唯ちゃんに限らず、恋人ができたという話はりっちゃんに疑惑があったきりで一度も持ち上がっていない。
みんなと休日に会ったり、放課後遊んだりする頻度が変わることはなかったし、
誰かと付き合っているのを隠せるほどみんな器用でも秘密主義でもないはず。
紬「恋人がいたほうがよかった?」
唯「ううん……目覚めて、何も分かんなくて、その上知らない誰かが恋人だなんてまずムリだよ」
紬「そうよね。今でさえ整理がつかないでごちゃごちゃなのに」
唯「紬ちゃんが余計にややこしくしてる感はあるけどね」
恨まれてる。
紬「えへへ」
といったところで、りっちゃんと澪ちゃんがアイスを買って帰ってきた。
律「おっ、唯Tだ」
澪「久しぶりな感じだな。病院だとずっとパジャマだったし」
唯「ゆいてぃーって?」
紬「唯ちゃんの着てる、ハネムーンとかアイスとかのTシャツのことね」
唯「……わりと私の象徴みたいな感じだね」
唯ちゃんは不思議そうに腕を広げて、ハネムーンの文字をまじまじと眺めた。
律「それより、買ってきたアイス。どれがいい?」
りっちゃんはビニール袋から、それぞれ個性の違うアイスを4つ並べてみせた。
スーパーカップ、モナカ、アイスキャンディに、パピコの4つ。
りっちゃんが買う前に言っていた「唯ちゃんの好きなの」とはパピコのことだけど、
それは唯ちゃんには黙っておいて、選ばせるつもりみたい。
唯「私から選んでいいの?」
律「おう」
りっちゃんはよく、こうして唯ちゃんが本当に唯ちゃんなのか、試そうとする。
間違いなく唯ちゃんは変わってないけれど、やっぱり不安になるときもあるのかもしれない。
唯「じゃ、モナカ~」
……そして、りっちゃんが出す試験は大抵、余計な不安材料を生む。
澪「……私は、スーパーカップにしようかな」
律「じゃあ私、ガツンとみかん!」
結局、あまった私が唯ちゃんのパピコをとることになった。
胸にのしかかる重たさに任せて袋を破くと、唯ちゃんがそばに寄ってくる。
唯「つむぎちゃん、それ何?」
紬「それって……このアイスのこと?」
二人がこちらを見ないふりをしながら、私たちを注視しだした。
唯「そうそう、なんで紬ちゃんのだけ2つ入ってるの?」
なんでと言われるとちょっと困る。
紬「うーん、これは2人で食べるアイスだからかなあ?」
とりあえず私は唯ちゃんの前で、パピコを半分に割ってみせた。
唯「おぉ」
紬「こうやって友達と半分こにして食べるの。……そうだ、唯ちゃんにあげる!」
唯「えっ? そんな、悪いよ」
紬「いいの、唯ちゃんと食べたいから」
私は押しつけるようにパピコの片割れを唯ちゃんの手に握らせる。
紬「……あっ、えっと、じゃあ」
とたんに唯ちゃんがものすごい顔をしたので、私は慌てて唯ちゃんのモナカの袋を開けた。
モナカを真ん中で割って、半分を唯ちゃんのあいた手に渡す。
紬「ね? これであいこだから」
唯「ほんとだ、すごいね!」
唯ちゃんも納得してくれたみたいで何より。
私はパピコの蓋を取って、溶けかけたアイスを吸った。
唯「紬ちゃんは何でも知ってるんだね」
モナカをかじりながら唯ちゃんが言う。
紬「そんなことないよ。唯ちゃんがちゃんと思い出したら、私なんて世間知らずって笑われちゃうんだから」
唯「そーなのかなあ……」
みんなでアイスを食べてからは、唯ちゃんの部屋に格納されていたアルバムや、
卒業アルバムを見てずっと談笑していた。
唯ちゃんは卒業アルバムの自分の写真に大笑いして、そして結局なにか思い出すことはなかった。
