私達は講堂の裏口から舞台袖に入り、降りた緞帳の裏で楽器の用意をしていた。
皆、緞帳から客席は覗かず、静かに作業を行う。
何人来てくれているのかを確認するのは失礼な気がしたからだ。
何人来てくれていても構わない。
何人も来てくれていなくても構わない。
特に今日は世界の終わりの前の日だ。
来てくれる予定だった人でも、急な用が入って来れなくなる事も少なくないと思う。
勿論、それは残念な事だけど、
そちらの用事の方が大事なら、遠慮なく優先してくれればいいと思う。
このライブは私の……、私達の最後の我儘から開催したライブだからな。
私達が好きで勝手に開催してるライブでしかない。
参加する義務なんて誰にも無い。
皆、思い思いに過ごすのが一番大切な事だし、私もそうするし、皆もそうしてほしい。

とは言っても、アーティストのエゴって言うのかな。
何人くらい来てくれているのか気になるのも、確かなんだよな。
いやはや、こんな時なのにお恥ずかしい。
まあ、ちょっと考えちゃうくらいは許してほしいところだ。
観客の数は、多分、三十人くらいかなと思う。
皆の家族に和と和の家族、さわちゃん、純ちゃん、
いちご、アキヨ、高橋さんにオカルト研の二人……。
それと時間に余裕があれば、信代くらいかな。

月曜日に会って以来、信代からの連絡はないし、私も信代に連絡をしていない。
忙しいだろうと思ってたし、少しでも信代の夢に向かって進んでほしかったってのもある。
あれから信代は日本一の酒屋に少しでも近付けたんだろうか。
信代の満足いく形で前に進めているんなら、私も嬉しい。
他の酒屋を深く知ってるわけじゃないけど、
少なくとも私の中では信代は日本一の酒屋だと思う。
いや、勿論、信代の店のお酒を飲んだ事はないけど、
前に疲れている時に信代が差し入れしてくれたジュースはものすごく美味しかった。
ジュース自体は市販されてる物だ。
でも、それを必要としてる人に、必要としてる時間に提供できるって事がすごいんだ。
それができる信代は、今も日本一の酒屋に向けて進めてるはずだろう。

これは私のちょっとした我儘と言うか贅沢だけど、
信代の彼氏……、旦那も連れて来てくれると楽しいな。
皆、信代の旦那には興味津々だし、誰よりもさわちゃんが信代の旦那を見たがってた。
勿論、私だって信代の旦那を一度見てみたい。
筋肉質で逞しい感じの旦那なんだろうなって私は想像してるけど、
ひょっとしたら全然違うタイプかもしれないし、連れて来てくれていると本当に楽しい。
楽しいってのも、何か失礼な話かもしれないけど。

でも、三十人か……って、そう考えると私は嬉しくなってくる。
身内ばかりだけど、こんな時期に三十人も集まってくれるなんて、すごい事じゃないだろうか。
何より、バンドのメンバーが一人も欠けなかったって事が嬉しい。
世界の終わりの前日の今日、
テレビやラジオで聞く限りでは、様々なバンドがラストライブを開催するらしい。
武道館でもあのバンドの盛大なライブが開催されるんだとか。
最後に何かを形にしたいってのは、誰もが考える事なんだろうな。
でも、フルメンバーで最後のライブを開催するバンドは多くなかった。
まだ二人組ならともかく、三人以上……、
特に五人以上のバンドがフルメンバーで、最後のライブを行えるのは珍しいみたいだ。
バンドメンバーとは言え、最「楽しそうだな、律。
どうしたんだ?」

よっぽど嬉しそうな顔をしてたんだろう。
ベースとマイクの準備が終わった澪が、小さく私に声を掛けた。
私は頭の上にスティックを掲げながら、声は静かに応じる。

「何人くらいお客さんが入ってくれてるのかって考えてたんだよ。
多分、三十人くらいだと思うけど、そんなに来てくれるなんて嬉しいよな」

「う……、三十人か……」

「百人以上の観客の前で歌った事のある澪さんが何を緊張してんだ。
そもそもファンクラブのメンバーだけで三十人近くはいただろ、確か」

「実数の問題じゃないんだよ……。
人がいっぱい居るって事に緊張するんだ……。
特に今回はこれまでの私達のイメージとは違う新曲もあるしさ……。
どうしよう……。引かれたらどうしよう……」

「別に引きゃしないって。観客の皆も身内ばかりだと思うしさ。
でも、これまでの私達のイメージとは違うってのは確かだよな。
曲調も歌詞もこれまでの澪とは違う感じだよ。
どうしたんだ? 音楽性の違いからの心境の変化ってやつか?」

