私も澪ちゃんとぎくしゃくしているままでいたくない。
唯ちゃんを脅かしたことは許さないけれど、
せっかく唯ちゃんが放課後ティータイムの絆をとりもってくれたのだ。
そして、はっきりしておかなければいけない。
澪ちゃんは、裏切ってしまってもいいような人間なのか、
それとも本当に単なる勘違いだったのか。
澪「じゃあ、また……唯もまたな」
唯「うん。またね」
唯ちゃんは笑顔で手を振った。
紬「……唯ちゃん、澪ちゃんに何されたの?」
唯「紬ちゃん、そんなの聞いちゃだめだよ」
あはは、と唯ちゃんは笑ってみせる。
唯「あ、平気だよ? 澪ちゃんだって女の子だしさ」
紬「……」
いったい何をされたのだろう。
私だって実際は憂ちゃんだったとはいえ、ひどいことをした。
あれも唯ちゃんは、私が女の子だからと許してくれるだろうか。
紬「あ、えっと、憂ちゃんにメールしたらどう? 今晩のご飯……」
唯「う、うん。そうしよっかな」
憂ちゃんに頼るなんて情けない。
私が唯ちゃんを慰めてあげなきゃいけないのに。
唯「うーん、晩ご飯か……どうしよっかな」
私は落ち着かずに辺りを見回した。
冷静になってみて、とんでもないことに気がついた。
唯ちゃんが澪ちゃんと付き合っていた可能性はゼロに等しい。
けれど、澪ちゃんが唯ちゃんを好きの確率は100%だ。
紬「……どうしよう」
唯「え、紬ちゃんがそんな真剣に悩んでくれなくても」
今回澪ちゃんは間違えたけれど、
これからどんどん唯ちゃんにアタックを仕掛けてくる可能性は高い。
唯ちゃんの反応からして澪ちゃんが好きというわけではないだろうけれど、
今後、そういうことが続けば、唯ちゃんは澪ちゃんにとられてしまうかもしれない。
以前の私だったらそれを諦めて、受け入れていた。
だけど今は、唯ちゃんを手に入れたい思いでいっぱいだ。
他の誰にも渡さない。
憂ちゃんや澪ちゃんといったライバルがいるけれど、
私にはホモ田さんやりっちゃんという、なぜか背中を押してくれる人がいる。
唯「紬ちゃん……?」
紬「あっ、ごめん、何?」
唯「いや、ぼうっとしてるから。暑いし、おそうめんにしてもらったよ」
紬「そうなの。私もたまには食べたいなぁ……食堂のメニューにはないのよね」
唯「じゃあ、食べにくる?」
紬「……ありがたいけどダメだわ。今日は帰らなきゃ」
今日は澪ちゃんとの話をつけなければいけない。
唯「あっ、じゃあ朝に残してもらおうか?」
紬「いちおう麺類だし、ゆでたてじゃないと……土曜日なら行っちゃおうかな」
唯「じゃあ私が早起きしてゆでちゃうよ!」
紬「あ、ありがたいけど……」
朝はちょっと寒いかもしれない。
わがままばかり言うのもなんなので、濁しておく。
唯「紬ちゃんのためなら早起きぐらいへのかっぱですよ」
紬「うーん、えっと……」
そんなにそうめんがゆでたいのだろうか。
私のためだと思うとすごく嬉しいけれど、私には唯ちゃんの記憶を取り戻す義務が。
……あるのだろうか。
紬「……唯ちゃん」
唯「なーに?」
紬「朝はまだ寒いし、お腹冷えちゃうから、お昼にそうめんだと嬉しいな」
唯「おおっ、なるほど! でも、お昼だと一回家に帰らないとだよね? いいの?」
紬「……ばれなきゃいいのよ、ばれなきゃ」
私は唯ちゃんの耳に唇を近付けて、ささやいた。
しばらく後に、梓ちゃんが部室にやって来た。
ギターの練習が始まると、見ていることしかできなかったけど、
真剣に指を動かす唯ちゃんはかっこよくって、ほれぼれする。
唯ちゃんがちゃんと好きだって言えば、落ちない女の子なんていないだろうに。
唯ちゃんはずっと、回りくどく迫っていって、相手の告白を待つスタンスだった。
私がアドバイスしても、無理だというばかりで変えなかったやり方だ。
だから、私から言わないと何も始まらない。
唯「えーと、これがC……」
梓「で、こうやって……あ、中指そこじゃなくですね」
唯「こう……あぐ、指つらっ……」
梓「い、いったんやめます?」
唯「うん、ちょっとタイム。うはー、こんなのしながら歌えるかな」
紬「きっとすぐできるよ。唯ちゃん、上達は早かったもの」
唯「またみんなで歌えるといいね」
唯ちゃんは左手をワキワキ動かしながら言った。
梓「はいっ」
紬「私たち待ってるから、ゆっくり頑張ろうね」
唯「じゃあ今日はもう練習終了ってことで!」
紬「こんなこと言ってるけど」
梓「……まあ、久しぶりですし、主要なコードも教えましたし」
