ピンポーン

梓「……」

梓「寝てるのかな」

梓「だったら……直接起こすしかないよね」

梓「ふふっ」

年甲斐もなくイタズラ心が騒ぐ。
と言ってもこっそり上り込んで起こすだけなんだけど思わずにやついてしまった。
朝から人の家の前でにやにやしているのもあれだから早く入ろう。
それに秋の終わりだけあって寒いし。

キャリーケースを立て掛けてトートバッグからスペアキーを取り出した。
慎重に差し込み静かにドアの鍵を開ける。
たまには私がイタズラしたっていいよね。
そうだよ、昔は私が色々されてたんだし……色々……。
やっぱり普通に起こすのやめようかな。

梓「おじゃまします……」

そーっとドアを開いて玄関に侵入。
重いキャリーケースも音を立てないように玄関へ置いた。
初めてこの部屋に来てから今日で二週間ちょっとか。
私の誕生日前日に偶然再会してこのアパートに連れてこられて、
それから色々あってスペアキーを預かる事になり、気が付くと入り浸るようになっていた。

玄関の左手に台所、右手にお風呂とトイレ、奥の部屋には布団が敷かれている。
家主には気付かれなかったみたいだけど、同居人が私の侵入を察知してお出迎えしてくれた。
黒い毛並みが綺麗な子だ。

  「……なー」

梓「おはよう、あずにゃん3号」

本当の名前は少し違うけれど私はそう呼んでいる。
だって被ってるんだもんなぁ。

そんなあずにゃん3号と一緒に忍び足で奥の部屋へ。
盛り上がった羽毛布団が僅かに上下していて、顔も半分埋まっている。
相変わらず寒がり。
さてどうやって起こそうかな……そうだ。

冷えた指を擦って常温まで戻し、すやすや寝ている顔に近付けた。
閉じたまぶたに触れても反応がない。
よく寝てる。
今日以外だったらゆっくり寝かせておいてもいいんだけど。
なんて思いつつも声はかけない。
私は吹き出しそうになるのを堪えながら寝ている人のまぶたを開けてみた。

無理矢理開かれた瞳は真っ直ぐ天井を向いていて焦点が合っていない。
ここで漸くピクリと反応して唸った。

梓「ぷふ……くふふふっ」

ダメだおかしい。
何だかわからないけどおかしくて笑いが止まらない。
本当にただのいたずらっ子だ私。

  「ん……んぇ?」

私の笑い声と指の感触で目が覚めたらしい。
流石に悪い気がするのでちゃんと声をかけよう。

梓「おはようございます、唯先輩」

唯「はぁ~……あずにゃんおはよ」

大きい欠伸をしてゆっくりとこちらを向く唯先輩。
まだ眠そうだけどあんまりのんびりしてもいられない。

唯「……ねむ、さむ」

梓「一応早めに起こしましたけど今日は絶対に遅刻できませんよ」

唯「ふあぁ……」

梓「ほら、支度して下さい。その間に朝食用意しますから」

唯「んー……」

梓「シンガポールが待ってますよー」

唯「っ! そうだ、今日シンガポール行くんじゃん!」

わあ、起きた。


唯「ふーっ、寒っ」

唯先輩がタンスから服を見繕い始めたので私は台所へ移動した。
朝食の用意と言っても食パンをトーストして冷蔵庫にある出来合いの惣菜を出すだけなんだけどね。

唯「あずにゃんは朝ご飯食べたー?」

梓「家で食べてきましたー」

唯「そっかー」

梓「朝食出来ましたよー」

唯「ありがとー」

さて、先輩が朝食を食べている間に旅行の予定を確認しておこう。
本日11月25日、これから空港に向かい4泊5日シンガポールの旅へと赴く。
今日は金曜だけど唯先輩は有給パワーを発動。私は求職中だから……まあ、うん。
ホテルでチェックインするのは夕方か夜になるかな。
今日はまったり過ごすとして、明日以降は観光したり先輩が楽しみにしてるプールで遊んだり。

今回は宿泊するホテルがメインかもしれない。
去年出来たばかりで55階建ての高層ホテルが3棟連なっていて、
その3棟のホテルは屋上にある船を模した巨大空中庭園で連結している。
そこに空と繋がっているかのような野外プールがあり、先輩はそこに行きたがっている。
インフィニティプールって言うんだっけ。
私もすごく楽しみだったり。
何しろ唯先輩が『シンガポール すごいホテル』なんて単語でネット検索してすぐに見つかる程だ。