「あっ……、それは……、えっと……」

澪が一瞬、視線を俯かせる。
その様子は照れてると言うより、何かを不安に思ってるって感じだった。

「どうした、澪?
私、変な事言っちゃったか?」

「いや……、そうじゃなくてさ……。
あの……さ……。
今回の新曲、律は嫌いじゃないのかなって……。
何だか新曲を演奏し終わる度に……、律が溜息を吐いてた気がするんだ。
だから……」

成程、澪は私の様子を不安に思ってたのか。
澪の言うとおり、私は新曲を演奏する度に大きな溜息を吐いてた。
でも、その溜息の理由は澪の考えてるものとは全然違ってる。
私は軽く微笑み、立ち上がって澪の近くにまで歩いてから澪の肩を叩く。

「馬鹿だな、澪は。
私、この新曲、好きだぜ?
溜息を吐いてたのは単に新曲が激しい曲だから結構疲れるからで、深呼吸みたいなもんだ。
それと……、毎回、いい演奏ができるからさ……、
嬉しくて感嘆の溜息……って言うのか? そういう感じで息が漏れてただけだよ」

「そうなんだ……。よかった……。
実はさ、律……。この曲は律の事を考えてムギと作ったんだ」

「えっ?
私……の事……?」

「あ、いやいや、律のために捧げる歌とか、そういう意味じゃなくて……」

「そりゃそうだ。
そんな事されたら、恥ずかしくて叫び声を上げるわ」

『冬の日』が自分に宛てられたラブレターかと勘違いした時も、
私らしくなく、毎日ドキドキしちゃって、気が気でなかったしな。
いや、これは誰にも内緒だけど。
澪が少しだけ頬を赤く染めて、恥ずかしそうに続ける。後にやっておきたい事はそれぞれ違うんだからそれは仕方ない。
その点、私達は誰一人欠けずに最後のライブに臨めてる。
そもそも開催できるなんて思ってなかったライブだけど、こんなに嬉しい事はない。
唯の思い付きに感謝だな。
まあ、武道館でライブを開催できるようなバンドと比較する事じゃないけどさ。

「律はさ……、本当は激しいハードロックをやりたかったんだよな……?
好きなドラマーもそんな感じの人が多いしさ……。
でも、今だから言うけど、放課後ティータイムじゃ、
なし崩し的に私の歌詞に合った甘いポップ系が多くなっちゃって、それが気になってんだよ。
律は私に付き合って好みとは違う曲を演奏してくれてるんじゃないかって……、
そう思って、今回は激しい曲にしてみたんだ。
今回の新曲はそういう意味で律の事を考えて作った曲なんだよ」

「確かに私は激しい曲の方が好みだし、
放課後ティータイムの曲は好みとは言えない曲が多いな。
今回の新曲の方が私の性には合ってる。
でも……、放課後ティータイムの曲は全部好きだよ。
好みじゃないけど好きなんだ。好きになっちゃう魅力があるんだ。
唯の歌声、ムギの作曲、梓のギター、勿論、澪の作詞に……」

照れ臭い言葉だったけど、それは全部私の本音だ。
じゃなきゃ、こんなに長い間、皆とバンドなんて組めてない。
外バンなんて考えられない。
好みじゃなくても、放課後ティータイムは私の居場所なんだから。
私の想いが伝わったんだろうと思う。澪も私と同じ様に照れ臭そうに頷いた。

「ありがとう、律。
律が私の曲を好きでいてくれたなんて、
面と向かって聞いた事なかったから本当に嬉しいよ」

「言っとくけど、好みなわけじゃないからな。
好みじゃないけど好きなだけだからな」

「分かってるよ、律。好きでいてくれるだけで嬉しい。
じゃあさ、次の曲は『きりんりんりん』を新曲に加え……」

「その曲は却下」

呆れた顔で私が却下すると、
流石の澪もその曲は採用されるとは思ってなかったみたいで、悪戯っぽく笑った。
どうやら冗談だったらしい。
冗談を言えるくらいなら、かなり緊張も解れたって事なんだろう。
私は苦笑して澪の肩を軽く叩くと、ドラムまで戻って体勢を整えた。

見回してみると、既に唯達の準備も終わってるみたいだった。
舞台袖で私達を待ってくれていた和に視線を向ける。
私と澪のやりとりをずっと見てたらしく、ちょっと苦笑した表情の和が頷く。
隣に居た眼鏡の子(確か生徒会の会計)に指示を出すと、マイクを自分の口元に運んだ。
私は和から視線を正面の緞帳に戻し、深呼吸をして皆に視線を向ける。

唯が楽しそうに微笑んで私を見ている。
ムギも珍しく真剣な表情で私に視線を向ける。
澪は緊張を忘れようと少し強張った顔で、
梓は私を見る他の三人の表情と私の顔を交互に見つめている。

