~船内・大会議室の扉の前~
紬「私がやってみる……!」グッ
そう短く言った紬は、大会議室のドアに両手を突いた。
律「やってみる、って…… ムギがこじ開けるってのか?」
紬「うん」
澪「いや、電子ロックがかかってるんだぞ!?」
紬「YES」
律「無理だよ! いくらムギが力持ちだからって!」
紬「どんとこいです!」
腰を落とし、両手を突っ張り、両足を踏ん張る。
ただ、単純に押す。それだけの動作。他に何の小細工も無い。
紬はそれに全精力を傾ける覚悟をしていた。
紬「んんんんんんんん!」ググッ
澪「お、おい、ムギ! 危ないからやめろって!」
親友の声を無視する。優しく、人を思いやる性格の紬が、初めてする行為。
だが同時に、親友の命を助ける、という行為も初めての事だった。
紬「うううううううう!!」グググッ
律「ムギ!よせ!」
ドアは何の変化も見せない。
そういえば、みんなと一緒に観た洋画では、蹴るだけで簡単に鍵の掛かったドアが破られていたなぁ。
そんなくだらない思考が脳裏に去来し、すぐに消えた。
紬は両手だけではなく、額もドアに押しつけた。
紬「りっぢゃんががんばっだんだもの……! わだじだっで……!」ググググッ
律「ム、ムギ……」
白目が充血し、ウサギのように赤く染まっていく。
ドアに強く押しつけた額からも、歯を食いしばった口の端からも、鼻孔からまでも、数条の血が
細く流れていく。
紬「ん゙ん゙ん゙ん゙ん゙ん゙ん゙ん゙!!!!」メキッ メキメキッ
澪「!?」
それは、ほんの僅かな変化。
少しの音すらも立てていなかったドアが、微かにメキメキと鈍い音を立て始めた。
続いて、ドアの端がミリ単位で歪み始める。少しずつ直線ではなくなっていく。
律「澪、私達も手伝うぞ!」
澪「あ、ああ!」
律と澪も、紬の両隣でドアを押す。精一杯の力で。
三人の声と少しずつ生じ始めたドアの歪みが、何が起きているのかを室内の和に伝えていた。
そして、何をすれば良いのかも。
和「何か棒のような物は無い!? 私達も内側から開けるのよ!」
社員「よ、よし、わかった!」
力のある男性社員が何名か、少しの隙間に手をかけたり、パイプ椅子の脚をテコに使ったりして、
内側からドアを引っ張る。
和もドアノブを強く引き続けている。
一人の女性の覚悟を引き金に、皆が一丸となっていた。
紬「あう……」ドサッ
律「ムギ!」
不意に、何の前触れも無く、紬が倒れた。だが、それと同時にバキンと金属的な音を立てて、
ドアが内側へ開かれた。
澪「開いた!」
社員「やった! 開いたぞ!」
社員「良かった! 助かったんだ!」
大会議室には二、三十人の社員がいた。ある者は歓声を上げ、ある者は涙を流し、救助の喜びに
身を浸らせている。
しかし、律と澪、和は喜びとは程遠い表情で、倒れた紬を囲んでいた。
律「ムギ! しっかりしろ! ムギ!」
和「ドアは開いたわ! あなたのおかげよ!」
紬「うぅ…… 良かった……」ニコッ
澪「ムギ……」
律は紬を抱き起こし、澪はその手を握り、和は鼻や口、額から流れる血を拭いている。
そんな彼女らの気遣いも、人質救出の成功も、今の紬の頭には入ってこない。
紬は握られた手に力を入れると、澪の瞳を見つめ返した。
紬「早く…… 和ちゃんを…… 時間が……」
澪はその言葉に力強く頷くと、律に言った。
澪「律、お前はムギを頼む。私は和ともう一度、ブリッジに行くよ」
律「ああ、まかせたぜ」
澪「和、私と一緒に来てくれないか。敵がいじってたコンピュータがあるんだけど、私達じゃ
どうにも出来ないから……」
和「……わかったわ」
立ち上がった和は、いまだ喜びに沸く社員達へ大きな声で諭した。
和「皆さんは安全が確認されるまでここにいて下さい! 今、動いたらテロリストを刺激するかもしれません!
