――――

憂『ぁっ、んーっ、おねえちゃんっ』

唯『ふっ、ん、はむっ……ちゅううっ』

 結論からいうと、いや結論しか言わないけど、エッチなビデオだった。

 AVだと言わないのは自分の中の最後の砦を守ろうとしているわけではなく、

 唯ちゃんと憂ちゃんがあくまでじゃれあっている様子だから。

 でもカメラワークだけ見たらAVだった。

 憂ちゃんがこのはしたない映像を天然で見せているのか狙って見せているのかわからない。

 ただ後者だとしたらトイレに立ったら負けを認めたということになる。

 それだけは……別にどうでもいい。

 とにかくまだまだ百合分は補給できそうなので、あわてずせかさず次のビデオの再生を待とう。

唯「……うーん」

紬「唯ちゃん?」

唯「眠たくなってきちゃった……」

 言われて時計を見ると、夜の10時。

 そう遅い時間ではないけれど、唯ちゃんが入院していた病院では消灯時間になる。

紬「今日は退院とかでばたばたしてたもんね」

 頭の形にそうように撫でてあげると、唯ちゃんは私にもたれたそうに傾いてきた。

憂「それじゃあお姉ちゃん、もう寝よっか」

唯「うんー」

 唯ちゃんは呼び掛けられて憂ちゃんに両手を伸ばした。

 憂ちゃんがその手をとって立たせると、大事そうに後ろから抱えるようにその体を支えた。

澪「おやすみ、唯」

紬「おやすみなさい、唯ちゃん」

梓「唯先輩おやすみなさい」

 唯ちゃんは私たちにぴらぴら手を振って、階段を上っていった。

律「さてと」

 りっちゃんは腰を上げてのびをした。

律「とりあえず食器まとめとくか」

和「そうね、このまま帰るわけにはいかないし」

 食器を大きいものから重ねて、運びやすいようにする。

 グラスはまだそのままにするようりっちゃんに言われ、スプーンやフォークだけまとめた。

律「唯ん家って台所2階なんだよな……めんど」

澪「正直すぎるだろ」

梓「憂はこれ全部ひとりで2階から運んできたんですから、文句言わないでください」

律「わかってる。まあ、みんなで運ぶか」

 私たちは少しずつ食器を持って2階の台所に運ばせてもらった。

 洗い物の手伝いもするべきね、と後ろから和ちゃんが言った。

 食器を運びきってから、りっちゃんと澪ちゃんが一山片付けることになった。

 そのあと交代で私と梓ちゃん、憂ちゃんと和ちゃんという分担だ。

 とりきめたところで、唯ちゃんを寝かしつけた憂ちゃんが降りてきた。

 私たちは1階に降りて、とりあえずニュース番組を眺めていた。

  『では、次のニュースです』

紬「……あっ」

 垂れ流しになっていたテレビ画面にみんなが振り向き、釘付けになった。

  『きょう京都府で、自分のことが何もわからないという20代から30代とみられる男性が保護されました』

 テロップには「記憶喪失」とはっきり書いてあった。

 アナウンサーは身元不明の男性の特徴を伝え、心当たりのある人のための連絡先を二度繰り返した。

 そして白髪頭のコメンテーターが口を挟む。

  『こういう記憶喪失なんですがね、物語では必ずといっていいほど記憶が戻るものですが』

  『実際の治癒率は、あぁ記憶が戻る割合、これは全体の1割にも満たないんだそうです』

 えぇ、とアナウンサーの相槌。

  『ですから、せめて身元が分からないとこのさき生きていけないんです。どうか身内が見つかればいいんですが』

憂「……」

 ありがとうございます、とアナウンサーの声で、ニュースは次のことにうつろっていった。

 私たちは、軽く考えすぎていたのだろうか。

和「……はぁっ」

 真鍋和の貴重な裸眼シーンは目をこする袖で隠されてほとんど見えなかった。

紬「の、和ちゃん、憂ちゃん、そんな……大丈夫よ! きっと思い出せるわよ」

梓「そうですよ、ほら、あんなおじいちゃんだし、何か別の数字と勘違いしてるんです」