「やるぞ!」

緞帳の先までは聞こえないくらいの声量で皆に宣言する。
そのまま私がスティックを掲げると、皆も効き手を頭上に掲げた。
会計の子が操作してくれたんだろう。それに釣られるみたいに緞帳が上がっていく。
少しずつ上がっていく緞帳に合わせるくらいの速さで、和の声が講堂中に響く。

「さて、皆さんお待ちかね。
絶対、歴史に残すライブイベント、放課後ティータイムのライブの開催です!
皆さん、高校生活最後の彼女達のライブを、思う存分お楽しみ下さい!」

またハードル上げてくれるな、和……。
と言うか、和も結構『絶対、歴史に残すライブ』ってフレーズが好きだったんだな……。
少し微笑ましい気持ちになりながら、
私は緞帳が上がり切るのを待ってから客席に視線を向けた。
信代が旦那を連れて来てくれてるといいなって、そんな軽い事を考えながら。
だけど……。

「えっ……?」

私だけじゃない。
放課後ティータイムのメンバーの全員が戸惑いの声を上げていた。
圧倒された。
圧倒されるしかなかった。
私は観客の数は三十人くらいだろうと思っていた。
贔屓目に考えて、多めに見積もって三十人だ。
唯は五十人くらい来てくれるはずと言っていたが、
夏フェスの参加人数を三億人とか言ってた奴だから、誰も当てにしてなかった。
でも……、でも、これは……、そんな……。

客席から歓声が上がる。
想像以上の歓声……、予想すらしていなかった大量の……。
私は息を呑んだ。

少し見回しただけで、講堂の中には二百人を下らない数の観客が入っているのが分かる。
私達の家族、アキヨ、いちご、オカルト研の二人、信代、信代の旦那らしい背の高いカッコいい人、
さわちゃん以外にも先生が何人か、マキちゃんにラブクライシスのメンバー……、
清水さんに春子達といった私のクラスメイト、澪ファンクラブのメンバーの半数近く、曽我部さん、
多分、私達に制服を貸してくれたムギの中学時代の友達……。
それだけじゃない。
見掛けた事はあるけど名前も知らないうちの学校の生徒に、
誰かの友達らしい全然知らない子達も大勢客席に座っていた。

世界の終わりの間近にこんな人数が……、私達のライブに……。
こんな時なのに……。
瞬間、私は涙を流していた。
私だけじゃない。澪もムギも唯でさえも、その場に崩れ落ちるみたいに大粒の涙を流してた。
何の前触れも無かった。
心の動きを感じるより先に涙が流れてた。
遅れて、胸の痛みを感じ始める。嘘みたいだけど、感情より先に涙腺が反応していた。
声を出そうとしても嗚咽となって声にならない。
悲しいわけじゃない。絶望してるわけでもない。
でも、ただ涙が止まらない。

止まらない涙を流しながら、思う。
集まってくれた観客の皆の気持ちを考える。
私達のライブを見たいのは間違いないだろうけど、
多分、皆、私達と一緒に終わる世界に向けて叫びたいんだろうと思う。
言ってやりたいんだって思う。
私達は生きてるんだって。
明日消えて無くなる命でも、今を烈しく生きてるんだって。
強く生きてやるんだって。
皆は私達にそれを代表させてくれてるんだ。
生きるって事の意味を終わる世界で叫ぶ代表を。

だから、私は何かを言わなきゃいけない。
軽音部の部長として、このライブの座長として、私から皆に宣言しなきゃいけない。
ライブの始まりを私の口から宣言しなきゃならない。
最高で最後のライブを開催するために。

でも。
口を開いても、言葉が出ない。
呼吸をする事すら精一杯だ。
堰き止められてたダムが決壊したみたいに、私の涙が流れ続ける。
涙が私の言葉を止める。
瞼を開いてるのも辛いくらいの涙が私の邪魔をする。
涙が止められないのは私だけじゃなかった。

唯が膝から崩れ落ち、ギー太を胸に抱いて大声で泣いている。
普段から涙脆い奴ではあるけど、今回の唯の涙は尋常じゃなかった。
世界が終わるって知ってからも変わらず楽しそうに振る舞ってた唯だけど、
やっぱり心の奥底では辛かったんだろうし、悲しかったんだろう。
同時に自分に寄せられる皆の期待に戸惑ってしまっているんだろうと思う。
軽い気持ちで、何となく開催する事になった最後のライブ。
内輪で開催するだけなら単なるお遊びみたいなもんだった。
だけど、こんなにも多くの人が世界の終わりの前日に来てくれるなんて、
それだけの価値が自分達にあるのかって今更ながらに恐がっちゃってるんだ。
そんな唯の気持ちが分かる。
勿論、私もそうだからだ。

