紬「お世話になりました」
今更ながら、あの看護婦はやっぱり唯ちゃんを特別な目で見ていたなあ、
なんてことを思いながら、私は深々と頭を下げた。
「これからが大変だと思いますが、ご家族とご友人の皆さんでどうか支えてあげてくださいね」
私たちに向けて言いながら、目は明らかに唯ちゃんを見ている。
感じる百合の波動は、しかし痛々しい切なさがあった。
紬「唯ちゃん」
私はこそっと耳元で促した。
唯「うん」
頷いた唯ちゃんは、一人の看護婦さんを見つめて微笑んだ。
唯「ありがとう! ……えーっと、鈴木さん!」
「……い、いえ、どういたしまして!」
……佐々木さんは、嬉しそうに顔を赤くした。
澪「そろそろ、行こっか」
見ていられなかったのか、澪ちゃんが言った。
律「うん……先生もありがとうございました」
紬「行こう、唯ちゃん」
私は車椅子のグリップを押して、くるりとターンさせた。
唯「ねぇねぇ、りっちゃん」
律「ん?」
病院の外に出ようとすると、唯ちゃんが急にりっちゃんを呼んだ。
唯「あれ、違ったか。じゃあ、あずにゃん?」
律「……梓は今日来てない」
唯「ごめん……ええっと」
澪「急な話か?」
澪ちゃんが車椅子の唯ちゃんに顔をよせる。
ちょっとうらやましい。
唯「……やっぱり、なんでもない」
澪「それなら、あとで話そう。ムギの家の車が迎えにきてくれてるから、まずは唯の家に帰ろう」
唯「……? うん」
ゆっくり頷いた唯ちゃんをみて、満足げに澪ちゃんは立ち上がった。
でも気付いてないんだろうな、今の唯ちゃんはきっと、「ムギ」が誰なのか、わかっていない。
――――
唯「澪ちゃんだよね」
唯「ベースって、楽器なんだよね」
澪「……ああ」
唯「で、こっちがつむぎちゃん」
紬「うん、合ってるよ唯ちゃん」
律「私はわかるか?」
唯「りっちゃんだよね」
車中、唯ちゃんはみんなの顔と名前を指差しして一致させ直した。
忘れないのは憂ちゃんと和ちゃん、それに両親くらいのもので、
私たちの顔や名前はこうして、たまーに忘れてしまうのが現状だった。
お医者さまの話では、唯ちゃんの記憶が戻り始めるのと一緒に、この記憶障害も治るはずだという。
それでも記憶なんてトンカチで叩けば取り戻せるものでもなく、
唯ちゃんは18年の記憶を失っただけじゃなく、これからの記憶力も微かなまま、退院をすることになった。
唯「これからお家に帰るんだよね?」
律「ああ。それでみんなで、退院のお祝いだな」
唯「憂もくる? 和ちゃんは?」
澪「もちろん。唯の知ってる人、全員来るぞ。あ、看護婦さんとかは忙しくて来れないけどさ」
私は澪ちゃんの隣で笑って、あまりしゃべれずにいながら、また唯ちゃんに忘れられることだけが怖かった。
唯ちゃんが笑っていても、その記憶の中に私がいないのは、あまりに寂しい。
唯「つむぎちゃん」
紬「! なあに、唯ちゃん?」
まるで心を読んだみたいに、唯ちゃんのほうから話しかけてきた。
唯「変なこと聞くけど……紬ちゃんの家って、すごくお金持ち?」
りっちゃんが「あー」と口を開けて頷く。
そういえば話し損ねていた、と思う。
いきなり大きな車に乗せられて、唯ちゃんも戸惑っていたかもしれないと反省する。
律「私から説明するよ」
律「まぁ、ムギは見てわかる通りのお嬢様だ。父親の会社が手広くて、楽器店なんかもそのうちにあるんだが」
律「そこんとこのコネ使って、唯の使ってたギターも値引いてもらったりしたんだ」
唯「へえ……紬ちゃんちってすごいんだね」
紬「……そうね」
記憶はないけど、この子は確かに唯ちゃんだと思う。
私じゃなくて、私の家を褒める。
誰よりも本当のことを見抜いている視線は、私がひそかに憧れていたものだ。
澪「あ、そろそろ唯の家だな」
律「なんとなーく、懐かしい気になったりしない?」
唯「うーん……全然」
律「でしゅよね」
唯「でも、いままでみんなに見せてもらった写真でしか、家とか学校とか……昔の自分のこと知らなかったから」
唯「やっと自分の目で見られるっていうのは、うれしいよ」
唯ちゃんが笑うと、見覚えのある白い家が、フロントガラスのむこうに見えた。
唯「ねぇ澪ちゃん」
車が止まると、唯ちゃんは澪ちゃんの肩を叩いた。
澪「ん、どうしたんだ?」
唯「家までちょっと、一人で歩いてみてもいいかな?」
澪ちゃんはえーっとと唸ってりっちゃんと顔を見合わせた。
唯ちゃんが車椅子に乗っているのは、実はそこまで大した理由ではない。
足に大きなケガがあるわけでもなく、ふつうに立って歩くこともできる。
