唯「そういえば、今日行くところって温泉以外にもなにかあるの?」
紬「調べてないからわからないけど……きっとなにかあるよ」
唯「えっ、これって行き当たりばったりなの?」
紬「宿の予約はしたけど……ほら、リラックスしてほしかったから、予定入れないでのんびりしようと」
だいぶ嘘をついた。
リラックスはしてほしいけど、予定を入れなかった理由はそれじゃない。
唯ちゃんと二人きりでお風呂に入れるということしか頭になくて、本当に気が回らなかっただけなのだ。
時間がなかったのも原因ではあるけれど。
唯「うーん……まあ代わりに紬ちゃんにはとことん楽しませてもらうからいいや」
紬「う、うん! まかせて、今夜は眠らせないわ!」
唯「おお、古いセリフ」
外からの風が冷たくなってきて、唯ちゃんは窓を閉めた。
唯「でも紬ちゃん、すごいよね」
紬「え、何が?」
温泉旅行に招待したことなら、気負わないでほしかった。
唯「だってさー……うお、貸し切りだ」
唯ちゃんは立ち上がって車両内をキョロキョロ見回すと、安心した顔でまた席についた。
唯「忘れてない? 私、レズビアンなんだよ? 二人きりで温泉なんて危ないと思わないの?」
紬「あら。唯ちゃんはそんなことしないわ」
私はするけど。
唯「じゃあ仮に、私が男で二人きりで温泉宿に泊まろう、なんて言われたらついてきた?」
紬「唯ちゃんなら信じるわ」
唯ちゃんは大袈裟にため息をついた。
唯「だめだね、危機意識が足りないよ」
危機もなにも、唯ちゃんに押し倒されるなら土下座してでもお願いしたい。
さすがにそんなことは口が裂けても言えないが。
唯「紬ちゃん可愛いんだから、気を付けないといけないよ」
紬「唯ちゃんのほうが可愛いわ」
唯「うん、じーっと見つめるのはやめてね。……とにかく紬ちゃんは、私に対してもっと警戒しなきゃ」
唯「私とこんなふうに、友達でいたいんでしょ?」
違う。
私は友達どまりではいたくない。
もっと特別な関係になりたくて、私はこの立場を、唯ちゃんの記憶を利用するのだ。
紬「……別に、私は唯ちゃんになら何されたってかまわないわよ?」
聴覚が唯ちゃんに集中し、電車の足音が遠く小さくなった。
私たちの呼吸だけが、車両の中で音を立てていた。
唯「それは、私が女の子だからかな? 間違いがあっても、ノーカンにするっていうこと?」
紬「そんなじゃない」
喉が渇き、目の前が重いもので殴られたみたいに揺らぐ。
紬「そうじゃないの……」
私も同じことをしたいって思ってるから、襲われたってかまわない、怒らない。
唯ちゃんが大好きだから、同じことを考えてたんだって、それだけで嬉しくなれる。
だけどこんな言葉、友達にどうやって言い出したらいいというんだろう。
友達としての好きなら簡単に言える。
片想いじゃないってわかるから。
唯「……それじゃあ、どうして?」
唯ちゃんが、誘う。
だけど、こんな場合もある。
唯ちゃんは私をうたがっている。
それゆえに私の気持ちをはっきりさせて、好きだというなら早いうちに断りたいだけだと。
紬「っ……そ、れは」
唯ちゃんがそんな意地悪なことをする可能性は高くない。
きっと勘づいたら、自分からちゃんと断ると思う。
だけど、私だって実際に唯ちゃんがどうするか、知っているわけじゃないのだ。
唯「うん、それは?」
唯ちゃんは私の肩に頭を乗せ、膝の上の手に両手を重ねてきた。
体がかあーっと熱くなる。
欲求が激しく回り、よじれ、すさまじい熱を帯びたのがわかった。
唯「……教えて、紬ちゃん?」
唯ちゃんが、甘えた瞳で私を見ていた。
紬「唯ちゃん……」
私は、風で紙がめくれるように、くるり、ぱさり、と軽く、唯ちゃんに覆い被さった。
紬「はあっ……」
熱い雫が頬を流れていく。
唯ちゃんは身を引くことなく、かつてなく近くて水浸しの、私の瞳を見つめている。
唯「いったんキスする?」
私の涙を親指で拭うと、唯ちゃんはそう提案した。