 まともに考えもしてこなかった、唯ちゃんが一生私たちを思い出さない可能性。

 それでも今は、傷が浅い方の私たちは気を遣うほうに回らなければならなかった。

 もし唯ちゃんの記憶が一生戻らなかったら。

 私たちは、これから新しい曲を作っていける。

 また放課後ティータイムを始めて、唯ちゃんとの思い出を作っていける。

 3年間の記憶はもはや仕方ない、と許してしまうことも、もしかしたら、できるような気がする。

 でも憂ちゃんは、和ちゃんは。

 もうあんなふうに甘えてキスすることはできない。

 泥んこになって遊んで笑って、手を繋いで帰ることはできない。

 唯ちゃんと仲良しになったことをもう繰り返せないし、思い出してもらえない。

 唯ちゃんにとっていつまでも、知らないうちに妹だった、幼馴染だった人であって、

 友達にはなれても、それらの取り戻せない関係には決してたどり着けない。

和「……取り戻すわ」

憂「和ちゃん……」

和「1割でも1%でも、それ以下の確率でも、唯の記憶を取り返すだけよ」

 歯噛みして和ちゃんは呟く。

紬「……うん、絶対だね」

 ほんとうは、無理をしないでと言いたかった。

 とても怖い顔をした和ちゃんには、きっと唯ちゃんも怯えるような気がした。

 でも、言えた義理がない。

 二人の傷ついた思い出を慰められる言葉なんて私には出せない。

 思い出を修復するのは、思い出しかないんだ。

梓「憂も、あきらめないで」

憂「……あきらめるわけないよ。忘れたままだなんて、さびしいもん」

 憂ちゃんは頬に涙を伝わせたまま、まっすぐな言葉を発した。

 その涙を梓ちゃんが拭ったところで、りっちゃんと澪ちゃんが降りてきた。

律「交代だぞーい……何かあった?」

紬「少しね。梓ちゃん、いこっ」

 梓ちゃんと一緒に洗い物を始める。

 りっちゃんたちが頑張ったのか、食器は半分ほどまで減ったように見える。

紬「私が洗っちゃうから、梓ちゃんはタオルで拭いてそこに置いてね」

梓「はい、わかりました」

 いっそ、このまま私たちで終わらせてもいい気がする。

 食器棚にしまうのだけ、この家にくわしい憂ちゃんと和ちゃんに任せておけばいい。

 というかまともに分担するならそういう配分になるんじゃないだろうか。

紬「梓ちゃん、このまま終わらせちゃいましょ」

梓「あ、はいっ、そうですね」

 洗ったお皿がきゅっきゅっと音を立てるのを聞きながら、どんどん洗い物を進めていく。

梓「……あの、ムギ先輩、訊いてもいいでしょうか」

 手を止めないまま、梓ちゃんが言う。

紬「何かしら?」

梓「ムギ先輩は……唯先輩が記憶を取り戻せなかったら……どうするんです」

紬「どうするって……」

 そんな漠然とした聞き方されても困っちゃうわ。

梓「ですから、その。今まで通り唯先輩を好きでいられるかってことです」

 かといってそんなストレートに来られても。

紬「うーん……新しい好きじゃ、だめなのかな?」

梓「……今まで通りの好きじゃなきゃいやなんです。理由は言えないんですけど」

梓「どうですか? ムギ先輩は、今まで通りに唯先輩のこと好きでいられそうですか?」

紬「……どうかな。今はまだ、唯ちゃんのこと前のとおりに好きよ」

紬「唯ちゃんは変わってない。記憶はないけど、幹のところがね。だから記憶もきっと戻るって思ってるけど」

梓「わたしは……分からないです」

紬「唯ちゃんのこと好きになれない?」

梓「むずかしいんですが……」

梓「あずにゃん、って私のこと言うじゃないですか」

紬「そうね。私たちが、唯ちゃんは梓ちゃんのこと、あずにゃんって呼んでたって教えたから」

梓「そのあたりなんですよね」

紬「どういうこと?」

梓「わたしは中野梓ですけど、唯先輩はあずにゃんってあだ名をつけてくれました」

