これは飲み物か、と非難の視線をカウンターの奥で雑誌を読んでいた店長に向けると、それがどうしたという表情をしてからまた雑誌に目を落とした。
店の中には私と梓ちゃん、そして壁際で新聞を読む年金生活者のお爺さんがいるだけ。
私も梓ちゃんも、何も喋らなかった。特に話すことがなかったからだ。
私は澪さんと律さんの話を思い出す。
――だとしたら唯の目的は何なんだ。あんな大物を狙う仕掛けに傭兵ぶら下げて、そもそも稼ぎが目的ならあんなことはしない。
これは私の勘、なんだけどな……試そうとしたんじゃないのかな、唯は――。
他人である仲間を信じてこれに自分の運命を託すことは難しい。
託すものが虚構の中の生死であっても……いやむしろそうだからこそ、裏切りの結果に向き合うことになりその信義を問われる。
<アヴァロン>は、人を試みる場であったはずだ。
恐怖や打算によって人は容易く信義を裏切る。
そうでしかあり得ないと知っていながら信じずにはいられない、その不誠実さゆえに裏切られ、そして自らも人を裏切る。
<アヴァロン>を取り巻く裏切りの連鎖の中に、お姉ちゃんの過去へと連なる何かがあるのだろうか。
もしそうなのだとすれば、それでもなお人を試みようとする心とはどんなものなのだろう。
――唯、あちこちのブランチに来てたらしい。これはと思う傭兵に声をかけて、法外な契約でパーティを編成するって噂を聞いた。
あるブランチの傭兵たちは、<灰色の貴婦人>と呼んでいるそうだ――。
グレイ レディ
灰色 の 貴婦人。
――でも忘れないで、憂。
憂が<アヴァロン>にアクセスする時、私はいつも憂のこと見てるから。
灰色 の 貴婦人
グレイ レディ!
再会するときの合い言葉にしよ――。
灰色の貴婦人は、円卓の跡地に出没すると言われる幽霊の名前だ。
埋蔵されたアーサー王の宝物を守護しているという説もある。
<アヴァロン>流行の初期、アーサー王伝説にまつわる故事や由来にこだわるプレイヤーが多く存在したという。
今でも古参プレイヤーの中には時折この手のネーミングを好む人もいる。
「ねえ梓ちゃん……」
ここにきたのはコーヒー飲みたさなんかじゃない。私は意を決して口を開いた。
「どうしたの、憂?」
「梓ちゃんが<アヴァロン>のいた時のこと、教えて欲しいの」
梓ちゃんは少し驚いたような表情を見せたあと、じっと私を見つめた。
「どうして私に?」
「お姉ちゃんは……どうして私の前に現れたのか知りたい」
私は目を逸らさず、答えた。
「……知って、どうするつもり?」
「それは知ってから決める」
短い沈黙が流れる。
梓ちゃんは一息ついて、コーヒーを一口飲んだ。
「私、本当はもっと憂とこうやって……何もかも停滞したまま一緒にいたかった」
「でも憂が知りたいんなら、私は応えないわけにはいかないよね」
「ありがとう、梓ちゃん」
「姉が<アヴァロン>を究めたならば……その妹もしかりってね」
「<アヴァロン>を究める……?」
「ついてきて、憂。そのことで見せたいものがあるの」
梓ちゃんはすっかり冷めた泥水を飲み干して顔を顰めたあと、喫茶店の出口へと歩いていった。
私もぐいとせんぶりのような……いや煎じ薬の方がまだマシであろう毒液を飲み干し、腰を上げて梓ちゃんを追った。
振り返ると、壁際のお爺さんはまだ新聞を読んでいた。
本当に置物だったのかもしれない。
HIC IACET ARTHURIS , REX QUON DAM REX QUEFUTURUS ――。
正面の小高い丘に病棟の白い建物を望む玄関には、そう記した鋳鉄製のアーチがかけられていた。
「憂、この文知ってるでしょ」
「ルールブックの1ページ目の文章だよね」
