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紬「……」
律「……おはよう、ムギ」
私は、その額を中指で弾き飛ばしたいのをぐっと堪えた。
紬「……いい夢をみてたところなの。邪魔をしないで」
律「あんなに呻いて、いい夢なわけがあるか」
りっちゃんはベッドの隅に腰かける。
律「廊下まで聞こえてたぞ。……こないだの、あの声とはちがってたし」
紬「放っておいて。私にとってはいい夢だったの」
律「……なんでムギって、一人で無理しようとするんだよ」
薄い布団の上から、りっちゃんは私の膝を包んだ。
紬「一人じゃない……一人なんかじゃない」
律「ああ、私たちがいるよ……でも、どう見たってお前、一人で抱え込みすぎだよ」
紬「……りっちゃんこそ、同じじゃない」
律「私は……いいんだよ、一人で抱える悩みなんだから」
紬「じゃあ私のも同じよ。触らないで」
律「ムギ……」
紬「出ていって。授業もアルバイトもあるんでしょう」
律「授業中に寝るからいいさ。今日はここにいたい」
紬「……」
律「……なあ、ムギ。ちょっと、すごい変なこと言うけど、笑うなよ」
律「もし、ムギが唯のこと好きだったら……唯とつきあってほしい」
律「私にはどうにもできないからさ……ムギ、たのむよ」
私はのそりと体を起こした。
目を開けると、窓からちょうど、人を呪えそうな月光がさしていてまぶしかった。
紬「……それは、りっちゃんが唯ちゃんを嫌いだから?」
律「わけは言えない」
紬「言わなくてもわかるわよ。唯ちゃんが怖いんでしょ」
律「……ムギ、何言ってんだ?」
紬「高校2年生の9月16日、土曜日、唯ちゃんに襲われたでしょ。だから嫌ってるのよね?」
律「……ん、え、お前なんちゅう話してんだ」
紬「なに笑ってるのよ……」
律「お前の言う襲うって、そういう意味だよな……えっと、真面目に答えると、そういう事実はないぞ」
紬「……」
嘘を言っている様子ではなかった。
りっちゃんの嘘は、もっと大袈裟だ。
律「……あー、そのくらいだと唯にラブホテルに行かされた日か? まさかほんとにやったと思ってたのかよ」
紬「けど……キスくらいはしたでしょ?」
律「なあムギ、お前リアルの友達で百合妄想するのはやめてくれよ……」
唯ちゃんは確かに、あの後も何度か繰り返して、
りっちゃんとキスをし、大人のキスの手前で逃げられたと言っていた。
あれほど心が抉られた話を、間違って覚えているはずがない。
まさか、唯ちゃんは。
紬「……あの見栄っ張り……!」
律「ど、どうした震えて。寒いか?」
もし唯ちゃんが記憶を戻したら、この件で頬をひっ叩かなければならない。
今のところは怒りをぶつける相手がいないのが心苦しい。
紬「……ありがとうりっちゃん、ずっと胸につかえていたものが取れたわ」
律「お、おう。どういたしまして」
さて、私は急いで枕に顔を伏せ、寝たふりをした。
律「……あれっ。私ムギにあの事件の日付なんか教えたか?」
紬「くー、くー」
律「……まぁ、色々あるってわけか。文字通り、な」
紬「……」
律「唯の件、頼むぞ」
りっちゃんは私の髪に触れると、立ち上がった。
その後もりっちゃんは暗い部屋の中で、勝手に冷蔵庫のジュースをあけたりして悠々と過ごしていた。
長年の胸の痛みはおりた。
だけど、それだけでは何の解決にもならない。
唯ちゃんの件を頼まれても、それは最終的に唯ちゃんが決めること。
そして、みんなが望むのは、唯ちゃんが記憶を取り戻すこと。
記憶を取り戻した唯ちゃんが決めるのは私じゃない。
もし、今、私が唯ちゃんに選ばれても、記憶が戻ったらきっと違う。
私が唯ちゃんを手に入れるなら、唯ちゃんの記憶を封じるしかない。
これは、何度も考えていること。
だけど、こんなことをしたら唯ちゃんの思い出が悲しむだろうと、つまらない想像をしてしまう。
朝になって、私は制服を2つカバンに詰め、電車に乗った。
唯ちゃんのことは、大好きだ。
あの笑顔が見れるなら、友達でも、見ている側でもいいと思った。
そのうちに独占欲がわいて、私の唯ちゃんへの気持ちは恋へと汚れていった。
唯ちゃんからみて私が恋愛対象でないことを知っても、気持ちはおさまらなかった。
私が好きなのは、なにも私を愛してくれる唯ちゃんだけではない。
あの喫茶店で、唯ちゃんの恋愛相談をうけていても、唯ちゃんと内緒で二人きりなことが嬉しかった。
だけど、私だけを愛してくれる唯ちゃんが、いちばん好き。
唯ちゃんを私のものにしたい、というのも紛れもない気持ちだ。
私はどうしたらいいのだろう。
いっそ、憂ちゃんがしたように唯ちゃんの信頼をずたずたに引き裂けば、諦めもつくだろうか。
……などと、そんな考えが胸に寄り付くようになっていた。
インターフォンを鳴らすと、唯ちゃんが迎えにきた。
唯「どう、早起きしたよ!」
紬「えらいえらい」
自慢げに胸をはる唯ちゃんの頭を撫でて、あがらせてもらう。
唯「紬ちゃんは制服じゃないの?」
紬「ううん、持ってきてるよ。さすがに電車に乗るのは恥ずかしいから……」
唯「紬ちゃん、電車通学だったじゃん……」
