憂「はい。……もし紬さんが純粋な友情だけで動いてるんだったら、かなわないなって思ってました」
恐らく、休学や金銭的負担のことを言っているのだろう。
唯ちゃんと友達を通り越した関係にはなれない、と分かっていたら、私は今回の決断をしただろうか。
私には判断をつけられなさそうだ。
憂「だからちゃんと、下心があるみたいで安心したんです」
紬「……それで、憂ちゃんのお話は?」
憂「そう焦らないでくださいよ」
憂ちゃんはくすくす笑った。
憂「紬さんも、あのビデオ見ましたよね」
紬「あの、キスしてるビデオ?」
憂ちゃんは楽しげに頷く。
憂「紬さんは、あれをどう受けとりましたか?」
紬「どうって、その……」
えっちなビデオだと思った、とは素直に言えない。
紬「や、やりすぎかな? って思ったかも」
憂「確かに、さすがに今はあんな風にキスをすることはないですね」
憂「高校に入るすこし前から、お姉ちゃんはキスをねだっても断るようになりました」
紬「そんなに最近までキスをしてたの?」
私は驚いて訊ねた。
中学生ともなれば、えっちな話がそこかしこから聞こえてくるものだ。
そんな中で3年近く、純粋な姉妹のスキンシップとしてキスをしていたとは考えにくい。
憂「……もしかして、私が何もわからずにお姉ちゃんとキスをしていたと思ってますか?」
私は即座に首を振った。
なるほど、憂ちゃんの恋愛相談とは、私にはちょっと荷が重いかもしれない。
紬「憂ちゃんは、おねえちゃんが好きなのね」
ジャングルジムの子供が騒いだ。
憂「……好きでした」
憂「ううん、今も好きです。お姉ちゃんが……大好き」
誰も乗っていないシーソーが、風に吹かれて傾く。
紬「……憂ちゃんも、記憶喪失から唯ちゃんが変わってしまったと思うの?」
憂「いいえ。お姉ちゃんは変わっていません。……でも」
私は、とつぜん震えた声にびくりとして憂ちゃんの顔を見つめた。
憂ちゃんは肩を縮めて、目からぼろぼろ涙を溢れさせていた。
憂「私なんかが……お姉ちゃんを好きでいい資格なんかないんですっ! 私は、私は……っ!」
唯「……憂!?」
涙が唯ちゃんの頬に落ちて、唯ちゃんが目を覚ます。
唯「紬ちゃん、憂に何言ったの!」
紬「な、なにも言ってないわ……たぶん」
私だって何があったのか、わけがわからない。
憂「ごめ、んねっ、お姉ちゃん、紬さんはなんにも……」
起き上がった唯ちゃんは、何も言わずに憂ちゃんを抱きしめる。
憂「お姉ちゃんっ……ごめんね、ごめんなさい……」
唯「よしよし。大丈夫だよ」
紬「……」
私はふと、澪ちゃんが憂ちゃんを疑っていたことを思い出した。
唯ちゃんが記憶を失った何らかの原因を、憂ちゃんは隠している可能性がある、という疑いだ。
また、その原因自体を作ったのも憂ちゃんではないか、と思っているようにも見えた。
紬「……憂ちゃん、後で連絡するわ」
どちらにしろ、今は話を続行するのは不可能だ。
私はベンチから立ち上がる。
憂「はいっ……」
唯「紬ちゃん、今日は帰るの?」
紬「うん、お邪魔みたいだし」
どちらかといえば、早くこの場を離れたいだけだった。
唯ちゃんが私よりも憂ちゃんを愛して、私を一瞬でも睨み付けたこの場所を。
唯「また明日ね」
唯ちゃんは小さく頷くと、また固く憂ちゃんを抱きしめた。
憂「も、もう平気だよ、お姉ちゃん……」
私はランプの炎が消えるように、そっと思い出の公園を去った。
電車に揺られながら、私は考える。
もし仮に憂ちゃんが、私の想像しているようなことをして、それが原因で唯ちゃんの記憶が失われたとする。
それなら、唯ちゃんを愛していい資格がないのは、私も同じのはずだ。
くちびるを指で触る。
このくちびるは、憂ちゃんの、唯ちゃんのキスを無抵抗のままに奪ったのだ。
――――
寮に帰って、りっちゃんにあらましを報告してから、ベッドに倒れ込んだ。
引きずられるように食堂に連れていかれご飯を食べ、またベッドにしがみついてぐったり。
紬「……唯ちゃんじゃなかったんだ」
今更になって、そんなことが苦しいような気がする。
ちょうど、部屋のドアがノックされた。
りっちゃんが部屋に入ってきて、明日の行程を書いた紙を渡した。
律「なあ、ムギ……すごい疲れてるけど、なんかあったのか?」
紬「……シーソー」
心配してくれるのは嬉しいけれど、ありのまま話すわけにはいかなかった。
律「え、シーソー?」
紬「それだけだから、心配しないで」
律「え、ちょっと、意味が」
りっちゃんを部屋から追い出すと、私は憂ちゃんに話の続きをしなければと思った。
