とりあえずこれ以上澪を不安にさせないように、
まずは早くいちごの話を聞かせてもらう事が先決かな。
私はいちごと一緒に立ち上がって、音楽室の隅の方まで移動する。
私の耳元に口を寄せると、いちごが囁いた。

「誰にも言わないでよ、律。
笑われたくないから」

「……笑われるような理由なのかよ?」

「違うけど」

そう囁いたいちごの頬は少し赤くなっていた。
どうも恥ずかしがっているらしい。
いちごが恥ずかしがるなんて、一体どんな理由で登校してたってんだ……?
何だか不安になりつつも、私は真剣な顔で囁き返す。

「誰にも言わないよ。笑いもしない……と思う。
聞いてみなきゃ分かんないけど、
少なくともいちごが私を信じて話してくれる事なんだ。
馬鹿にして笑ったりなんかしないよ」

「約束」

「うん、約束だ」

「じゃあ、話す。私が学校に来てた理由は……」

そうして、いちごが私の耳元でその理由を囁いた。
世界の終わりを目前にして、
クールでお姫様みたいないちごが登校してた理由は……。

「……あはっ」

思わず私は声に出して笑っていた。
笑っちゃいけないって事は分かってるのに、湧き出る笑いを止められない。

「あはははっ!
そっか……! そっかあ……!」

笑いを止められない私を、
唯が不思議そうに見つめて訊ねてくる。

「どしたの、りっちゃん?
そんなに面白い理由だったの?」

「いや、そういうわけじゃなくてだな……。
ははっ、あはははっ!」

途端、無表情なまま、いちごが笑いを止めない私を何度も叩き始めた。
叩いたって言っても、あまり勢いは乗せず軽くって感じだ。
いや、バトン部で鍛えたスナップの効いたそのチョップは結構痛かったが。
しかも、無表情ではあったけど、そのいちごの顔面は真っ赤だった。
よっぽど恥ずかしいんだろう。
真っ赤な顔をして、いちごは私をチョップするのを止めなかった。
冗談みたいな理由だったけど、いちごの反応からすると本当に本音だったみたいだ。

「馬鹿にしないって言ったのに。
笑わないって言ったのに。
律なら分かってくれると思ったのに。
律に話した私が馬鹿だった」

淡々とした口調だったけど、かなり恨み節がこもっていた。
こんなに心を揺らしてるいちごを見るのは初めてで、
それはとても新鮮だったけど、これ以上勘違いさせ続けるのも可哀想だった。
私は少しだけ笑いを堪えて、
でも、笑顔のままでいちごの手首を軽く掴んだ。

「悪かったよ、いちご。
つい笑っちゃったけど、馬鹿にしたわけじゃないんだよ。
誰にも話さないし、いちごが登校してた理由はずっと私の心の中にしまっとくからさ。
それに、いちごの気持ちは分かるよ。
全部じゃないけど、私もきっと同じ理由で学校に来てたんだと思う。
それが嬉しかったし、
いちごと私の理由が一緒ってのが意外でさ、それで笑っちゃったんだよな」

私の言葉を分かってくれたらしく、
いちごは私を叩くのをやめてくれたけど、
赤く染まったその顔はしばらく元に戻らなかった。
かなりの一大決心で私に話してくれたんだろうと思う。
そんないちごの様子を見ていると、また私の顔が緩んでいった。
悪いとは思うけど、でも、これだけは勘弁してもらいたい。
いつもクールないちごがこんな理由で学校に来てたなんて、
それで毎日学校を歩き回ってたなんて、嬉しくなってくるじゃないか。
嬉しくて、幸せになっちゃうじゃないか。
だって、そうじゃん?
世界の終わりを間近にして、いちごが毎日登校してた理由が……。
『学校が好きだから』なんてさ。




皆で弁当を食べ終わった後、
「練習を邪魔するのも悪いから」と和達は音楽室から出て行った。
高橋さんとアキヨは本好き同士、
いつの間にか気があったらしく、これから図書室に向かうらしい。
和はもう少しだけ生徒会の仕事をまとめるとの事だ。
憂ちゃんは次は純ちゃんのいるジャズ研に差し入れに行くそうで、
音楽の先生として純ちゃんの練習を見に行ったのか、
それともまだ憂ちゃんの弁当を食べ足らないのか、
さわちゃんも大量の眼鏡を抱えてジャズ研に向かった。
いちごは楽器に興味を持ったらしく、
キーボードやドラムを無表情ながら興味深そうに見ていた。
私が「いちごも何か楽器を演奏できるのか?」と聞いてみると、
「マラカスなら」とこれまた冗談なのか本気なのか、よく分からない返答があった。
マラカスねえ……。
マラカスもバトンみたいなもんだと思えば、いちごに似合う……のかな?