唯「私はキスぐらい良いし、紬ちゃんも私ならいいんだよね」
唯「キスしたら、ひとまず紬ちゃんも落ち着けると思うんだ」
優しく唯ちゃんは微笑む。
紬「だけど……」
唯ちゃんの顔を両手で挟みこんで固定しながら、私はためらった。
唯「友達を安心させてあげるだけだよ。お互い恋人がいるわけでもないし、いいじゃん」
唯「公共の場だってことを除けば、悪いことなんてひとつもないよ。それとも、えっちしないと落ち着かない?」
私はその、ちょっと調子に乗っている口をふさいだ。
もちろん、私の口で。
唯「……」
唯「……ん」
あたたかい。
くちびるだけなのに、唯ちゃんと全身密着している感じがした。
紬「……」
電車が揺れても離れないくらいには、深く合わせた友達同士のくちびる。
不思議なことに、鼻呼吸は徐々に落ち着いてきた。
ずっとキスしたかった唯ちゃんのくちびるなのに。
舌を入れてみたらもっと燃え上がるだろうか。
だけど友達としてのキスで、欲望に任せるわけにはいかない。
私はそっとくちびるを離した。
少し濡れた唯ちゃんのくちびるが、もうちょっとだけとせがむようだった。
紬「……ありがとう」
唯「落ち着いた?」
私はそのままあとずさり、唯ちゃんの向かいに座った。
紬「うん。……さっきの質問、答えるのは後にしていいかしら。……ここじゃいやなの」
唯「いいよ。ふふ、紬ちゃん……舌入れてもよかったんだよー?」
紬「そういうわけにはいかないわ」
私は小さく笑った。
唯「えへへ、ジョークジョーク。レズビアンジョークですよぉ」
紬「唯ちゃん……そのノリ、あのおかまの人に似てるわよ」
唯「げっ、確かに! うーん、感染したか……あるいは感染してたのかも」
私を救ってくれたところも、あの人によく似ていた。
背中を押してくれた、あのだみ声が、胸の中から聞こえた。
お菓子を食べおわったころ、電車が目的の駅に到着した。
唯「ついたー!」
紬「まだよ」
そこからバスに乗り10分ほど行って、ようやく温泉地にたどり着く。
唯「やっとかー」
紬「あと20分くらい歩くのよ」
唯「……はい」
温泉郷を歩いていくと、土産物屋さんや小さなテーマパークなど、興味のわくところがたくさんあった。
平日でもたくさんの人でにぎわっていて、これなら明日の昼も退屈しないで済みそうだ。
唯「紬ちゃん、紬ちゃん」
紬「うん?」
唯「手つなご。はぐれちゃいそう」
紬「あっ、うん。気付かなくてごめんね」
危ないところだった。
温泉地に女の子二人なんて、ナンパの格好の標的だ。
特に唯ちゃんは可愛いし、私のように護身術もないだろうし、無理矢理連れ去られていてもおかしくなかった。
急いで唯ちゃんの手を握り、恋人繋ぎに絡める。
紬「このほうが、声かけにくいと思うから」
唯「……紬さん、策士ですな」
私たちはくっついて歩きながら、宿に向かう前にお店を見ていくことにした。
唯「なんだろあれ、温泉まんじゅうって?」
唯ちゃんが興味を示したので、お店に寄ってみることにした。
紬「こんにちはー」
「いらっしゃい。どうぞ見ていってね」
人の良さそうなおばちゃんが相手をしてくれた。
唯「この温泉まんじゅうってなんですかー?」
「これかい? こんなのどこにでもある……ゲフン、これは温泉の湯気で蒸してあるのさ。うちの特産品だよ」
唯「へぇー、温泉の湯気で」
「よかったら、出来たて食べてみるかい? ほかほかでおいしいよ~」
唯「いいんですか?」
「もちろん、ちょっと待っててね」
おばちゃんは奥にさがると、2つに切った温泉まんじゅうを持ってきてくれた。
ほかほかと湯気があがっていておいしそうだ。
「はい、どうぞ」
紬「わざわざすいません、ありがとうございます」
「まあ商売だからね」
紬「……い、いただきます」
トレーごとおまんじゅうを受け取ったはいいものの、唯ちゃんが繋いだ手を離してくれない。
唯ちゃんはそのまま左手でおまんじゅうの片割れを手にすると、
唯「紬ちゃん、あーん」
