夢を見た。
唯とムギと澪と私の四人で同じ大学に通う夢。
澪とムギが危なげなく、私と唯も奇跡的に大学に合格して、
四人で高校生の時と変わり映えのしない生活を送るっていう他愛の無い……、
幸福で、悲しい夢だった。

夢から覚めた時、私はしばらく呆然としていた。
幸せそうな未来の私達の姿に引きずり込まれそうだった。
夢の中の方が現実なら、どんなによかった事だろう。
もうすぐ終わる現実から目を逸らして、
いつまでもその夢の中に浸っていたかったのも、私の正直な本音だ。
でも、そういうわけにはいかないよな。
夢は、夢なんだ。
もしかしたら、辿り着けていたかもしれない未来。
もう辿り着く事のできない未来。
そんな未来に思いを馳せるのも、
決して悪い事じゃないんだろうけど……、
私はまだ生きてる。終わりを迎えようとしている現実に生きてる。
だったら、残る時間を私のしたいように生きていかなきゃな。
少なくとも、夢の事ばかり考えて世界の終わりを迎えるのは、
絶対に後悔しそうだし、どうにもつまんなさそうだからな。

小さく溜息を吐き、寝袋から身体を出してみる。
どれくらい眠ってたんだろう。
何だかすごく長い夢を見てた気がするし、
もしかしたら結構長い時間、眠っちゃってたのかもしれない。
皆はもう起きてるんだろうか?
そう思いながら周りを見渡してみて、途端、背筋が凍った。

部室の中には誰も居なかった。
私一人だけ残して、部室には人の気配が一切存在しなかった。
それどころか、皆で使ったはずの寝袋も見当たらなかった。
私達は確かに五人で寝袋の中で眠っていたはずだ。
ジャズ研のライブの話をしたり、ロミジュリの話をしたり、
皆で寝る前に色んな話をした事を、今でも鮮明に覚えてる。
当然だ。まだ何時間も経ってない過去の話なんだ。忘れててたまるか。

だけど、今の部室内には……、
音楽室の中には、私の大切な仲間達の姿が一つも無くて……。

不意に恐ろしい想像が私の頭の中に浮かんで来る。
駄目だと分かっているのに、その想像を止める事はできなかった。
もしかして……、世界の終わりがもう来てしまったのか?
生き物だけが死を迎えるらしい終末。
世界はその終末を迎え、私から私の大切な仲間……、
ムギや唯や梓、澪を奪い去っていって……、
何の因果か終末から私だけ取り残されてしまって……。
私一人だけ置いていかれて……。

いいや、そんなはずがあるもんか。
私一人だけ生き残るなんて、そんなご都合主義があるもんか。
それこそ梓が私達の卒業を悲しんだせいで、
終末が訪れる事になったって考えるくらい荒唐無稽だ。
私はそんな特別な人間じゃない。
凡人で、平凡で、特に取り柄の無い普通の女子高生なんだ。
漫画でたまに見るけど、
主人公だけが都合よく世界の終わりを免れるなんて、
そんなご都合主義な展開が私の身に起こってたまるか。
それに……、そんなの、嬉しくない。
全然嬉しくない!
私だけ運良く生き残れてたって、嬉しいはずがあるか!
そんなの自分一人が死ぬ事よりも、よっぽど恐いじゃないかよ!

立ち上がって、私は駆け出す。
音楽室の扉に手を掛けて、鍵を空ける。
何処でもいい。
生きている人の姿を目にしたかった。
唯やムギや梓、聡、父さんや母さん……、そして、澪が。
澪がまだ生きてるんだって事を、この目で確かめたかった。
終末が一足先に訪れただなんて、そんな事があってたまるか!

勢いよく扉を開く。
一歩、音楽室から足を踏み出す。
皆の顔が……、澪の顔が今すぐ見たいんだ!