しばらくして、憂ちゃんがまず帰ってきた。
憂「おねえええちゃあああん!!」
怒濤の勢いで階段を駆け上がって唯ちゃんの部屋までやってきて、
唯ちゃんを見るやいなや水平に飛んで唯ちゃんの首元に抱きすがって押し倒す。
澪「わあああああああ!?」
メールで間もなく帰ってくるという予告がなければ、今度は澪ちゃんが記憶を失う番だったかもしれない。
唯「う、ういっ、ちょっと待っ」
憂「よかった、よかったよぉ! んっ、んっむ」
唯「ほえー!」
病院で唯ちゃんが目を覚ましたときは唇にキスしたところが観測できたけど、今回はほっぺた止まり。
落ち着いた憂ちゃんが離れて、あちこち赤い痕をつけた唯ちゃんもちょっと物足りなそうに見えた。
私はそこそこ満足した。
憂「あらためて、退院おめでとう!」
唯「……うん」
憂ちゃんにきつく抱きしめられて、唯ちゃんは苦笑いしていた。
唯「ありがとう、憂」
憂「今日はお姉ちゃんのためにいっぱいおいしいごちそう作るから! だから……ね!」
言い淀むと、憂ちゃんは唯ちゃんの頭を撫でて立ち上がった。
ようやく私たちを見てくれたようだ。
憂「えっと、和さんはまだですか?」
憂ちゃんと梓ちゃんは学校に行っていて、唯ちゃんの退院の出迎えには来れなかった。
私たちも学校があったのは同じだけれど、みんな1日ぶんの講義をすっぽかして唯ちゃんの出迎えに来た。
大学はこういう融通がきくのがいいところだと私は思う。
ただ和ちゃんも、同じように大学生になったのだけれど、今日の退院の出迎えには来なかった。
和ちゃんいわく。
和「死に目に会いに行くわけじゃないし、律たちに任せるわ」
ということだった。
きっと本音は、自分との思い出を全て忘れてしまった唯ちゃんとあまり会いたくないだけかもしれない。
それでもこの後の、唯ちゃんの退院祝いには駆けつけてくれる約束だ。
律「あ、あぁ、和はまだだよ。そろそろ授業終わるんじゃないかと思うけどな」
憂「そうですか……わかりました! それじゃあ私、お料理の支度してきますから、みなさんゆっくりしててください」
憂「お姉ちゃん、またね!」
唯「う、うん、ありがとう……」
嵐のように去っていった妹にぼーっと手を振り、唯ちゃんはふと「イテテ」とほっぺたを指で撫でた。
紬「明日は外出できないわね」
唯「うん、これじゃちょっと……憂にも仕返ししようかな」
紬「そうしてあげたほうがいいわ」
澪「いや、止めろよ……」
程なくして、梓ちゃんが訪ねてきた。
唯ちゃんに頼まれて下まで玄関を開けに行き、部屋まで連れてくる。
梓ちゃんは不安そうな顔をしながらも、肩をこわばらせて気丈そうにみせていた。
紬「梓ちゃん、先に上がって?」
梓「え、あ、はい」
なので2階で梓ちゃんを先に階段に上がらせて、即座に後ろにつけた。
梓「ひゃああっ!?」
当然お尻を触るためである。
唯ちゃんのよりよく手におさまった。
梓「むむむムギ先輩ー!?」
紬「さあさあ、唯ちゃんが待ってるわよ!」
梓「ちょっ、ちょっ……まずはお尻から手を離してください!」
台所で憂ちゃんが吹き出すのが聞こえた。
唯「いらっしゃーい、あずにゃん!」
ドアを開けさせると、唯ちゃんが両手を振って歓迎した。
梓「唯先輩……」
お尻が私の手から離れ、唯ちゃんのもとにとことこ歩いていった。
梓ちゃんは唯ちゃんのそばにおずおずと座ると、軽く会釈をするように頭を下げた。
梓「このたびは、ええと、よくぞご無事で」
律「武士か」
澪「茶化すな」
