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憂「あ、は、はい!」

突然の来訪に私は飛び上がって、そのままベッドに正座した。
扉が開くと、いかにもお風呂上がりといった風情のお姉ちゃんがシャンプーの匂いを漂わせたまま入ってきた。

ああ……なんだろう。
今日はただカワイイだけじゃなくて大人の色香にも似たものを感じる。

唯「どうしたの、憂? ベッドで正座なんかしちゃって」

憂「な、なんでも……ないよ?」

私は誰がどう見ても慌てふためいているようにしか見えない状態で返事をした。

唯「おかしな憂」

お姉ちゃんが笑って私の隣に腰かけた。
ドキリと心臓が一際強く跳ねた。

唯「実は明日ね。軽音部は活動しないんだ」

憂「……?」

唯「なんかみんな用事あるみたいで。だから、明日は放課後二人で買い物にでも行かない?」

お姉ちゃんの提案に思わず「うん!」と言いそうになったが、すでに明日の予定は埋まっていることを思い出して私はその言葉を飲み込んだ。
忸怩たる思い……とはこういうことを言うんだろう。
そんなことを思いながら、一瞬鈴木さんとの約束を反故しようかという発想が浮かんだ。

憂「……」

けれどもそれはそれで気が進まない。
というより、それはある意味お姉ちゃんの誘いを断るよりもイヤな感じがする。
胸に突然霧のように現れたモヤモヤとした気持ちに戸惑って、私は眉をひそめてしまった。

唯「もしかして、明日なにか予定入ってる?」

お姉ちゃんの眉もぴくりと動いた。
その表情は驚いているようにも嬉しがっているようにも見える。

憂「ええとっね……その、明日の放課後は……鈴木さんとの、約束が…………ある、の……」

最後らへんの言葉は消えかけてしまっていた。

もちろんここで嘘をついてお姉ちゃんと明日お出かけするのもいいのかもしれない。
けれども、私はお姉ちゃんとのおでかけを断って、明日は鈴木さんとハンバーガー屋さんに行きたいと思った。
どうしてかはわからないし、その選択は気の迷いみたいなもので、次の日には後悔しそうなものだったけど。

唯「そっか」

お姉ちゃんは少し唇を尖らせたけど、すぐそれを解くと満面の笑みを浮かべて私に言ってくれた。

唯「じゃあ、せっかくなんだから楽しんでこないとね!」



いつも通り、教室に入って机にカバンをかける。
なんだか気持ちがふわふわしている。
まるで自分じゃない他の誰かになったみたいな、そんな感覚。

憂『おはよう、純ちゃん』

うん?

自分の喉から別の誰かの声がして私はビックリしてしまった。
透き通るという表現がぴったりのちょっと高めの声。
ハキハキとしていてとても自分の声とは似ても似つかない声。

純『あ、おはよー憂』

それに対して鈴木さんは鳥の巣を連想させる髪を押さえて鏡の前で格闘していた。

憂『あ……今日も湿気が強いもんね』

私はなにか納得したようにそう言った。

純『ううぅ……わかったような口を……!』

憂『私もくせ毛だから純ちゃんの苦労はわかるつもりだよ?』

まるで私は私じゃないかのようにすらすらと喋る。
どうしてしまったんだ私!?

純『まだ憂なんてくせ毛のうちにも入らないよ。
  最近リンス変えてみたけどいまいち効果でないし、かといってアイロンかけてもすぐ解けちゃうしなあ……』

鈴木さんがうなだれるように勉強机に突っ伏した。
髪のほうは湿気で爆発していたけど、その湿気のせいで気持ちのほうはしけってしまったらしかった。

梓『今日も雨強いねー』

そう言っていつの間にか中野さんが隣にいた。
自分のものとは打って変わってキレイなツインテールを鈴木さんはうなだれた状態で睨みつける。

純『出たな、髪充め……』

梓『なにそれ?』

純『うるさい。私はどうせ鳥の巣頭だよ』

憂『まあまあ』

二人の間に割って入るように、私は鈴木さんをなだめる。
今日の私はどうしてしまったんだろう、タチの悪い呪文でもかけられたのだろうか。
喋りは滑らかだし、なんだかすごい社交的な気がする。