だから、もうしばらくここで動かないでいて!」
ざわざわと言葉が交わされていたが、反対するものは誰もいない。
せっかくの助かった命だ。下手に動いて撃ち殺されるのは御免というのが、偽らざる気持ちなのだろう。
澪「さあ、行こう」
和「ええ」
律「澪! 和!」
走り出そうとする澪と和の背中に声が掛けられる。
振り向いた二人の目に映ったのは、これまでに無い弱気な表情の律だった。
律「死んじゃ、ダメだぞ……」
こんな時の律に向けて、どんな顔をすればいいか。どんな言葉をかければいいか。
幼馴染の澪も、高校時代からの親友の和も、よくわかっている。
二人は笑顔で答えた。
澪「お前を置いて死ぬもんか!」
和「私が死んだら、誰があなた達の面倒を見るのよ」クスッ
~船外・船尾の上甲板~
船尾には事故、災害時の非常脱出用として数台のモーターボートが常備されていた。
クラウス配下の二人はボートを一台、移動させ、ウィンチに取り付けている。
間も無く、お宝と共に脱出し、船は爆破。
作戦決行前に何度も見直し、練り上げた計画の最終章だ。
ルッツ「よし、ボートはこれでいい」
エルヴィン「もうすぐ隊長達が来る。そうしたら脱出だな」
やれやれ一息と懐から煙草を取り出す二人。
そこへ、陽気に口笛を吹く何者かが近づいてきた。
テオ「やあやあ、兵士諸君。任務ご苦労」
エルヴィン「あっ、ミスター・テオ。随分と早い――」
消音器付き拳銃を握る、自分らの雇い主。
それが二人の見た人生最後の映像だった。
テオ「さようなら」プシュッ プシュッ
エルヴィン「ぐはっ!」
ルッツ「うっ!」
頚部の脈拍を確めると、テオは死体を担ぎ上げる。あまり腕力が強くないのか、その動作はひどく
緩慢で不安定なものだ。
テオ「よいしょっと。まったく、肉体労働は嫌だね」
ノロノロと死体を甲板の手すりの脇まで運び、一際力を入れて死体を海へと放り捨てる。
これをもう一度繰り返し、二人の死体を処理し終えると、テオは座り込んでラップトップを開いた。
テオ「ふー、これで準備OK。……奴の方は上手くやってるかねえ」
~船内・廊下~
突然、壁に設置された内線電話が鳴り始めた。
マクレーンも、唯と梓も、顔には警戒の色が浮かぶ。交信だの放送だのに散々な目に遭わされ
続けて来たのだから、それも仕方無い。
電話に一番近い唯が、無言でマクレーンを見やる。マクレーンもまた無言で頷くのを見届け、
唯はゆっくりと受話器を取った。
唯「もしもし……? 誰?」
澪『唯! 私だよ!』
唯「澪ちゃん!? 無事だったんだね!」パアァ
澪『ああ、律もムギも脱出したし、大会議室の人質も解放出来た。今、和と一緒にブリッジにいる』
唯「あうぅ、よかったよぉ……」ヘナヘナ
澪『そっちもみんな大丈夫みたいだな。防犯カメラで見えてるよ』
澪の言葉を受けて、唯は近くの防犯カメラに向け、笑顔で手を振った。
その間に、受話器の向こうから聞こえる声が変わっていた。それも唯には聞き慣れた嬉しいものだった。
和『唯? ちょっとマクレーンさんに代わって』
唯「和ちゃん!」
和『話は後! 早く代わって!』
唯「う、うん! マクレーンさん、はい!」
マクレーン「もしもし?」
和『ミスター・マクレーン? 和です。大会議室から助け出してもらって、ブリッジのコンピュータの前に
いるんです。それで…… コンピュータを操作していて、わかった事があります。よく聞いて下さい』
