そんなわけで、3人で学校へ向けて出発した。
憂ちゃんの頼みで、今日は車椅子なしで歩くことになった。
唯「卒業したあとなのに、勝手に入っていいの?」
憂「和ちゃんがアポイントとってくれてあるから、大丈夫だよ」
私はさすがに、お尻も見ないようにしながら、二人の後ろをずっと歩いていた。
憂「着いたら職員室に行ってだって。山中先生、1限は暇だから案内してくれるって」
唯「わかった。……聞いてた、紬ちゃん」
紬「はい」
可愛いからいいのだけど、どうして私が怒られてるんだろう。
ちょっと理不尽だと思ったので、唯ちゃんの脚からお尻にかけてをなめ回すように見つめながら登校した。
憂「それじゃあお姉ちゃん、お昼にお弁当持っていくからね」
唯「うん、授業頑張ってね憂!」
憂ちゃんと別れた唯ちゃんが、私を振り返る。
唯「……職員室わかんないから」
紬「あっ、うん! すぐ案内する!」
唯「ねぇ、今わたしのお尻見てたでしょ」
紬「唯ちゃん」
私は唯ちゃんの手をとって、じっと見つめた。
紬「信じて。唯ちゃんは私が守るから」
唯「う、うん。……ごめん、もう怒ってない」
紬「ありがとう。さてと、職員室に行かないとね」
まあお尻は見てたんだけど。
唯ちゃんの手を引いて、職員室へと先導する。
紬「失礼します、山中先生は……」
さわ子「あら琴吹さん、久しぶり」
さわ子先生はずっと待っていたのか、私が呼ぶ前にこちらに歩いてきた。
紬「お久しぶりです。お元気でしたか」
さわ子「まあまあね。それで、唯ちゃん……」
唯「この人が山中先生?」
紬「そうよ。……先生、聞いてると思いますけど」
さわ子「わかってるわ。……唯ちゃん」
さわ子先生は、そっと唯ちゃんを抱きしめた。
さわ子「一度はとても悲しかったけど……よかったわ」
紬「さわ子先生……」
さわ子「また唯ちゃんの制服姿が見れて幸せだわ!」
紬「さわ子先生……」
唯ちゃんからさわ子先生を引き剥がして、立ちふさがる。
さわ子「冗談よ、もう。はいこれ、入校許可証」
さわ子先生はストラップのついた2枚のカードを私たちに手渡した。
さわ子「これさえあれば、いくら校内を練り歩いても怪しまれないわ」
さわ子「首からさげるのが規則だけど、今日は事情が事情だもの。ポッケにでもしまってていいわ」
唯「ありがとうございます、先生!」
さわ子「はぁ……入学当初のような素直な唯ちゃん……どこで道を間違えたのかしら」
紬「ところで、なんだか案内してくれるとかいう話を聞きましたけど」
さわ子「あぁー……和ちゃんの手前かっこつけたけど、別にいらないわよね?」
紬「卒業して3ヶ月しか経っていませんしね」
さわ子「音楽室と準備室の鍵なら貸しておくから、好きに見回りなさい」
さわ子先生が使っている鍵を受け取り、私は唯ちゃんの手を取る。
紬「……ということだから、行こっか唯ちゃん」
まずは教室を見ることにした。
授業はもう始まっていたので、先生の声がするのみだ。
唯「こんな感じで授業受けてたのかあ……」
廊下から中を眺めていると、唯ちゃんがしみじみ言った。
紬「唯ちゃんは、割りと寝てたけどね」
唯「あの子みたいに?」
紬「もっと無防備だった。腕枕で寝顔隠したりしないし」
唯「ねぇ、私ほんとに大学受かってるよね……記憶喪失だからって騙してないよね」
紬「大丈夫。学生証みせたでしょ?」
唯「はっ、そうか……よかったよかった」
唯ちゃんは安心すると、別の教室を見ようと言った。
唯「……あ、なんかすごく、わかるなあって気がする」
あちこち見回しながら、唯ちゃんは自分の感覚をそう表現した。