ていうかなんだろう?
顔の筋肉が道の動きをしている気がする。

純『縮毛矯正でもしてみようかな……』

鏡を見てうんざりとした表情を浮かべる鈴木さんに、私はあろうことかとんでもないことを口走っていた。


憂『そんなことしなくても純ちゃんはカワイイよ』


な、なにを言ってらっしゃるのこの人!?
お姉ちゃんにさえそんな『カワイイ』だなんて言ったことなんてないのに!?

さぞや奇異の目で鈴木さんと中野さんが私を見るだろうと思ったが、二人とも特にリアクションを返さない。
まるでその発言はいたって聞きなれたものであるかのように。

純『ああ、梓ほどキレイな髪になりたいとは言わないからせめて憂ぐらいにはなりたい……』

梓『それ憂に対してなんか失礼だよ。ねえ、憂?』

鈴木さんを咎める中野さんに、私は胸の前で否定するように手を振った。

憂『そんなことないよ。実際梓ちゃんってすごく髪質いいし』

なんというのか今日の私はほめちぎりまくりの上、発言一つ一つが滑らかすぎて気持ち悪い。
いや、案外これが普通なんだろうけど。

憂『実際、私はそんなに髪質よくないから』

鈴木さんの机の上にある手鏡を手にとる。

鏡に私が映った。




その私の両目は私とは思えないほどパッチリと開いていた。

……いや、待て待て。目元がこんなにはっきりと見えるということは。

よく見れば前髪も今よりも短い。せいぜい眉毛にかかるぐらいだ。

なにより鏡に映った私の口元は笑みの形を作っていた。



――次の瞬間、鏡の中の私がゆがんだ。
いや、というより視界全体が揺らいでそのまま真っ黒に塗りつぶされた。



けたたましい音が耳元でして私は飛び上がった。
起きた瞬間、すぐに背中が汗でぬれていることがわかった。
ケータイのアラームを止めて私は、ため息を一つこぼした。

憂「……夢、か」

小さな欠伸をしてから伸びをする。
凝り固まった筋肉がほぐれて、みしみしと音を立てた。

締め切っていたカーテンを開けて、窓も開放して新鮮な空気を肺にいっぱい吸い込む。
天気は夢のそれとは違い、快晴で朝日が妙に眩しい。

それにしても奇妙な夢だった。

憂「そういえば……」

以前にも似たような夢で見た気がする。


社交的で明るい私が、あの二人を名前で呼んでいる夢。


憂「……まあ、どうでもいいよね」

私は誰にともなく呟いた。

その言葉は不思議なほど空しく青い空に響いた気がした。



純「よっ! 憂、今日も元気?」

教室に入ろうとした瞬間。

いきなり背後から肩をたたかれて私は足をもつれさせそうになってしまった。
反射的に後ろを振り返ると、白い歯をむき出しにして鈴木さんが笑みを浮かべていた。
夢の中とは違って彼女の機嫌はイイみたいだった。
そして、私はきっと渋い顔をしていることだろう。

憂「おはよう……」

純「朝からそんな顔をしちゃダメでしょ?
  ほら、笑って笑って」

憂「ニコニコ」

擬音だけで答えて私は教室に入って机にカバンをかけてそのまま椅子に腰かけた。

梓「朝からテンション高いね」

既に教室にいた中野さんが鷹揚と手をあげた。
低血圧なのかどうかは知らないが、朝の彼女はそれこそ寝起きの猫のように動きひとつひとつが鈍い。
寝ぼけ眼で私と鈴木さんを見比べて中野さんはポツリと言った。

