紬「うん、見ちゃった」
唯ちゃんは帽子を深くかぶって、ひーっと呻いた。
唯「……その、とにかく昨日はごめんね! それだけだよ!」
紬「私こそごめんね。さっそく唯ちゃんの信頼を裏切っちゃった」
唯「もうっ、せめて見なかったことにしてよぉ!」
紬「えへへ」
唯「紬ちゃんなんか嫌い」
唯ちゃんはすねて「寝てやる」と言うと、本当に数分後、寝息を立て始めてしまった。
その分、今日は唯ちゃんとあんまり話せなかったなと感じた。
唯ちゃんを送ってから寮に帰ると、りっちゃんと澪ちゃんが私を待ち構えていた。
律「ムギ、おかえり」
澪「唯はどうだった?」
紬「うーん、ご機嫌だったけど、まだ何かを思い出す気配はないわ」
私は思った通りに伝える。
これまでのところ、唯ちゃんが見聞きした何かに鋭い反応をみせたことはない。
律「そうか……それで、明日なんだけどさ」
りっちゃんも1日2日で結果が出るとは思っていないだろう。
明日の連絡に話は動いた。
律「学校には何回か行ってもらおうと思ってるんだけど、とりあえず1回目を明日にしようと思うんだ」
紬「学校ね……」
桜が丘女子高等学校。
唯ちゃんにとって、私たちにとって、何よりも強い記憶の場所だ。
澪「それで、唯の制服は寮の部屋に置きっぱなしになってるだろ?」
紬「うん、クローゼットに入れてあるはず」
私たちは、放課後ティータイムで演奏するときのために、桜が丘高校の制服をとっておいてある。
いわばおそろいの衣装としてだ。
澪「せっかく学校に行くわけだし、制服を着せていくべきだと思うから、朝ムギに届けてほしいんだ」
紬「制服かぁ……もちろんいいよ!」
唯ちゃんの制服。
毎日見ることができなくなって、もう半年近い。
明日は久しぶりに、唯ちゃんの制服を一日中堪能できるのだ。
季節柄、夏服になってしまうのが少し残念だけど。
律「ムギも明日は制服だぞ」
紬「うん……えっ?」
律「え、じゃなくて」
まともに考えれば、唯ちゃんだけに制服を着せるなんて、それはもうデートじゃなくてプレイだ。
律「唯の頭の中にあるのは、部室で私服でいる私たちじゃないだろ」
紬「確かに……そっか、じゃあ明日は制服を持っていかないとね」
なんだか明日は、私も懐かしい気持ちになれそうだ。
澪「着ていってもいいんじゃないか?」
律「それは厳しいだろ……」
澪「でも私は、制服着て行くつもりだけど」
紬「へっ? 澪ちゃんも来るって言ってたっけ?」
澪ちゃんがあまりにしれっと言ったので、私も記憶喪失になったかと思った。
澪「いや、今初めて言ったけど……授業終わったら、ギターとか簡単に教えてあげようと思って」
紬「そうなんだ。じゃありっちゃんも?」
久しぶりに部室でみんな集まってティータイムができるかも、と私は胸が高鳴るのを感じた。
律「残念ながら、私はバイト。次は都合あわせるよ」
紬「……そっか」
残念だけど仕方がない。
澪「それと、私が来ることは唯には内緒にしといて」
紬「あら、どうして?」
澪「まあ、少し考えがあってさ」
澪ちゃんは自信ありげな顔をみせた。
紬「……わかったけど……」
なにか、うまく記憶を刺激する算段でもあるのだろうか。
それなら、私は唯ちゃんにこのことを伝え、口止めしておくべきだろう。
唯ちゃんに記憶を取り戻されては、私が困る。
律「あんまり唯をびっくりさせるなよ?」
澪「驚かすつもりじゃないから。律と一緒にするな」
律「じゃあ、どういうおつもりで?」
ポッキーを食べながら、意外なことにりっちゃんが噛みついた。
澪「別に大したことじゃ……」
律「なら話してくれたっていいじゃん?」
一瞬、澪ちゃんが恐ろしい目付きでりっちゃんを睨んだ。
律「なんだよ」
紬「りっちゃん、ここは澪ちゃんに任せようよ」
なんだってりっちゃんと澪ちゃんがこんなことでケンカになりかけているのか分からないけれど、
とにかく割って入ることにした。