憂ちゃんはもしかしたら、本当に澪ちゃんの想像通りのことをしていたのかもしれない。
あるいは、その疑いが、完全に潔白だとわかるかもしれない。
ともかく憂ちゃんとの約束は守らないといけない。
私は携帯から、憂ちゃんの番号をプッシュした。
憂『……こんばんは、紬さん』
紬「こんばんは。もう落ち着いたかしら?」
憂『はい。お姉ちゃんのおかげです』
紬「よかった。……それで、話がききたいんだけど、大丈夫かしら?」
憂『……ええ、どうぞ』
紬「唯ちゃんを好きでいる資格が憂ちゃんにない……って言ったわよね」
紬「どういう意味なのか、教えてほしいの」
憂『……私は、お姉ちゃんが好きでした』
憂ちゃんは繰り返し言った。
憂『子供のときから……キスしてもらうたび、お姉ちゃんを好きな気持ちが強くなって』
憂『お姉ちゃんも私を好きなんだって思ってたんですが……事実子供のころはそうだったのかもしれません』
紬「うん……」
ホモ田さんの話では、唯ちゃんは確かに憂ちゃんが好きだった時期がある。
それがどれほど長く、どれほど本気だったかは聞けなかったけれど。
憂『でも、お姉ちゃんは違った……私の片想いだった』
憂『高校生になって、キスは禁止ってはっきり拒絶されて、ようやく気付いたんですよ……恥ずかしながら』
紬「勘違いしないほうがおかしいと思うわ。憂ちゃんはおかしくないよ」
憂『……ありがとうございます』
憂ちゃんはちょっと鼻をすすった。
憂『記憶喪失のけっこう前に、私はお姉ちゃんから、寮住まいになるって話を聞いていました』
憂『お姉ちゃんが離れていっちゃうって、私から逃げようとしてるって、思ったんです』
憂『だから、私は……』
憂ちゃんは息をつまらせた。
憂『お姉ちゃんが帰ってきた日、お姉ちゃんに、ひどいことを……っ。最低なことをしちゃったんです』
憂『お姉ちゃん、すごく悲しそうに泣いてました……』
紬「……憂ちゃんは、唯ちゃんを襲ったの?」
憂『はいっ……』
つまり、澪ちゃんの想像した通りだったということだ。
紬「そのショックで、唯ちゃんは記憶をなくした……って考えてる?」
憂『それ以外に……間違いないと思います』
憂ちゃんの鼻声や、声の震えから察するに、また憂ちゃんは泣いていた。
憂ちゃんはとても反省している。
私だって責めていい立場じゃない。むしろ私のほうが、よほど汚れていた。
私は今、こんなことを考えている。
憂ちゃんのおかげで、0%だった可能性がぐんと上がったのだ、と。
紬「……たぶん、こんなことを言ってほしいんじゃないと思うけど」
紬「憂ちゃんのこと、私は責めないし、許すわ」
憂『……ちょっとは気が楽になります』
紬「きっと、唯ちゃんに許してもらわないと気持ちは晴れないわね」
憂『許してもらえなくてもいいんです。私がしたことも忘れてしまったお姉ちゃんに』
憂『なんでもないような顔をして接している自分が、すごく嫌で……』
憂ちゃんは、だんだん声が大きくなってきたのを自覚してか、ぼふんとベッドに倒れ込む音を立てた。
憂『それなのに、お姉ちゃんを好きな気持ちはぜんぜん変わらなくて、抑えたいし消したいのに、膨れるばかりで!』
憂『教えてください紬さん……どうしたら、元の姉妹に戻れますか』
紬「……」
憂ちゃんの相談はすなわち、恋を成就させたい悩みではなく、恋を諦めたいタイプの悩みだった。
憂『変われないまま、お姉ちゃんが私のしたことを思い出せば……二度と近寄れなくなります』
憂『どうか、それだけは避けたいんです』
私は目を閉じて、策を考えた。
紬「唯ちゃんはきっと、そのままでも許すと思うわ」
憂『……え?』
紬「唯ちゃんが記憶を取り戻して、憂ちゃんのしたことを思い出しても、唯ちゃんは憂ちゃんのことを許すはずよ」
憂『それは……』
紬「うん、ちょっとくすぐったい話……」
紬「唯ちゃんがなくした17年の憂ちゃんとの思い出に、それだけの価値があるってこと」
憂『つむぎ、さん……』
紬「大丈夫だよ憂ちゃん。唯ちゃんの思い出は、ちゃんと全部取り返すから」
紬「心配しないで、おねえちゃんにちょっとだけ怒られる日を、待っててね」
憂『ひっ……ぐし、つむぎさぁ、ん……ありがとう、ござっ……うぅ』
紬「……ううん、私のおかげじゃないよ」
紬「そんなことより、この前キスしちゃってごめんなさい。気持ち悪かったよね」
憂『い、いいんです、そんなことぉ……んぐっ、う……』
紬「……今日はおねえちゃんと一緒に寝たら?」
憂『は、はいっ、そうします……』