ラテン語だったかウェールズ語だったかは覚えていないけれど、<アヴァロン>のプレイヤーなら誰でも知っている一文だ。
「ここにアーサー眠れり。かつての王、現在の王、そして未来に再び王とならん……ここの設計者はたいした冷笑家だね」
梓ちゃんがアーチの表面を撫でながら言った。
<アヴァロン>でロストしたはずと言われている梓ちゃんは、私に知り得る唯一の覚醒した未帰還者だ。
「私が寝たきりで過ごしてた病院だよ……といっても、廃人だったから何にも覚えてないけど」
「病棟見てから、帰って続きを話そう」
「ここを見たら、憂にも<アヴァロン>を究めるっていう意味が少しでも判りやすくなると思うから」
受付に二人で来意を告げると、無言でカウンターの前にあるディスプレイを指さした。
なんて愛想の悪い受付なことか。停滞した社会の弊害の一つにこういったサービスの質の低下も含まれるだろう。
IDカードをスリットに通してディスプレイを見ると、どうやら院内の病棟には収容者との面会でないと入れないらしい。
ここにはいるはずがない、と判っていながら私は名前欄に
平沢唯と入力した。
現住所、年齢、性別、受給票番号、職業、勤務先、
その他……。
「憂、唯先輩はここにはいないよ」
そう言ってから、梓ちゃんがハッとした表情を浮かべて私を見た。
私を意図がわかったらしい。
そう、私ははなからいないはずのお姉ちゃんに面会できるなどと思っていない。
面会以外では病棟に入れないのなら、いないはずだろうがいるとねじ込んでなんとか入ろうというわけだ。
現住所は行方不明なのだから入力のしようがない。年齢と性別を入力し、職業は少し考えてからAVALON。
なんとなく子供の頃にお姉ちゃんと一緒にカスタネットを叩いて「うんたん、うんたん」と歌ったことを思い出し、その他欄にはUNTANUNTANと打ち込んでおいた。
そういえば彼女のハンドルの<ウンタン>はそこから取ったんだ、とお姉ちゃんを想う。
私は再び受付の前に戻って来意を告げて、平沢唯という人であるほかに何も知らないが、どうしても会わなければいけないと説明した。
「仕方ないよ、病棟のことも私が説明するから帰ろう」
「大丈夫だよ、梓ちゃん」
梓ちゃんにはロビーのベンチで待つように言ってから、私は受付の女の人の前でじっと相手を見つめたまま立っていることにした。
病棟に入れなければ帰らない、という意志を示すためだ。
根負けした受付が奥の事務室に引っ込み、入れ替わりに初老の事務係らしき人が現れて私を事務室に招き入れた。
心配そうな顔で見送る梓ちゃんに手を振って、私は事務室へと入った。
相手は私のような訪問者に慣れているようだ。事務係は静かな口調で丁寧に説明し始めた。
この病院は篤志家……つまり公共事業に協力援助したがるお金持ちの寄付によって運営されている”こと”になっているという。
が、実質的には資金の大部分は<アヴァロン>の収益金からの拠出によって賄われている。
しかも<アヴァロン>は非合法で法的にも道義的にも未帰還者に対する責任はないのであって、ここの運営は純然たる善意に拠っていると事務係が告げた。
要するに彼が言いたいのは、お情けで収容してやってるんだから文句を言うな、ということだ。
強制収容ではないから親近者の申し出があればいつでも引き取って戴きたい、と加えることも忘れていなかった。
「お判りいただけただろうか?」
「よく判りました。ありがとうございます」
そう答えて私は席を起った。
納得などしていないが、これ以上ゴネると警備員が出てくるかもしれないからだ。
それと、傍らの机の上に”VISITOR”と記された樹脂製IDカードが入ったケースを見つけたからだった。