梓ちゃんがすっごく甘い。
梓「教本とか唯先輩の家にあるはずですから、時間あるときに練習してコードくらいはマスターしてください」
唯「おっけ! さああずにゃん、おいで!」
梓「へ? はい」
梓ちゃんは無警戒に唯ちゃんに近寄り、がぶりと抱きつかれてふらふらになっていた。
――――
唯ちゃんをお家に送ってから、寮への帰りがけ、私は銀行に寄った。
ひとまずは10万円あれば、問題なく足りるはず。
使いきれないおこづかいを貯めていた口座からいっぺんに引き出して、
大切にお財布にしまって寮に戻る。
楽な格好に着替えてから、澪ちゃんの部屋のドアを軽くノックした。
澪『ムギか?』
紬「うん、私」
澪『入っていいよ、開いてるから』
緊張しながらドアを開けて、澪ちゃんの部屋にあがると、
澪「ムギ、今日は本当にごめん!」
開幕土下座をもらって、私は早速何も言えなくなってしまった。
澪「私、焦っちゃって……」
紬「え、えっと澪ちゃん、とにかく顔を上げて?」
澪「いやだ! 全部話し終わってムギが許すまではこうしてる」
紬「え、えぇー……」
土下座させているのをずっと見るのは辛いので、私も土下座して対等になることにした。
澪「私が唯と付き合ってたのは本当なんだ」
澪ちゃんはまずそう切り出した。
澪「ただ、私と唯が付き合いだした次の日に……唯が、高熱を出したんだ」
澪「唯はそのまま記憶喪失になって……だから、その唯の恋愛事情を知ってる人だって、私たちのことは知らないはずだよ」
紬「……そこのところはどうでもいいの」
確かにそれなら、二人が付き合っていた可能性も無しではない。
でも唯ちゃんは記憶を失ったのだから、過去の交際なんて今さら意味がない。
紬「唯ちゃんに何をしたのか……何をするつもりだったのか、教えて」
澪「思い出してほしかっただけなんだよ」
澪ちゃんは繰り返し言った。
澪「けど、唯……私が誰なのか、しばらく分からなかったみたいで」
紬「それで苛立ってあんなふうに迫ったの?」
澪「違う……怖くなって、思い出させなきゃって、焦っちゃって」
澪「私たち、何度もライブのビデオを見せただろ。あれと同じで、教え込んだら思い出してくれるような気がしてた」
澪「……どうかしてた。あんなに唯を怯えさせて、ほんとに恋人失格だよ」
紬「唯ちゃんに、何かした?」
澪ちゃんはびくっと肩を震わせた。
澪「……キス……したんだ」
紬「……そう」
それだけなら、私にはもう何も言えない。
あとを許すのは、唯ちゃんだけだ。
澪「あ、あんなふうにするつもりじゃなくて……」
私はすっと座り直して、澪ちゃんの肩を撫でた。
紬「もういいわ、澪ちゃん」
澪「きいてくれっ、ムギ!」
紬「もう怒ってないの。顔を上げてくれる約束よね?」
澪「……え?」
澪ちゃんはきょとんとして顔を上げた。
澪「ま、待て待て、私むりやり唯にキスしたんだぞ?」
紬「それで怒るのは唯ちゃんでしょ?」
澪「……はぁ」
澪ちゃんは大きめのわだかまりを吐いた。
澪「やっぱり、私の早とちりだったのか……」
紬「どういうこと?」
澪「えっと、実は」
申し訳なさそうに澪ちゃんは目を伏せる。
澪「ムギは、唯のことが好きなんだろうと思ってたんだ。でなきゃ休学なんてできないだろうから」
紬「……憂ちゃんにも同じことを言われたわ」
澪「そうだよな……でも、ムギはちゃんと友達の立場で唯を応援してたんだな。……なんか私、すごい情けない」
勘違いしているようだし、ここは静かにしとおいたほうがいい。
澪「この場に唯がいないから言うけど、内緒にするように言ったのも、それを疑ってたからなんだ」
澪「私が何をするか分からないだろうし、ムギが唯を好きなら、事前に「私に気を付けろ」とか言うかもって」
紬「そんなこと言わないわよ。約束だもの」
澪「うん……実際、唯は何も聞いてないみたいだったし」
澪「けど、それならそれで、安心してムギに任せられるよ。とられる心配がないからさ」
紬「まだ、唯ちゃんにアタック仕掛けるの?」
澪「うんまあ、当然。「襲ってきたしましまパンツの人」のままでいたくもないしさ」
紬「それはそうね……がんばって、澪ちゃん」
澪「ありがとう、ムギ。……そろそろお腹すいたし、ご飯にする?」
まるで澪ちゃんの言葉を待ちかねていたかのように、りっちゃんのノックの音がした。
律『おぅーい、澪。ご飯食べにいこうぜー』