ただ走ったり、長時間歩いたりすると体に負担がかかってしまうために、車椅子にのっているのだ。
律「そのくらいならいいんじゃないか?」
澪「そうだよな」
りっちゃんから澪ちゃんを通って唯ちゃんまで、頷きが伝わっていった。
律「でも一応、私が横につくから」
大袈裟だよ、と唯ちゃんは笑う。
みんなはその笑顔を鏡のように無機質に返すばかりだった。
唯「よっと……」
澪「大丈夫か?」
唯「だいじょぶ、だいじょぶ」
前から澪ちゃんに引かれ、後ろから私に支えられて、唯ちゃんが車を降りた。
その間にりっちゃんが車椅子を降ろしておいてくれた。
唯「ふう」
澪「一人で立てる?」
唯「それはだいじょうぶだけどー」
唯ちゃんはいじましい目で振り返って、車の中の私を見おろした。
唯「紬ちゃんにお尻さわられた」
澪「えっ」
律「えっ」
だって可愛かったんだもん。
澪「私が唯みてるから、律はその痴女を捕まえといて」
律「しょうがないな」
唯「紬ちゃん、もう悪いことしちゃだめだからね」
りっちゃんに捕まったまま、私は唯ちゃんが家の玄関まで歩いていくのを見届ける。
鍵は唯ちゃんがちゃんと持っている。
律「なあムギ、唯のどうだった?」
紬「すごくあったかかった」
律「いいな……私も触らせてもらおう」
紬「だめよ、唯ちゃん怯えてたわ」
律「第一人者が何を言うっ」
紬「あいたーっ」
お庭で久々の漫才を繰り広げてから、唯ちゃんに招かれてお家に上がらせてもらった。
唯「ここが私のお家……?」
澪「ああ。ゆっくりくつろいでいいからな」
唯ちゃんは不安そうにきょろきょろして、おずおずとこたつの横に座った。
唯「……ちょっと落ち着かないような、気がする」
何度か息をすって吐いて、唯ちゃんは申し訳なさそうに言った。
律「……床に転がってみたら?」
唯「えっ、床?」
ちょっと流れ込んだ澱みを押しのけるようにりっちゃんが提案した。
なるほど、唯ちゃんのお家での過ごし方はそれくらいリラックスしてるんだっけ。
紬「そう、唯ちゃんゴロゴロしてみて!」
唯「うーん……」
遠慮がちに唯ちゃんは床に伸びていった。
唯「……あ、いいかも」
まだまだ伸びる。
唯「う、これ良い……うはぁ」
唯「くふ……すぅ」
寝た。
澪「……とりあえず、体は自分の家を覚えてるみたいだな」
律「だな。まあ元々、憂ちゃんや和のことは1回教えたら忘れないくらいだし」
律「記憶を失ったっていっても、体に染み着いてることはたくさんあるみたいだ」
ひとまず安心した顔でりっちゃんは寝転がっている唯ちゃんに近づくと、
スカートをめくってお尻を鷲掴みにした。
――――
澪「唯、後ろは私が守るからな」
唯「うん、ありがとう澪ちゃん」
ほっぺたについた赤い手形を押さえるりっちゃんの後ろについて、
私たちは唯ちゃんの部屋まで上がることにした。
ちなみにりっちゃんを叩いたのは澪ちゃんで、唯ちゃんはあたふたしてた。
紬「階段つらくない、唯ちゃん?」
唯「大丈夫だよ。でもちょっと暑い……」
澪「あとでアイスでも買いにいこうか。あ、唯は休んでていいからな」
3階右奥の部屋の扉を開けて、唯ちゃんはまたきょろきょろ見回した。
唯「……私の部屋」
唯「……私は平沢唯なのかなあ?」
唯ちゃんは本棚を触りながら言った。
澪「実感わかないかもしれないけど、それは私たちみんなが証明する」
澪「だからそこは、何も考えずに信じてくれないか」
唯「うん……ちょっと休むね。これ、私のベッドだよね」
唯ちゃんはふらふらとベッドに近寄ると、ぎっと鳴らして腰かけた。
律「……あー、じゃあ私ら、コンビニまでアイス買ってくるよ。唯が好きなやつ、買ってくる」
唯「ありがとう……あ、でも一人じゃつまんないから、紬ちゃん残ってよ」
紬「私?」
突然の指名で驚いたけど、唯ちゃんに選ばれたことが単純に嬉しい。
ましてや私はさっきお尻さわったのに。
紬「わかった、一緒にお留守番しよう」
私は座布団に腰を落ち着けて、唯ちゃんを見上げた。
事故の前と比べてほっそりして見えるのは、病院ぐらしで食べたいものが食べられなかったせいだろう。
紬「……唯ちゃん、帰ってきてみて、何か思い出したこととかある?」
唯「うーん……」
唸りながら唯ちゃんはベッドの上に横たわる。
すりすりと衣擦れをささやきながら伸びていく、黒タイツに包まれた両脚を目が無意識に追った。
唯「前から言われてたけど、確かにって思ったのは、私はごろごろするのがすごく好きだってこと」
紬「……あ、うん。他にはどう?」