ムギが腰から崩れそうになりながら、キーボードに手を付いて大粒の涙を流してる。
キーボードで倒れそうな自分の身体をどうにか支えてる。
泣く事をやめられたムギでも、この事態には泣かざるを得ないみたいだった。
皆が集まってくれた事への感謝で胸が一杯なんだろう。
胸が一杯だから、多分、欲が出ちゃったんだ。
この素敵な時間をずっと続けてたいって。
明日も明後日もずっと続けてたいって。
明後日はもう無い事も分かってるのに……、
なのに、欲が出ちゃって、そんな浅ましい自分の欲が愛おしくなっちゃって……。
終わらせたくない。
終わりたくないって思っちゃって……。
だから、ムギの涙も止まらないんだ。

澪が声も上げずに舞台に突っ伏して震えている。
澪が考えてるのはライブの事だけじゃないだろう。
ライブは成功させたいし、どうにか歌いたいと思ってくれてるはずだ。
でも、多分、そこに私っていう重荷が圧し掛かっちゃってる。
本当は私の恋人になりたかったはずだ。
友達以上恋人未満じゃなく、今すぐにでも深い関係の恋人になりたかったはずだ。
私もそうしたかったけど、そうするわけにはいかなかった。
私の想いも固まっていないのに、恋人になるなんてそんな失礼な事は出来なかった。
でも、澪の姿を見てると、その考えが揺らぎそうになる。
私は間違っていたのか?
澪の恋人になって、抱き合って、世界の最後まで一緒に居るべきだったのか?
世界の恋人達は本当は皆そうしてるものだったんじゃないか?
自分の気持ちがはっきりしてなくても、
お互いを慰め合うために傍に居るものだったんじゃないか?
それが恋人って関係の真実だったんじゃ……?
考え出すと不安が溢れだして止まらない。
もう取り戻す事のできない残り少ない時間を考えてしまって、焦りが止まらない。

泣いているのは舞台上の私達だけに留まらなかった。
客席の所々から泣き声が上がり始める。
皆、とめどない涙を流してる。
悲しみや不安や怒りや苦しみや……、
世界の終わりに対する色んな感情を宿した涙を流し続ける。
涙脆いと噂の春子が大声で泣いてる。
父さんと母さん、聡が肩を寄せ合って震えてる。
純ちゃんと憂ちゃんが眼に涙を浮かべ、手を握り合ってる。
アキヨが本に顔を寄せて震え、高橋さんがその肩を包み込むみたいにして支える。
ラブクライシスの皆の表情も辛そうで、下級生の子達からも大きな泣き声が上がる。
そして、いちごまで……。
いちごまでいつもの無表情ではあるけど、私の方を見ながら一筋の涙を流してた。
毅然とした表情だったけど、その涙を止める事はできなかったみたいだった。

伝染させてしまったと思った。
私達が……、いや、私が泣いてしまったからだ。
誰も泣きたくて私達のライブに来てくれたわけじゃないのに、
悲しむために私達のライブに来たわけじゃないのに、私が涙を流せる空気を作ってしまった。
泣いて、皆で慰め合うみたいな空気を作ってしまった。
未来に絶望して、過去に縋り付いてもいいんだって、そんな空気にしてしまった。
皆で肩を寄せ合って悲しみを共有しようっていうライブにしてしまったんだ。
最初に私が泣いてしまったせいで……。

私が望んでたライブはこういうライブだったのか?
私は悲しみながら終わる世界、終わるライブで満足なのか?
いいや、違う!
私がやりたかったのは、こんなライブじゃない!
これから私達がやるライブは、思い出に浸るためのライブじゃない。
皆で最後まで慰め合うって約束をするためのライブじゃない。
私がやりたいのは、私がやるべきなのは、今を生きてる自分達のためのライブだ!
私達は此処に居るって事を叫んでやるためのライブなんだ!

「……な、……いで。
これから……、ライ……、ライブを……」

立てられたマイクにどうにか声を届けようとする。
涙を流す皆にどうにか言葉を届けようとする。
でも、そんな私自身の声が出ない。言葉が出ない。
涙に邪魔されて、私のやりたいライブを開催する事ができない。
悔しかった。
部長を名乗っておきながら、皆を支えようとしておきながらこの様だ。
こんなんじゃ、ライブに来てくれた皆の時間を無駄にしてしまうだけだ。
観客の皆に申し訳ない。
軽音部の皆にも向ける顔が無い。
自分で自分自身が赦せなくなる。
唇を噛み締めて、拳を握り締める。
何もできていない自分を殴り付けてやりたくなる。
私はどうにか立ち上がり、マイクを握ろうとする。
もう一度、届けられるかどうか分からない掠れた声を出そうとした瞬間……、

「皆さん、こんばんは。
放課後ティータイムです」


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最終更新:2011年11月01日 01:09