唯「こうやってガラスばりで、廊下や窓の外なんか誰もいないのに、ぼーっと見てた気がするよ」
唯「トイレがあっちとあっちにあって、階段がここにあるのとかを見ると、こうだったなあって思うんだ」
さすがは唯ちゃんの人生でもっとも濃い場所だ。
唯ちゃんも自分の記憶の断片を、ひしひしと感じるらしい。
唯「音楽室は……この上だね?」
紬「正解。どうしてわかるの?」
私はいよいよ唯ちゃんの記憶が戻ってしまう気がして恐ろしかった。
唯「それはね……1階も2階ももう全部見たからだよ」
まだ大丈夫そうだ。
私は唯ちゃんとともに階段を上がり、音楽室の鍵を開けた。
唯「おぉ、広い……」
紬「吹奏楽部がけっこう大きいからかな。授業のときも、みんなが手を広げて歌えるぐらいスペースがあるし」
唯「みて、でっかいピアノ!」
紬「グランドピアノだね。めっきり弾かなくなっちゃったなあ……」
唯「紬ちゃんって、むかしピアノのコンクールで賞とったことあるんだよね? ね、弾いてみせて!」
紬「えっ?」
唯「いいから、いいから!」
唯ちゃんに押されて、背負ったギターを置かされ、ピアノの前に座らされる。
気にはなったけれど、ひとまず唯ちゃんのリクエストをきくことにした。
紬「えーっと、これは昔の作曲家さんが、記憶喪失になってしまった好きな人のために書いた曲だそうよ」
唯「へぇー、なんていう曲?」
紬「……ん、蜂蜜色の午後、だったかしら」
唯「ほほう。じゃあ、ここで聴いてるね」
唯ちゃんは私の隣に座ると、にこにこして私を見つめた。
紬「そ、そんなに近くで見られたら緊張しちゃうわ」
唯「いいじゃん、特等席で聴かせてよ!」
特等席はこっちのせりふよ。
だなんて言えずに、私は顔が赤くなるのをこらえようとしながら、鍵盤を開いた。
紬「じゃあ、聴いててね」
唯「うんっ」
指を軽くストレッチしてから、そっと息を吸う。
昔の私が、唯ちゃんを想って書いたメロディ。
軽音部で使うことはなかったけど、また唯ちゃんに聴かせられる。
この旋律に、愛してるの気持ちは入れていない。
だけど、じっと見つめあってお互いの名前を呼ぶような気恥ずかしさがある。
私はそんな曲を、いっしょうけんめい、いっしょうけんめい弾いた。
唯「……ほー」
残響が消えると、唯ちゃんはおそるおそる手を叩いた。
唯「すごくよかったよ、紬ちゃん……」
紬「ありがとう。……ふふ、なんだか照れちゃう」
唯「えへへ……ねぇ紬ちゃん、もう一曲」
紬「……ごめん唯ちゃん、その前にひとついい?」
これ以上、先延ばしにはできない。
私は唯ちゃんの言葉を遮って、目をじっと見た。
唯「うん、いいよ?」
紬「さっき、私がコンクールで賞をとった、って言ったよね」
唯「言ったよ。だって、とったんだよね? 小学生のとき」
紬「うん、そうなんだけど……そうじゃなくてね」
唯ちゃんはまだ気付いていないらしく、首をかしげた。
紬「私、コンクールで賞をとったこと、記憶喪失になってから唯ちゃんに言ってないはずなの」
唯ちゃんは目をまんまるにして驚いた。
唯「……じゃあ、私、思い出したの?」
紬「そうよ! 他の誰かに聞いてないよね?」
唯「うん、たぶん……わぁ、私、思い出したんだ!」
唯ちゃんが飛びついてきて、私は床に押し倒された。
頬になにか熱いものが触れる。
唯「やったー! 思い出したよ、紬ちゃんありがとう! んふっ、んむーっ」
紬「ひゃっ! ちょ、ちょっとっ……」
わたし、今、唯ちゃんに襲われてる。
みんなが勉強してる最中の学校で、唯ちゃんにキスの嵐をもらってる。
紬「っ……」
琴吹軍、理性隊、壊滅!
紬将軍、もはや欲望隊を投入するほかありません!
どうかご決断を!