唯「なんだろ。えっと……私って、お尻さわられる役回りとかだったの?」
紬「くすっ」
唯ちゃんは、やっぱり天然。
唯「し、真剣な話! どう反応していいか、わかんなくて……」
紬「もし唯ちゃんがお尻さわられるキャラだったとしたら、どうするの?」
唯「んー……我慢してさわられるしか」
紬「うんとね、それはあまり良くないと思うわ」
枕元に寄って、眠たそうな唯ちゃんの頭を撫でた。
紬「唯ちゃんは唯ちゃんだから。平沢唯を演じようとしなくても、唯ちゃんは変わってないの」
紬「だから、感じたままに反応していいよ? そうされても、私たちが戸惑うことはないはずだもん」
唯「……そっか。私は私なんだもんね」
紬「たぶん、今、何も覚えてない唯ちゃんが、唯ちゃんらしく振る舞おうとしても失敗するだけだと思うから」
紬「安心して、いつも通りに過ごしてたらいいの」
唯「うん……」
唯ちゃんは私を瞳に映したまま、まぶたをそっと閉じた。
紬「……」
紬「……寝ちゃった、みたいね」
私は唯ちゃんの部屋を見回した。
唯ちゃんが大学に通い出し、寮住まいになったため、
部屋は高校生のころ訪ねたときと、いくらかの違いがあった。
それでも、退院にそなえて憂ちゃんが掃除したために埃はないし、
唯ちゃんのギターもひとまず一時帰宅というわけで、壁際にたたずんでいる。
だが本棚には寮に持っていききれなかった漫画が倒され、机にあったライトスタンドはそっくり消えている。
少しばかり、寂しい印象だ。
唯「……っは、ぁん」
紬「! ……」
どうしよう。
唯「ふう……ぅん」
りっちゃん、澪ちゃん、はやく帰ってきて。
唯ちゃんが誘惑してくる。
紬「……」
唯「つむぎちゃん」
紬「あっ、起きてた?」
唯「顔近いよ?」
紬「暑そうだったから。えっと、苦しかったら部屋着に着替えたりしたらどうかな」
唯「そうだね」
重たそうに体を起こして、唯ちゃんはベッドから立ちあがった。
紬「平気?」
唯「うん、えーと……ここかな?」
唯ちゃんが取っ手を引っ張ると、壁の中に収納スペースが現れた。
それからタンスの引き出しをひとつひとつ開けて、部屋着の入っているボックスを探す。
躊躇のなさは、唯ちゃんだなあと感じさせる。
唯「あ、これかな」
4つめの引き出しから、桜色のTシャツが取り出される。
丁寧に畳まれた服をぱさっと広げると、胸のところに「ハネムーン」と書いてあった。
唯「……ハネムーン?」
唯ちゃんが何か感じたらしい。
紬「……懐かしいわね、それ」
唯「やっぱり、私の記憶に何か関係あることなの?」
紬「ちょっとした思い出ね。あれは私たちが高校2年の真冬のこと……」
唯「……」
紬「唯ちゃんは、妹の憂ちゃんと内緒の旅行に出掛けたの。誰にも知らせずにね」
紬「ちょうど憂ちゃんの誕生日、2月22日のことだったわ」
紬「……学校にもこない、連絡もつかない」
紬「唯ちゃんと憂ちゃんが失踪したって、みんなで必死で探したの」
唯「私が……そんなことを」
紬「数日後に、唯ちゃん達は帰ってきたわ」
紬「そしてその旅行のわけを、私だけに教えてくれた」
紬「それが、ハネムーン。唯ちゃんは実の妹と、新婚旅行にいったの。16歳になったからってね」
唯「……」
紬「私はそのこと自体はとがめなかったわ。でも今度からはちゃんと教えてねって」
紬「私たちには知らせるってこと忘れないようにってことで、私からハネムーンTシャツを贈ったの」
唯「……紬ちゃん」
紬「なに?」
唯「ネタだよね?」
紬「もちろん、全部作り話よ」
唯「ぶつよ」
紬「お願いします」
唯ちゃんから両頬に平手打ちをもらって、
じんじんする感覚にかすかな気持ちよささえ覚える。
紬「というわけで、その部屋着には特に思い出とか何もないの」
唯「うん……よく見たら他のにも色々書いてあるしね」
ため息をついて、唯ちゃんはぺろりと服を捲り上げ、白いおなかを見せた。
目をそらすのがあと一瞬遅かったら大変だった。
なにが大変かって、それはもう言葉にできないようなもの。
唯「よいしょっ、ハーネムーン」
唯「別に見ても気にしないよ。紬ちゃん女の子でしょ?」
紬「……一応、気にするかと思って」
記憶をなくす前の唯ちゃんはもうちょっと恥じらいがあったような気がするのだけど。
唯「さてとっ」
ベッドに座りこむと、唯ちゃんはぴんと足を伸ばした。
唯「でも、あれなんだね」
紬「え?」
唯「私って、恋人とかいなかったんだよね?」
紬「唯ちゃんからそういう話を聞いたことはないわね」
最終更新:2011年11月17日 20:55