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その夏の合宿は、楽園みたいな時間だった。砂浜を歩いて振り返ると、遠くまで足跡が続いている。
そんな楽しさをもって、私はその夏を何度も思い出す。

四人での練習は実際のところ捗らなかった。ぐうたら律にゴロゴロ唯で、ムギはうふふ。
けれど、溶けたアイスみたいにだらっとした時間を過ごすのは意外と好きだった。
日が落ちてからが合宿本番。やはり練習はしなかったものの、皆でやった花火は鮮やかで素敵だった。

手にした線香花火の小さく爆ぜる儚い音を聴きながら、私は目を閉じて、昼間眺めた海に思いを馳せていた。


――――どこまでも続く白い海岸線と、歩いてきた足跡。
それらが波や風によって簡単に消えてしまうように、この線香花火の思い出さえいつか風化すると思うと、切なかった。
やがて、ぽとりと灯が落ちる。

しんみりとした中で唯だけが、なにかごそごそやっていた。

ふいに、ほわりと明るくなった。
ギターを抱えた唯の背後に、幾重にも炸裂する火花だった。何よりも私に眩しかったのは、唯の笑顔だった。

無邪気に笑う、少女。
潮風に髪は撫でられ踊る。

暗闇を照らす幻想的な光の中で、軽やかに歌いながら、唯はギターを掻き鳴らす。
私の胸を、音速や光速すらも超えたスピードで、貫いていく何かがあった。


「澪ちゃんありがとう!」

露天風呂の中で、唯は私の手を取って言った。

「合宿しようって澪ちゃんが言ってくれたお陰で、こんなに楽しいよ」

やめてくれ、と強く思った。むしろ私が、唯の何倍も感謝したい気持ちで一杯なのだから。
一生懸命楽しんだはずの合宿の最後に、消えて行きそうな気持ちだった私を救い上げてくれたのは、唯だよ。
そんな言葉はぶくぶく湯の底に沈んでしまって出てこなかったけれど。
握られた手だけは、強く、握り返した。


それが最初だった。胸を撃ち抜かれたのは。

ヒットマンは唯だ。四六時中私に不意撃ちを狙ってくる。
例えば練習中、律の走り気味なシンコペーションをうまくカバーする唯を褒めたりする。
すると唯は急にしおらしくなり、もじもじとして曖昧に微笑む。

そんな仕草をされると、なぜだか私は撃たれた人のように胸を押さえてしまう。
そして、もっと唯を褒めてあげたくなる。

唯のそうした態度の原因は、少しだけ判る。恐らく、褒められることに慣れていないのだ。

明るさが取り柄、もとい明るさくらいが取り柄の唯は、わりと失敗が多い。
日に三度も、クラスの異なる私のところまで教科書を借りに来たり、そのまま返すのを忘れたりする。

そういう唯だからこそきっと、褒められると嬉しいんだろう。
それは引っ込み思案でなかなか人前に立てない私が、大きく共感する部分でもあった。


二年に進級した私は唯について考え過ぎていた。
だからだろうか、その頃からある病の症状が顕れだした。

唯しか歌詞に書けない、という奇特な病である。

「……駄目だ、次……」

次の言葉は浮かんでこなかった。
メモをちぎっては投げちぎっては投げ、何度繰り返したことだろう。
一向に終わりが見えない泥さらいのような作業にも、とうとう限界がきた。

ムギが作ってきた曲は、今までになく素晴らしかった。間違いなく放課後ティータイムというバンドの名曲になる。
約二時間前、帰宅した私は張り切って作詞へと取り掛かった。
溢れだす言葉を綺麗に並べるようにして完成した詞は、傑作と呼ぶに足る出来だった。

ところが、一つの問題があった。
詞の中で恋をする人物は、明らかにある一人を連想させた。

これはちょっと恥ずかしい。だんだんと歌詞にするにはこそばゆい言葉にも思えてきて、そこから二時間に渡る苦闘が始まった。

結果は惨敗。唯という枷が私をとらえて離さなかった。


頭を切り替えるために、お風呂に入ることにした。
湯槽に浸かって一息つくと、湯煙の立ち上る先をじっと見つめた。両の手で湯をすくって、意味もなくそこに映るぼやけた顔を眺めた。
あの時、唯の右手を握ったことばかり思い出していた。

