憂「……ぃいよ」
中野梓が首を傾げた。私は息を吸い込んで、お腹に力を入れる。
憂「……よ、余裕があった、ら……中野さんの分も……鈴木さんの分も作ってくる」
私はそれだけの台詞を言うのにひどく疲れてしまった。
それでもなんだか不思議な達成感があった。
「「本当!?」」
中野梓と
鈴木純が異口同音で聞き返してきたので、私は三回ぐらい首を縦に振った。
……二人の母親がこれを見たらどんな表情をするんだろう。
梓「でも、本当にいいの?大変じゃない?」
純「そういやお姉ちゃんの分も作ってるんだっけ?」
憂「気にしなくていい」
どうしてかは自分でも分からなかったが、喉から出た声は妙につっけんどんになっていた。
けんもほろろってこんな感じの態度のことを言うのかな。
しかし、二人はまるでそんなことを意に介した様子もなく、はしゃぎはじめた。
純「そういえば、もうすぐ中間テストじゃん。明後日から一緒に勉強しようよ」
梓「三人寄ればなんとやらだね。いいよね、憂?」
私が勝手に進んでいく流れに流されるまま頷いたのと、チャイムが鳴ったのは、ほとんど同時だった。
お昼休みが終わった。
あっという間に終わった。
♪
梓「あー疲れた」
憂「あ、梓ちゃん」
純「お疲れ。はいイチゴオーレ」
梓「ん、ありがと」
純「にしても今日も、世界史は退屈だったなあ」
憂「純ちゃん寝ちゃってたもんね」
梓「純は世界史の時はいつも寝てるよね」
純「う~、世界史ヤバいかも」
梓「前みたいに前日に泣きついてくるのはやめてよ」
憂「そういえば前回のテストでは純ちゃん、梓ちゃんのノートを写させてもらったんだよね」
純「今回も、梓の力を借りなければいけないかもしれない」
梓「自分でなんとかしなさい」
純「おおー梓に裏切られてしまったよーうーいー」
憂「よしよし」
~~~
何か非常に気味の悪い夢を見ていた気がして、私はベッドに預けていた身体を起こした。
朝六時手前。
いつも通りの時刻に無事に目を覚ますことができたらしい。
しかし今のは夢はいったいなんだろう。
あずさちゃん?
じゅんちゃん?
……ないない。そんな呼び方はナンセンスだ。
モップ女と猫娘。
鈴木純と中野梓。
鈴木さんと中野さん。
うん、やっぱりこれが一番、私にはしっくりくる。
さあ、さっさと起きてお姉ちゃんと私とプラス二人分、作ってしまおう。
♪
憂「ふぅ……」
全員の分のお弁当の準備を終えた私は一息ついた。
準備完了。
「うーいー」
人間の耳にいい音には様々なものがあるらしいけど、もちろん私の耳に一番いいのはお姉ちゃんの声だった。
着ボイスにもしてある。
憂「どうしたの、お姉ちゃん?」
いつもならまだ安眠を貪っているはずの、お姉ちゃんが目をしょぼつかせて、リビングの扉の前で突っ立ていた。
起こしてしまったのだろうか?
憂「ごめん、起こしちゃった?」
唯「ううん、お腹がすいて目が覚めたんだ」
憂「お弁当のあまりものがあるよ。食べる?」
唯「食べる食べる」
嗚呼……お姉ちゃんってやっぱ天使なのかも。
唯「憂、最近少し変わったね」
卵焼きを頬張るお姉ちゃんの膨らむほっぺは、思わず突っつきたくなる愛らしさがあった。
憂「……」
唯「憂、聞いてる?」
憂「うん、聞いてるよ」
いけないいけない。
お姉ちゃんの可愛さに思考が提出しかけていた。
神の啓示にも等しいお姉ちゃんの言葉を聞くために、私は洗いものをしていた手を止める。
憂「それで何だっけ?」
唯「聞いてないじゃん……」
今度は怒ってほっぺを膨らませる。やばい。超カワイイ。
唯「だから。憂、少し変わったなあって思って」
憂「変わった?」
思わず目を白黒させてしまった。
私が変わった?
何が? どこが?