と公衆の面前で堂々とイチャイチャに及んだ。
紬「あ……あーむっ」
おばちゃんの視線を気にしないようにしておまんじゅうを食べると、
温かくてふわふわな生地の触感と、舌触りのいいあんこの甘みが口に広がった。
紬「おいしい!」
唯「私も、いただきまーす」
唯ちゃんの口におまんじゅうが入ると、すぐさまその口が喜悦にほころんだ。
「ふふっ、お嬢ちゃんたち仲いいんだね」
おばちゃんも少し嬉しそうだった。
「付き合ってるのかい?」
紬「……えーっと」
私は少し面食らいつつ答える。
紬「まだ、そういう関係ではないです」
「じゃあ、これから宿に泊まって、温泉おしくらまんじゅうするんだね?」
紬「このまま何も買わずに通りすぎてもいいんですよ」
「何も言わないから何か買っていきなさい」
紬「……じゃあこの、温泉まんじゅう12個入りを」
「はいよっ! 880円ね!」
なんだか口止め料を払っている気分だけど、唯ちゃんがご機嫌なのでよしとする。
スーツケースがあるので唯ちゃんにおまんじゅうを持ってもらい、店をあとにした。
唯「みてー、すごーい。川から湯気が出てるよ」
紬「桜が丘じゃ絶対に見られない景色ね」
地獄みたい、という比喩が浮かんだけれど言わないでおく。
唯「……なんかこの景色、見たことあるような」
唯ちゃんが立ち止まり、ぽつりと言った。
紬「唯ちゃん?」
唯「ねぇ紬ちゃん、私ってここに来たことある?」
並外れた光景は、唯ちゃんの記憶に強く刻み込まれていたらしい。
唯ちゃんが僅かながら、記憶を取り戻した。
紬「うん、ある……」
ごまかしの言葉も思い付かないので、正直に答える。
だけど、なぜだか後ろめたい。
紬「いつごろ、どうして訪ねたか、言ったほうがいい?」
唯「……きっと、紬ちゃんとは来てないよね」
私は黙って頷く。
唯「じゃあ、聞きたくないや」
紬「……そろそろ宿に行く?」
唯「うん。もう4時過ぎだしね」
あと1時間もすれば、心配した憂ちゃんから連絡が来るだろう。
どちらに電話が来るかはわからないが、唯ちゃんを連れ去った意味については隠し通さないといけない。
しばらく歩き、宿に到着して部屋に通されるともう5時近かった。
唯ちゃんと恋人繋ぎだからといってランランしすぎた。
唯ちゃんも疲れ果てたのか、畳にだらりと伸びている。
ひとまず、テーブルにおまんじゅうを置いておき、飲み物を口にする。
電話口で聞いただけだったけれど、さすがに高い部屋だけあって広々として充実している。
なにしろ、大浴場よりはもちろん小さくなるけれど、お部屋に温泉の露天風呂までついているのだ。
最初は泊まれればどの部屋でもよかったけれど、それを聞いて考えは変わった。
せっかく温泉に来たのだから、唯ちゃんと二人きりでお風呂に入りたい。
合宿でも夏フェスでもできなかった夢がここに実現するのだ。
唯ちゃんと同じように畳に寝転んで、手を繋いだ。
唯「えへへっ」
紬「えへへー」
川の流れる音がするだけの、静かでとても居心地のいい部屋。
唯ちゃんと二人きりで手を繋いで笑いあう。
来てよかった、と思う。
……不意に、唯ちゃんの携帯電話が鳴る。
唯「憂からだ」
唯ちゃんは私をちらりと見ると起き上がり、電話をとった。
唯「もしもし? うん。えーと、栃木県」
電話の向こうから「栃木ぃ!?」と叫ぶ声が聞こえた。
唯「うん、栃木。……いや、迷子じゃなくて。紬ちゃんに連れてきてもらったの」
唯「こらこら、物騒なこと言わない」
何を言ったんだろう。
唯「……ううん、かわれない。憂はまず私の話を聞いて」
唯「……うん、うん。わかってる。安心して、2日後には帰るから」
唯「大丈夫。電話くれてありがとね、憂」
唯「……えへへ。それと、後で私のベッドを見てね。それは私が置いたやつだから」
唯「うんっ、じゃあね。お土産買って帰るよ。ばいばーい」
結局わたしに代わることなく、電話は切られた。
最終更新:2011年11月17日 21:30