それから少しだけ滞在した後、いちごもふらりと音楽室から出て行った。
『学校が好きだから』という理由で学校に来てたいちごだ。
ふらりとクラスメイトの誰かを探しに行くんだろう。
清水さんや春子なら何度か見掛けた事があるし、
もしかしたらその辺の子達に会いに行くのかもしれないな。
清水さんはともかく、春子といちごがどんな話をするのか想像も付かんが。
まあ、意外と気が合ってたりしてな。

それにしても、いちごに本当にマラカスが演奏できるんだったら、
折角だし最後のライブにゲストで一曲くらい参加してもらうのも面白いかもしれない。
マラカスを組み込めそうな曲か……。
ふわふわ時間(タイム)なんかだと、結構合うかも。

音楽室に五人残された私達は、
ムギの用意してくれたFTGFOP(よし、もう憶えた)を飲んだ後、練習に取り掛かった。
練習自体はかなり上手くいったと思う。
新曲の演奏自体はほとんど完成してたんだし、
私の知らない所で猛練習してたんだろう澪の歌声も、完璧に新曲の旋律に乗った。
これなら多分、皆に完成した新曲を届けられそうだ。
私達のこれまでの曲とは雰囲気の違う新曲に、アキヨ辺りが驚く顔が目に浮かぶ。

ただ演奏中に困ったのは、梓のインチキ臭い眼鏡姿を何度も思い出しちゃった事だ。
いちごとのやりとりのおかげでうやむやにできたけど、
不意に頭の中にその姿が浮かんで笑いを堪えるのが正直辛かった。
梓に伝えなきゃって緊張感が切れたせいもあるんだろうな。
何かツボに入っちゃってる。
これだけは本番までにどうにか克服しとかなきゃな。

でも、それ以外の点で練習に問題は無かった。
それは、あの世界の終わりを告げるみたいな空を見たからかもしれない。
あの空模様には圧倒された。
音楽室から出て行く時、アキヨや高橋さんだけじゃなく、
和やさわちゃんですらも何度も目にしたはずの空模様を見て、複雑な表情を浮かべていた。
勿論、それは私達も同じだ。
窓の外の空模様が目に入る度、否応なしに世界の終わりを実感させられて、胸が鼓動する。
恐いのかどうかは自分でも分からない。
ただ、終わりに近付いてる世界を、心の奥底から分からされる。
もう逃げようがないんだって事を。

だから、逆に覚悟が決まった。
世界が終わるのは逃げようがない現実なんだし、逃げたところで同じく世界が終わるだけだ。
世界は、
終わる。
どうしたって、
終わるんだ。
だったら、私達は私達のしたい事を、最後まで精一杯やってみせるだけだ。
それに、世界の終わりを目の前にしても、したい事がある私達は幸せだと思う。
目標に向かって進んでいける。
私達は進める。
だからこそ、生きていける。

唯がギターのギー太を奏でる。
マイペースな唯とはいえ、流石に世界の終わりの事を実感してないわけじゃないだろう。
本当は世界の終わりが悲しくて仕方が無いはずだ。
でも、いつもと変わらず、楽しそうに、幸せそうに唯は音楽を紡いでいく。

ムギがキーボードで私達を導く。
初めて会った時とは随分と違う印象になったムギ。
だけど、その本質は変わってないんだと思う。
楽しい事が好きで、全てを楽しもうという姿勢を崩さないでいて、
私達と音楽を楽しんでくれてる。

梓が楽しむ唯をフォローするみたいに、むったんを演奏する。
自由奔放な私達を真面目の型に嵌めるんじゃなく、
自由奔放なままだからこそ演奏できる曲を模索してくれるようになった梓。
それが自由な私達の中でのアクセントになって、
私や唯も新しい可能性を見つけていけるようになった。

澪……。
誰よりも臆病で、誰よりも世界の終わりを恐がってるはずの澪。
今でも逃げ出したいと心の底では思ってるのかもしれない。
だけど、澪は逃げない。
逃げずに立ち向かい、私達をベースという土台で支える。
臆病だからこそ、誰よりも多くの勇気を振り絞って、
そんな眩しい勇気の力を私達に見せてくれて、私達はその勇気に支えられている。