ふと、頭の中が唯で一杯になっていたことに気付き、慌てた。


体を洗っていても、いつの間にか唯のことを考えている。
唯もこんなふうに汗をかいて汚れるのだろうかと考えた瞬間、背筋を何か暗い欲望めいたものが走った。
いけない、いけない。これ以上考えてはいけない。

適当に勉強を済ませて、日付が変わる頃に床についた。
暗い部屋の中で、今夜は唯を夢に見るような予感がした。

けれど、気が高ぶり始めたお陰で、いつまでたっても睡魔の誘惑はやって来なかった。
明け方になって空が白み始める頃に、ようやく私は意識を手放した。


放課後の部室はいつもどおりの、甘くてどこか腑抜けた雰囲気だった。

「みぃおー! どうしたんだよぅ、顔色悪いぞー?」

「あぁ、少し寝不足気味なんだ」

「あらあら。紅茶飲んでしゃっきりしましょう」

「ムギちゃーん、ウマイ! もう一杯!」

「唯先輩……、一体何杯目なんですか」

ムギのいれてくれる紅茶は美味しい。高級な銘柄なのも一つの理由かもしれないが、丁寧にいれてくれることが一番大きいと思っている。
私もかつて紅茶をいれてみたことがあるけれど、ムギのようにはいかなかった。