唯「はぁ~早く泳ぎたいなぁ」

梓「その割には珍しく寝坊してたじゃないですか」

高校の頃の唯先輩なら珍しくも何ともないんだけど、社会人になった唯先輩が寝坊した所を見た事がない。
と言っても先輩と再会したのは最近だし、むしろお泊りした時は私が寝坊しちゃってるんだけど……。
おまけに自炊もしてるし頼れるしで気が付いたら私の方が甘えちゃってたり。
やっぱり一人暮らしするとしっかりするものなのかな。

……対する私は都会で一人暮らししていたものの会社に嫌気がさして退職。
その後再就職せず引きこもりみたいな感じになって友達や先輩からの連絡も見て見ぬふり。
あの時は完全に迷路に迷い込んでいて自分から身動きとろうとも思えなかった。
そんな状態のまま先日地元に帰ってきて、その時偶然唯先輩と再会して、こう、ね。
しっかりしつつも変わらない唯先輩に元気を貰って、もう一度頑張るぞって思ったんだ。
おまけに唯先輩からアパートのスペアキーまで渡されちゃって。
大事な物だからそれを持って消えないでねっていう首輪みたいな感じで。

唯「あずにゃんが来てくれるって言うから目覚ましかけなかったんだ」

唯「起こしてくれるかなーって。えへ」

こういうところも変わらないなあ。

今回の旅行には目的というか名目があって、まず私を立ち直らせてくれた唯先輩へのお礼を兼ねている。
唯先輩はずっと遠慮していたけど誕生日プレゼントという事にして飛行機のチケット代とホテル代は私が払う事にした。
という事で唯先輩への誕生日プレゼントとしての旅行でもある。
値は張ったけど、一人暮らしの時は貯金が趣味みたいになってたし仕送りもあったからお金はそこそこあった。
むしろ先輩の為に使えるのならあの何も得られなかった苦行にも意味が見出せるというものだ。
この旅行ではとにかく唯先輩に楽しんでもらわなきゃ。

それからもう一つ。
旅行先で、唯先輩の誕生日までに、返事をしなければならない。
私は11月11日に唯先輩から告白された。
ずっと前から好きだったと言われて、その時私は

どちらかと言えばセーフ

という何とも曖昧な言葉を返した。
その場では焦ってうまく返せなかったし、あとで考えれば考える程障害が浮き彫りになるし。
そりゃあ唯先輩の事は好きだけど、先輩の言う『好き』と同じかどうかわからなくて。
その後現在まで保留みたいな感じになっている。
2週間以上保留にしておいてその上先輩の家に頻繁に上り込んでいるという……。
先輩がいつでもおいでって言ってくれて、合鍵までくれたから……。
それに唯先輩は私を引きこもりから救ってくれた恩人だし、その反動からかひと肌恋しかったし、大切な人だし。
と、先輩の好意に甘えつつずるずると返事を先延ばしにしてしまった。

だから今回の旅行で決着をつけなければいけない。
舞台と日付を決めたのは私だけど、こうでもしないとまた先延ばしにしてしまう。

唯「あずにゃん、準備出来たよ!」

梓「え、あ、それじゃ行きましょうか」

いつの間にか支度の完了した唯先輩が私の前に立っていた。
まずは先輩に楽しんでもらわないと。

梓「忘れ物とかありませんか?」

唯「水着も入れたし多分大丈夫。あずにゃんおいで~」

……危ない、声を出すところだった。
唯先輩は黒猫のあずにゃん3号を抱き上げてケージに入れた。
この子は旅行の間お隣さんが預かってくれるらしい。

唯「よし、それじゃ出発!」

梓「はい!」


7時間ちょっとのフライトを終えて私達が目にしたのは常夏の空。

唯「……雨降ってるね」

梓「ですね……」

唯「えーっ、泳ぎたかったのにー」

梓「天気予報では曇りだったんですけどね。シンガポールは11月から雨季ですから」

唯「蒸し暑いのに……うぷ」

唯先輩はフライト時間のほとんどを寝て過ごしたけど結局酔ってしまったみたい。

梓「秋の日本から来ると余計にそう感じますね。とりあえずホテルに行きましょうか」

唯「そだね」

梓「……バスで」

唯「……うっぷ」

シンガポールに辿り着いた私達は空港からバスに乗りホテルへ向かう。
通りに並ぶ整った建物と点在するヤシの木。
バスから覗く景観はこれぞ常夏の先進国っていう雰囲気を醸し出していて、見ているだけで気持ちが踊る。
同じく外を眺めていた唯先輩も多少元気を取り戻していた。