「うわっ!」

そうして、階段を走り降りようとした瞬間、小さな悲鳴が廊下に響いた。
聞き覚えのある……、一番聞きたかったあいつの声だ。

「どうしたんだよ、律。
そんなに走って何処に行くつもりなんだ?」

私の目の前には、階段を登り終えようとしている澪が居た。
いつの間に着替えたのか制服姿で、胸の前にスーパーのレジ袋を抱えて。
普段と変わらない姿の澪が不思議そうに立っていた。

思わず私はその場に崩れ落ちる。
足に力が入らない。
腰が抜けちゃったみたいな感覚だ。
澪の顔を見て安心できたせいか、どうにも立っていられなかった。

「だ……、大丈夫か、律?
そんな急に座り込んじゃって……、何かあったのか?
お腹でも痛いのか?」

澪が心配そうに私の顔を覗き込む。
私が一番見たかった顔が間近に迫る。

「だいじょ……」

大丈夫だよ、と言おうとしたけど、言葉が続かなかった。
声を出そうとすると、泣き出しそうになってしまって、何も言えなくなる。
よかった。
澪が居てくれて。
生きていてくれて。
私一人が取り残されたわけじゃなくて、本当によかった……。

澪に肩を貸され、私達はとりあえず音楽室に戻る。
私を長椅子に座らせてくれると、レジ袋を足下に置いて澪も私の隣に座った。
二人で肩を並べる。
心配そうな表情を崩さないまま、不意に澪が私のお腹に自分の手を当ててくれた。

「本当に大丈夫か、律?
ジャージを忘れたからって、ゴスロリをパジャマにするのは無理があったかな……。
熱は無さそうか? 風邪っぽいなら、さわ子先生を呼んで来るよ。
さわ子先生、多分、昨日は被服室に泊まったはずなんだけど……」

心の底から私を心配してくれてる澪の顔。
いつも私を見守ってくれてた澪の表情だ。
私は軽く首を横に振り、私のお腹に当ててくれてる澪の手に自分の手を重ねた。

「律……?」

少し照れたような声を澪が上げる。
深呼吸して、もう一度私は声を出そうとしてみる。

「あのさ、澪……」

うん。今度は大丈夫。少しは落ち着けたみたいだ。
これならどうにか澪に私の言葉を届けられる。

「大丈夫だよ。熱は無いし、腹痛があるわけでもない。
座り込んじゃったのは……、そうだな……。
ちょっと疲れちゃってたからだと思うよ」

誤魔化したわけじゃない。
疲れてたのは確かだ。肉体的にじゃない。精神的にだ。
楽しくて悲しい夢を見ちゃったせいで、想像以上に心を擦り減らしてたんだと思う。
じゃなきゃ、あんな無茶な想像はしなかっただろうし……。

「そうか……? だったらいいけど、無理だけはするなよな?
今日の夕方にはライブがあるんだし、律は大事な座長なんだからな。
座長として、役目はちゃんと果たしてもらわないとな」

澪がまだ心配そうにしながらも、軽く微笑んだ。
座長って……。
私達がやるのは別に演劇でもミュージカルでもないんだが……。
でも、言われてみると、そうかもしれないな。
言い出しっぺこそ唯だけど、
何だかんだと今回のライブを準備したのは私なんだ。
これは確かに私が座長って事になるのかもしれない。

「私が座長だってんなら、粉骨砕身で頑張らないといけないザマスね。
澪さん、あーたもしっかりと私に付いてくるザマスよ」

「何だよ、そのおまえの座長に対するイメージは……」

私がわざとおどけて言ってみせると、呆れたように澪が呟いた。
それから澪は私のお腹に置いた手をどけようとしたけど、
私はその澪の手を自分の手で包んで放さなかった。放したくなかった。
澪の体温をもう少し感じていたかったんだ。

「ちょっと、律……」

嫌がった様子じゃなかったけど、上擦った声で澪が呟く。
頬を赤く染めてるのを見ると、どうやら照れてるみたいだった。
そんな反応をされると、私の方も何だか恥ずかしくなってくる。
私も多分顔を赤くしながら、それでも澪の手を放さずに囁いた。

「心配してくれて、ありがとな」

「あ……、当たり前だろ。幼馴染みなんだから」

「違うだろ、澪?
私達は友達以上恋人未満……だろ?」

「えっと、それは……、その……、そうなんだけど……」

顔を真っ赤にして、澪が俯く。
ちょっと恥ずかしい事を言い過ぎたかもしれない。
私は小さく微笑むと、少しだけ話題を変える事にした。

「そういや、澪は何処に行ってたんだ?
他の皆も姿が見当たらないしさ、
置いてけぼりにされたかと思って焦っちゃったじゃんかよ」

「私はスーパーに朝ごはんを買いに行ってたんだよ。
いや、もうお昼ごはんになるのかな……。
まあ、とにかく、買い出しに行ってたんだ」

「えっ、嘘っ?
もうそんな時間なのかよ?」

私が大きめの声を上げると、
澪が苦笑しながら自分の携帯電話をポケットから取り出した。
液晶画面を私の顔の前に向ける。
画面には11:47と表示されていた。
私は小さく肩を落としてから呟く。