 梓ちゃんは遠い目をした。

梓「私がネコミミ似合って、猫みたいだって、それでつけてくれたんですが」

梓「今の唯先輩は……そのあずにゃんってあだ名を使っているだけのように感じてしまうんです」

梓「あずにゃんって名前をつけてくれた思い出が、今の唯先輩が言う「あずにゃん」には伴っていないんです」

梓「平沢唯は中野梓をあずにゃんと呼ばなければいけない、と重荷を背負わせているような気がしたり」

梓「たまに、知らない人に呼ばれたような気がして、すごく怖くて、申し訳ない気持ちになるんです」

梓「……ごめんなさい、私が変ですよね」

紬「ううん、変じゃない。……でも、唯ちゃんは悪くないわよ」

梓「わかってます。だから……はやく記憶を戻したいです」

 それから数分して、洗い物は完了した。

 あの後の会話は「はい」「お願い」「ちゃんと持った?」だけで、唯ちゃんのことには触れていない。

 ただ梓ちゃんの話で、私は洗い物のあいだずっと考えさせられることになった。

 なんで唯ちゃんは、私のことを「つむぎちゃん」って呼ぶんだろう。

 正直新鮮でイイし、言いにくそうに「ちゅむぎちゃん」と噛むさまはたいへん可愛いけれど、

 私もずっと、唯ちゃんからはムギちゃんと呼ばれていたと説明したはずだ。

 目をさましてからの唯ちゃんは、あずにゃんという呼称をいたく気に入っていると見える。

 それと同じで、ムギちゃんという呼称に何か気にくわないものでもあるのだろうか。

 たとえば、唯ちゃんはビールを飲まされて急性アルコール中毒になり記憶を失ったとか。

 それゆえムギという名前を嫌う。

 ビールの原料は麦だもの。

 うん、ありえない。

 まずそれなら病院に運ばれた時点でアルコール中毒だってわかるし。

 1階に降りて憂ちゃんたちに引き継ごうとすると、りっちゃんたちがいなかった。

憂「これからお姉ちゃんのことで作戦会議するそうなので、お茶を買いにいったんです」

 ということらしい。

 憂ちゃんと和ちゃんにあとは片付けだけだと伝え、梓ちゃんと二人きりになった。

紬「さっきの話だけど、唯ちゃんの前でその気持ち、しぐさに出しちゃだめよ」

梓「はい。……きっと唯先輩、ショック受けちゃうでしょうし」

紬「唯ちゃんが記憶を戻したいっていう気持ちをなくしちゃうかもしれないわ」

紬「あずにゃんに嫌われてた記憶なんか思い出したくない、って」

梓「別に嫌っては……」

紬「唯ちゃんにとっては同じなの。唯ちゃんは超能力者じゃないんだから」

梓「……はい」

 ちょっと言い過ぎたかも。

 反動でなでなでしてあげていると、りっちゃん澪ちゃんが戻ってきて、

 みんなで梓ちゃんをなでなですることになった。

 すぐに片付けを終わらせて降りてきた憂ちゃんと和ちゃんは梓ちゃんなでなでには参加せず、

 ちょっと厳しい声で「始めましょう」と言った。

律「よし」

 お茶をついでから、みんなでテーブルを囲む。

律「まぁ、これからの唯のこと。記憶を取り戻すっていうのは当然だけど、……どうするかだ」

澪「今まで、ライブのDVDとか私たちの曲とか聴かせてきたけど、あんまり効果いまひとつだしな」

律「ってことで、何か新しいことをひらめいてみよう、今夜は」

紬「新しいことねぇ……」

 この中にもちろん記憶喪失治療の専門家なんていないので、とにかく考えてみるしかない。

 何が正解かはともかく、記憶を刺激すればいい、とはよく言われている。

梓「はい」

 梓ちゃんが提案した。

梓「ギターを教えてあげるのはどうでしょう」

和「ギターね……」

澪「確かに、近々HTTに復帰してもらうわけだし、いつまでもなまった腕のままじゃな」

 ちなみに放課後ティータイムに復帰することについて唯ちゃんはやぶさかではない。

 私たちが押し付けたり決めつけたりしてはいないということは、ちゃんと言っておきたい。