事務室を出た私は、受付の女の人に丁重にお礼を述べて玄関の自動ドアを抜けた。
梓ちゃんがびっくりしてついてこようとしたけど、私が目配せすると軽く頷いてベンチに戻った。
そして自動ドアが閉まる前に、再び中へ滑り込んだ私は受付カウンターにまだ人が戻っていないこと確認すると、事務室からカードを2枚ちょろまかした。
ストーキングスキルは大して高いわけじゃないけど、警備の一人もいない受付を突破するくらいわけない。
すぐに梓ちゃんを連れて胸にIDをつけ、実質的な関門であるエレベータの前に立った。
「憂、大丈夫なの……?」
「多分ね」
私も少しばかり緊張したが、このIDは使用する度に磁気コードを書き換えないらしく、エレベータのセンサーは私たちを正規の訪問者と認めて扉を開いた。
病棟の階へ到着し、エレベータのドアが開いた。
私は息を呑んだ。
病棟は恐ろしく殺風景だったが日当たりだけは素晴らしい。
廊下やホールに開けられた窓から差し込む斜光が無言で行き交う医者や看護士たちを影絵のように浮かび上がらせる。
何より私が驚いたのは、<未帰還者>と呼ばれるプレイヤーのなれの果ての姿だった。
私は果たしてどんな表情をしていたのだろうか……振り返れば梓ちゃんは険しい表情で病棟の中を眺めている。
私たちは目的を持った訪問者を装いながら、病室を覗いて回った。
病室はどれも同じ造りで、八台ずつ収められたベッドはどの部屋も未帰還者が横たわっていた。
未帰還者と呼ばれる人間に接するのはこれが初めてだったが、私を驚かせたのは彼らの印象である極端な画一性だった。
いくつかの病室を覗いて回り、私と梓ちゃんは病棟ホールのベンチに座り込んだ。
「……驚いたでしょ?」
梓ちゃん本人もどこか消耗したような表情をして、私に言った。
未帰還者たちの半ば閉じられたまま何も映していない目、僅かに開いた口元、意志や表情を完璧に剥ぎ取られた無機的な顔。
「デフォルトに戻されたみたい」
私は率直な感想を述べた。
顔つきや肌の色で個々を見分けるのは決して難しくはないはずなのに、一度目を離してしまえばその顔は記憶から速やかに消え去り全体の印象の中に埋没してしまう。
「仮面を壁に数え切れないほど飾れば、個々の差異はわからなくなる」
「それを見た人間の中に最後に残るのは、それが仮面だという同一性だけ……」
梓ちゃんが感情のあまりこもらない声で言った。
時折行き交う看護士たちは、私たちを怪しむことすらなく淡々と薬品を載せた台車を押していく。
「あの人たち……どうやって患者を見分けてるのかな」
ただ未帰還者であるという画一性にならされた収容患者を見ることに疲れた私は、脱力しながら呟いた。
「そもそも識別されるべき人間はここにいないよ」
「一枚のIDカードで辛うじて社会に繋がるようなプレイヤーが廃人になれば、人道的に生かされている……匿名の何かになるだけ」
「過去や現在も失った未帰還者だらけの施設が、英雄の魂の眠る場所なんてふざけてる」
梓ちゃんの形のよい、自然に艶がかった唇が口元に合わせて歪んだ。
「なんか……本当は私はまだここで眠っていているんじゃないかって思えて……」
「ねえ憂、現実ってどこにあるのかな……?」
その線の細い肩が震えている。
<アヴァロン>という虚構は、現実以上の必要性と現実感の安定をもたらした。
それが故に<アヴァロン>システムという海の中に身を投じるということは、この世界において現実の感覚というものの薄弱さを強く認識させる。
私は梓ちゃんの背中に手を回した。
抱きしめようとする私に梓ちゃんも応じるように身体を埋めた。
「大丈夫だよ……」
お互いのあまり豊かでない胸がぴったりと触れあい、お互いの心臓の鼓動が伝わる。
