最後の練習も充実した内容で送ることができた。
音楽に身を預けている間は自然と心地が良くなる、刺される恐怖も吐き気も忘れられる。
若干ドラムのパワーが足りないような気もしたが、本番ではサーチライトが気分ごと上げてくれるだろう。
明日は私達のメロディーの波に新入生が上手く乗ってきてくれるだろうか。
律「あんまりやると疲れるし、そろそろいいか」
紬「そうね。ここの所練習しすぎだもの」
唯「なんか頑張りすぎて軽音部じゃないみたい」
澪「これが普通だと思うぞ」
唯の言う通り私達の軽音部らしくはないけれど、それをネタにできるうちは心配なんていらないと思う。
いくつもの山脈を越えて残りの一山にまでこぎ着けると、やはり体が悲鳴を上げてきた。
最後の詰めが甘くなってしまうのはこの段階で安易に満足するからだ。
けれど私は一貫して貫き通してみせる、気力だけが前のめりに腰を曲げていた。
澪「とっとと、――止まれよ、――おぅうえぇ」
吐き気止めを併用しても気分が優れない、最悪のコンディションだった。
一方的に虫唾が走っては、異物を追い出そうと臓器が暴れ狂う。
しかし飲んでいない時間が長いほど後の効果が持続するのだから、やり過ごすしかなかった。
なんとも嫌な知識を体で覚えてしまったものだ。
非常に卑怯な手段だけれど予約遅刻を行使する。
体調不良を訴えた後に頑張って行きますと一方的に告げるのだ。
やはりライブは万全の状態で望みたい、見苦しい策だった。
時刻は正午過ぎ、這い出るように家から抜け出ると何故か律がいた。
塀に体を預けたまま空を仰いでいは、音にして聞こえそうな溜息を溢している。
春なのにセンチメンタルな光景だと、不覚にも吹き出しそうになる。
そして私が玄関から顔を出したことに全く気が付いていない。
澪「律?」
律「おわぁ、なんだ澪かよ。びっくりさせんな」
澪「ここは私ん家の前だ。それより何でいるんだ、もうお昼過ぎだぞ」
律「お前がわざと遅刻するってメールしてきて。調子悪いのかと思ってさ」
澪「それで学校から戻ってきたのか。でもほら、ちゃんと行くつもりでした」
律「取り越し苦労で悪かったな」
律の分かりやすいほど紅い膨れっ面に最後の元気を貰ったような気がする。
舞台は既にセッティングがされていたが開場までは多少の余裕があるそうだ。
搬入は午前中のうちにムギ、と少しだけ唯が済ませておいてくれたらしい。
二人に感謝しつつ、恩を恩で返せるように気持ちを高めようとしたのだが。
どうしてか謂れのない違和感が胸の奥でもやもやと増殖するのを感じていた。
いつもなら顔を標的にされている感覚を抱くはずなのに、何かが変だった。
若干だけれど本物の痛みが伴っているようでもある。
澪「ちょっとお手洗い行ってくる」
律「んー。出すだけ出してこいよ」
澪「言い方を改めろ」
もっとツッコミを入れるべきだけれど体が拒んでいた。
トイレの個室に入って、とりあえず便座に腰掛けた。
痛さとまでは言い切れないけれど胸がジクジクと喚いているようだった。
心臓の動きが鋭敏に伝わってくるような、確かな鼓動をやたら強調させているような不快感だった。
私は当然のようにポーチを取り出す。
随分と減ってしまった薬を見ればもう十錠ほどしか残っていない。
処方は一日に三錠までと決められていたが、これでは次の受診までに在庫が切れてしまうだろう。
しかし今日はまだ一錠しか飲んでいない、これから爆発的な気分を得るためだ。
講堂に入ってからだと変な目で見られてしまう、今のうちに補給しておこう。
景気づけに三錠を取って一気に飲み干した。
いくら効能の早い薬でも胃に入って数十秒では何の変化もない。
なのだけれど、ちきんと効果が出てくれるのか不安になってくる。
もう二錠を取って流し込んだ。
今日は百人を超える人の前で演奏するのだから生半端な気持ちでは挑めない。
全て人参だと思え、なんておまじないも子供じみてる。
更に三錠を出してゴクリと飲み干した。
こんな短期間で軽音部の皆には沢山の迷惑をかけてしまった。
いつもの私に戻るだけでは不釣合いだ、高みを見せたほうが示しがつく。
最後の三錠を確認してから、決意と共に放り込んだ。
―― ツーン
便所の陰気臭さが私を中心に払拭されていくのを感じる。
サンポールの臭いをラベンダーの香りにまで昇格させて。
嗅覚に刺激されるままに五感を便乗させると世界が上書きされていった。
これで元通りだ、歩みを強く戻して講堂へ戻った。
