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玄関を上がってリビングに入ると、大きなソファーがあった。
これは目一杯寛ぐしかないっ!

「だいぶっ!!」

「こら。せめてギターは置かないと、傷付くぞ?」

「大丈夫だよ、ギー太は強い子だもん」

「……大丈夫そうに見えるのに傷付いてることって、よくあるだろ」

澪ちゃんがぽつりと言った。その言葉は不思議と切ない響きを持って聞こえた。

「澪ちゃん?」

「それじゃ、私は料理を作るから。ゆっくりしててくれ」

そう言って、それきりキッチンの奥に隠れてしまった。

手伝いにいこうかな。でも、もう少しだけお客様でいたいかも。

しばらくすると、フライパンの上で何かの焼ける音と一緒に、香ばしい匂いが立ち込めてきた。
ソファの上に寝転がってそれらを楽しんでいると、意識の外から睡魔がやって来て、私はうとうと眠り込んでいた。

それから、どのくらい経ったのだろう。
頬の上をなにか絹のようになめらかなものが滑った。
その感触に目を開けた。そこには、澪ちゃんの顔が間近にあった。

「あ……」

息もかかるくらいの距離。澪ちゃんの深い色をした瞳の底まで見えそうだった。
さっき感じたのは長い黒髪が私の頬を撫でる感触みたいだった。

澪ちゃんは金魚のように口をパクパクさせて、言葉が出ないくらいに驚いている。

「……どうしたの?」

「い、いやいや! これは……そのっ」

口元に手を当てて顔を真っ赤にしている澪ちゃん。
いったいどうしたんだろう。

「あっ、オムライス出来たんだ! 早く食べよう!」

「う、うん」

澪ちゃんのオムライスには、それぞれケチャップで名前が書かれていた。
そして、私のほうにはハートマークのオマケ付き。
可愛いのが好きな澪ちゃんらしいけど、さすがに自分の名前にハートマークを付けるのは躊躇われたらしい。


いただきますを言う前に、私はケチャップで『ミオ』の隣にハートマークを書き足した。

「さっ、食べよー食べよー!」

「……い、いただきます!」

澪ちゃんはやけに力強く言った。

二人で食事をしながら、他愛もない話を沢山した。
主に昔話が中心で、私は憂や和ちゃんとの思い出をいっぱい聞いてもらった。

「律ちゃんはどんな友達だったの?」

「律は……、やたらとちょっかいを出してくる奴だった」

「あはは! あんまり今と変わらないかも」

「ふふっ、そうだな」

澪ちゃんは律ちゃんの話になると、とてもよく笑った。
それはまた一つの発見だったし、なぜだか悔しくも感じられた。


「お風呂、沸いたみたいだから先に入っちゃってくれ」

「ええー? 澪ちゃん一緒に入らないのー?」

「ぶっ!! げほっ、げほっ!」

わ、澪ちゃんの口から霧吹きみたいにお茶が……じゃなくて!

「だ、大丈夫?」

噎せただけだ、と澪ちゃんは苦しそうに取り繕った。

「だいたい一緒になんて……」

「お泊りの恒例行事だよっ!」

「でも、さすがにウチのお風呂は狭いから」

恥ずかしさ半分、戸惑い半分のようで、頑なに拒まれてしまう。
なんとか一緒に入って遊びたいのに。

「お願いっ! ……ダメ?」

私はちょっとだけ上目遣いを意識して澪ちゃんに手を合わせた。
この頼み方は、憂には効果覿面なのだ!

「……どうしてもって言うなら」

果たして、澪ちゃんは見事に折れてくれた。
やった!

「ありがとー! 背中流してあげるからっ!」

「あ、ああ……」

狭いと言っていたわりに、意外とゆったりとしたバスタブからは、お風呂場いっぱいの湯煙が立ち上っている。

「なにやってるの?」

脱衣所にある洗面台下の戸棚を漁っている澪ちゃんに私は尋ねた。

「ここらへんに入浴剤があったはずなんだけど……お、これか?」

「はやくぅ」

「さ、先に入っててくれよ」

「うん」

私はタイをほどいて制服を脱いだ。ライブで汗をかいたから、少しだけ匂いが気になった。
澪ちゃんはこちらに背を向けたまま、特に何を探す風もなく座り込んでいる。
狭い脱衣所に会話はなく、ただ私の衣擦れの音が響いた。
「じゃあ、お先に入るよ」

「ああ、寛いでくれ」

こちらを向かずに話す澪ちゃんはちょっと恥ずかしがっているように見えた。


「おおぅ……いいお湯ですなぁ」

ゆったりとした湯舟に浸かると一日の疲れが身体から溶け出していった。辺りを見回すと、うちとは違って様々なものが置かれている。見慣れないシャンプーに、身体を洗うスポンジ。澪ちゃんが使うものってだけで、私には相応しくない高尚なものみたいに感じた。

「ゆいー? 入るぞ」

来たっ!