「マジかよ……。そんなに寝ちゃってたのか、私……。
徹夜明けとは言え、いくら何でも寝過ぎだろ……。
澪も起こしてくれりゃいいのに……」

「私だって起きたのは一時間くらい前なんだよ。
それに律もよく寝てたから、起こせなかったんだ。
疲れも溜まってるみたいだったし、ゆっくり休んでてほしかったんだよ」

「確かに疲れは溜まってたけどさ……」

「律にゆっくり休んでてほしいってのは、別に私の独断じゃないぞ。
唯も梓もムギも、律に休んでてほしがってたからな。
皆、最近、律が誰よりも頑張ってた事を知ってるから。
誰よりも軽音部の事を考えて行動してくれてた事を知ってるから。
だから、皆、今だけは律に休んでてほしかったんだよ」

頑張れた……のかな?
私は皆のために何かできたのかな?
私がそれを口に出すより先に、澪が大きく頷いた。
言葉は必要なかった。
澪の表情が皆の気持ちを代弁してくれてるみたいだった。
私は皆の手助けをできたんだって。
それはとても嬉しいけれど……、やっぱり少し照れ臭い。
私は澪から目を逸らして、窓の外を見ながら訊ねてみる。

「そういや、唯達はどうしたんだ?
一緒じゃないのか?」

「唯達は寝袋を片付けた後で、唯の家に行ったよ。
唯が何か忘れ物をしたみたいでさ、ムギと梓が付き添ってった。
私も付き添ってもよかったんだけど、律を一人にするわけにもいかなかったしな。
いや、買い出しには行ったけど、これでも急いで帰って来たんだぞ?
鍵もちゃんと掛けてたから、安全面でも問題は無かったと思うけど……」

瞬間、私は自分の迂闊さを恥ずかしく思った。
そういや音楽室には鍵が掛かってたじゃないか。
鍵が掛かってたって事は、誰かが寝袋を片付けた後で鍵を掛けたって事なんだ。
世界の終わりが私以外に一足先に訪れたなんて、
そんな荒唐無稽に支離滅裂を二乗したみたいな現象が起こるわけないじゃんか……。
何を心配してたんだよ、私は……。

でも、その間抜けな考えは同時に、
それだけ私が冷静でいられなかったって意味でもある。
目が覚めた時、私は部員の姿が見えない事に……、
特に澪の姿が見えない事に、どうしようもない不安を感じた。
冷静でいられるはずもないくらい、心の奥底から全身で動揺した。
それくらい、恐かったんだ。
澪を失う事こそが。

今なら実感できる。
一番を決めるなんて馬鹿らしい。
好きな物、好きな人を好きな順番で並べる事に意味は無いし、その価値なんてほとんど無い。
それぞれに良さがあるのに、順位付けるなんて馬鹿げてる。
でも、思った。
私の中で一番大切な人は他の誰でもなく澪なんだって。

だから、私は言葉にした。
何処まで上手く伝えられるかは分からない。
友達以上恋人未満の関係なのに、一番大切な人だなんて順序的にも変な話だ。
けど、それが私の正直な気持ちだったから……、伝えなきゃいけないと思ったんだ。

「なあ、澪……?
私はさ、一人で音楽室に残されて恐かったんだ」

「悪かったって。
スーパーで美味しそうなごはん買ってきたから、それで許してくれよ。
ほら、律の好きなおにぎりを選んでくれていいからさ」

「いや、怒ってるわけじゃないんだよ、澪。
変な話をするみたいだけど、聞いてくれないか?
私が音楽室に残されて恐かった理由なんだけどさ……」

私は澪の手を握りながら話した。
自分の見た夢の事、音楽室に誰も居なかった事で頭に浮かんだ酷い想像の事を。
二つとも自分の弱さを象徴してるみたいで恥ずかしかったけど、
私の想いを正確に伝えるには、話しておいた方がいい事のはずだった。

「私も何度も見た事があるよ」

私の話を聞き終わった後、
顔を上げた澪が窓の外に視線を向けながら言った。

「『終末宣言』以来、律が見たみたいな夢、私も何回も見てた。
皆で大学に合格して、一緒に通って、
折角の大学生活だから一人暮らしを始めようとしたけど、
いきなりは不安だから律とルームシェアしたりしてみたりとかさ。
楽しい夢を見てて、夢の中じゃ幸せだったな。