紬「それでも無理なものは無理なのっ。私、さきに着替えてるから、ゆっくりご飯食べててね」
唯「覗いていい?」
紬「1回20万円よ」
唯「むむっ……た、高いや。とりあえずギターを売ってお小遣い前借りして……」
紬「唯ちゃん、そこに手を出したら人間終わりだと思うわ」
唯「てへへー」
てへへーじゃない。
久しぶりの制服を着ると、タイを結ぶのに少し手間取った。
あとで唯ちゃんがやるのを手伝おうと思いながら、2階に戻る。
唯「おー、紬ちゃんかわいいー!」
紬「え、そう……」
まったく予想もしてみなかったけれど、考えてみれば唯ちゃんはこういうキャラである。
唯ちゃんを1日観察した人は、だいたい唯ちゃんをこう見る。
「かわいい女の子に抱きついてばかりいる女の子」と。
今まで私が対象じゃなかっただけで、唯ちゃんは抱きつきキャラなのだ。
紬「かしらっ!?」
唯ちゃんが胸に飛び込んで、私の胴体をがっちり腕でホールドした。
唯「これをっ、これを忘れてたなんて、罪深いよぉ私っ!」
紬「ゆ、唯ちゃん! 急にどうしたの!?」
とにもかくにも、早く離れてもらわないと大変なことになる。
ここには憂ちゃんもいるのだ。
とかいう問題じゃない。
まだシャワーを浴びてないのか、首から汗の匂いが香る。
あぶない、鼻血が出る、というかもう出てるような気がする。
憂「お姉ちゃん、紬さん困ってるよ」
もっと強くたしなめてよ憂ちゃん。
お姉ちゃんのこと好きなんじゃないの。
嫉妬にかられたりしないの。
唯「困ってないよ、ねぇ紬ちゃん?」
紬「こ、こぉ……」
その笑顔で見つめられたら、離してなんて言えない。
紬「こまっちゃう……わ」
言えた。
唯「もう、紬ちゃんのほうがいけずだよ」
紬「ふふ、ごめんなさい」
唯ちゃんが離れてすぐ鼻の下を触ってみても、指に赤い血はつかなかった。
紬「……ふぅ」
まさか唯ちゃんに突然抱きつかれる日がくるとは思わなかった。
梓ちゃんは毎日これをされていたと思うとうらやましい。
紬「唯ちゃんの制服はお部屋に置いてくるわね」
唯「うん、じゃあシャワー浴びたら着替えるね」
紬「わかった。……覗かないからね」
唯「へ? うん、そりゃあアレ、信じてるというか」
紬「……」
ボケ殺しの唯ちゃんの制服を部屋に置いて、私はギターをソフトケースに包むことにした。
どうやら時々触っているらしく、ところどころ、普通触れないようなところにも指紋がついていた。
紬「……ちゅ」
その指紋にくちびるを触れてみる。
憂ちゃんのくちびるより硬かった。
しっかりジッパーを締め、リュックのように背負ってみた。
キーボードほどじゃないけれど、なかなか重たい。
唯ちゃんに持たせることはまだできないだろうと判断した。
また2階に降りると、唯ちゃんはシャワー中らしく不在だった。
憂「あっ、紬さん」
ふと、台所から憂ちゃんが声をかけてきた。
憂「ごめんなさい、今お弁当づくりで手が離せないんで、お姉ちゃんの着替え持っていってあげてください!」
紬「えっ……」
憂「下着だけでいいので!」
この子、お姉ちゃんのこと好きじゃなかったっけ。
きっと憂ちゃんは私のことを試しているんだ。
私が唯ちゃんを奪い合うライバルとしてふさわしい女かどうか。
ギターを置いて階段を上がり、そう思うことにする。
クローゼットを開け、ちょっと身構えてから引き出しを開ける。
唯ちゃんの下着が、幾重にも重なる遠波のように並んでいた。
大丈夫。
これはただの布きれ。
唯ちゃんが何度も穿いてなんかいない。
大事な大事な部分に一日中密着してなんかいない。
可愛くないしおいしくないしいい匂いなんてしない。
あ、いい匂いはちょっとする。
味はわからない。
ただすごく可愛い。
大丈夫、大丈夫。
冷静になるのよ私。
これは憂ちゃんの試練。
エッチなホームビデオを見せたり髪をほどいて布団に入ってくるのと同じで、私を試している。
ここで負けたらいけない。
誘惑に負けずに、ただ可愛いのを選び取るだけ。
だいたい私はパンツよりもタイツのほうが欲しい。
もっと言えば唯ちゃんが欲しい。
こんなパンツ程度で、人生を棒に振るほどバカじゃない。
タイツだったらわからないけど、パンツは大丈夫。
いちばんいい匂いがするのを一組取って、引き出しを押し込んだ。
紬「やった……!」
私はまたしても平沢姉妹に勝利した。
その時、足音がしたかと思うと、突然部屋の扉が開いた。
唯「紬ちゃん、遅いよぉ……私もう上がっちゃったよ」
紬「……」
腰に手を当てて、恍惚から抜け出せない私を唯ちゃんは見下ろす。
そしてやっぱりというか。
唯ちゃんの巻いていたタオルが、わかっているさ、こうすればいいんだろうと言いたげに、ずるりと落ちた。
唯「あ、きゃっ……やだっ、だめだよちゅむぎちゃん!」
その反応もふくめていただいた私は、
10分ほど唯ちゃんのパンツを握りしめたまま硬直していたという。
気がつくと、唯ちゃんが制服に着替えていた。
紬「……あっ、ただいま」
唯「おかえり、眉毛さん」
紬「……ねぇ、唯ちゃんって意外とア」
唯「黙って」
最終更新:2011年11月17日 21:21