また唯ちゃんに妹を泣かせたと怒られるかもしれない。
憂『それじゃあ……もう失礼します、おやすみなさい』
紬「うん、がんばって。おやすみなさい」
明日のデートコースに、さりげなくアイス屋さんかクレープ屋さんを混ぜておくことを決めて、
私は憂ちゃんとの電話を切ると、お風呂場へと向かった。
明日も唯ちゃんを起こすために、早起きしたい。
私は10時には部屋を暗くして、布団に入った。
紬「唯ちゃんか、唯ちゃんの記憶か……ね」
目を閉じる前に、ホモ田さんの話が胸をよぎった。
私が選ぶのは、もちろん唯ちゃんだ。
だけど、それは唯ちゃんを騙していることになる。
同時に、みんなを永遠に傷つけることにもなる。
もしうまくいって、唯ちゃんと付き合えても、
私は他の、澪ちゃんたちからの信用をなくして、放課後ティータイムに綻びをつくることになるかもしれない。
紬「……」
唯ちゃんと付き合えたら、そのことを内緒にし続けるのだろうか。
そんなことは不可能だし、何より不安で仕方ない。
憂ちゃんが、唯ちゃんがあんなに可愛がっている妹が、唯ちゃんのことを好きだった。
他の誰かにも、その可能性を疑ったほうがいい。
たとえば、唯ちゃんがビアンなのか、真剣な目で訊ねてきたりっちゃん。
性格がらそんなこと考えもしないだろうに、ナチュラルに姉妹間の近親姦を疑った澪ちゃん。
自分からも頻繁に唯ちゃんをデートに誘っていた梓ちゃん。
誰かが唯ちゃんを好きで、唯ちゃんに告白したら、なんて断らせたらいいのか。
それから、この3人に先んじられることだって。
紬「どうしよう……」
唯ちゃんか、唯ちゃんの記憶だけなら、私は迷わず唯ちゃんを選ぶ。
だけど唯ちゃんの記憶には、私にもまつわるたくさんの絆が絡み、
また、唯ちゃんの視線を他の女の子に向けさせてもいた。
紬「……」
全てを犠牲にする覚悟さえあれば、すぐにだって行動したい。
だけど唯ちゃんにとって、それは歓迎できる事態じゃない。
あからさまに八方塞がりなこの状況に、
私はやっぱり、自分の恋は許されたものではないのだと感じさせられた。
――――
唯『ハロー、ツムギ。ハワーユー?』
唯『ごめんね。やっぱり怒ってるね。私あわてちゃって、紬ちゃんにひどいこと言ってごめん』
唯『本当にごめんなさい。紬ちゃんは本当に優しいし、大好きに思ってるよ』
唯『怒っちゃやだ。好きだよ』
唯『紬ちゃんはね、あったかいし笑顔がかわいいし、一緒にいてとっても楽しいんだ』
唯『他のみんなに悪いかもしれないけど、みんなの中で、段違いに大好きなの』
唯『わたし、紬ちゃんがいないと生きてけない。ずっとそばにいてほしい』
唯『信じるっていったばかりだけど、紬ちゃんになら裏切られたっていいよ。それでも信じるから』
唯『もしかして寝てる?』
唯『起きてて怒ってるだけなら、お返事をお願いいたします』
唯『ちょっとさっきまでのほんとになし』
唯『おはよう! 昨日の夜送ったメール、全部誤送信だから見ないで消してね!』
――――
かわいい。
朝から鼻血が出た。
もちろん全部保護をかけた。
メールを待ち受けにすることってできないのかな。
唯ちゃんの家に行くまでの電車でもずっとニヤニヤして何度も眺めてた。
こんなに好き好き言われたら勘違いしちゃうよ、唯ちゃん。
まして私は、唯ちゃんがビアンだって教えてもらってるのに。
でも、本当にそういう相手なら、いくら唯ちゃんでも面と向かって好きだって言えないよね。
もしかして私、また対象外なんだろうか。
優しくするのって唯ちゃんのタイプじゃなかったりするのかな。
だけど今さら豹変もできないし、唯ちゃんに意地悪なんてもっとできないしで、
私は今日も憂ちゃんに頼まれて唯ちゃんを起こしに行った。
紬「唯ちゃーん、おはよー」
唯「ん、んっ」
相変わらずの寝相。
ぽんぽんと肩を叩くと目を覚ましたようだった。
唯「あ、紬ちゃん……おはよ」
紬「昨日はよく眠れた?」
唯「憂のおかげでなんとか……あ、なんか憂の相談に乗ってくれたんだってね。ありがとう」
紬「いいのいいの。さあ起きて」
唯「ほいー」
昨日より少し早く家を出て、唯ちゃんとのデートに出発する。
今日は、唯ちゃんが親御さんとよく行ったというデパートと、
中学の帰りに頻繁に寄った喫茶店と公園のラインナップだ。
紬「そういえば唯ちゃん、あのメールだけど」
今日は歩きの時間が少し長い。
目的地に行くまでの道で、私はまずその話を振った。
唯「見たのっ!?」
最終更新:2011年11月17日 21:17