「澪先輩、悩み事でもお有りなんですか?」

梓が心配そうな表情で尋ねた。なんと答えたらよいものか、返事に窮した。

「律ちゃん! これはまさか!」

「唯! これはそのまさか!」

『恋!』

きゃっきゃうふふ。ハモった二人は意地の悪いニヤニヤ顔だ。

「二人ともアホか。さて、そろそろ練習を始めよう」


実際、二人の言うとおりなのかも知れなかった。これが恋じゃなかったら他の何も恋と呼べなくなる。そんな気がした。

だからって、私が女の子を好きになるなんてあり得るだろうか。
初めて好きになったのが、唯だなんて。

ベースラインをなぞる。律はやっぱり走り気味だけれど、調子は良いみたいだ。前奏が終わり歌が入った。

唯は楽しそうに歌う。
ボーカルはマイクに齧りつくくらい近づいて歌うものだ、と教えたのもずっと以前のことだ。
茶気の強い柔らかな髪が、揺れていた。

その瞬間、花火が咲き散る浜辺の光景が目の前に現われた。

「ストップ、すとーっぷ! おい澪! 大丈夫か?」

「あ、……すまないな、中断させて」

突然の立ち眩みに、私は思わずアンプに寄りかかってしまった。四人が不安げにこちらを見ていた。

「澪先輩、やっぱり変です。休んでください」

梓が私の手を取った。痛いくらいに掴まれた手から、その気持ちが分かった。

「……ああ、そうするよ。心配かけてごめん。梓も、みんなも」

梓の頭を一撫でして、私だけ一足早く下校することにした。


翌日の朝、ホームルームの前に律から呼び出された。階段を上ると、音楽室の扉に寄りかかって律が待っていた。

「おはよう、律。用ってなんだ?」

「来たか。まあ、中で話そう」

いつも五人で囲む机に二人で向き合って座る。口火を切ったのは律だった。


「用って言っても、大したことじゃなくてさ。その、少し話を聞きたいんだ」

「話って、なんのだ?」

「お前、昨日変だったからさ」

どうやら私の様子を訝しがってのことらしい。まったく、妙なところで律は優しかったりする。
昨日恋だなんだって騒いでたのは誰か、すっかり忘れているんだろう。

「悩み事がある」

「おう」

「それだけ」

「おう!?」

律はひどく心外そうに驚いた。


「正直言って、あまり他人に話したくない類の悩みっていうかさ」

「澪は私の親友だろ? 他人じゃない」

「律にも話せないことだって、私にはあるよ」

「私にはない!」

「いや、あるだろ一つくらい!」

「……うん、あった。今まで言えなかったけど、私、澪のこと愛してるぜ」

「茶化すな! とにかく放っておいてくれ!」

そう怒鳴った瞬間、律からすぅっと表情が消えた。そして、口元が卑屈な形に歪んだ。

「はいはい、すまなかった! カンケイナイ私はどうせ澪ちゃんの力にもなってあげられませんよーだ!」

「怒るぞ」

「もう怒ってるし」

「怒ってない!」

私が叫んだのと同時に、チャイムが鳴った。

「ホームルーム、始まる。戻ろう」

そう言った律の声音には義務的な冷たさが滲んでいた。もう絶対律なんかと口を利くもんか、と心に誓った。
……過去に何度も破られた誓いではあるが。


放課後、無愛想な律の他には変わりない部活の時間。

「あずにゃーんっ!」

「ひゃわぁっ! くっつかないで下さい唯先輩!」

「んー、なんか今日のあずにゃん良いにほい……」

その常の光景が、私を苛立たせる。
唯に抱き締められ、うなじの匂いまで嗅がれている梓が、どうしようもなく羨ましかった。

こっちは律と些細な喧嘩を始めてしまったというのに、その責任の一端すら負ってくれないような能天気さ。
唯のそういうところも好きだったはずなのに、今日に限っては逆撫でされるような感じもする。

「ほ、ほら澪先輩だって見てるじゃないですか。離れてくださいよっ!」

「あ、いや私は別に……」

決まりの悪そうな梓は、申し訳なさそうな顔だ。そんな顔をしなくてもいいのに。
私は確かに妬いているけれど、それで梓が疎ましいなんてこれっぽっちも思っちゃいないのだから。

「私と仲良くするの、澪ちゃんに見られたくないってこと?」

「簡単に言えばそうです」

「あずにゃんは澪ちゃんのこと……、ほうほう!」

「な、何言ってるんですか!!?」

梓の叫びが音楽室に反響した。


「あらあら、梓ちゃん落ち着いて。はい、紅茶」

「………うぅー……」

ずずーっとカップを啜る梓の頬には、紅茶に見劣りしないくらいの綺麗な赤みがさしていた。
その動揺っぷりを眺めて楽しみながらも、拗ねて口を利かない軽音楽部長の意地をどうやってほぐそうか、私は頭を悩ませていた。

律は何も考えていない様子でいつもの席につき、ジョン・ボーナムだとかのステッカーを貼った机の一隅をぼんやり眺めている。

「なぁ、律?」

「……決めた! 今日の部活はこれでおしまいだ!」

突然の終了宣言とともに、律は椅子から勢い良く立ち上がった。

「なんでですか律先輩!」

「そうだよ、まだ全然練習してないよ律ちゃん?」

「理由は一つ!」

そして、仰々しく言い放った。

「私が決めたから」


渋々、唯と梓は折れた。ムギは律の身体を心配したが、部活を切り上げることについては何も言わなかった。
律の気まぐれに振り回されるのも馬鹿らしかったので、皆で帰る途中、私は忘れ物をしたと嘘をついた。
先に帰ってくれと伝え、一人で音楽室に戻った。

そこはひたすら静かだった。五人でいれば賑やかなはずの空間は、放課後の学校から切り離されたような静寂に満ちていた。
防音設備がしっかりしているお陰だろうか。今ここで歌っても恥ずかしくない。そう思った。