マクレーン「ああ、話してくれ」
和『クラウスは現在、客室エリアの特等船室にいますが、どうやら脱出しようとしているみたいです』
マクレーン「逃がすかよ……!」
和『いいですか。そこからまっすぐ行って、突き当たりを左に曲がったところに階段があります。
それを上がったら右へ行って下さい。キッチンのある廊下への近道です』
マクレーン「階段を上がったら右、っと……」
和『奴らは船尾にあるモーターボートを使うでしょうから、今から行けば、たぶんその辺りで鉢合わせます。
でも、気をつけて下さい。おそらくボート置き場にも仲間がいます。挟み撃ちにされないように』
マクレーン「わかった。まかせとけ」
和「私はこのままブリッジのコンピュータで、パーティホールの人質を解放してみます」
マクレーン「ありがとよ、ノドカ」ガチャン
マクレーンは電話を切るとすぐにイェンの拳銃を拾い上げ、彼の死体を調べ始めた。弾倉は多い方がいい。
残弾数をチェックし、拳銃をベルトに挟むと、やっと唯達の方を向いた。
マクレーン「ユイ、アズニャン。君達はブリッジに行け。みんなと一緒にいるんだ」
唯「で、でも……」
マクレーン「助けてくれて感謝してるよ。でも、ここからは俺一人で大丈夫だ」
尚もそこから動こうとせず、視線を床に落とす唯。梓も同様に動かない。違いと言えば、マクレーンを
真っ直ぐに見つめ続けている事か。
マクレーンは苦笑いを浮かべると、二人を引き寄せ、両手で軽く抱き締めた。
マクレーン「さあ、みんなのとこへ」ナデナデ
唯「……うん」
梓「気をつけて下さいね……」
小走りで去る二人の背中を見送ると、マクレーンは通路を教えられた方向へ走り出した。
マクレーン「今行くぜ、クラウス」
~船内・ブリッジ~
和はテオの座っていたデスクで、懸命にキーボードを打ち続けていた。
ディスプレイでは目まぐるしくウィンドウが入れ替わり、文字が飛び交っている。
その後ろに立つ澪は、タイミングを計りつつ、当たり障りの無さ過ぎる言葉を掛けた
澪「どう? 何とか出来そう?」
和「……難しいわね」
画面から目を離さず、言葉少なに返答し、更にキーボードを打ち続ける。
しばらくの間、叩打音は続いていた。
しかし、それが途切れると、和は不意にデスクを強く叩きつけた。
澪はビクリと体を震わせる。
和「ダメだわ! パーティホールの電子ロックも排気システムも止められない……!」
澪「そんな……!」
和は立ち上がると、眼鏡を外し、指で目頭を強く押さえた。
やがて、眼鏡を掛け直すと、重苦しい口調で澪に言った。
和「澪、あなたは大会議室に戻っていて。私はコンピュータルームに行ってみる。あそこから直接
トライすれば、もしかしたら何とか……」
澪「一人で行くのか!? ダメだよ! 危険過ぎる!」
和「あなたが一緒に来てもどうしようもないわ。それに、私の方がずっと船内を知っているしね。
一人で大丈夫よ」
澪「でも……――」
和「澪!!」
澪「はい!」ビクッ
これまでの付き合いの中でも滅多に聞く事の無かった、和の激しい語気。
澪は思わず敬語で返事をしてしまった。
和「お願いだから、言う事を聞いて。今は出来る事を全力でするしかないのよ。私も、マクレーンさんも、
あなたも」
澪の肩にそっと手が置かれる。先程の語気とは正反対に、その手は優しかった。
澪「わ、わかった…… 無事に帰ってきてね?」
和「約束するわ」
最終更新:2011年11月30日 21:57