梓「ホント……対照的だよね」

誰と誰のことを言っているのだろうか。
いや、考えるまでもないし言われなくてもわかっているつもりだ。

純「んー?」

鈴木さんは中野さんの言葉の意味がわからないのか目を白黒させた。

純「どういう意味?」

なぜかその質問は私に向けられたらしく、鈴木さんは私の方を見た。

私はなにも言わずに首をかしげた。



純「いや~、この三人でここに来るのは案外久々?」

梓「そうかな?
  ……あー、でも確かに初めて純と喋ったとき以来かな?」

純「あれ? もう一回一緒に来なかったっけ?」

梓「それは二人で来たときじゃないの?」

憂「……」

純「どうだったけ、憂?」

憂「……わからない」

放課後。

私と中野さんと鈴木さんで、何度かお世話になっているハンバーガーショップにやってきた。

……あれ?

憂「……」

たしか今日はお姉ちゃん以外の全員が用事があるということで、軽音部の活動は中止になったのではなかったのか?

疑問がそのまま顔に出たのか、中野さんは以心伝心で私の疑問に答えてくれた。

梓「実は私も唯先輩と同じで今日は特に用事はなかったの」

憂「じゃあ……なん、で?」

なんであなたは用事があるなどという嘘をついたのでしょうか?

梓「なんでって……」

中野さんは視線を少しだけさまよわせてから答えた。

梓「だって、唯先輩と二人きりじゃあ練習にならないし」

しれっと中野さんは言った。

憂「……」

いったい私はどんな表情をしているだろうか。

鏡があったら是非チェックしたい。

梓「うん、でもね……」

と、そこまで言ったあたりで再び中野さんは視線をさまよわせた。
言うべきか言うべきじゃないか、なにかの台詞を舌の中で転がしているかのように頬を少しだけ膨らませた。

純「そういえば、なんで梓は放課後四十分も遅れたの?」

私と中野さんの間に割って入るかのように鈴木さんが言った。
相変わらず空気を読めない人である。

梓「……ああ、やっぱいいや」

中野さんはめんどくさげにため息をついた。
なにがいいのかわからないし、言いかけの言葉は最後まで言ってくれないと気持ち悪い。
いや、私の言えたことじゃないのだけど。

純「私の質問に答えてくれないの?」

梓「うん」

純「ううぅ! ひどいよ! 梓が私に冷たいよ!」

泣き真似をする鈴木さんに抱きつかれる。
突然のことに顔や体が赤くなっていくがどうすることもできなかった。

憂「い、入り口の前だし……邪魔になるから、入ろ?」

純「おっと、そうだね」

背後に立っているサラリーマン風の男性を振り返って鈴木さんが私の背中を押す。

首筋にひんやりとした感触が不意に落ちてきて、私は空を仰いだ。

いつの間にか雲一つなかったはずの青は、鉛色にとって代わって空を狭めていた。

憂「……雨、降るかな?」

私がポツリとつぶやくと、空も真似するようにポツリと雨粒を垂らして私の前髪を濡らした。



店内は平日ということを考慮しても閑散としていた。
というか、この店が混んでいるところを見たことがないな。
いつかはつぶれてしまうかもしれない。
そうなったら、私たちはどこをたまり場にするんだろう?

……と、そこまで考えたあたりで私は首を振った。
なんでこの三人でいちいち集まる必要があるのだろうか。

だいたい、普段からずっと一緒にいるのにこれ以上一緒にいる必要なんてないじゃないか。

純「どうしたの、憂? 頭でも痛いの?」

憂「う、ううん……べつに……」

相変わらず下手な誤魔化しをしていると、後ろから中野さんに小突かれる。

梓「早くメニュー決めないと。後ろのお客さんに迷惑だよ」

私個人としてはわりとやること成すことダメな人という印象なのだが、中野さんは案外しっかり者らしい。
……というのは、お姉ちゃんから聞いた話なのだが(もっともお姉ちゃんは逆の言い方をしていた)あながち間違いでもないみたい。


