アットウィキロゴ
憂「……」

しのつく雨が窓に当たっては砕ける音を聞きながら、私は部屋干ししていた洗濯物を畳んでいた。
太陽の下で干した洗濯物とちがって、それはどこか湿り気を帯びていて作業をする手は普段よりも緩慢になってしまう。

憂「……っと、そろそろ朝ごはん作らなきゃ」

視界にわずかにかかった前髪を払いつつ、私はソファに落ち着けていた腰をあげた。

そういえばずっと髪を切っていない気がする。
最後に切ったのはいつだっただろうか。
さすがにそろそろ前髪ぐらいは切っておかないと体育の授業などで鬱陶しくなるだろう。

そんなことを考えながら台所についたあたりで、今日は早くお姉ちゃんを起こしてあげなければいけないことを思い出した。

雨の日は髪のセットが大変なお姉ちゃんは、普段より三十分は早く起こしてあげなければならない。

というか、しばらくはずっとお姉ちゃんを早めに起こしてあげなければならない日が続くだろう。


憂「……梅雨の季節、か」

私の小さな呟きはたちまち窓の向こう側の雨に吸い込まれていった。




 「ねえ、たった今私はとんでもないことに気づいてしまった」

目の前で二つのモップがやたら大げさな口調で言った。
どうでもいいけれどモップって家庭内で使用される割合が異様に低い気がする。

憂「……とんでもない、こと?」

私が今現在いるのは教室なのだが、この場にいるのは私と目の前のモップだけなので仕方なく私は話に付き合うことにした。
モップ――もとい、鈴木さんは眉間にしわを寄せた。

純「うん。とんでもなくとんでもないことだよ。
  世紀の発見と言っても過言じゃないかもしれない」

相変わらず口を開けば、おバカなことしか口走らない人である。

憂「……なに、が?」

純「実は憂ってさ、唯先輩に似てるでしょ!?」


……はい?

突然大げさになにを言い出すのかと思えば、今さらすぎることだった。

私とお姉ちゃんの顔立ちは本当によく似ている。
その気になれば文字通り入れ替わって生活することだってできるぐらい私とお姉ちゃんの『顔』は似ている。
しかし、あくまで顔だけなのだけど。

それに、たとえ髪型や服装などすべてを同じにしても誰だって数十秒で見抜けるだろう。
顔立ちは似ていても、生まれ持った雰囲気――オーラが違う。

私とお姉ちゃんを比べるのは蛾と蝶々を比べるのに等しい。

まあ、世界で一番カワイイお姉ちゃんに似ているだなんて、いくら私でもそんな恐ろしいことは口が裂けても言えない。

前髪が長いことを除けば髪型は比較的似ているのだけど、やっぱりお姉ちゃんと私は別人!
ていうか、こんなわかりきったことを今さら長々と語るのも変な話なのでこれにて終了!

……と、私が脳内で自分なりの結論を出したときだった。

純「ちょっち失礼」

不意に鈴木さんの顔がぐいっと接近してくる。
荒々しい鼻息が口にかかってけっこう不愉快だった。

が、そんな鼻息のことなど忘れてしまうような衝撃的な行動に鈴木さんは出た。


――パサっ


そんな効果音が聞こえたような聞こえなかったような……いや、効果音の有無なんかはどうでもよかった。


純「わーお、やっぱり唯先輩と憂ってすごく似てる……」

憂「きゃああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」


私は腹の底から絶叫した。

理由は簡単だった。

『モップ女』が――私の前髪をあげたからだった。


私の前髪は常に目にかかるぐらい。
それより短くなることはない。

前髪が長くないと怖いのだ。

前髪が短いと、人の視線を直視しないといけないからイヤだ。

お姉ちゃんの髪型に似た髪型にしているのはお姉ちゃんへの憧れという面もある。
けれどもそれ以上に、前髪で自分を守るためであるという要素のほうがずっと強い。

人の視線から自分を守るために、前髪を長くしている。


純「え、えっと……憂、大丈夫……?」

鈴木さんは私の突然の絶叫に目をしばたたかせた。
おそらくどうして私が悲鳴をあげたのか、わからなかったからだろう。
それでも鈴木さんの口調には申し訳なさそうな雰囲気が漂っていた。

憂「……ご、ごめんなさい」

私もすぐに謝った。
もっとも内心は鈴木さんに対する文句であふれかえっていた。


このモップおんなあっ!
なんで、私の前髪をあげやがった!?

