぶはずだ。
それから、唯は私を真顔でしばらく見つめていて、
少しずつその表情が崩れて来て……、急に頭を掻きながら照れ笑いを浮かべた。
「でっへっへー。そうかなあ。
あずにゃん、私の事大好きかなあ。
いやはや、お恥ずかしい」
「立ち直り早いな、オイ!」
即座に私がチョップで突っ込むと、
唯は照れ笑いを浮かべたまま頬を膨らませた。
「えー……。
りっちゃんが自分に自信を持てって言ったんじゃん。
それとも、りっちゃんは私がずっと悩んでる方がよかったって言うの?」
「いや……、そうは言わんが……」
唯が元気になったのは嬉しいが、どうにも拍子抜けを感じるのも確かだった。
これまで梓達と長く話し合ってきただけに、余計にそう感じる。
でも、まあ、唯はそれでいいのかもしれない。
笑ったり、泣いたり、怒ったり、瞬く間に表情が変わる唯。
あまりにも簡単に表情が変わるから真意を掴みにくいけど、実はその全部が嘘じゃない。
唯は感情を誤魔化したりせず、そのまま受け止めて、そのまま表現してるだけなんだ。
自分の思ったままに、自然に生きてる。
それは簡単なようで、どんなに難しい事かを私は知ってる。
だから、皆、唯の事が眩しくて、好きなんだと思う。
勿論、私もそんな唯の事が大好きだ。
私は苦笑しながら、唯にチョップした手をノコギリみたいに前後に動かす。
「ま、いいや。
唯が立ち直ったんなら、私としても万々歳だよ。
その調子のままで早く梓に会いにやってやれよ。
あいつ、喜ぶぞ。勿論、ムギも。
ムギも唯と会いたがってたからさ」
「あいよー、りっちゃん!」
選手宣誓みたいに腕を上げて、元気よく唯が微笑む。
出会った頃から変わらない、世界の終わりを間近にしてもまだ変わらない逞しい笑顔。
この笑顔に私達は騙されてるんだよな。
唯の失敗や天然に困らせられる事もそりゃ多いけど、
この笑顔を見せられると別にいいかって思わせられてしまう。
特に長く唯の傍に居るだけに、和や憂ちゃんは私よりも強く騙されてるんだろうな。
でも、それもそれでよかった。
唯は騙すつもりもなくただ笑顔になって、私達はそんな唯の笑顔に騙されて、それでいいんだと思う。
それが私達の関係なんだ。
「そういえば、りっちゃん……」
急に真剣な表情に変えて、妙に深刻そうに唯が呟いた。
突然の事に気圧されそうになりながらも、私は唯の真剣な瞳を正面から見つめて訊ねてみる。
「どうしたんだ、唯?」
「さっきのりっちゃんの話の中で、
一つだけ気になる所があったんだけど……」
「私、何か変な事言ったっけ?」
「あずにゃんがりっちゃんの部屋で、私の事を気に掛けてたって言ってたでしょ?
りっちゃんの部屋……って?
あずにゃん、りっちゃんの家に来たの?」
「あー……」
最終更新:2011年10月31日 22:44