「私、梓ちゃんのこと好きだよ」
「……私も、憂のこと好き」
判りきっているようなことだったけれど、まさかこんなところでお互いに想いの丈をさらけ出すことになるとは思わなかった。
「憂っ……」
「梓ちゃん……」
この病棟で唯一美しいと思える天窓からの斜光が、梓ちゃんの柔らかとした肌を照らす。
なんて陳腐な告白だろう。
この個々の消失した未帰還者たち全体の印象というものに包まれた重苦しい状況の中であることを除けば。
この際、相手が女の子であることなんてどうでもいい。
中野梓という女の子を語るのに多くの言葉は要らない。
引退した身でありながらも<アヴァロン>最強クラスのソロプレイヤーの片割れであり、ロスト後帰還した謎に満ちた経歴あり。
お姉ちゃんが戦場で全幅の信頼を置いたであろう彼女には指揮者としての才能と人間的素質が備わっていたことだろう。
バンドグループとしての<放課後ティータイム>が軌道に乗りさえすれば間違いなく現実においても優秀なミュージシャンになったであろう彼女……。
何故<アヴァロン>を究めようと志したのかは判らないけれど彼女こそが英雄になる資格を持つ、円卓にお姉ちゃんと共にその席を約束された女の子だ。
梓ちゃんへ深い愛情は、私がお姉ちゃんに持つどこまでも一途な姉妹愛の感情とは似ているようで全く違う。
私にとって梓ちゃんへ持った感情は戸惑いながらも初めて私の中に生まれた……要するに初恋に近いものがあった。
これが現実なのなら私は梓ちゃんへの愛情を見せつけてみたい。
虚構の中では愛情の形は形成されても育まれることはないだろうから。
私は梓ちゃんと長らく一緒に暮らしてきて、お互いを好きになった。
これ以上の現実感……虚構との区別をつけ梓ちゃんの苦しみを和らげる方法があろうか。
「梓ちゃん……!」
「きゃっ……!?」
人気の絶えたホールの中に梓ちゃんの小さな、嬉しさの混じった悲鳴が響いた。
私は梓ちゃんの唇に自分のそれを重ねて、華奢な身体を押し倒した。
「こ、こんなところじゃ……ダメだよ……!」
「誰も見てないよ」
私が上着をぐいとたくし上げようとするのを梓ちゃんが制止した。
「私も脱ぐから……」
人が来たら私はどうするつもりなんだろう。
警備員に叩き出されるのが目に見えているけれど、今は梓ちゃんしか見えなかった。
我慢できない。
私は何の躊躇もなく上着を脱ぎ捨てブラジャーをサイドアームを抜くような早さで外し、上半身をさらけ出した。
「ふにゃあっ……!?」
梓ちゃんがボン、と顔を真っ赤にして硬直した。
私もそんな梓ちゃんの仕草を見て、オーバーロードの308を放ったような時のような刺激が身体を走る。
「梓ちゃん……すごいどきどきして、現実感あるでしょ……?」
「……うん」
梓ちゃんの上半身を脱がし終えて、私は彼女の微妙に傾斜がかった高配の浅い乳房をそっと撫でた。
「はぁっ……」
手を当てれば、ZSU-57-2型57ミリ対空機関砲の連射のように早鐘を打っている。
「梓ちゃん……可愛い」
「……んっ」
ふたたびキスをして、お互いの舌を絡めた。
舌を滑らせて、上あごの粘膜を舐めると梓ちゃんの身体がぴくり、ぴくりと震えた。
なんて現実的じゃないようで現実的なんだろう。
こんな場所で服を脱いで、触れあって、濃厚にキスをして……現実だからこそこんなに恥ずかしさに身体が熱くなる。
あの泥水を飲んだ後でも、梓ちゃんの口の中は何となく甘い味がするような感じがする。
瞑っていた目を開いて口を離せば、梓ちゃんの潤んだ目とお互いの唇を伝う唾液が私の理性を<死亡>させようとした。
私も梓ちゃんも、リセットなど宣言しないだろう。
最終更新:2010年01月25日 21:33