純「あー、もしかして憂が前髪を伸ばしてる理由って人の目線を見ないようにするため?」

正解に近い指摘を受けて、図らずとも私は鈴木さんの顔をまじまじと見てしまった。
鈴木さんが唇をとがらせた。

純「なに、その表情は?」

まさかこのガサツな女にあっさり図星を突かれるなんて、夢にも思ってなかった私は露骨に驚いた顔をしているだろう。
案外、鈴木さんは洞察力やらそっち方面に強いのかもしれない。

……そっち方面ってなんだ?

純「まあ、なんでもいいけど。
  そんなに髪を触られるのがイヤならもうしないよ?
  ごめんね」

憂「い、いいの……気にしないで」

鈴木さんとは違って私の口調は相変わらずたどたどしかった。
これでも普通に会話が成立しているだけ、個人的には自分をほめてあげたいところなのだけど。

純「しっかし、この季節ってヤダよねー」

鈴木さんは不満そうに窓から外を眺めた。
今朝から降り続けている雨は、多少弱まったものの相変わらず外にある色々なものを濡らしていた。

憂「……なにが、イヤなの?」

純「これ見てよ」

憂「……」

私は思わず口をつぐんだ。

鈴木さんは両手でそれぞれ、側頭部にぶら下げているボロボロになったモップみたいな髪をつかんだ。
……今思い出したけど、今日鈴木さんと放課後にこうして教室にいるのは掃除当番だからなんだよなあ。

純「この季節になると髪のセットがめんどくさくて……」

鈴木さんが肩を落とすと、側頭部についている鳥の巣みたいな髪もしょんぼりと落ちた。
ちょっとだけ、その髪に鉛筆とかボールペンを突き刺したくなった。

純「憂はいいよね。
  髪のセットとかそんなに大変そうじゃないし」

憂「……」

私はあえて鈴木さんの言葉に相槌を打たなかった。
実際には、私もお姉ちゃんもくせ毛なのでこの季節は髪のセットは大変なのだけど。
いちいち教えた親近感を持たれるのはなんかイヤだった。

まあ、決して髪のくせが強くても鳥の巣みたいにはならないしね。


 「あれ? まだ掃除してたの?」

教室の扉が開く音と同時に、聞きなれた声が耳に入ってきた。

 「掃除はてきぱきやらないといつまで経っても終わらないよ?」

妙に長いツインテールをヒョコヒョコ揺らしながら、教室に入ってきたのは中野梓さんだった。

純「梓も掃除するの手伝ってよー」

梓「掃除当番は純と憂でしょ? 
  当番なんだからきちんと掃除してよ」

純「……ていうか、梓は部活はいいの?」

梓「今日は理由はよくわからないけど音楽室の使用が禁止らしいから、部活ないんだ」

純「じゃあ、なおさら手伝ってよ」

梓「これから行くところがあるからダメなの。
  だから頑張ってね、憂、純」

それだけ言うと、中野さんは教室から出て行った。

純「ちぇー、梓も手伝ってくれないし二人で頑張るか」

鈴木さんのボヤキを聞きつつ、私はほかのことを考えていた。

憂「そろそろ髪を切らなきゃな……」




憂「……ただいま」

掃除をきっちり終えて、家に着いた私はそう言って開けた扉を閉めた。

部活や課外活動などをしていない私は放課後になるとすぐに家に帰る。
もっともだからと言って暇なわけではない。
家事のすべての担当は私なのだから少し休んだら、すぐに晩御飯や洗濯やお風呂の支度をしなければならない。

憂「……?」

靴を脱ぎかけた体勢のまま固まってしまったのは、玄関にお姉ちゃんのローファーがあったからだった。
普段なら部活をしている時間帯なので家に帰ってきているはずはないのだが。
体調不良で早退したのだろうかと不安になりかけたあたりで、今日は軽音部の活動が中止になったことを思い出した。

お姉ちゃんが帰ってきている。

急いでお姉ちゃんにお菓子なりジュースなりを持っていかなければ!

憂「……!?」

しかし、再び私の動きは止まってしまった。
先ほどとはちがって、胸に暗い澱のようなものがたまっていくのを感じながら。

私がタチの悪い呪文をかけられたかのように固まってしまった原因は靴の数にあった。

ローファーがお姉ちゃんのものを含めて五セットあるのだ。

五……この数字まさか!