紬「きっと何か、りっちゃんにも教えられない理由があるんだから……ね?」
澪「……うん。律にはわかってほしい」
律「……すまん」
りっちゃんは俯くと、小さく言ってふらふらと部屋を出ていった。
紬「澪ちゃん、りっちゃんと何かあったの?」
澪「……ムギは気にしないでいい」
澪ちゃんも、後味悪そうに床の木目に視線を滑らせていた。
何か隠されている。
部屋に戻ってから、私は腕組みをした。
りっちゃんと澪ちゃんには、私に話していない秘密があるように見える。
それは何なのか。
実は付き合ってる、とかだったらいいのに。
紬「……」
私は携帯を取り、唯ちゃん宛のメールを作り、そこで迷った。
明日は学校に行くから、少し早起きをするというのはもちろん連絡事項として伝える。
ただ、澪ちゃんがサプライズでやって来るというのは言うべきか、言わないべきか。
もしかしたら澪ちゃんがやろうとすることに、二人の秘密が見え隠れするかもしれない、と思った。
そうしたら、なるべく澪ちゃんの思う通りにさせてみたほうが、考察の材料は得やすいだろう。
それに、唯ちゃんにこれを伝えてしまうのは、澪ちゃんに対する裏切りだ。
記憶についての話だとすれば、それこそ身の回り全員を裏切ることになる。
――――
紬『唯ちゃん……実は大事な話があるの』
唯『言ってみて?』
紬『明日はなんと唯ちゃんの学校に行っちゃいます! パンパカパーン』
唯『?? え?』
紬『ほら、唯ちゃんゆかりの地めぐり』
唯『あ、そういうことね……っていうか大事な話って切り出してそれ?』
紬『学校に行くってことは、憂ちゃんと一緒に家を出なきゃならないってことよ』
紬『そのためには早起きをしないといけないから、大事な話よ』
唯『いや、ついに告白かと思ったから』
紬『私に告白されたら唯ちゃんどうする?』
唯『そういうずるい質問する人の告白はお断りだなあー』
紬『冗談だってば。そうそう、明日は唯ちゃんの制服持ってそっちに行くからね』
唯『あ、制服そっちにあるんだっけ』
紬『明日はこれ着て学校行くのよ?』
唯『なんですと……っていうか私の部屋入れたの?』
紬『寮監さんも唯ちゃんと私たちのこと知ってるからね。というより、たまに掃除してるし、合鍵持ってる……』
唯『乙女の部屋を漁っちゃいやーん!』
紬『わたしは唯ちゃんの恥ずかしい秘密をたくさん知ってるのよ!』
唯『例えばどんな?』
紬『そういえば唯ちゃん、まだ寮に来たことないから自分の部屋がどんななのか知らないのよねぇ……』
唯『え、なんか怖い』
紬『まあ言いにくいんだけど……ううん、唯ちゃんにあんな趣味があっても、私は変な目で見たりしないからね』
唯『紬ちゃんの目がいま嘘ついてる目してるの、わかるよ』
紬『うん、まあ、唯ちゃんの部屋はかなり普通だと思うわ』
唯『だよね』
紬『壁じゅうに貼られた1000枚の憂ちゃんの写真以外は』
唯『紬ちゃん、いくらなんでも怒るよ』
紬『おふざけが過ぎました』
唯『そっちに行くことがあったら、紬ちゃんの部屋調べさせてもらうから』
紬『それまでに片付けちゃうもん』
唯『へぇ、やましいものがあるんだぁ』
紬『……ありません』
唯『いいよいいよ、紬ちゃんもお年頃だもんね!』
紬『違います、おばさんです』
唯『欲求不満の紬おばさん』
紬『あ、それいい、もっと言って』
唯『おやすみなさい』
紬『ああん、唯ちゃんのいけずぅ~』
唯『おやすみなさい、おやすみなさい』
紬『おやすみ。夢の中で会おうね』
――――
私と唯ちゃんは、学校から少し離れた喫茶店に来ていた。
桜が丘から電車に乗ってふた駅の、人気の少ない喫茶店だ。
唯「ミルクティー2つー、あとティラミスとミルクレープを」
唯ちゃんは「いつもの」とは言わずにちゃんと注文する。
顔を覚えられている気はするから、言ってみてもわかりそうなものだけれど。
言ってみるの、夢なんだけどな。
紬「私のケーキはいいのに」
店員さんが去ってから、私は言った。