りっちゃんと澪ちゃんも、そちらはそちらで二人だけの世界である。
唯「うん、な、なんとかね」
唯ちゃんはキスマークの指摘だと思って首筋やほっぺたを忙しく撫でる。
恥ずかしそうに赤く照れているのが可愛い。
梓「その、記憶喪失……のことですけど」
唯「……うん」
梓ちゃんはけんめいに言葉を反芻しているらしく、何度かくちびるをモゴモゴ動かした。
梓「前にも言いましたが、あんまり気に病まないでくださいね」
梓「思い出せないことは、私たちがぜんぶ教えますし、これからもたくさん思い出は作れますから!」
唯「……あずにゃん」
唯ちゃんがため息まじりに言った。
唯「抱きしめていい!?」
梓「は、はい……って違っ!」
呼び掛けに答えただけの梓ちゃんの声は、
唯ちゃんがあまりにも間髪をいれなかったせいで肯定になってしまった。
あっという間に梓ちゃんは唯ちゃんの手に抱きしめられて、逃げることも許されなくなった。
梓「あのっ、私の話きいてました?!」
唯「うん、いややっぱりあずにゃん抱きしめてるとしっくりくるんだよ!」
記憶を失っても梓ちゃんの抱き心地は変わらないらしい。
そりゃそうか。
澪「なんかほっとするなー」
律「唯、梓を抱きしめてたらなんか思い出すような気しない?」
唯「あっ、するよー! あずにゃんもうちょっとだけ協力して!」
梓「なっ……それ言われたら!」
唯「うへへーすりんすり~ん……」
梓「唯へんぱい、やめへくださいよー……」
唯「あーあと10%で思い出せるー……」
梓「なんの指数ですかあ……」
私はなかなか満足した。
結局梓ちゃんが解放されるまで10分ほどかかり、
ふらふらになった梓ちゃんは唯ちゃんのベッドに頭から飛び込んだ。
律「やれやれ、お前らよく寝るな」
紬「私たちも今日は遅くまで起きてるだろうから、少し休んでおく?」
唯「さんせい。私つかれちゃった」
澪「……それじゃあ、ちょっと休もうか。唯、この座卓動かしていい?」
唯「どうぞどうぞ」
渋る唯ちゃんをベッドに上げ、私たちは座布団を枕に少し眠ることにした。
唯「すー、すー……んんっうぅ、やぁ……」
紬「……」
澪「りつ……寝た?」
律「くー……」
澪「ムギ?」
紬「……起きてる」
澪「よかった。少しだけ、話してもいいか」
紬「なあに?」
唯「ん、んっ……」
澪「……唯の記憶のことで、ちょっと疑問がさ」
紬「疑問?」
澪「唯って、意識を取り戻してから、ずっと寝てるときはああいう風にうなされてるじゃないか」
紬「そうね……」
澪「あれは、私たちの知らない唯の記憶……起きてるときは唯も忘れている、ふかい記憶が夢を見させてるんじゃないかと思うんだ」
紬「……どういうこと?」
澪「唯は、きっと……なにかあって、記憶を封じ込めているんじゃないかって」
紬「何かって?」
澪「それは、何かだ」
紬「……唯ちゃんが記憶を失った原因は、高熱よね」
澪「その高熱が、記憶を消すための処理で起こったオーバーヒートだとしたら……」
紬「……だけど、根拠がないように思うの」
澪「うん、そうなんだけど……唯の記憶を取り戻すことが、必ずしも唯のためにならないかもって……」
澪「私、そう思ったら怖くって……」
澪ちゃんは体をちぢこめた。
澪「唯、ひどい目にあったんじゃなきゃいいけど……」
唯「うぅ……はーっ」
紬「……たしか、憂ちゃんが言うには唯ちゃんは夜遅く帰ってきて」
紬「でもいつも通りにお風呂入って、憂ちゃんのご飯を食べて寝て……翌朝、高熱を発したのよね」