前より前髪が伸びたとか?
きっと疑問が顔に出てしまったのだろう。
お姉ちゃんは、私のような愚妹にも分かるように語りかける。
唯「前よりもずっと明るくなった気がするし、口数も増えたよね」
そう言われたところで自分ではよく分からなかった。
唯「それに……」
憂「それに?」
唯「あずにゃんや純ちゃんのことも話すようになった」
思い返してみれば、どうだろう。
基本、私は誰と喋っている時でも聞き手に徹することがほとんどだった。
いや、最近だって私から積極的に話そうとすることなんて無かったはずだが。
唯「この前、私が聞いたこと覚えてる?」
憂「この前っていつ?」
唯「えと……一週間くらい前かな?」
……思い出した。
憂「もしかしてお姉ちゃんが、私にどうしていつもより早く起きるの、って聞いてきた時のこと?」
唯「そう、それそれ!」
そういえば、その日は初めて鈴木純と中野梓の分のミニお弁当を作っていて、今日みたいにお姉ちゃんが、いつもより早めに起きてきたのだった。
唯「あの時の憂、嬉しそうに鈴木さんの分と中野さんの分を作ってるって言ったんだよ」
確かに私にはそのように答えた記憶はあったが、しかし、嬉しそうにしていた覚えはまるでなかった。
憂「そう、なんだ」
唯「うん、そうなんだよ」
お姉ちゃんの笑顔はいつだって私に力をくれた。今日も頑張ろう。そんな気持ちにさせてくれるのだ。
でも、今日はそれだけじゃなかった。
暗闇の中に灯る明かりのように、胸に温かな何かを感じる。
曖昧として判然としないそれは、不思議と心地の好いものだった。
唯「あとね、もう一つ変わったことがあるよ」
お姉ちゃんが、私が作った卵焼きを目の前に差し出す。
こ、これは……俗に言う、あーん!
あまりに突然に刺激的なイベントが来てしまったために、メマイと動悸と吐き気が同時に襲ってきたけど、
私は思わずそれにかぶりついた。
唯「憂のご飯が前よりも、もっと、もっともっと美味しくなった」
確かに――言われてみれば口に広がった味は、前よりもすごくおいしい気がした。
♪
純「憂は今日、放課後時間ある?」
中間テストが終わって一週間が経った放課後。
憂「えっと……あんまり、遅くなるのは……ダメ。
けれど…………少し、ならいいよ?」
純「よっしゃ! 久々にハンバーガー食べに行こっ」
久々も何も、まだ一回しか行ったことないはずでは?
まあいいや。鈴木純は基本的に考えるよりも行動が先のタイプの人間だ。
と、いうのを最近私は分かりはじめてきた。
別に知ろうとして知ったわけではなく、一緒にいる時間が長いから嫌でもわかってしまうだけだ。
純「あ、ちなみに梓は今日は普通に部活だから」
憂「……鈴木さん、は、ジャズ研……いいの……?」
純「……」
鈴木純は急に神妙な顔をしたかと思うと、私の顔をたっぷり三十秒は窺った。
そしてにんまりと笑った。
純「まあ、今日は女二人で語り明かそうよ」
♪
純「今日はなんと純ちゃんが奢ってあげたりしなかったりしちゃいます」
ガラス張りの店内に入ると、鈴木純は背後の私を振り返った。
奢るのか、奢らないのかどっちだ。
私が財布を取り出すと、鈴木は私の手を慌てて取った。
純「ストーップ!だーかーら、私が奢ってあげるってば」
憂「……そう」
純「あ、ただし四百円までね」
憂「……吝嗇って……言葉、知ってる?」
純「りんしょく? 知らないけど、どういう意味?」
憂「チーズバーガーと、ジンジャーエールでいいよ」
純「スルーするな」
モップ女に対してすっかり私は物怖じしなくなってしまっていた。
話し方は相変わらずたどたどしいけど。
席に着いてからはいつも通りだった。鈴木が一方的に話して、私が相槌を打つ。
純「でね、変な夢を見たんだ」
憂「うん」
純「なんか知らないけど、朝起きたら別の世界に飛んでってるって夢」
にしても、この女は相変わらず食べるのが、速い。そして喋るのも速い。
口の動きが異常なのだ。いつか愕関節症にならないか、人事だけど心配だった。
純「それで、理由は不明なんだけど私は、自分がいる世界が鏡の世界史だって知るわけ」
憂「へえ」
純「で、全員、性格が違うんだって」
鈴木は二つ目のハンバーガーに取り掛かった。
この女は食べるのが早すぎるから、満腹中枢が満たされず、結果よく食べる。
中野よりも半人前分くらい多く食べる。そのため作る弁当の量は、鈴木の方が必然的に多くなる。
憂「鏡だからみんなの性格も反対ってこと?」
純「うん。憂はなぜか髪を後頭部に結んでてね。
なんか明るくてニコニコしててすごく社交的なタイプになってたよ」
それは、つまりリアルの私は暗くてブスッとしてて
全然社交的でないということだろうか……いや、全くもって否定できないし、自分でもそれは認めているのだけど。
自覚はしているが、人に言われるとツライものがある。
純「でもさ、改めて考えてみると変な話だよね」
憂「何が変なの?」
純「だって性格は鏡に映らないしさ」
――性格に形もくそもないでしょ?