律「随分と長かったな、もう少しで迎え行こうかと思ってたぞ。でかい方か」
澪「殴るぞ、と言いたいところだけど、そんな時間も無さそうだな」
紬「それじゃ裏手にいきましょうか」
唯「ドキがムネムネするよ~」
袖にまでくると一つ前の演劇部が喜劇を演じ始めるところだった。
舞台上ではしなやかに振舞いつつも一度袖に戻れば目まぐるしい作業に追われていく。
形は随分と違うけれども、次は私達があそこに立って魅せる番なのだ。
ちっぽけなステージが輝いて、武道館と重ねて見ている自分がいた。
程なくして幕が降りると入れ違うようにその場所を踏んだ。
律「ボーカルは唯でいいんだな」
紬「どうせなら澪ちゃんも少しくらい歌ったら」
澪「いや、いいよ。ほら私ベーシストだし」
律「なんだその理由は」
唯「そろそろ始まるって~」
さわ子「制服も意外とイイ!」
律のパワフルなドラムが地面を空気を伝って後ろから背中を押してくれる。
唯のがむしゃらなギターがメロディーラインを引っ張って軽快に跳ねる。
ムギの奏でるエレクトーンが舞台を覆ってまろやかに調律する。
そして私は裏から支えるように時には主張するように重低音を響かせる。
私達は彗星のように儚くとも確かに輝いていた。
まんまるライトに照らされて玉の汗がキラキラと舞っていた。
暗がりでよく見えない客席だけれど黄色い視線を常に浴びているみたいだ。
畏怖の感情なんて一切沸かない、むしろ気持ちいい位に興奮させていた。
去年の学園祭なんて比じゃあない最高のライブだ。
―― ワー キャー カッコイー
予定が詰まっているのか、新入生からのラブコールおw名残を惜しみつつ私達は袖へと捌けていった。
それでも上昇感覚は高度を保ちつつ、熱量までも保存したがっていた。
律「いやぁ最高だったわ。つうかよくあそこでフォローできたな」
唯「いきなり歌詞飛んじゃって自分でもビックリしたぁ」
澪「なんとなくそんな予感がしたんだよ」
紬「ハートコンタクトというものかしら」
和「――盛り上がるのもいいけど、他の部の邪魔にはならないでよね」
四人で反省会に花を咲かせていると和に怒られてしまった。
次の部による発表が始まればいよいよ三人はテンションを落としていく。
そんな中で私だけが変わらずに浮かれながら口数を増やしていた。
私だけが帰って来れなかった。
最初の違和感は視界のズレだった。
目の前にいるはずの律の顔がスライドされたような斜めの二重線を作ってしまう。
気持ちが前に出過ぎただけか、目にゴミでも入ったのか、パチリ瞬きをして調子を戻そうとする。
再度開かれた視界に唯を見る、顔を右に振ると長い横線がゆっくりと跡をなぞり顔のラインが徐々に形成されていった。
深夜の国道でシャッターを押し続けたような光のレールだった。
疲労のせいか、否、影響は既に他部位にまで転移していた。
きちんと発音しようにも呂律が回らない、顔面の筋肉も表情を遅らせてしまう。
肌が肉が骨が、全てが意識から遠ざかって行く。
心と体が離れていって幽体離脱じみた怪奇を演出していた。
うまくバランスが取れない、真っ直ぐ立ち続けることすらままならなくなってきた。
律「おい澪、またフラフラしてない、『か』」
その時、律のドラムスティックが短い軌道を描きながら私を捉えた。
ゆっくりと追尾線が消えていって、重なるように点を作っていって。
その一次元から放たれた色彩の閃光が、私を貫いた。
澪「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
痛い、痛い、痛い、痛い。
黄色い光は私の目を、両目を串刺しにすると吊るし上げにかかる。
拷問だなどと揶揄できないほどの激痛が濁点混じりの悲鳴をどこまでも連れてくる。
強烈な熱さを教える二点だけが私の精神と肉体を繋ぎ止めていた。
激しいざわつきと誰かの叫び声さえも気にかけられない。
地面に陥落しても尚に激しく動く心臓は、波を広げると体中を痙攣させにかかる。
完全に意識を塞ぎこむ間際、彼女が私を呼んでいるような気がして、安心して飛んだ。
およそ真っ白な壁に囲まれた空間に私はいた。
目覚めの喜びを感じる間もなく、よろしくない気分が先をついて出た。
だるくて重い、落ちるところまで落ちてしまいたいのに柔らかいベッドが邪魔をしていた。
重力以上の圧迫感を伴いながらも肺は一定のリズムを保って酸素を補給している、生きているのだ。
看「秋山さん、おはようございます。今先生呼びますからね」
ここは病院か、当然の結果だろう。