唯「うわーすごいねー、高層ビルがいっぱい!」

梓「綺麗な街並みですね」

唯「そうだねー。あ……お腹空いてきたな」

梓「もうすぐ夕飯の時間ですからね」

唯「あれっ今何時?」

梓「18時過ぎです」

唯「まだ明るい感じなのに。雨空だけど」

梓「こっちは1年中7時から19時くらいまでが日照時間なんですよ」

唯「へえ~」

程なくしてバスが到着し、唯先輩を介抱しながら下車する。
唯先輩が「ようやく解放されたーっ」という顔で軽く身体をひねっているとふいに動きを止めた。
それから首だけがどんどん上に傾いていく。
先輩の視線を追ってみると写真で見るより数倍迫力のある建物がそびえ立っていた。
首が痛くなりそうなほど高い。しかも3棟。
おまけに屋上には船が乗っかっている。

唯「うおお……すごーい!」

梓「おっきい……」

それにホテルの手前には入り江が広がっていて、
対岸の高層ビル群も合わせてホテルからの眺めに期待が持てる。

唯「よし、早く行こっ!」

梓「はいっ」

ホテルは外観だけでなく中身もすごかった。
吹き抜けになっていて開放感のあるエントランスや高級感溢れる内装を見るたびに感嘆が漏れる。
チェックインを済ませて私達が泊まる部屋に向かうとそこがまたすごくて、二人してすごいしか言えなくなった。
部屋は広く昨年オープンしたばかりだから内装も綺麗。
ふかふかのソファーとベッド。
大きなバスタブと鏡のあるバスルーム。
そして何と言っても入り江を眺められる一面ガラス張りの窓。
外は既に暗くなっていて、ライトアップされて色付いた夜景が広がっている。
暫く唯先輩と一緒になって窓に張り付いていた。

唯「ふぁぁ……この部屋が30階だから、屋上から見たらもっとすごいんだろうねぇ」

梓「これの倍くらいの高さですからね」

その後お腹の空いた私達はフードコートで夕食を取り、隣接するショッピングモールを見て回った。
このホテルは宿泊棟に隣接する総合ショッピングモールがあり、フードコートやショップの他にもカジノ等様々な施設がある。
とても1日じゃ周りきれそうにない。
唯先輩が次々に心を惹かれては物を買い込みそうになるので止めるのが大変だったけど、
目を輝かせている姿を見ると旅行をプレゼントしてよかったなと思えた。

部屋に戻って来て一息ついていると唯先輩が戦利品をゴソゴソし始めた。
置物に洋服にお菓子におつまみにボトル……ボトル?

唯「じゃあ飲もっか!」

梓「いつの間に買ったんですか」

唯「えっへへー。こんなに良い部屋と景色なんだよ? 飲まずにはいられないでしょー」

梓「そういうものですかね」

唯「そういうものだよ~」

私はあまり飲む方じゃないけど今日は久しぶりに飲みたい気分だ。
唯先輩の言うとおりこんな時は飲まずにはいられないのかも。

唯「何飲む?」

梓「ええと、唯先輩と同じものを」

唯「おっけー」

唯先輩のお誘いだし景気付けに丁度いい。
明日か明後日、唯先輩に返事をするんだから。
現地に来てそれを自覚するとやっぱり緊張してくる。
今日が25日だからあと2日もあるし大丈夫だよね。
いや、今日言っちゃうのもありか。
そうすれば胸のつかえが取れてもっと旅行を楽しめるかも?
そうだよ、ホテルで夜景を見ながらお酒……今しかないよ。

先輩が2つのグラスにボトルを傾けた。
ほのかなこがね色に気泡がはじける。

梓「シャンパンですか?」

唯「うん、高かったんだけど思い切って買っちゃった」

汗ばんだ手で先輩からグラスを受け取る。
先輩が乾杯の仕草を見せたので、私は力の入った指でそれに答えた。

唯「かんぱい~」

梓「か……かんぱいっ」


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最終更新:2011年11月27日 20:00