これ自体は、唯ちゃんがゴールデンウィークに帰省したときの出来事だ。
紬「記憶を消しちゃうほどの事件……があったとして、澪ちゃんならそんなふうに振る舞える?」
澪ちゃんは少し悩むと、静かに言った。
澪「憂ちゃんが嘘をついてるって可能性も……なくはない」
紬「なんのために?」
平静を保てずに、つい声が震えた。
澪「わからないけど……」
澪ちゃんは濁したけれど、私には澪ちゃんが言おうとしたことがわかる。
澪ちゃんは、憂ちゃんが唯ちゃんに何かしたと疑っている。
紬「……しっかりして、澪ちゃん。憂ちゃんは嘘をつくような子じゃないわよ」
澪「そう、だよな……ごめん、やな気持ちにさせちゃった」
紬「いいよ。でも……」
澪「でも……?」
紬「唯ちゃんの記憶は、必ず取り戻すから」
澪ちゃんは頷くかのように首をひねり、「うん」か「ううん」のどちらかの「ん」を呟いて、目を閉じた。
――――
目を覚ますと、横で和ちゃんが眠っていた。
真鍋和の貴重な裸眼シーンを拝んでから時計を見ると、6時になったばかりだった。
唯「紬ちゃん?」
声をかけられて振り向くと、唯ちゃんが寝転がったまま目を開けていた。
紬「あ、おはよう唯ちゃん」
唯「いま何時?」
紬「6時よ。もう起きる?」
唯「まだこのまま、ぐでーっとしてます……」
紬「そう……」
マットの上といっても床で寝たせいか、体がすこし痛む。
これ以上寝るのはちょっと辛い。
紬「……ねぇ唯ちゃん、聞いていい?」
唯「うん?」
疑うわけではない。
だけど、もし澪ちゃんの言う通り、記憶を取り戻すことで唯ちゃんが苦しむとしたら。
紬「最近、夢はみてる?」
唯「夢かあ。この間はね、みんなで船に乗ってたよ」
紬「みんなって?」
唯「私と憂と和ちゃんと、紬ちゃんと、……あずにゃんに、りっちゃんに澪ちゃん……みんなだね」
紬「へえー。どんな船に乗ってたの?」
唯「白くてでっかいクルーザーだった。……何をしてた夢なのかは、よく思い出せないや」
紬「そっかあ……」
これは唯ちゃんの記憶喪失とは関係ないと思う。
私ではつながりが見出だせそうにない。
紬「いまは、夢見てなかった?」
唯「いまは……えっと」
唯ちゃんがいきなり顔を真っ赤にした。
紬「どうしたの?」
唯「その……誰にも言わない?」
聞かなければいけない。
そう、これは真実をさぐるためなの。
紬「言わないから、教えて?」
そっと立ち上がり、唯ちゃんの口元に耳を寄せる。
唯「あのね……まずあずにゃんをぎゅーってしてて、そしたら憂が来て、私にキスしたの」
紬「……くちびるに?」
唯「……くちびるに」
唯「またかーって思いながら、あずにゃんをまだ抱きしめたままだったの」
唯「そしたら今度は……あの、紬ちゃんが来て……ちゅうを」
紬「そ、それで?」
唯「次は、紬ちゃんと憂に……両方のほっぺにキス……されてね、幸せだなーって思ってたら」
幸せだったんだ。
唯「あずにゃんがぴょこんって出てきて、くちびるに……」
紬「……唯ちゃん、うらやましいわ」
唯「ゆ、夢だよ」
紬「でもうらやましいっ」
唯「し、しーっ。でね、それで終わりじゃなくて」
唯「あずにゃんも腕の中から抜けちゃって、みんなぐるぐる回りながらほっぺとか口にちゅーするんだ」
唯「いつの間にか和ちゃんもりっちゃんも澪ちゃんも来てて、どんどんちゅーしようとしてくるんだけど……」
唯「こう、ね……? ちゅーする場所がないでしょ? だから、だんだん……体の方に」
紬「うん、うん……」
最終更新:2011年11月17日 21:03