真っ直ぐに見つめてくる、鈴木の瞳に理由も分からず、私は心のどこかがざわつくのを感じた。
♪
それから鈴木は本当に珍しいことに、その壊れた機関銃のように動かし続けていた口を休めて、窓の外を見た。
鏡の世界。
あるいは、平行世界。
仮に、私のいる世界以外の世界があったとして、その世界の私はどんな人間なのだろう。
鈴木の言った、全く別の私が、そこには存在しているのだろうか。
或いは、人間としてはまるで変わらず、環境だけが全く違う世界があるのかもしれない。
もしかしたら、名前すらも全然違う、
平沢憂がいるのかもしれない。
純「名前……」
不意に鈴木は小さな呟きを漏らした。
純「さっきの鏡の世界の話だけど……今、思い出したんだけどね」
なぜかは理由は分からなかったけど、私は口をつけかけたストローから唇を離した。
そして、わけも分からず姿勢を正す。
純「……どうしたの?」
憂「……別に」
純「まあいいや。で、さっきの話。鏡の世界ではさ、名前まで逆さまになってたんだ」
憂「……」
純「夢の中の私、自分の名前書くだけなのに悪戦苦闘してね。
わりと私、自分の名前好きなんだけど、その時だけはもっとシンプルな名前がいいな、って思った」
本当にどうしようもないくらい、どうでもいい話だった。
けれども。
憂「わ、私は……」
自分から喋るのは苦手だ。
まして、自分の考えや意見を言うなんてしたくない。
でも、なぜだかわからなかったけどこの瞬間だけは私の口ははっきりと自分の考えを話していた。
まるでため込んでいた鬱憤を吐き出す火山のように。
私はもう一度口を開いた。
憂「私は自分の名前が嫌い」
今度は完璧に、淀みなくその言葉を言えた。
鈴木の話を聞いているうちに肺腑に、得体の知れない鬱憤にも似た何かが蓄積していくのを、私は感じていた。
それをどうしても、誰にでもいいからぶちまけたかった。
どうして私は憂って名前なんだろう。
ずっとずっと昔から思ってた。
『名は体を表す』なんて言うけど、これほど心理だなって思う言葉は他に思いつかない。
憂。
憂い。
まさにこの名前は私そのものだった。
純「そっか」
憂「……」
純「憂はさ、黒猫を見たらどう思う?」
憂「……」
驚くべきさりげなさで、鈴木は話題を変えた。
純「あ、今急に話題変えるなって顔した」
憂「……」
当たり前だ。
人が珍しく本音を真剣に語っているのに、どうしてそうもあっさり話を変える。
純「まあまあ落ち着いて落ち着いて。クールダウンだって」
私は私の苛立ちを表明するように音を立ててジュースを飲む。
もっとも私を諌めるモップ女の言動から推測するに、私の苛立ちは表情に出てしまっているのだろうけど。
……炭酸が効いた、ジンジャーエールはやっぱりすっぱかった。
最終更新:2012年01月20日 00:56