「どうぞー」

おずおずと澪ちゃんが入ってきた。
白く柔らかな輪郭の肢体をタオルで隠して、顔は隠しようもなく真っ赤になっていた。

「これ、入浴剤。けっこういい匂いなんだ」
「じゃあさっそく」

湯の中に入れると紫色が広まり、ラベンダーの香りが漂う。
これが、澪ちゃんの好きな匂い。

「はぁ……、アロマ効果ってやつだね」
「なかなか落ち着くだろ」
「ほんとに。あ、背中流すから座って?」
「う、うん」

澪ちゃんの後ろに私は座った。
黒い髪が背中にかかると、和紙に墨を流したように艶やかだった。

「やっぱり邪魔かな」

そう言って、澪ちゃんが髪をタオルで束ねた。陶器のような、日の光を知らないうなじがあらわになる。
ごくり、と音がした。私の喉が無意識に鳴らした音だった。
堪らなくなって、そこへキスを落とした。

「ゆ、ゆいっ……なにを!」

目を丸くして澪ちゃんは抗議の声をあげた。
その声にはっとしたとき、とんでもなく大それたことをしていたのだと私は初めて気付いた。


「ご、ごめんね。なんかこう、ちゅってしたくなって」
「び、びっくりした……。やめてくれよ、もう……」

澪ちゃんは私のキスを嫌がっていた。当たり前かな、女の子同士なんだから。
抱き着くくらいのことは今まで何度もしたことがある。澪ちゃんは恥ずかしがり屋だから、
くっつくといつも逃げられてしまっていた。

いつもなら照れ臭そうに私を叱ってくれるはずなのに、今日に限っては違った。無理もないことかもしれない。
いきなり何も言わないでキスなんてしたら、気持ち悪いに決まってる。

でも、どうして私は傷付いてるんだろう。
どうして私は―――


「―――嫌、やめてあげない」


何か黒くてドロドロしたものが胸に広がるのを感じながら、私は澪ちゃんの背中の真ん中に人差し指を走らせた。

「んっ……って、こら」
「澪ちゃん、背中弱いんだ」
「や、唯……なにをっ」

指で描いた線をなぞるように舌を這わせると、澪ちゃんが大人しくなった。
何かを我慢するように肩を震わせて、黙っている。

構わず、舐めつづけた。時折震えが大きくなる場所があって、そこが特に弱いんだって判った。

澪ちゃんのそうした可愛らしい仕草の一つひとつが私を高ぶらせる。
しちゃいけないことをしている感覚が、麻薬のようにくらくらさせる。
頭の中のどこか冷静だった部分までもが、熱く蕩けていく。

今日はとても汗をかいたから、澪ちゃんの匂いや味がはっきりと判った。
黒髪はシャンプーを薄めたような甘さを漂わせている。
澪ちゃんを後ろから抱きしめた時に感じたことのある匂いだ。

けれど私を一番に刺激するのは、葉の香に似て湿っぽい汗の匂い。なめとると少しだけしょっぱい。
首筋から耳の後ろにかけての場所が特に強く感じられる。

次第に呼吸が乱れてしまう。
みっともないのに、浅ましくも興奮してしまっている。
どうしようもなく欲情している。

女の子が隠したがる、この匂いに。

我を忘れて私は澪ちゃんに口づけた。
柔らかい唇の感触を楽しんでから舌を滑り込ませると、そこはとても熱かった。
舌先の輪郭がよく分からなくなっていく。

二人で溶けてしまって、唇と唇で繋がる奇妙な生き物になった気がした。

そのうちはっきりとした感覚が戻ってくる。
無意識のうちにいやらしく舌を動かしながら、夢中で澪ちゃんを貪っていた。

綺麗に並んだ歯の滑らかさや、内頬のぷくりとした肉感。
それらを愛おしく思いながら、中々こちらに絡んでくれない小さめの舌をくすぐる。

「……んぅ、………ちゅ……っふはぁ、はぁっ」

唇を離して澪ちゃんの顔を見つめると、いまにも泣きそうな顔をしていた。
うっすらと目に浮かんだ涙は悲しい色に見えた。

その濡れ艶めく双眸が、私の中の嗜虐心に火をつけた。
なにか澪ちゃんに酷いことをしてやりたい。
泣き叫んでも、懇願しても、止めてあげない。

「ごめん……唯、私は」

何かを言いかけた口をまた塞いで舌を絡めた。
本気で私を嫌がっているなら、この舌を噛み千切ってしまえばいいんだ。
その肉片を忌ま忌ましそうに吐き出して、私に見せ付ければいいんだ。