私……はどうだろう?
結局、私は皆を支えられたんだろうか?
唯やムギは強い子で私を支えてくれて、
梓が立ち直れたのも強い想いを持てる子だったからで、
澪に至っては私の我儘をぶつけてしまうだけだった。
大した事は何もできなかった。
そんなので部長として部を支えられたなんて、逆立ちしたって言えないけど……。
ひょっとしたら、それでもいいのかもしれない。
私は私のままで生きていけばいい。
皆、そんな私でいいって言ってくれてる。
間違えた道を行こうとしたら、澪が拳骨で引き戻してくれるだろうしな。
だから、自分がこの部に必要だったかなんて、そんな事を考えるのはもうやめよう。
誰の役に立ててなかったとしても、私は最高の仲間達に囲まれて幸せなんだ。
その想いをライブにぶつけようと思う。
それで少しでも、私の幸せを誰かに分けてあげられたら、
誰かが笑顔になってくれるなら、それだけで私は世界の終わりまで笑ってられるはずだ。




――土曜日


今日で実質的に世界は終わる。
日曜日、いつ頃に世界が終わるかは分かってないからだ。
陽の落ちる前に世界の終わりは来るらしいけど、そんな事を気にしているわけにもいかない。
結局の話、何事も無く終われるはずの最後の日が今日って事だ。

純ちゃんのライブを観終わった後、私達は徹夜で練習をしていた。
不安だったわけじゃないけど、できる限りの事はしておきたかったんだ。
形式的なものだけど和に宿泊届を出して、さわちゃんにも寝袋を借りた。
ある程度の練習を終えた後、私達は寝間着に着換える事にして、気付いた。
そういえば、パジャマもジャージも持って来てなかった事に。
でも、まあいいか、と皆で頷く。
パジャマは無いけど、服なら軽音部の負の遺産がたくさん残ってるんだ。
唯と澪が浴衣、ムギがチャイナ服、梓と私がゴスロリに着替えた。

そんなバラバラの服装で、
私達は夕方に観たジャズ研のライブを口々に語り合う。
いいライブだった。心の底からそう思う。
ジャズを観る機会自体そうは無かったんだけど、
ほとんど初めて見ると言っていいジャズバンドの本格的な演奏はカッコよかった。
当然、ジャズだからカッコいいってだけじゃなく、
純ちゃんの演奏も様になっていて、思わず舌を巻いちゃうくらいだ。
もしかしたら、澪に匹敵する実力なんじゃないか?
普段おどけてる純ちゃんの姿からは想像もできないその見事な実力。
これなら来年の軽音部も安泰だ。
ひょっとすると、今の軽音部よりよっぽどすごい部になるかも……。
それはそれで複雑な気分だけど、梓が一人軽音部に残る事にならないってのは純粋に嬉しい。

寝なきゃいけない事は分かってた。
それでも、いつまでも話し足らなくて、誰からも言葉が途切れる事が無かった。
話し終えたら、眠らなきゃいけなくなるから。
眠ったら、残り少ない朝を迎えてしまう事になるから。
朝が来なきゃいいのに……。
別れの日の朝が……。
勿論、ライブに響くし、眠らずにいていいはずがなかった。

三時を回ったくらいに、私は意を決して皆に「もう寝よう」と伝えた。
唯あたりが嫌がるかと思ってたけど、
意外にも泣きそうな顔でそれを嫌がったのは梓だった。
普段見せない梓の我儘な姿に唯達が困惑した姿を見せる。
梓もこの時間を終わらせたくないと思ってる事は嬉しかったし、
それくらい私達との時間を大切にしてくれてるんだろう。
ちょっとやそっとじゃ、梓も眠りたくない事を譲りそうになかった。

私も同じ気持ちだけど、ここを譲るわけにはいかない。
私はわざと儚そうな雰囲気を装ってから、梓に向けて言った。

「朝までずっとお休みを言い続けたいの。
だって夜が明けて欲しくないんですもの。別れの朝なんて来なければいいのに……」

少し間があったけど、しばらくして梓が「似合いませんよ」と笑ってくれた。
「中野ー!」と言いながら、私は梓の後ろに回ってチョークスリーパーを仕掛けてやる。
似合わないのは分かってるよ。
大体、これ学園祭でやったジュリエットの台詞だしな。
私の雰囲気に似合わないこの台詞を言えば、梓の頭も少しは冷えるかと思ったんだ。
結果はとりあえずは成功だったみたいだ。
梓も自分が我儘を言ってる事は気付いていたみたいで、
頭を私達に下げてから、もう寝る事を承知してくれた。
「お休みを言い続けるなんて、律先輩には似合いませんしね」と照れ隠しに笑いながら。
こうして、私達は最後の徹夜を終え、眠りに就く事になった。

それからしばらくの間、
似合わない私の台詞に対する唯の笑いが止まらなかったけどな。
まったく……、失礼な奴だ。


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最終更新:2011年11月01日 00:07