澪「ああ、今いく! ……ムギも行こう」
紬「ごめん澪ちゃん、私すこしだけパソコン借りてもいいかな?」
澪「かまわないけど、ご飯のあとでもいいんじゃないか?」
紬「すぐ済むから!」
律『みーおー? ムギもいるのか?』
澪「……わかった、先行ってる。鍵ここに置いとくから」
紬「ありがとう、澪ちゃん」
澪ちゃんたちが食堂に向かうなり、私はパソコンを起動した。
目的はちょっとしたものだ。
インターネットに繋げ、検索エンジンで「栃木県 ゆの宿あかり」と検索する。
唯ちゃんたち家族が子供のころ行った温泉宿だ。
ホームページがヒットして、開いてすぐページの一番下まで行く。
紬「あったあった……」
お問い合わせ、ご予約はこちら、と書かれている温泉宿の電話番号を携帯電話にメモする。
ついでにアクセスと案内地図も目を通しておいた。
すぐにページを閉じ、検索と閲覧の履歴を削除する。
次に「花園会館」で検索して、ホームページを開いた。
修学旅行でみんなで宿泊したホテルだ。これなら、きっとすぐに履歴を見られても怪しまれない。
そのままインターネットブラウザごと閉じ、電源を落とすと、部屋に鍵をかけて食堂に走った。
紬「ごめんね、お待たせ」
律「おームギ。ムギのぶんも頼んどいたぜ」
紬「ありがとう、何頼んでくれたの?」
律「夏だからってそうめん始めたっていうから、3人前頼んだんだ」
紬「そ、そうめん……」
夏に始まるのは冷やし中華だけだと思っていた。
それよりも、そうめんを食べたなんて唯ちゃんにばれたら機嫌を悪くされそうだ。
あ、でも今晩は今ごろ唯ちゃんたちもそうめんを食べているころだろう。
唯ちゃんのこと思い出して、一緒に食べたくなっちゃったのー。
無理か。
ばれないようにしないと。
律「それより、梓から聞いたぞ。やったな、ムギ!」
紬「えっ、なにが?」
まだ唯ちゃんとは付き合っていない。
律「なにがって……唯、記憶を取り戻したんだろ? ああ、ちょっとだけど」
澪「あ、コンクールのやつか……」
澪ちゃんがすごい顔をしたので、りっちゃんは慌てて訂正した。
紬「そのことね。とりあえず一歩前進だよね」
律「しかしまあ、最初に思い出したのがムギのこととは、なんか妬けちゃうなあ」
澪「いちおう、唯が最初に思い出したのってリコピンだけどな」
律「……」
紬「……」
澪「フフッ。……笑わすな」
律「お、そうめんきたぞー」
澪「やめろ、私おかしい奴みたいじゃないか」
紬「わたしそうめん食べるの久しぶりー」
澪「いや、だからリコピン……だめっプフフッ……」
――――
食事とお風呂のあと、部屋に戻って鍵をかけると、私はすぐに温泉宿に電話をかけた。
空室状況を尋ねたところ、今晩と明日、明後日は十分な空室があるという。
私はその中でいちばん高い部屋を明日と明後日のぶん予約しておいた。
あとは、唯ちゃんを連れていくだけだ。
卒業旅行で使ったスーツケースにある程度の着替えを詰めてから、
預かっている鍵を使い、唯ちゃんの部屋に入らせてもらった。
もう何ヵ月も唯ちゃんは出入りしてないのにいい匂いがするのは、私の気のせいだろうか。
私は中から鍵をかけてから、唯ちゃんの着替えを用意する。
誰の目もなかったので、さすがに嗅いでしまった。
いい匂いだと思っていたのは防虫剤の匂いだった。
2日ぶんの着替えを用意して、廊下に人がいないのを窺ってからすばやく部屋に戻った。
部屋に唯ちゃんの服を置いて、誰かにばったり会っても平気なようにしてから、唯ちゃんの部屋の戸締まりをした。
スーツケースに唯ちゃんの着替えを入れても、まだまだ余りがあった。
歯ブラシからドライヤーまで、トラベルセットも入れてみる。
唯ちゃんが使うぶんも一緒に詰めていけそうだ。
お菓子は旅先で買えばいいし、今日できる準備は整ったはずだ。
紬「……うんっ」
あとは明日の早朝、見つからないように急いで出掛けること。
6時ぐらいなら、1限がある子でも出歩いていることはないだろう。
早起きは大変だけれど、毎朝唯ちゃんを迎えに行っているおかげで慣れつつある。
もちろん、夜更かしはできないけれど。
誰にも見つからずに寮を出るために、今晩はもう眠っておくことにした。
唯ちゃんがメールをくれたら悪いので、先におやすみを言っておこうと、私は携帯を開く。
その矢先、携帯が1通のメールを受信した。
差出人の名前を見た瞬間、うれしくなる。
最終更新:2011年11月17日 21:26