澪ちゃんの胸の先を弄ぶと、甘い声が漏れる。爪をたてて潰すたびに身体がビクリと跳ねる。
その反応の一つ一つが愛おしかった。

「……ごめん…ぁっあ……」

澪ちゃんはきつく目を閉じていた。
切なそうに声を上げながら、決して謝ることを止めないのが癪だった。


「なんで、謝るの」

私が尋ねても何も答えてくれない。

「私に謝らなくちゃいけないようなこと、なにかしたの それとも誰か別の人に謝ってるの」

澪ちゃんは私の顔をじっと見つめて、

「ごめんな」

言いながら、その腕が私の頭を包んでくれた。
腕の中は柔らかくて、ちょっと幸せな感じがした。

もっと怒りたいのに。なんで謝るのって怒鳴りたいのに。

沸々としていた思いは煙りのようにすぅっと消えて、
後には澪ちゃんに抱きしめられているという幸福な事実だけが残されていた。

「ゆい、ごめん」

回された手に、ギュッと力が込められた。
私はどうすればいいのかな。抱きしめ返してみようかな。

澪ちゃんに縋り付くと、安心できた
。耳元でまた、ごめんと澪ちゃんが囁いたのを皮切りに、涙が溢れてきた。

―――私はおぞましいことをしていた。
澪ちゃんの気持ちを考えずに一人で突っ走って。


「澪ちゃん、わたし……」

「ごめん、大丈夫だから」

澪ちゃんは、もう心配するなというように私の言葉を遮った。

それきり、私は言うべきことを見失った。
何をどう話せば私を分かってもらえるのだろう。

たとえ謝っても、澪ちゃんはきっと私を叱ってくれない。
大丈夫だからと私を宥めて、亀裂が入ってしまった関係にこれ以上触れるのを拒むに違いない。

「そろそろ、湯舟に浸かろう。寒いから」

何事もなかったかのように、私達は肩を並べて身体を温めた。

澪ちゃんの隣にいられることに少しだけ安堵したけれど、
大きく開いてしまった溝をどう埋めればよいのか分からないままだった。

澪ちゃんは怒っているのだろうか。それすらもはっきりしない。
ただ一切の感情がなくなってしまったような瞳で、張られたお湯の表面をぼんやりと見つめている。

その表面の揺れのように、澪ちゃんは小刻みに震えていた。

今の私は澪ちゃんにとって恐怖の対象でしかないようだ。
いつまた盛り始めるか分からない雄犬。

怯えを拭うために私が手を伸ばせば、さらに恐怖を助長してしまう。

私は先にお風呂を上がることにした。

「……ごめんね」

浴室を出るときに小さく言ってみたけれど、澪ちゃんに届いたかどうかは分からない。

ずきりと指先が痛んだ。ああ、切っていたんだっけ。
私は自己嫌悪のための溜息を一つ、ついた。

「私の部屋に布団、敷いておいたぞ」

お風呂あがり。
濡れた黒髪を拭きながら澪ちゃんが言った。

「あ、ありがと澪ちゃん」

さっきまでのことは本当に無かったことになったみたいだった。
それがいいのかもしれない。

私は澪ちゃんの傍に居たい。ずっと友達でいたい。
だから、私たちの間には溝なんて作られなかった。そういうことにしたい。

それで本当にいいのかな、という自問の声を私は押し殺した。

「もう遅いし、そろそろ寝ないか? 今日は唯も疲れただろ」
「えー? もっとこうして澪ちゃんと話してたいよー」
「じゃあ私の部屋で話そう。横になりながらさ」

階段をのぼって、澪ちゃんの部屋にお邪魔する。
可愛い部屋だった。愛用のヘッドフォンや、本棚に収められた小説。
いつも澪ちゃんがどんな風に過ごしているかがよくわかる。

ふと、机に置かれたノートに目が留まった。

「さく、しよう……?」
「わぁああっ! 勝手に見るなよ唯!」
「えへへ、ごめんごめん」

どうやら歌詞を書くために使っているノートらしい。
澪ちゃんは私の手からノートを取って、机にしまい込んでしまった。

「ぶー、澪ちゃんのけちんぼ」
「だって恥ずかしいじゃないか、こんな……」
「ねぇ、見せてもいいって思えるのだけでもいいから、見せてよ」
「えー……しょうがないな」

一旦しまわれたノートが、また机の上に出される。
恥ずかしいと思いながらも、自分の世界を誰かに見てもらいたいと思う気持ちのほうが、澪ちゃんの中で強いみたいだった。

「さよならシャボン玉」
「音読するなっ!」


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最終更新:2011年11月15日 23:57