純「じゃあ、私は極上チーズバーガーのセットで!」

梓「それはロッテ!」

憂「……」

どうでもいい漫才の炸裂だった。



純「でさ、やっぱり澪先輩はかっこいいしすごい頼りになる人だと思うんだ」

梓「私もまあ、だいたい純と似たような意見かなあ。澪先輩みたいなお姉ちゃんなら欲しいと思うし」

憂「……」

私は二人の会話を聞きつつ、ジンジャーエールをずずっと啜った。
鈴木さんはどうやら秋山先輩のファンなのか、熱心に彼女について語っていた。

が、注文したエビカツバーガーを食べ終えると、彼女はなぜか黙ってしまった。
ああ、これで少しは静かになるのか……と思ったのも束の間で次の瞬間に鈴木さんは大きく息を吸いこんだ。

純「これから重大な発表があります!」

……声、でけえよ。

梓「じゅ、重要な発表……!」

中野さんが誰がどう見ても演技だとわかるオーバーなリアクションで鈴木さんの言葉に反応する。

なんだなんだ?
また二人で漫才でもするつもりだろうか。
……できれば、店内では他のお客様の迷惑だし、単純に恥ずかしいのでやめてほしいんですけど。

純「ズバリ! 憂と憂のお姉ちゃんをくっつけようラブラブ作戦を決行するのであります!」

さらに一段とでかい声で鈴木さんは宣言した。
もはやシャウトと言ってもいいレベルの声量かもしれない。

……おい、モップ女。
そんなに私に恥をかかせたいのか……?

純「ふっふっふ、まさか憂。あの時のことを忘れてないよね?」

マコトにイカンながら覚えています。

……いつか夕日の川のそばで似たようなことを鈴木さんはおっしゃいましたからね。
たしか私の記憶が正しければ、そのときにその提案はきっちり却下したはずだが。

梓「まあ、記憶力抜群の憂に限って忘れてはいないでしょ?」

憂「……」

中野さんが得意顔でそんなことを言ってのけた。

ちなみに中野さんの指摘の通りだいたいの『作戦』内容も覚えている。
もっとも、それは記憶力とかそういう問題ではなく、単純にその作戦に呆れたがゆえに覚えていたにすぎないが。

憂「お、覚えているよ?」

純「なら話は早い。明日にでも決行するべきだよ」

鈴木さんが鼻の穴を膨らませる。

憂「いや、でも……」

いったいそのお粗末な作戦で、私とお姉ちゃんの間がどう変わるというのだろうか。
ていうか、べつに私は……。

梓「いや、ね。私、最近思ったんだけど。憂はなにごとに対しても奥手すぎると思うんだ」

純「そうそう。そんなんじゃあ、誰かに唯先輩をとられちゃうよ?」

誰がお姉ちゃんをとるって?

純「たとえば……」

鈴木さんはそこで言葉を区切って中野さんを見る。

純「梓とかがさ」

梓「え?」

憂「……!」

不意に頭の中で赤い光が爆ぜた気がした。
もっとも、気がした、というにはその光はあまりにも明瞭で私は反射的に目を閉じた。

そうして瞼の裏側に現れた光景に息を飲まずにはいられなかった。

赤い光……それは真っ赤な夕焼け。
夕日をバックに伸びる二つの影。
そしてその影にただただついていくだけの小さな影。

最初はそれがなんなのか、理解できなかった。
しかし、その光景は比較的最近に見たものだったのですぐになにを意味するかを理解した。

二つの影はお姉ちゃんと中野さん。
そしてその後ろをのろのろとついていくのは――私。

楽しそうに話をしている二人。
そして、それをただ後ろから聞いているだけの私。

思わずかぶりをふって私はその光景を振り払った。

純「憂……?」

目を開くと、鈴木さんと中野さんが仲良く首を傾げていた。


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最終更新:2012年01月20日 01:15