梓『これから行くところがあるからダメなの』


これから行くところって、それって私ん家かよおおお!!
あの猫おんなああああああああああああああああ!!!!


ご存知の通り、私は人と接するのがどうしようもなく苦手だ。
最近ではそれなりに話すようになった鈴木さんや中野さんでさえ、未だに話すときには言葉はたどたどしいものいなる。

慣れている人間でさえそれなんだから、ほとんど話したことのない人間相手だったらそれはもう……


 「あ、憂だ」

メロスに裏切られてしまったセリヌンティウスのような面持ちをしていた私に声をかけたのは、

憂「……お姉ちゃん」

唯「おかえり、憂」

お姉ちゃんが、私にむかっておかえりと言ってくれた。
それだけで、私は暗闇から一筋の光明を見つけたようなそんな救われた気持ちになれる。
身体中を流れる血が、より一層熱くっていく気さえした。

嗚呼……。

お姉ちゃん、あなたはどうしてお姉ちゃんなの?
お姉ちゃん、あなたはどうして私のお姉ちゃんなの?
お姉ちゃん、私はどうしてあなたの妹なの?

もはや思考がお姉ちゃん一色に染まろうとしたが、そんな私のピンチを悟った心優しいお姉ちゃんは私に
ありがたいお言葉をかけてくれた。


唯「これから二階にいるみんなにジュース出すから手伝って」


それってつまり軽音部のみなさんに会うってことですか、そうなんですか、あはははははははははははは……


憂「え?」

唯「うん?」


どうやら今の私は大ピンチらしかった。




唯「そういえば、憂って軽音部のみんなと話したことってほとんどないよね?」

憂「……うん」

私の返事は幽霊のささやきよりもずっと小さかったと思う。
これからの試練のことを思えば仕方がない気がするけど、それでも自分のことながら情けない。

唯「憂?
  大丈夫? なんだか顔色悪いし、手も震えているけど?」

大丈夫、という言葉が出てこなかった。
大丈夫じゃないのだから当然なのかもしれないが。

自分でも顔色が悪いことはわかっていた。
本来なら頭部を巡っているはずの血はどこか知らない場所をさまよっているんだろうなあ。
手が震えているのは、お盆に乗っているコップがすごく重くて支えきれないからだ。

憂「だ、大丈夫……。
  いこっか……」

気味が悪いぐらい冷や汗は出てるし、心なしかメマイがするけど私はそれでも気丈にふるまった。


お姉ちゃんのためならどんな苦手なことでもするもんね!




とか言ったものの、いざお姉ちゃんの部屋の戸を開けようとしたら本気で手が震えだした。
この扉を開いた先には全く知らない人がいて、そして、私は全く知らない人にジュースを出さなければならない。

唯「どうしたの、憂?
  私が開けてあげようか」

ちょっと待って。
制止する暇もなければ、そもそも声をあげる暇もなかった。

唯「はい、憂も入って」

扉が重たげに口を開いた。
今すぐにでも逃げ出したかったけど、私の足は凍りついて動かなかった。

ちなみに私は扉の真正面に立っていて、部屋にいる人たちの視線を一人浴びるはめになった。

梓「憂……どうしたの?」

最初に私に声をかけたのは、猫をホウフツとさせる双眸の中野さんだった。
なぜだか彼女は猫のように四つん這いになっていた。
私はいかにも恨めしそうな視線を彼女に送った。
けれども、彼女はただ首を傾げて怪訝そうにするだけだった。


 「あ、もしかして唯の妹の……憂ちゃん?」

次に私が耳にしたのは、私とは対極のハツラツとした声だった。

間違いなく慣れ親しんでいないとわかる声。
私の知らない人。
知らない人は超をつけて苦手だ。

私はなにをされたわけでもないのけぞるように、身を引いた。
しかし、その声の主は私の視界には映らない。

 「あ、やっぱり。唯の妹の憂ちゃんだろ?」

憂「……!]

奇跡的に悲鳴は出なかった。
本当に奇跡だと思う。

声の主は、驚くべき俊敏さでいつの間にか私の足元にいた。

 「私は軽音部の部長の田井な……って、ええええ!?」


あろうことか、私の意識は驚きのあまり吹っ飛んでしまったらしい。
背中が床に打ち付けられる音ともに、私の意識は闇に落ちた。


9
最終更新:2012年01月20日 01:05