唯「紬ちゃーんっ、ほんとうにありがとう!」
紬「……う、うん」
唯「私、みんな思い出したよ! えっと、えーっとぉ」
私の興奮は急速に落ち着いていった。
結局ほっぺたどまりだったし。
紬「思い出したのは、あれだけ?」
唯「……みたいです」
唯ちゃんはがっくりうなだれて、私の上から降りてしまった。
唯「ごめんね、紬ちゃん……キスとかしちゃって」
紬「そんなに落ち込まないで。ひとつ思い出せたのは確かじゃない」
唯ちゃんがコンクールの話を持ち出したときの喜びが、また胸の敏感なところを通りすぎた。
紬「わたし……唯ちゃんが思い出してくれて、すごく嬉しかった」
唯「えへへ、わたしも……」
紬「……あと、キスもすごく嬉しかった」
唯ちゃんは肩をすくめて、ぷいっとそっぽを向いた。
紬「もっとしていいよ?」
唯「調子に乗らないで、紬ちゃん」
しばらくしてから起き上がり、準備室の鍵を開けた。
唯「ここがー……いつも言ってた、部室?」
紬「そうよ。軽音部が活動してた場所」
唯「なんかほこりっぽいね……」
紬「窓開けよっか」
窓をみんな開けると、熱を冷ますような風が吹き抜けた。
唯「よいせっと。ここで何時間も過ごすのー?」
唯ちゃんはさりげなくいつもの席に座ってみせると、机に顎を乗せてため息をついた。
紬「いつもそうしてたからねー。たまに、楽器とか弾きながら」
唯「だらだらかー」
私はギターをようやくきちんと置けてから、りっちゃんの定位置に座ってみた。
紬「ふふ、だらだらだよー」
唯「だらーん……」
紬「……」
私の隣に唯ちゃんがいる。
車の音がいちばんよく聞こえるくらい静かな校舎の、静かな一室で二人きり。
唯「紬ちゃん」
紬「なあに、唯ちゃん」
唯「暇だよう」
紬「ふふ、そうだね」
唯「……むふふ」
唯ちゃんといると癒される。
前は二人でいたら、いつも恋の話をしなければならなかった。
笑った時間なんてほんのちょっぴりだったし、
傷つくことのほうが多かったけれど、それでも幸せだった。
その頃からしたら、今この空間は、小さな天国に思えた。
紬「……唯ちゃあん」
唯「……」
紬「ゆーいーちゃあん」
唯「……」
紬「どうしたの?」
唯「いいから、もっと呼んで」
紬「応えてくれなきゃやだよ……」
唯「……つむぎちゃーん」
紬「えへっ、ゆーいちゃん」
唯「つむぎちゃんっ」
紬「ゆいちゃんっ」
私は椅子を動かして、唯ちゃんにぴったりくっついた。
このくらい、いいだろう。
唯「つむぎちゃん、いい匂いする……」
紬「……恥ずかしいよ」
唯「抱きついていいかな……?」
紬「……うん、おいで」
唯「ふふっ」
紬「……」
唯「……」
紬「……すぴ」
唯「んぐぅ」
数時間後、憂ちゃんと梓ちゃんが起こしに来た。
梓「別に起こしに来たわけではないんですが……」
紬「おはよー、梓ちゃん」
憂「お姉ちゃん、一緒にご飯食べよ!」
唯「わーい、おべんとだー」
梓「それより、窓が開けっ放しで……ちょっと閉めてもいいですか」
唯「うん、いいよー」
梓「けっこう部屋冷えてますよ。風邪引いてませんか」
梓ちゃんは窓をみんな閉めてしまいながら言った。
紬「大丈夫。唯ちゃんとくっついてたから」
唯「紬ちゃんとくっついてたから大丈夫だよ!」
梓「そうですか……」
憂「お姉ちゃんあったかいですからね」
梓「憂もそうですけど、よく唯先輩に抱きつかれたまま寝れましたね。私だったら無理です」
憂「梓ちゃんは、猛烈に愛でられてるからね」
梓「私にももっと優しくしてくださいよ、先輩」
唯「できたらね!」
私はちょっと優越感を感じた。
憂ちゃんに渡されたお弁当箱を開けると、きらめきさえ見えるおかずが現れた。
唯「では!」
みんな「いただきます!」
昼休みも限られていたので、私たちはご飯を食べ始めた。
梓「そういえば、今朝は何か思い出したりしました?」
紬「あっ、唯ちゃん。言ってあげて」
唯「ちょっとだけだけどね、思い出したんだ」
憂「本当に!?」
梓「どんなことですか!?」
唯「紬ちゃんはね、小学校の時ピアノのコンクールで賞をもらってたんだよ。そのこと」
梓「だけ、ですか……?」
唯「だけです!」
二人とも、そんなに露骨にがっかりした顔をしないで。
梓「ま、まあ……ひとつ思い出しただけでも大きな一歩ですよ!」
憂「そうだよ! お姉ちゃんスゴイ!」
唯「えへへー、どうもどうも……」
てれくさそうに唯ちゃんは頭を掻いた。
それからは受験勉強の相談や、憂ちゃんののろけ話をして、昼休みは終わってしまった。
梓「それじゃあまた、放課後きますね」
憂「お姉ちゃん、今晩食べたいもの、メールしといてね!」
唯「おっけー、またねぇ!」
紬「憂ちゃんお弁当ありがとう!」
少しして授業が始まったのか、学校がまた静まり返った。
最終更新:2011年11月17日 21:23