新しい曲につけたばかりの歌詞を思い浮かべる。
同時に、一人の女の子の面影も浮かぶ。茶色のかかった髪のふわりと揺れる、それがとても印象的な、優しい笑顔の女の子で。

ムギの旋律が、その輪郭を縁取っていく。 大きく息を吸って、私は歌った。

夕日が差し込む、誰一人いない、眠ってしまったかのような音楽室の片隅に、調べをのせるのは、綺麗なキャンバスに絵の具を塗るみたいに楽しく、寂しい一人遊びだった。

私はそれに興じた。
頭を働かせずできる遊びであったし、深く考えたいこともなかった。
一方で、やはり取り組むべき実際問題もあった。

だけど、それが何だろう。
私は今まで数多くの問題を積み残してきた。
あの楽園みたいな夏の日だって、日常から逃げ込んだからこその非日常だった。

そういった、性情の、現実からの根本的な忌避の観念を、持て余すのが私だった。
時々こうした遊びに耽るのも悪いことではない。
慰めであり、逃避でもあるけれど。

「澪ちゃん!」

歌を終えると、背後から突然私を呼ぶ声がした。こんなこと前にもあったな、なんて考えながら、振り返った。

「やっぱり唯か。先に帰って良いって言ったぞ、私は」

「えへへ、なんか澪ちゃんのこと気になっちゃって」

ギターをケースから取り出してアンプに繋ぎ、唯は椅子に腰掛けた。

「今の曲、新しいやつだよね?」

「ああ、そうだよ」

「私が伴奏つけてみるから、澪ちゃん歌って!」

「え、それは……ちょっと」

「さあさあさあ!」

私に構わず、唯はコードを鳴らしはじめた。さっきメロディをちらっと私の歌で聴いただけなのに、だいたい判るらしい。

「平沢ミーツ秋山セッション! わーん、つー、すりぃ、ふぉう!」

歌うしかなかった。
こんなにも楽しそうにギターを弾いているのに、こっちが恥ずかしがって歌わないなんて失礼に当たるだろう。

どんなに大勢の観客を前にして歌うより、唯と二人きりで歌う方が緊張する。
声は震えて、今にも音を外しそうな不安定さだ。それがまた恥ずかしくて、声が小さくなる。

けれど、歌うのだけはやめなかった。


「澪ちゃんありがとう! 良かったよー!」

「う、ぅわっ!」

子犬みたいに、唯が飛び付いてきた。胸元に、ほんの近くに、柔らかな髪が揺れている。
駄目になりそうなくらい、心臓が早鐘をうっていた。

「歌詞も、素敵だったし。恋の歌だね」

「うん、そうなんだ。臆病者の恋の歌……みたいな」

「あは、なんか澪ちゃんみたい」

「ど、どこがっ!?」

唯はクスクスと、私の胸に顔を埋めて笑っている。その仕草がまた可愛いくて、胸が苦しくなる。
もしかして、私のこんな考えさえも見透かして言っているのだろうか。

「澪ちゃんって、いつも引っ込み思案なところ、あるから」

確かにそれは、認めざるを得ない。

「……というか、そろそろ離れてくれ」

「ええー、澪ちゃんはあずにゃんより珍しいのに」

謎のレア物扱いをされたけど、唯は私から身をひいた。少しだけ名残惜しい気もした。
思えば、唯にくっつかれるなんて殆どなかった。くっつきやすいオーラみたいなものが、おそらく私には足りていないのだろう。


その後、軽く曲を練習して、唯と一緒に帰った。
ほぼ距離がないくらいまで、親しい仲は築けていると思う。
しかし、そこから先にどう進んだものか、私に判るはずもなかった。


いよいよ部活では、新しい曲の練習が本格的になった。
私の書いた歌詞を、ムギは顔を綻ばせてじっくり読んでいた。

律には、歌詞がなかなか書けずに困っていたこと、心配してくれたのは嬉しかったこと、言い方がきつくなったのは悪いと思っていることを話した。
たったそれだけで以前のように口をきいてくれて、私は安堵した。

案外、律への依存が大きいのかもしれない。
小学校の頃から一緒の仲だし、お互いがお互いの体の一部みたいなものだから、付き合いがない状況に違和感を覚えるほどだ。

新曲のボーカルは唯がとることに決定した。ムギの判断だ。
私も唯に歌ってほしかったから、ムギに賛成した。梓は、私が良かったみたいだけれど。

演奏していると、唯をちらちらと見てしまう自分に気付いた。
楽しそうな様子に、見ているこっちが幸せになるみたいだった。

すると、唯もこちらに気付いて、にこりと笑う。

轟音の中で時が止まるような瞬間。すべての音が消えるような錯覚。
けれど次の刹那には元通りになっている。そんな魔法みたいな一瞬一瞬を、唯は私にくれる。

それは私だけに向けられる優しさではなかった。
誰にでも分け隔てなく接するし、誰からでも好かれる。
それは素敵なことであり、同時に、私のささやかで傲慢な不安―――唯が誰かのものになること―――を掻き立てた。

彼女の美徳をひとつ知って、焦りにも似た、愚にもつかない考えが頭を過るたび、自分が嫌いになっていった。
醜い自分をひとつずつ、発見していくみたいだった。
そのすべてを数え終えたところでどうしようもないことを、私は知っていた。


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最終更新:2011年11月15日 23:40