紬「それなら、澪ちゃんに、さわ子先生に、梓ちゃんに教えてもらうのがいいわね」

 記憶再生に重要なのは、状況の再現。

 唯ちゃんにギターの基礎を教えたのは澪ちゃんで、弾き語りの特訓をしたのはさわ子先生。

 そして普段練習につきあっていたのは梓ちゃんだから、その順番で指導をしてみるといいかもしれない。

和「記憶を刺激するって話なら、軽音部の部室でやるのがいいわね」

律「いいのか?」

和「OGが来るぐらい、何の問題もないわよ」

澪「じゃあ、部室でギター教えてみるか」

 みんな頷いた。

憂「あと、それなら」

 憂ちゃんが手を挙げて付け加える。

憂「お姉ちゃんの思い出になっている場所を、たくさん巡ってみるべきだと思います」

憂「ただでさえお姉ちゃん、入院生活で息詰まってるみたいなことをよく言ってましたから」

澪「なるほど、いいな」

紬「確かに唯ちゃん、アルバムの写真で見たところに行きたいって言ってたわ」

 さすが憂ちゃんは気がきく。

律「じゃあ、平沢唯ゆかりの地めぐりも追加で、あとどうかな」

澪「他のクラスメイトとも会ってみたらどうかな。教室で制服で同窓会とか」

梓「いいと思いますけど、制服捨てちゃったり、譲っちゃった人が多いと思います」

和「事実、私は捨てちゃったしね」

律「……それに、和に会って思い出さないものを、他のクラスメイトに会ったところで思い出すか?」

憂「厳しいと思います。教室だと基本的に和ちゃんにべったりでしたし」

澪「うーん、ダメか……」

律「なにかこう、もっと、唯のなくした記憶全体をガーッて揺さぶるようなものはないのか?」

梓「……唯先輩の半生を象徴するようなものって、何かある、憂?」

憂「……か、可愛さ」

律「抽象じゃん」

憂「だって! 可愛い人生なんです!」

和「唯って基本ぼーっとしてたから……そういうものはないかもしれないわ」

憂「しいて言うならヘアピンとか」

梓「今日もつけてたし……」

澪「ギターも見せても持たせても弾かせても無反応だったな……」

律「……好きな人とか」

和「断言するけどいないわ」

律「だよな。訊いたら基本訊いてきた人のこと好きって言うもん」

憂「でもお世辞とか知らないですし、ほんとにみなさんのこと愛してるんですよ」

律「……とりあえず、まずは唯に関係あるところあちこちまわっていこう。何度かな」

和「それはいいんだけど……誰がつきそうの?」

律「えっ?」

澪「私たちが学生の身分である以上、学校さぼってうろつく訳には……いかない?」

憂「いきませんが……でも、お姉ちゃんを助けたい」

梓「私も、唯先輩の力になりたいです」

澪「私だってそうだ」

和「私もよ」

紬「唯ちゃんに付き添ってあげたいのはみんな一緒だよね。……でも全員ってわけにはいかないわよ」

 唯ちゃんの奪い合いで火花が散ってるこの百合空間。

 とりあえず梓ちゃんと憂ちゃんあたりは唯ちゃんと一緒にいたいだけと思われる。

 あと私も。

律「……あー、わかった。こうなったら唯に決めてもらおう」

澪「ん……そうだな」

律「それから、高校生組はだめだ。いくらなんでも学校があるだろ」

憂「でもっ……」

律「学校のほう行くときは任せてやるから、な」

憂「……はい」

梓「わかりました……」

律「唯を起こすわけにもいかないし、今日はそろそろ帰るか?」

澪「うーん、だけど寮まで帰るとなると門限に間に合うか微妙だぞ。急に家帰っても、ベッドほこりかぶってるだろうし」

憂「あの、布団用意しましょうか?」

律「ほんとに、憂ちゃん?」

憂「もちろんです。梓ちゃん、和ちゃんもついでにどう?」

梓「せっかくだから、一緒に泊まろうかな」

和「ついで……まぁ帰れないしお願いするわ」


5
最終更新:2011年11月17日 21:06