でも、目が覚めた後に気付くんだ。
それは本当は悪夢だったんだって。
悲しい夢の方がずっとマシなくらい、心を抉り取るような悪い夢だったんだって。
こう言うのも恥ずかしい……んだけど、
私、そんな夢を見た後はしばらく一人で泣いてたよ……」

澪も見てたんだな、と私は思う。
逆に見ない方が変なのかもしれない。
普段はもう来ない未来の事を考えないようにして、
私達に訪れない大学生活なんかを考えないようにしてる。
曖昧な未来くらいなら考えられるけど、具体的な未来を頭に描くのはどうしても気が滅入る。
未来の事を具体的に考えるとなると、否応なしに世界が終わる事を実感させられるから……。
そんな無理をしてるから、眠った後の夢の中なんかで、
どうにか抑えてた未来への想像が溢れ出しちゃったりするのかもしれない。

だけど、今は夢よりも、現実で考えてしまった想像の方が重要だった。
悪い夢とは言っても、夢は夢なんだ。
深層心理や抱えた不安なんかが夢の中で溢れるのは、ある意味当然だ。
そんなのを深く考えても意味は無い。
他人の寝言と会話しちゃいけないって話も、何処かで聞いた事があるしな。
だからこそ、目が覚めた後の現実で考えた悪い想像の事こそを、考えなきゃいけなかった。

私がその話を伝えようとすると、澪がそれより先にまた口を開いた。
私の言おうとしてる事を、澪は既に分かってるんだろう。

「自分一人が取り残されちゃう……。
私だってそんな想像をした事があるよ。何度も、何度もさ。
文芸部に入ろうと思ってた私に言えた事じゃないけど、
軽音部の仲間が私の前から居なくなっちゃったらって、
私だけが一人ぼっちなっちゃったらどうしようって恐かったよ。
実際、二年の時に律と違うクラスになって、
知ってる子が誰も居ないと思った時に、すごく恐かったから。
結果的に和が居たおかげで一人ぼっちにはならなかったけど、
それでも、恐かった。本当に恐かったんだよ……」

その時の事を思い出したのか、澪の手が少し震え始める。
二年の時、澪は私と離れて、そんなに恐がってたのか……。
気付いてあげられなかった自分を責めたくなったけど、そんな事をしても意味は無かった。
今、私がするべき事は、震える澪の手を握って、
気付いてあげられなかった分まで強く安心させてあげる事だろう。
私は澪の体温を感じて、澪も私の体温を感じて、
私達はお互いに傍に居るんだって事を感じ合う。

「ごめんな、澪」

澪の手を強く握って、澪の横顔に視線を向ける。
二年の時の事だけじゃなく、悪い想像を口にしてしまった事を謝るために。
私の本当の気持ちを伝えるためとは言っても、
こんな時に不安にさせるような事を伝えるべきじゃなかったのかもしれない。

「私もやっぱり恐がってんのかな……。
皆が、澪が居なくなる事を考えちゃうとさ、すごく不安なんだ。
音楽室の中に一人で居たのはほんの少しの時間だったけど、
それでも、いても立ってもいられないくらい恐かった。
もし私の馬鹿な想像みたいが本当になって、
私以外に世界の終わりが訪れて、私だけが取り残されるって考えるとさ……。
恐いんだよ……。
それこそ、死んじゃう事なんかより、よっぽど恐かったし、寂しかったんだよ……」

最後には弱音になってしまっていた。
まったく情けない……。本当に情けない私だ……。
でも、どうしてなんだろう。
私は澪以外の前では強がれるのに、弱い自分を何とか隠せられるのに、
どうして澪の前では弱い自分を曝け出しちゃうんだろう。

また私の手に体温を感じる。
気が付けば私の手が澪に握り返されていた。
今度は澪が私の手を強く握ってくれる番だった。

「律はさ……、私が居なくなる事が恐いって言ってくれたよな?」

「ああ、そうだな……。
恐いよ。澪が死んじゃうのが、澪が居なくなっちゃうのがさ……。
今更、こんな事を言い出すのも、澪には迷惑かもしれないけど……」

「本当、今更だよな」

長い髪を掻き上げてから、澪が言う。
言葉の内容自体とは違って、その澪の表情は優しかった。


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最終更新:2011年11月01日 00:08