おそらく少し前であろう記憶を掘り起こしてみる、私は講堂の袖で絶叫と共に地に伏した。
ライブで全ての力を使い果たしたのか、それで気が抜けてがしまったのか。
一旦思い出してしまうと、最後に聞いた彼女の泣き声をいつまでも頭の中で反芻させていた。
医「こんにちは、秋山さん。お加減の方は――」
それから簡単な身体チェックと、これまた簡単な病状の説明を受けた。
救急車で病院に搬送された私は毒抜きの治療を受けた。
それでも中毒患者にしては微量の域であったらしく、それ自体が大きな原因ではないという。
呼吸補助装置も早々に取り払われて栄養たっぷりの点滴を味わっていたのだ。
詰まるところ疲労とストレスが主な要因だという。
あの幻覚についてはまた別の先生が説明してくれるそうだ。
医師が病室から出ると外でオーケーサインを出したのか、ムギと唯が入れ替わるように現れた。
紬「おはよう。少しは元気出たかしら」
澪「うん。おかげ様で」
唯「この病院ムギちゃんちの関連会社さんなんだって」
澪「そうなんだ」
紬「治るまでゆっくりしていってね」
心配する二人と対峙して私はすぐにでも謝罪を示すのが常識なのだろう。
しかし、失礼なことにそういった気分が全く沸いてこなかった。
謝ったとしても更に余計な気を使わせてしまうのではないか、なんて妙な勘ぐりを起こしていた。
会話を進めてもお互い消極的になる一方だ。
澪「律。いないんだ」
紬「そうね」
唯「でも凄い心配してたよ」
澪「そうだよな」
律はここにいないのか。
何故という疑問よりも、ただ現実を確認している自分がいた。
体調は次第に良好になっていったが、副作用という残り香があった。
それでも数十分も便器に張り付けられる程の酷さは抜けていた。
少しづつ毒が抜けるように間隔も長くなっていく。
これについて医師から説明を受けた。
私が摂取していた薬は『リタリン』というもの。
聞けば向精神薬の中でも扱いが難しい第一種に指定されているものだった。
効果が強いのもさることながら副作用と依存性も極めて高いという。
私のような高校生ならば保護者がその管理をするべきであるそうだ。
最も、処方することから控えるべきだったという意見も貰った。
似たような意見を処方された医者からも聞いていただろう。
けれどその時の私は目的しか見ていなかった、右耳から左耳へ聞き流していた。
あの心療内科の医者に怒りを持つ気持ちにもなれない、誰かを憎む気持ちすら薄れてしまったのか。
薬の成分と副作用と疲労とストレスと舞台とあの幻想と。
様々な原因が入り混じって悪い方向に二乗されてしまったのだ。
恨むならば管理を怠った自分に向けよう、誰かを憎むことすら億劫だ。
澪「律。こないんだよね」
紬「今はね。でもそのうち来ると思うわ」
澪「どうだろうな」
唯「その言い方はダメダメだよ」
この日も次の日も、律は現れなかった。
気力はさておき体力はぐんぐんと快方に向かっていった。
吐き気は収まり点滴の必要もなくなり普通の内科においては退院となった。
心配されていた薬物への依存性については心配ないそうだ。
処方を始めて日の浅かったことと目先の目標としてきたライブを超えてしまったことが大きいという。
けれどまだ終わりではない、院内の精神及び心療内科が併設されているところへの通院が始まる。
大きな病院であるからそれらしい人も少しは見かけた。
私に付けられた病名は強迫性障害だった。
その中でも被害恐怖、特に先端恐怖と呼ばれるものだ。
説明を受けた後でなんとも私らしいと納得してしまった。
謂れもなく誰かが自分に危害を加えようとしている、と錯覚してしまうらしい。
私の場合は近い人間ほど強く感じ取っていたようだ。
幻想にまで発展したのはこの症状の為だった、それでもごくごく稀なケースだという。
しかし此方でも薬物治療が薦められているのは相も変わらないらしく。
いい思い出のない白い錠剤だったが、我慢して飲むことになった。
即効性はないものの長く飲み続ければ効果が持続してくれるものだ。
同時にカウンセリングに月二で通うことになった、ゆっくり治せということだ。
ムギは今まで自発的に家の権力を行使しようと考えることがなかった。
しかし今回ばかりは掟が破られている、現にこれだけの特別待遇を受けているのだ。
崩したくなかったムギの信念を曲げてしまったことも事実として圧し掛かってきた。
そしてまた、律の姿がない。
最終更新:2010年01月26日 00:44