唯「まあまあ気にせず」
紬「太っちゃうし……」
唯「ムギちゃんはそんなの気にしなくていいの」
紬「……まあ、そうだけど」
唯ちゃんの言葉は、ちょっと意地悪だった。
紬「……今週はなんだったっけ?」
私は早いうちに切り出しておいた。
唯「まー、ホテルウィズりっちゃんをお忘れですこと? あの一大イベントを!」
紬「静かに。覚えてるけど……言い出し方っていうのがあるから」
唯「うんうん、そうだよね」
紅茶とケーキが運ばれてくる。
冷凍庫から出されて間もないティラミスは凍って固かった。
唯「とりあえず、結果の報告だけどね」
紬「失敗したでしょ?」
唯「うぐ……何故わかる」
紬「唯ちゃんの様子みたら分かるよ……大失敗だよね」
唯「……さすがはムギちゃんでごぜえます。やらかしました」
紬「詳しく聞かせて?」
私は瞳を輝かせた。
唯「ラブホに連れ込むところまでは、」
紬「ホテルって言って」
唯ちゃんはついうっかり、とクリームのついた舌を出した。
唯「……ホテルに連れ込むところまでは、全然余裕だったんだよね。りっちゃんもノリノリだった」
紬「うんうん」
唯「シャワー浴びさせるまではうまくいったんだけど、上がってきたらすごい警戒してた」
唯「バスローブとかあるよーってあれだけ言ったのに、制服で出てきたし」
紬「まあ、女同士で仮にもとはいえ、そういう場所だものね……」
唯「とりあえずスタンスは崩さないで、はしゃぎながらちゃちゃっとシャワー浴びて出てくるでしょ」
唯「で、ベッドに入って、せっかくだから一緒に寝ようって」
紬「作戦通り、いったわけね」
うん、と唯ちゃんは頷く。
唯「りっちゃんはいや、いい、って」
唯「まあ、おカラダで誘おうものなら余計に……っていうか大自爆だしね、そこは泣き落としで」
紬「入ってくれたの?」
唯「ほんとに寝るだけだからなー、って」
紬「フラグだね」
唯「フラグだよね」
声をひそめて笑いあうと、ティラミスにフォークが通るようになっていた。
紬「それで、次は?」
唯「すり寄って、ニオイ嗅いだよ。あ、わざとらしくじゃなくね」
紬「で、抱きしめて「いい匂い~」って?」
唯「うん、よくわかるね……」
唯ちゃんがどうするかぐらい分かるよ。
紬「唯ちゃんの誘いかたってワンパターンすぎるのよ」
唯「げっ……でも子供のときからこれでなんとかなってきたし」
紬「たまには、押しを覚えたらどうかな?」
唯「だめだめ、私がっつきすぎてるもん。引かれちゃうよ」
紬「引かない。みんな唯ちゃんとならそうなったっていいって言うと思うよ」
唯「もー、ムギちゃんが私びいきなのは分かってるけど、その辺は真面目に考えてよ」
紬「……ごめんなさい」
唯「ううん、いいのいいの! でぇー、どこまで話したっけ」
紬「抱きついたとこまでだね」
唯「そうそう、そこそこ。あー、ここからがまずかったと思うんだ」
唯「今になって思えば、ただヤケになってただけだと思うけど、りっちゃんもなんかね」
唯「私たち、女同士だぞ……いいのか? とか言われてね」
紬「りっちゃん不安定ね。……それ、私も騙されちゃうかも」
ティラミスを食べると、生虫のように苦かった。
唯「でしょ。キャラ守るなら、「いいって、何が?」といくべきところだったんだけどさ」
唯「騙されたねぇ……りっちゃんなら良いよとか言って、キスしちゃった」
紬「……」
墨汁をたらしたように濁ったミルクティーで口をふさいだ。
切れ味の悪い包丁で潰して切ったような断面をつくり、
目の前の唯ちゃん以外の世界が削られていく。
世界の外は、ただ真っ黒だ。
唯「舌を入れようとしたところで、急に突き飛ばされてさ、バカじゃないのかって怒鳴られて逃げられたよ」
唯「駅で追いついたけど、1本あとの電車に乗れって言われたし。完全に焦っちゃった……」
唯「……あれ、ムギちゃん? どこいったの?」
最終更新:2011年11月17日 21:18